2014年9月5日金曜日

『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その5)

この記事は、以前投稿した下記記事の続編となりますので、未読の方はこちらの記事より順番にご覧下さい。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】
『ヨハネの黙示録』第一章~第三章、アジア州にある七つの教会の天使に宛てた手紙について。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その2)】
『ヨハネの黙示録』第四章~第七章、イエスが神から託された巻物の七つの封印のうち、第一~第六の封印を開いてゆく。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その3)】
『ヨハネの黙示録』第八章~第十一章、イエスが巻物の第七の封印を開き、神からラッパを与えられた七人の天使のうち、第七の天使がラッパを吹くまで。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その4)】
『ヨハネの黙示録』第十二章~第十三章、悪魔サタンが天から堕とされた経緯と、地上でキリスト教会に侵蝕してゆく過程について。





■ 小羊がシオンの山に立っていた

黙示録の第十四章第一節~第五節では、小羊がシオンの山に立っていました。
また、小羊と共に十四万四千人の者がいて、額には小羊と、小羊の父の名が記されていました。
天から、大水の轟くような音や、激しい雷のような音が響きます。
その音を例えると、琴を弾く者たちが竪琴を弾いているようでした。
彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老達の前で、新しい歌の類を歌いました。
その歌は、地上から贖われた十四万四千人の者以外には、覚えることが出来ませんでした。
彼らは、女に触れて身を汚したことがありません。
彼らは童貞だからです。
彼らは、小羊のゆく所へは、どこまでも従ってゆきます。
彼らは、神と小羊に捧げられる初穂として、人々の中から贖われた者達で、偽りを述べす、咎められる所のない者達です。
さて、冒頭で小羊イエスがシオンの山に立っているのですが、この「シオンの山」を、一般的には、エルサレム市街にあるシオンという名の丘を指すと見ているようです。
調べてみると、Google Mapsでも確認できました。
しかし、シオンの山にいるはずの小羊と十四万四千人の者は、玉座の前や、四つの生き物と長老達の前で、新しい歌の類を歌っています。
彼らがいる場所は、本当にエルサレム市街のシオンなのでしょうか。
第四章には、天に玉座があり、玉座の周りに四つの生き物がおり、長老達の二十四の座があると記されております。
また、イエスと共にいる十四万四千人とは、第七章でイエスが第六の封印を開いた時に、天使によって神の刻印を押された者達です。
記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その2)】では、この十四万四千人は勝利を得る者であり、人間としての生涯を全うした後に、神の御許で神の御役を行うと説明しました。
その時に、第六の封印を開くのは、今から一万二千年程後になると述べましたが、第十四章は素直に第十三章から続いていますので、第十四章が取り上げている時代は、悪魔の価値観が世界を覆い尽くした現代です。
一万二千年後に世界中から集められた「神の刻印を押された者」十四万四千人が、なぜ第二の封印を開いたばかりの現代に、既にいることになっているのでしょうか。
この辺りの構造の複雑さが、『ヨハネの黙示録』の解釈を難しくしている要因の一つです。
既に【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その3)】で紹介したように、第八章以降は、イエスが巻物の第七の封印を開いた後の出来事として記述されているのですが、実際は第十二章で時間が巻戻り、悪魔サタンとキリスト教会に焦点を当てた記述に切り替わっております。
この辺りの事情は憶測に頼るよりないのですが、例えば、キリスト教成立後の早い段階から、悪魔サタンがキリスト教会に干渉して乗っ取りを謀っている事情を、もっと分かりやすく『ヨハネの黙示録』に記述していたら、果たして『ヨハネの黙示録』は現代まで聖書の一部として束ね続けて来れたでしょうか。
その様に考えてゆくと、『ヨハネの黙示録』が複雑で分かり難い構成をしているのは、今までに述べてきたような神の計画と悪魔サタンの干渉の実態を、サタンに気づかれずに後世に伝える為だったのではないかと想定できます。
その意図は、『ヨハネの黙示録』が書かれた時代には誰にも見抜けなくても、時間の経過に伴って、黙示録の記述に符合する歴史が積み重なってゆけば、いずれはその仕組みに気づく人が現れると見抜いていたのでしょう。
それを見抜く人が現れる時代になれば、『ヨハネの黙示録』に刻まれた記述の一部は既に実現しているので、きっと黙示録に隠された真相にも辿り着くだろうと、これを書いたヨハネに予め読まれていたかのようです。
ちょっと脱線しましたので、本題へ戻しましょう。
第二節~第三節は、激しい自然現象を思わせる演奏を従えて、十四万四千人の者が、父なる神や長老達に賛美歌を披露している様子が浮かびますが、これは何を表しているのでしょうか。
十四万四千人の者は、歌の類を歌っているように見えるだけで、それは歌ではありません。
彼らが、厳しい自然環境を思い起こさせる、父なる神が設えた過酷な境遇に置かれ、そこで様々な経験を積み重ねた末に、ようやく小羊イエスと共にシオンの山に登り、父なる神や長老達へのお目通りが適いました。
そしてここまで来てようやく、何故あの様な過酷な境遇に置かれたのか、そしてここへ辿り着くまでに重ねた経験の意味と貴重さを悟りました。
これからは父なる神の傍で、小羊イエスの後に続いて、神の御業のお手伝いをします。
きっと、彼ら自身の経験に基づいた確信を披露し、自分たちが成長したことを神様に報告したのでしょう。
その歌の類が、十四万四千人の者の各々の記憶に基づいているから、その他は覚えていることが出来なかったのです。
そして第四節~第五節では、十四万四千人の者を、女に触れて身を汚したことのない者だと述べています。
聖書の中で女というキーワードが何を表すのかは、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その3)】でも解説しました。
第五の天使がラッパを吹いた項で、『創世記』第三章にある、蛇が女を騙して善悪を知る実を食べさせ、またアダムも女の薦めるままに善悪の実を食べ、神に禁じられた約束ごとを破ってしまった例を上げて説明しました。
ですからここで出てくる女も、悪魔の唆しによって、神の言葉を背かせようとする働きを指します。
同じく童貞という言葉も、悪魔の唆しに屈しなかった者という意味です。
修道院を設けているキリスト教会のような、「異性との性行為が神の教えに反する」と言う意味合いではありません。
人間は生まれながらにして、男性と女性が交わって子孫を残す、生物学的構造を持っています。
それは人類が誕生する時点で、その様な仕組みを神の働きかけによって備えたのですから、それを妨げる考え方は悪魔の価値観です。
尤も、何事も行き過ぎは社会秩序の混乱を招くのですが、社会の秩序を乱さない範囲内の、節度を守った異性間の性交渉は、神が天地創造の際に定めた人間の生物学的特性に沿っていると言えます。
ですから、修道院を営んでいたり、あるいは同性愛に好意的な現代のキリスト教会は、聖書に綴られた神の言葉をグロテスクに曲解し、悪魔の価値観にすっかり毒されて身を汚している実情が、この様な側面からも伺えます。
さて、十四万四千人の者が、小羊イエスの行く所にはどこへでもついて行くのは、先程解説したように、父なる神とイエスの活動の意図を彼らなりに理解できたので、彼ら自身が神とイエスの意図に共感し、率先してイエスの率いるプロジェクトに参加するのです。
そんな彼らは皆、嘘を吐かない、そして道理に合わないことはしない者達です。





■ 空高く飛ぶ天使達

黙示録の第十四章第六節~第十三節では、三人の天使が次々と現れます。
最初の天使は、地上に住む人々、あらゆる国民や種族、言葉の違う民や民族に告知する為に、永遠の福音を携えて来て言いました。
「神の裁きが来たので、神の栄光を讃えなさい。」
続いて、第二の天使が来て言いました。
「怒りを招く淫らな行いのぶどう酒を、諸国の民に飲ませた、大バビロンの都が倒れた。」
続いて、第三の天使が来て言いました。
「獣の像を拝んで、獣の刻印を受けた者は、神の怒りのぶどう酒を飲むことになり、天使や小羊の前で火と硫黄に苦しめられる。
苦しみの煙は限りなく立ち上り、獣とその像を拝み、獣の刻印を受ける者は、昼も夜も安らぐことはない。」
その時には、神の掟を守って、イエスに対する信仰を守る、聖なる者達の忍耐が必要です。
天から告げる声が、「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いです」と言いました。
そして“霊”も「彼らの行いが報われるので、彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る」と言いました。
さて、ここで突然三人の天使が現れますが、この三人の天使は、神の裁きの時が訪れたことを告げに来ました。
記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その4)】の最後で述べたように、獣の像を拝んで、獣の刻印を受けた者がいるのは現代社会ですので、淫らな行いのぶどう酒を諸国の民に飲ませた大バビロンの都とは、現代社会そのものを指します。
現代社会を形作る仕組み・価値観と言いかえた方が良いでしょうか。
現代の価値観は、父なる神やイエスの言葉とは遠くかけ離れていて、悪魔の価値観にすっかり毒されてしまったので、神の怒りに触れたのです。
とはいえ、神の怒りという表現は、キリスト教的価値観の影響を強く受けており、実態とは異なっていますので、ここで簡単に紹介しましょう。
父なる神は何も、人間が神の言うことを聞かないから怒るのではありません。
キリスト教会に付きまとって、まんまと聖書の神に成り代わったつもりの悪魔サタンでも、世の理を外れることは不可能です。
そして世の理についての理解が不足しているのに、自分が未熟だという自覚がないので、悪魔サタンは神になれずに天から堕とされました。
そんな悪魔サタンに出来るのは、未熟でも向上心に溢れる人間を騙して唆して、人間の向上心を折って萎えさせようとする程度が精々でしょう。
そんな悪魔サタンにも、世の理の影響は及びますし、サタンが行った行為の結果は自分で刈り取ることになります。
それはサタンに与する獣も同様ですし、獣の刻印を押された者も同じです。
サタンや獣や、獣の刻印を押された者達などの、大バビロンの都に住む者達は、彼らの今までの行いの結果として、火と硫黄で苦しめられる事態に置かれることを、天使達は告げたのです。
また、先程述べたように、大バビロンの都とは現代社会そのものを指します。
その一部に神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続けている者がいても、否応なく大バビロンの都ごと神の裁きに巻き込まれてしまいますので、その仕組みを体験を通して理解するという意味での忍耐が求められます。
それは死を伴う過酷なものになるでしょう。
しかし彼らは、死に臨むまで神の言葉に沿って来たので、死後にその行いが報われて、(再び人間として地上での暮らしを送る)労苦から解放されて、(神の御許で)安らぎを得るのです。





■ 刈り入れの時が来た

黙示録の第十四章第十四節~第二十節では、白い雲が現れます。
雲の上には、人の子のような方が座っていて、頭には金の冠を被っていて、手には鋭い鎌を持っています。
そこに、別の天使が神殿から出て来て、白い雲に座っている方に向かって叫びました。
「刈り入れの時が来ました。地上の穀物は実っているので、鎌を入れて刈り取って下さい」
そこで、白い雲に座っている方が、地に向かって鎌を投げると、地上で刈り入れが行われました。
また、別の天使が天にある神殿から出て来ましたが、この天使も手に鋭い鎌を持っていました。
そこに、祭壇の所から、火を司る権威を持つ天使が出て来て、鋭い鎌を持つ天使に言いました。
「ぶどうの実は熟しているので、その鋭い鎌を入れて、地上のぶどうの房を取り入れなさい」
そこで天使は、地に鎌を投げ入れて、地上のぶどうを取り入れると、神の怒りの大きな搾り桶に投げ入れました。
搾り桶は、都の外で踏まれました。
すると、血が搾り桶から流れ出て、馬のくつわに届く程になり、千六百スタディオンに渡って広がりました。
さて、人の子のような方が白い雲に乗って現れますが、頭に金の冠を被っているので、黙示録第四章で神の玉座の周りに二十四の座を構える長老達と同様の、高貴な方だと言うことが分かります。
そして人の子のように見えるので、かつて人としての経験を積み、イエスと同じように、ここまで成熟してきた方なのでしょう。
そこで別の天使が神殿から出て来て、穀物を刈り取るように言いますが、この神殿とは第十一章にも出て来た、天にある神の神殿でしょう。
そして、人の子のような方が刈り取る穀物とは、財産であり、命の糧です。
一方、火を司る天使が、鋭い鎌を持った天使に、ぶどうを刈り取るように言いますが、そうして地上で刈り取られたぶどうは、神の怒りの搾り桶に投げ入れられます。
そしてぶどうを搾ると、血が搾り桶が出てくるのですから、火の力によって多くの血が流れる暗示でしょう。
馬のくつわに届く高さで、千六百スタディオン(1スタディオン=約180メートルなので、 228キロメートル位)ですから、見渡す限り地の海状態という意味合いでしょうか。
それは一見すると、神の神殿から出て来た天使が働きかけているように見えますが、そもそも穀物の種を蒔いたのは地上の人間であり、ぶどうの種を蒔いたのも地上の人間です。
天で鎌を振るう天使達は、ただ単に「自分で蒔いた種は、自分で刈り取らなくてはならない」という因果律に乗っ取って、与えられた役割を果たしているに過ぎません。
それに、そもそも因果律という仕組みが成りたつのは、神様の働きかけではあるのですが、別に神が人間に向かって怒りをぶつけているわけではありません。
神様は機械的に、論理的に、予め定められた法則性に則って、人間の行いという種を蒔いた結果を刈り取るだけです。
多くの血が流れる結果を導いたのは、その前に人間がいずれ血を流すことになる種を蒔いたからです。
多くの血が流れるような結末を避けたければ、最初に流血を避ける種を蒔かなくてはなりません。
ともあれ、天使達が活動する天では、地上での神の裁きに先立って、この様な働きかけを行うようです。





■ 七人の天使と七つの災い

黙示録の第十五章第一節~第四節では、天にもう一つの大きな驚くべきしるしがありました。
そして七人の天使が、最後の七つの災いを携えていましたが、これらの災いによって、神の怒りが極みに達します。
また、火が混じったガラスの海のようなものがありました。
更に、獣や、獣の像や、獣の名の数字に勝った者達がありました。
彼らは神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸に立っていました。
彼らは、「神の偉大で驚くべき力によって、正しい裁きが明らかになりました」と、モーセの歌と小羊の歌を歌って神を讃えました。
さて、第十五章の冒頭で、「天にもう一つの大きな驚くべきしるし」がありました。
もう一つの、と述べているのは、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その4)】で、第十三章第十三節に「大きなしるしを行って、人々の前で天から地上へ火を降らせた。」とありますので、その大きなしるしに続いて、もう一つの大きなしるしがあったと言うことです。
そして、前回の大きなしるしとは、小羊イエスが父なる神から託された巻物の、第一の封印を開いたことだと述べました。
そして【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その2)】では、巻物の第一の封印を開いたのは、『霊界と地上界を繋ぐ拠点』のうち、東京の拠点の覡が受け持つ役割の範囲が拡大して、拠点としての機能を本格的に発揮し始めた事を指すと説明しました。
その時とは、明治時代になって天皇の居所が現在の皇居に移ってからです。
ですから、それに続くもう一つの大きなしるしとは、小羊イエスが巻物の第二の封印を開いたことであり、記事【『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点』が完全開放されました】でもお伝えした様に、バチカンの拠点を開放したことを指します。
次いで、七人の天使が七つの災いを携えていたとありますが、これはいわゆる『神の裁き』の時代が七つの段階(もしくは七つの要素)を持って進んでゆくことを表します。
そして、既に記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】の末尾で簡単に述べました様に、5月に関東から中四国にかけて見られた『環水平アーク』と呼ばれる虹のような現象は、『神の裁き』の始まりを告げる印だと、霊界の住人は言います。
ですから、七人の天使が携えている七つの災いとは、これから私たちの目の前で起こること、これから私たちが経験することなのでしょう。
ここまで管理人と共に、『ヨハネの黙示録』の解読作業にお付き合い下さった皆様でしたら、第十二章からここまでの記述が、欧州を中心とした大まかな歴史の流れを示しており、またキリスト教会がサタンに侵蝕されてゆく過程を述べていると、概ねご理解頂けると思います。
ここまでの記述が概ね私たちの知る歴史と一致するなら、この先の記述も概ね一致するのではないかと、気になる方もいらっしゃるでしょう。
七人の天使と七つの災いについても、『ヨハネの黙示録』に記述がありますので、今後順番に解読してゆきたいと思いますが、その前にあと少しだけ、前置きの部分が残っておりますので、今しばらくお付き合い下さい。
第十五章第一節の解読に戻って、これらの災いにより、神の怒りが極みに達するとあります。
これは一つ前の項目でも述べましたが、人間や、悪魔とそれに与する者達が、今までの間に地上で蒔いた種が実をつけたので、機械的に刈り取りの作業が行われるに過ぎません。
それを、種を蒔く時の自分の行いを棚に上げておきながら、自分にとっては都合の悪い実がなったので、結果を刈り取る時になってから、「神の怒り」などと見当違いの暴言を吐いているだけなのです。
また、第二節にある「火が混じったガラスのような海のようなもの」とは、宇宙空間から地球の大洋の辺りを見下ろしたら、きっとその様な表現が相応しく見えるのだろうとは思いませんか。
火が混じっているので、一つ前の項目で述べた、火を司る天使が働きかけている様子が、きっと遠目にも映るのでしょう。
そして、獣や、獣の像や、獣の名の数字に勝った者とは、獣たちが作り出した悪魔の価値観に毒されずに、死の床まで神の言葉のままに貫いた者であり、この記事の最初の項目で小羊と共にいた者達です。
同じく、彼らが持っていた神の竪琴とは、この記事の最初の項目で、竪琴の演奏に例えられた自然現象です。
獣に勝った者達は、地上に近いけれども、地上の有様全体を見渡せる天の一角にいて、第十二章の最初に仕組んだ神の計画の一端を垣間見ることになるのでしょう。
獣に勝った者達は、この時になってやっと『神の裁き』の意味と役割を理解したので、その遠大な計画と精密な仕組みに驚いて、目の前で展開する神の御業を讃えたのでしょう。
モーセの歌と小羊の歌を歌う件は、キリスト教的価値観の影響を色濃く残した表現です。





■ 神の怒りが盛られた七つの金の鉢

黙示録の第十五章第五節~第八節では、天にある証しの幕屋の神殿が開かれます。
この神殿から、七つの災いを携えた七人の天使が出て来ますが、天使達は輝く清い亜麻布の衣を着て、胸に金の帯を締めていました。
そこに、神の玉座の周りにいる四つの生き物の一つがきて、神の怒りが盛られた七つの金の鉢を、七人の天使に渡します。
この神殿は、神の栄光と力とから立ち上る煙で満たされていたので、七人の天使の七つの災いが終わるまでは、誰も神殿の中に入ることが出来ませんでした。
さて、七つの災いを携えた七人の天使は、天にある証しの幕屋の神殿から出てくるのですから、七つの災いとは証しとして行われます。
幾ら悪魔サタンが地上を悪魔の価値観で染め上げようとしても、必ず破綻する時が来ます。
悪魔に与する者達や、悪魔の価値観に毒されてしまった者達が、幾ら「上手く行った」と思うように事を運んでいるつもりでも、必ず途中で破綻が明らかになります。
何故なら、一番最初に破綻を約束された種を蒔いているのですから、破綻という結果を刈り取るのは当たり前なのです。
その様な仕組みを成りたたせているのが神の御業であり、その仕組みを証しするものが、七人の天使による七つの災いなのです。
ですから、七人の天使は、神の玉座の周りにいる生き物から、神の怒りが盛られた金の鉢を受け取ります。
この災いが、神の意思として行われ、神が成りたたせている仕組みの一環として行われるからです。
また、この神殿が神の栄光と力とから立ち上る煙によって、七つの災いが終わるまで誰も立ち入れないのは、ここまで見てきた神の計画の中で、『神の裁き』である所の七つの災いの役割が極めて重要と位置づけられているからでしょう。
そう考えると、七つの災いを携えた七人の天使とは、神の計画の詳細と、七人の天使が受け持つ役割の意味合いについて熟知した、言わば神の側近とも言える天使達なのではないでしょうか。
父なる神は、神の計画に精通し、『神の裁き』の重要性をよく心得た、極めて信頼の置ける天使達に、『神の裁き』としての七つの災いの執行を委ねたのです。





■ 『神の裁き』としての七つの災いが下るまでのまとめ

前回の記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その4)】では、悪魔サタンが天から堕とされた後、キリスト教会に近づいて侵蝕し、自らが神に成り代わって地上の神として君臨しようと画策する様子、そして悪魔サタンの価値観に染め上げられてゆく地上の有様が述べられていました。
一方、今回取り上げた第十四章~第十五章では、ちょうど悪魔サタンの価値観が地上に蔓延った頃(恐らく現代ですが)、父なる神のお膝元の天界はどうなっているのか――という視点から描かれておりました。
今回取り上げた部分は、どちらかというとキリスト教的価値観の影響が色濃く漂っていると、管理人は個人的に感じたのですが、ご覧の皆様はどの様な感想を持ちましたか。
ともあれ、『ヨハネの黙示録』の記述がようやく現代に追いつきました。
これまでに投稿してきた一連の『ヨハネの黙示録』を解読するシリーズの記事の中でも、『神の裁き』と言われる時期の始まりが現在だと意識して、霊界の住人の助言を頂きながら、管理人が「根拠になる」と思われる点を幾つか述べて参りましたが、すんなりとご理解頂ける解説になっているでしょうか。
ある程度限られた紙面で、取りあえず大雑把な『ヨハネの黙示録』の全体像を駆け足でなぞってゆく方針ですので、あるいは、一部に恣意的な解釈や、論理性に欠けた強引な展開が見られるかも知れません。
もし、何か気づいたところがございましたら、下のコメント欄よりお知らせ下さい。
当面は、一通り『ヨハネの黙示録』の解読作業を終えてしまう方を優先しますが、一通り解読を終えた段階で、修正などの作業について検討したいと考えております。

Silvercord管理人 





なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご覧下さい。

閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/


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2014年8月22日金曜日

『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その4)

この記事は、以前投稿した下記記事の続編となりますので、未読の方はこちらの記事より順番にご覧下さい。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】
『ヨハネの黙示録』第一章~第三章、アジア州にある七つの教会の天使に宛てた手紙について。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その2)】
『ヨハネの黙示録』第四章~第七章、イエスが神から託された巻物の七つの封印のうち、第一~第六の封印を開いてゆく。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その3)】
『ヨハネの黙示録』第八章~第十一章、イエスが巻物の第七の封印を開き、神からラッパを与えられた七人の天使のうち、第七の天使がラッパを吹くまで。





■ 身ごもった女と赤い竜

黙示録の第十二章に入ると、場面が変わります。
まず第一節~第五節で、天に大きなしるしが現れます。
一人の女が身に太陽をまとって、月を足の下にして、頭には十二の星の冠を被っています。
女は身ごもっていましたが、子供を産む痛みと苦しみの為に叫んでいました。
また、もう一つのしるしが天に現れます。
火のように赤い大きな竜が現れたのです。
七つの頭と十本の角があって、その頭には七つの冠を被っています。
竜の尻尾が、天の星を掃き寄せて、地上に投げつけます。
そして、竜は身ごもった女の前に立ちはだかって、生まれてきた子を食べてしまおうと待ち構えていました。
そこに女が子を産みました。
その子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていたので、神の元へ、その玉座へ引き上げられます。
さて、ここで述べられている身ごもった女とは、人間を始めとした生物を生みだした神であり、霊を肉体に宿す仕組みを表します。
一方、産まれた子とは、人間を含む生物を指します。
これは以前、霊界の住人から伺っていたのですが、霊と物質を融合する仕組みの調整に多くの時間と手間を掛けたそうですので、恐らくその事を「子を産む痛みと苦しみ」と表現しているのでしょう。
では、何故そんなに苦労をして子を産むのでしょうか。
その答えが第五節で、「鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた」からです。
実は第二章二十七節にも「彼は鉄の杖をもって彼らを治める」とあります。
それはティアティラの人達の中にいて、勝利を得る者には、諸国の民の上に立つ権威をイエスから授けられたからです。
その権威とは、かつてイエス自身も父なる神から授けられたものでした。
これらをまとめると、神は霊が成長する為の乗り物として、人間を含む生物を生み出しました。
霊が人間や生物に宿る経験を通じて、やがて神の境涯に達するまでの霊的成長の仕組みを作り上げたのです。
しかし、そこに問題が生じます。
赤い大きな竜が現れたのです。
霊界の住人によると、赤い竜とは、かつては神になることを強く望んだ天使だったようです。
しかし、神が、人間を含む生物に宿る経験を通じて、霊が成長する仕組みを作り上げたことによって、以前は自分よりも未熟であった霊が、いつの間にか自分よりも先に、神の境涯へ引き上げられてゆく様子を目の当たりにしました。
赤い竜は、かつては未熟だったはずなのに、いつの間にか自分よりも早く成長してゆく他の霊に嫉妬します。
その挙げ句に、とうとう他の霊の成長を邪魔し始め、霊が成長する為の仕組みを破壊しようと試みたのです。
続く第六節~第九節では、子を産んだ女は荒れ野へ逃げ込みます。
そこは女がそこに一定期間留まれるように、神が用意した場所でした。
一方、天では赤い竜の反逆に対抗して、ミカエル達が竜に戦いを挑んで打ち破ります。
その巨大な竜であり、年を経た蛇であり、悪魔やサタンと呼ばれる者は、サタンの使いの者と共に、地上へ投げ落とされてしまいました。
この部分で述べることは、天使と悪魔との間で戦いがあったという表現は、人間が想像する戦いとは隔たりがあると思いますが、赤い竜による、霊が成長する仕組みへの介入に対して、天使達が阻止する活動をしていたようです。
やがて赤い竜は、元々の自らの希望である「神になる」道が閉ざされてしまい、また他の天使との関係も悪化して居たたまれなくなったので、自ら地上近くへ逃げ出したというのが、どうも実態に近いようです。





■ 天から堕とされた赤い竜

黙示録の第十二章第十節~第十二節では、赤い竜が地に堕とされたのを受けて、天で大きな声が言ったそうです。
「神の救いと力、神の権威によって、我々の兄弟を神の御前で告発する者が投げ落とされた。
兄弟達は、小羊の血と、自分たちの証しの言葉で、彼に打ち勝った。
そこで天に住む人々よ、喜べ。
しかし地と海は不幸だ。
悪魔は怒りに燃えて、お前達の所へ降っていった。
残された時が少ないのを知ったからである。」
さて、ここで述べているのは、赤い竜が神の前で偽りの告発を並べ立てて、他の霊や天使達を陥れようと画策したことと、他の霊が自らの冤罪を神に訴えて認められたこと、その結果、赤い竜はペテン師の烙印を押されて、天に居場所がなくなってしまったことです。
しかし、赤い竜は自らの行いを他所に、怒りと嫉妬に狂って新たな策略を試みます。
赤い竜が降っていった地と海に対して策略を行うので、地と海が不幸なのです。
続く第十三節~第十八節では、赤い竜が地上へ投げ落とされたことに気づくと、男の子を産んだ女の後を追いかけます。
しかし女には、荒れ野にある自分の居場所に飛んでいけるように、大きな鷲の羽が与えられていました。
女は蛇から逃れて、一定期間養われることになっていたのです。
蛇は、口から川のように水を女の後ろに吐き出して、女を押し流そうとしました。
しかし、大地が女を助けて、口を開けて、竜が吐き出した川を飲み干しました。
竜は女に対して激しく怒って、その子孫である、神の掟を守る者、イエスの証しを守り通している者達と戦おうとして、出ていきました。
そして、竜は海辺の砂の上に立ちました。
さて、第十二章の冒頭に出て来た女は、人間や生物を生んだ神であり、また霊が生物に宿って成長する仕組みを指すと述べましたが、嫉妬に狂った赤い竜は、この仕組みが原因で、自分が神になる道が閉ざされたと逆恨みしておりました。
そして、天では概ねその知識が共有されておりましたが、地上では一部の者のみが朧気に知る程度の状況でした。
そこで赤い竜は考えました。
地上に住む人々を相手にするなら、人間や生物の存在理由や、霊が成長する仕組みや目的についての知識が欠けているので、こちらで偽りの知識を与えて騙すことにより、人々を思いのままに操ることが出来るかも知れない。
よくよく考えてみれば、それは神が人々を従えるのと変わらないじゃないか、と。
赤い竜は、地上の各地に伝わる、神と人々の関わりを伝える古の神話・伝説の類を消して回りました。
しかし事は思うように運ばず、地上の人々の中にも、一部には神々と人間の関係をよく知る人々がいて、物事は思うように捗りません。
ましてや、いつの間にか女の子孫であるイエスが地上に使わされて、せっかく自分が打ち消して回った神と人間の関わりにまつわる秘密を、逆に地上の人々に広めようとしたのです。
そこで、神の掟を守り、イエスの証しを守り通している者達=キリスト教に目をつけ、彼らを籠絡してペテンに掛けようと近づいていきました。
ということで、地上に堕とされた悪魔サタンは、地上の人々が神様や天についての知識が欠けている所に付け込んで、自分が地上の人々にとっての神様に成り代わろうとしました。
竜が水を吐き出して、女を押し流そうとする描写がありますので、あるいはノアの時代には、サタンの影響を受けていた可能性を伺わせます。
しかし思うように事が運ばずに、ましてや天から新たな使者としてイエスが使わされ、神とイエスを信仰する新たな集団が生まれてしまいました。
悪魔サタンは、イエスの言葉や生涯のエピソードが地上に伝わることにより、自分の目的の妨げになると考えたので、地上の人々のイエスに対する知識や記録を改竄し、あわよくばキリスト教の神に成り代われないかと野望を抱いたのです。





■ 海の中から上がってきた第一の獣

黙示録の第十三章第一節~第七節では、一匹の獣が海の中から上がってきます。
この獣には(赤い竜と同じように)、十本の角と七つの頭があります。
そして(赤い竜は七つの頭に冠を被っていましたが)、角の方に十の王冠があり、頭には神を冒涜する様々の名が記されています。
その獣は豹に似ていて、熊のような足と、獅子のような口をしていました。
竜はこの獣に、自分の力と王座と権威を与えました。
そして獣の頭の一つが傷付けられて、死ぬ程の致命傷を与えられたものの、その傷も治ってしまいました。
それを見た全ての土地の人々は、驚いてこの獣に服従しました。
竜は自分の権威を獣に与えたので、人々は竜と獣を拝みました。
「誰もこの獣に敵わないし、誰も戦えないだろう」
この獣には大言と冒涜の言葉を吐く口が与えられて、四十二ヶ月の間、活動する権威が与えられました。
そこで、獣は口を開いて、神と、天に住む者達を冒涜しました。
獣は、聖なる者達と戦って勝つことが許されました。
また、あらゆる種族、民族、国民を支配する権威が与えられました。
さて、海から上がってきた一匹の獣とは、一体何を指すのでしょうか。
管理人は、この獣の正体を、ローマ帝国による庇護を受けたキリスト教会と推定しました。
ただし、キリスト教会が中心ではありますが、キリスト教的価値観に支配された国家全般に影響は及びますので、ローマ帝国及び、ローマ帝国衰退後のキリスト教国の総称として獣に例えたという解釈が妥当だと思います。
まず、海から上がってきた獣とは、ローマ帝国が地中海を舞台に広大な領域を支配した経緯を見れば、正に海から上がってきた獣の表現が相応しいでしょう。
獣には十本の角と七つの頭がありますが、十本の角にはそれぞれ王冠がありますので、これはローマ帝国と後継国家など、キリスト教会を守護してきた王国を指します。
そして七つの頭には神を冒涜する名が記されていますが、これはキリスト教会の影響が及ぶ土地と解釈しました。
異教徒を排斥し、異教の神を悪魔に貶めることによって、キリスト教会の布教が進んでいったからです。
竜は獣に、自分の力と王座と権威を与えますが、これがローマ帝国によるキリスト教会の保護と国教化を示すと推定しました。
さて、獣の頭の一つが死ぬ程の致命傷を負うのですが、その傷も治ったというのは、イスラム勢力のイベリア半島侵攻からレコンキスタまでの流れを表していると解釈しました。
ローマ帝国時代からキリスト教圏であったイベリア半島では、八世紀に入ってから地中海対岸の北アフリカを版図に治めていたイスラム国家による侵攻を受けました。
その後ほぼ十五世紀一杯まで掛けて、ようやくイスラム勢力をイベリア半島から駆逐します。
そのレコンキスタの間に、イベリア半島ではポルトガルとスペインが誕生しており、レコンキスタの終結から程なく、スペイン、ポルトガルともに、北アフリカを端緒とした海外侵略を開始、大航海時代を迎えることになります。
その大航海時代を示すと思われるのが、第五節~第七節に当たる部分で、特に欧州諸国によって南北米大陸が征服されてゆく様子が、「獣は聖なる者達と戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた」の部分に象徴されていると思います。
そうすると、第五節~第六節の部分はどの様に受け止めたら良いのでしょうか。
この獣には、大言と冒涜の言葉を吐く口が与えられると同時に、四十二ヶ月の間、活動する権威が与えられたので、獣は神や神の名、神の幕屋、天に住む者達を冒涜したとあります。
そこでキリスト教の歴史について調べてみると、キリスト教の教義・典礼・教会法などについて審議・決定する『公会議』と呼ばれる最高会議があるそうです。
初期の『公会議』で議題となっているのは、父なる神と子であるイエス、そして聖霊の関係について、教派によってばらついていた解釈を、キリスト教会としての統一見解を定める所にあったようです。
その際に『ニカイア信条』や『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』などを採択しておりますが、これらがキリスト教会として公式の解釈=教義と定められました。
インターネット上でも、これらの『信条』の日本語訳が閲覧できるのですが、管理人が確認した限りでは、むしろ聖書の記述を歪めて解釈をねじ曲げている印象を受けました。
例えば、先程述べた神とイエスと聖霊の関係について、上記信条ではいわゆる『三位一体』論の解釈を定めていますが、黙示録の第三章第二十一節では、イエスの導きのままに努力し、勝利を得た者に対して、「私が勝利を得た時に、父なる神と共に着いた玉座に、あなたも共に座らせよう」と述べています。
これは神、イエス、聖霊が一体で唯一の神とする、『三位一体』論の明確な否定に当たると思うのですが、キリスト教会の方はどの様に受け止めているのでしょうか。
ともあれ、上記の理由により、キリスト教の『公会議』は、聖書の記述と一致しない解釈を教義と定めていますので、神と神の名や、神の幕屋、天に住む者を冒涜する行為に当たると思うのですが、いかがでしょうか。

続く第八節~第十節には、こうあります。
地上に住む者のうち、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書に名前が記されていない者達は、皆、この獣を拝むでしょう。
聞く耳を持つ者は、聞きなさい。
捕らわれるべき者は、捕らわれてゆく。
剣で殺されるべき者は、剣で殺される。
ここに、聖なる者達の忍耐と信仰が必要になります。
さて、屠られた小羊=イエスの命の書とは、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】でも取り上げましたが、そこに名前が記されていると第二の死を避けられるとあります。
第二の死については、今後投稿予定の記事にて解説しますので、ここでは割愛しますが、言葉を換えると、獣を拝む者はイエスの命の書に名前が記されないので、第二の死を免れないと言うことでしょうか。
その様な、言わば獣に支配された世の中なのですから、聖なる者=聖書に綴られた神の言葉やイエスの言葉をよく理解して実践する者ほど、獣とそれを拝む者にとっては目障りなので、過酷な境遇に置かれやすいのでしょう。
その様な悪魔の時代を聖なる者が生き抜くには、並々ならぬ忍耐が求められるとの、イエスからの忠告でしょうか。





■ 地中から上がってきた第二の獣

黙示録の第十三章第十一節~第十五節では、もう一匹の獣が地中から上がってきます。
この獣には、小羊の角に似た二本の角があって、竜のように物を言っています。
第二の獣は、第一の獣が持っていた全ての権力を、第一の獣の前で振るう事によって、そこに住む人々に第一の獣を拝むように仕向けました。
そして、大きなしるしを行って、人々の前で天から地上に火を降らせました。
更に、第一の獣の前で行ったしるしによって、地上に住む人を惑わせ、また、第一の獣の像を造るように、地上の人々に命令しました。
第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像が物を言うことさえ出来るようにしました。
そして獣の像を拝もうとしない者は、皆殺しにさせました。
さて、ここで第二の獣が出て来ます。
小羊に似た角があるので、イエスを装っているのですが、口から出るのは赤い竜であるサタンの唆しです。
イエスを装っていますので、イエスの足跡を辿ることによって、第二の獣の正体を明らかにするヒントが掴めそうです。
イエスは生前に、ユダヤ教のファリサイ派や律法学者の姿勢を激しく批判しておりますが、これは従来のユダヤ教に対する見直しの象徴と捉えることが出来ます。
その様に考えると、大航海時代の最中に始まった宗教改革運動は、従来のキリスト教に対する見直しの動きですので、イエスを装った第二の獣とは、宗教改革運動をきっかけにしてカトリックから分裂した、プロテスタントが該当することになります。
先程の項目で第一の獣について検証した様に、第二の獣についても歴史的経緯に照らして確認してゆきましょう。
第十二節で、第二の獣は、第一の獣が持っていた全ての権力を、第一の獣の前で振るいます。
それによって、地とそこに住む人々に、第一の獣を拝ませるのですが、これは大航海時代に欧州諸国が南北米大陸に侵攻、植民地化する際に、「キリスト教の布教」という建前を使用した経緯を表していると推定します。
そうすると、北米はプロテスタントが優勢ですが、中南米はむしろカトリックが支配的ですので、第二の獣がプロテスタントと断定するには無理がありそうです。
しかし、その次に、大きなしるしを行って、人々の前で天から地上へ火を降らせたとあります。
この「大きなしるし」とは、黙示録の第六章で述べている、小羊が神から受け取った巻物の第一の封印を開いたことを指しますので、その後に「人々の前で天から地上へ火を降らせた」のは、第一次世界大戦と第二次世界大戦、とりわけ第二次世界大戦において、巨大な爆撃機が大量の爆弾を地上に投下する様子を想像させます。
更に、先程の「大きなしるし」によって、地上に住む人々を惑わせ、また第一の獣の像を造るように、地上の人々に命じたとありますが、米国は戦争で疲弊した欧州を復興する為に、『マーシャル・プラン』を立ち上げました。
そして、第一の獣に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものをいう事が出来るようにしたというのは、欧州の復興がやがてローマ帝国の再来を思わせるEU統合への筋道をつけること、それに加えて、欧米が中心となって各種国際機関を設立して、キリスト教的価値観を共有する欧米諸国主導の国際社会秩序が形作られてゆく過程を述べているのでしょう。
それから、獣の像を拝もうとしない者を皆殺しにさせたというのは、いわゆる米ソの代理戦争と言われたあらゆる紛争や、対テロ戦争と言われた米国主導の多国籍軍による戦争などが該当するのでしょう。
もう一つの意味合いとして、技術の進歩に伴って新たに創り出されたテレビ、ラジオなどの映像・通信系機器類は、獣の像に息を吹き込む事に該当するでしょう。
そして、獣の像を拝む者が、テレビ・ラジオ等のマスメディアの論調を鵜呑みにする者を指すなら、マスメディアに違和感を持つ人にとっては息苦しく、精神的に殺されたような日々を送っていたとも表現できるでしょう。
ここまで来ると、どうやら第二の獣とは米国及びプロテスタントの価値観が該当しそうですが、第二の獣についての記述がもう少しだけ続きますので、最後まで確認してしまいましょう。

第十六節~第十八節では、あらゆる者の右手か額に刻印を押させます。
その刻印がある者でなければ、物の売り買いが出来ないようになりました。
その刻印は獣の名であり、獣の名の数字です。
その数字とは人間を指しており、六百六十六です。
先程までの話の流れを考慮に入れると、これが何を指すのか、ご覧の皆様にも大体想像がつくのではないかと思います。
それを一言で表現すると、グローバリズム、グローバル資本主義などという事が出来るでしょう。
世界各国の経済活動・商取引のルールを統一しようとする考え方なのですが、現実には世界最大の経済規模を持ち、国際決済通貨ドルと世界各国に軍隊を派遣している米国主導で、国際的な経済活動のルール統一に向けた働きかけが続いております。
そういえば、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】でペルガモンにある教会の天使に宛てた手紙を紹介しましたが、ペルガモンとは米国を指すこと、ここにサタンの王座があること、そしてオバマ大統領と同じ名前と同等の立場に立つ人物の言及がありました。
更に今回の記事では、サタンの影響を受けた獣が、今のEUと米国を指しているように読み取れます。
そうなると、ここで述べている獣の名の刻印とは、カトリックとプロテスタントに代表される現代のキリスト教的価値観そのものを指すことになります。
では、獣の数字は人間を指すと言うこと、またその数字六百六十六とは、どの様な意味なのでしょうか。
創世記の第一章には、第六の日に神は地上の獣らを産み出し、また人間を創造していますので、獣の数字の六とは獣や人間が誕生した日を指すのでしょう。
では、六百六十六とは何を意味するのでしょうか。
創世記の第二章によると、天地と万物が完成されたので、第七の日に神は仕事を離れて安息します。
そして第七の日を神は祝福し、聖別します。
一見すると、第六の日で天地万物が完成されたようにも見えますが、第七の安息の日に辿り着いて、やっと天地創造が完成します。
しかし、獣の名の刻印をされた者は、いつまでも人間のままでいることに安住して、第七の日へ向けてステップアップしようとしません。
その姿はまるで、父なる神やイエスを唯一無二の特別な存在と崇め奉っても、生前のイエスの行為に見習って父なる神の玉座へ引き上げてもらおう等とは、いつまで経っても思いも寄らないキリスト教徒の姿に重なるのですが、いかがでしょうか。
ということで、六百六十六とは、聖書に綴られた神の言葉や、イエスの言葉や足跡に学んで自身を鍛えようとせず、父なる神やイエスを唯一無二の神の座に祭り上げた上で、神の名を掲げて背信行為を繰り返すキリスト教徒を表す数字と言えるでしょう。
また、かつては神の座を激しく欲しながらも天から堕とされ、今度はキリスト教会に付きまとって、キリスト教の教義を聖書の記述から突き放して、悪魔の価値観に変質させた上で、キリスト教徒にとっての神を気取ってみても、絶対に本物の神の座に辿り着くことは出来ないと言う意味でもあります。
六を三つ重ねても(幾ら重ねても)七には成らないから、獣の数字であって人間を指すのです。
ちなみに、獣の刻印に該当する具体的な対象としては、国際決済通貨としてのドル(もしくはユーロ)であり、クレジットカードなどの電子情報伝達による決済システム辺りが該当するでしょうか。





■ 悪魔サタンとキリスト教の関わりについてのまとめ

前回の記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その3)】では、第七の天使がラッパを吹いた所までを紹介しましたので、今回はその続きなのかと思いましたが、実際に解読してみると、悪魔サタンが天から堕とされた経緯や、その後キリスト教会に付きまとって侵蝕してゆく様子が描かれていました。
ここまで皆様にもご覧頂いたように、キリスト教会は成立後間もない頃から悪魔サタンに付け狙われ、キリスト教会に関わる人々への干渉を続ける中から、少しずつキリスト教の教義を聖書の記述から引き離し、悪魔サタンの価値観へと変質させてゆきました。
そして今や、イエス・キリストの名を借りた悪魔信仰を武器として世界に覇を唱え、日常生活に欠かせない社会システムそのものが、彼らの信仰する悪魔サタンの価値観を礎に築かれてしまいました。
六百六十六の獣の数字を刻まれたのは、キリスト教会の本質が聖書から悪魔信仰にすり替わってゆくのを見抜けなかった――あるいは積極的に推進した――キリスト教徒だけではありません。
キリスト教会の硬軟取り混ぜた巧みな、あるいは強引な布教活動に誘導され、彼らの価値観を受け入れてしまった、現代を生きる大半の人間に、六百六十六の数字が刻まれてしまったのです。
しかし、この様な事態は、『ヨハネの黙示録』が書かれた時点で既に想定されていました。
何故なら、十二章の最初に「天に大きなしるしが」あって、それから身ごもった女が現れます。
更に、「もう一つのしるしが天に」現れて、それから赤い大きな竜が現れます。
そして十三章に入ると、第二の獣が「大きなしるし」を行いますが、これは小羊イエスが神から授かった巻物の七つの封印のうち、第一の封印を開いたことを指すと述べました。
ここで言う『しるし』について、今は「神が予め“必ずここを通過する”と定めた通過点」とだけ、述べておきましょう。
私たち人間は、悪魔サタンの罠にまんまと嵌まって、思いのままに翻弄されているようにも見えますが、そのシナリオは予め『ヨハネの黙示録』に示されていました。
これは一体どの様に受け止めれば良いのでしょうか。
きっと『ヨハネの黙示録』のどこかに、何らかのヒントが隠されていることを期待して、次回以降の記事をお待ち下さい。

Silvercord管理人 





なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご覧下さい。

閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/


上記記事の内容についてのご意見・ご感想・ご質問はコメント欄よりお寄せ下さい。
また、コメントを投稿される際は、記事【改めて、ご覧の皆様へのお願いと連絡事項】をご覧下さい。

2014年8月15日金曜日

転生を繰り返しながら共に過ごす霊たち[小ネタ]

今回は『ヨハネの黙示録』を解読するシリーズを一回お休みして、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その2)】のコメント欄にお寄せ頂いた質問の回答と、関連する事柄について、霊界の住人の意見を紹介したいと思います。
なお、今回の記事は[小ネタ]枠になります。
霊界の住人の意見を、管理人の責任で編集した文章をお届けすることになりますので、予めその点だけご了承下さい。





■ 匿名様の質問

霊界における結婚や家族の概念とはどのようなものでしょうか。気になるのは複数回転生を繰り返しその度に結婚や出産を経験する霊も沢山いると思うのですが、転生した時、以前の夫婦関係や親子関係は上書きされて無かった事になるのかというところです。また少し考えを発展させて、例えば500年前にある男女が結婚し仲睦まじい人生を終え帰幽しました。男の方は現在地上に転生し地上で新しい女性と結婚しました。女の方は転生することなく霊界で過ごしています。そして新しい地上生活をこれもまた仲睦まじく終えた男女が帰幽した場合、霊界で重婚や三角関係などでややこしい事にならないのものでしょうか。





■ 霊の性別について

匿名様の質問を拝見した際に、取りあえず管理人から以下の回答を述べておりますので、最初に管理人の回答の抜粋を転記した上で、霊界の住人の方の意見を紹介して参ります。
匿名様の上記質問に対して、管理人が回答したのは、以下の二点でした。
・男女の性別は人間の肉体的特性なので、霊に性別はないこと。
・霊にも個性はあるので、男性的な霊や女性的な霊はいる。

まず、上記の二点については、霊界の住人の方も同様の見解でした。
霊には、人間のような肉体的な性別は必要がないので、人間が考えているような男女の概念はない」とのことです。
また、「霊には父性と母性が予め備わっていて、それらを状況に応じて使い分けている」そうです。
そして、「霊的に未熟な間は、父性と母性のバランスを欠いている為、父性と母性を適切に使い分けることが出来ないので、霊によって父性が強く出たり、逆に母性が強く出る」場合がある様です。
ここで管理人は、霊の個性として男性的、女性的な霊はいると述べましたが、「未熟である為に父性と母性のバランスが上手く取れない」という見解が正解のようです。
但し、神話の神々にも男性神と女性神が居りますし、神様でしたら父性と母性のバランスを安定させられる程度に成熟していると思われますので、神様の男女については、役割に応じて父性と母性を使い分けている現れと見ることが出来るでしょう。





■ 霊はどの様にして、男/女として生まれることを選択するのか

未熟な成長段階の霊には、父性が強い霊と母性が強い霊がいるのでしたら、父性が強い霊は男性に生まれ、母性が強い霊は女性に生まれるのかというと、実は一概にそうとも言えないようです。
霊が人間として生まれる際には、人間としての生涯を送る中でどの様な経験に学びたいのかという、明確な目的意識があるそうですので、その目的を成し遂げる為には男性の方がやりやすい、もしくは女性でなくては出来ない場合もあります。
そこで、その時の人生の目的に応じて、達成の為に都合の良い方の性別を選ぶようです。
ですから、誕生前に選んだ性別と霊的な父性・母性のバランスによって、男性的な女性もいれば、女性的な男性もいます。
尤も、最近は肉体的な性別と霊的な特性が食い違っていても、自分のありのままの姿を表現し、又その様な人々に対して寛容に受け入れる社会に変わりつつある印象があります。
その辺りの選択は、個々の霊の目的意識と関心の方向性によりますので、霊の視点から見ると一概に善し悪しを断定できません。
いずれにせよ、最終的に父性と母性を共に活かせるようになって、上手く双方のバランスを取れるようになることが到達点となります。
そこへ至るまでの道程は、各々の霊によって千差万別です。





■ 近しい間柄の人間として生まれる霊達の関係

前置きはこのくらいにして、いよいよ匿名様の質問の本題に入っていきましょう。
霊界の住人は、「家族や友人などの近しい間柄の者として、何らかの深い関わり合いを持つ機会が多い存在は、霊の状態の時に同じグループ内にいて、お互いに影響を与え合いながら学ぶことを決めていて、予め契約を結んだ状態で人間として産まれてくる」のだと言います。
転生する度に、個々の霊にとって学びを得たい経験は異なりますが、特定の霊同士がお互いに学びたいテーマを学べるように、相互の役割や関係性を変えながら、そのグループのメンバーが皆協力しながら、必要な経験を積み重ねてゆく様です。
例えば、ある生涯では夫婦として過ごした霊たちが、次の生涯では親子や兄弟・姉妹であったり、唯一無二の親友であったりといった関係を、その都度必要に応じて立場を入れ替わったり、同じ夫婦や恋人同士であっても、男女の関係を入れ替わったりと言ったように、お互いの肉体に宿る霊は同じでも、お互いの立場と関係性を変えて行くことによって、共同してより多くの経験を積み重ねることが出来ます。
ですから、匿名様への回答その一としては、人間である時のお互いの関係性は、関係者である霊同士が、その人生で学びたい経験を、共同で積み重ねる為に都合の良い間柄だということが言えます。
人間の時に作り上げた関係を、生涯を終えた後にまで引きずるのではなく、誕生前にお互いがどの様な関係で人生を送るのかを決めてから、その約束に基づいて人間としての関係を結んで、目的とする経験を積み重ねて行くことになります。
ですから、質問にある「転生した時、以前の夫婦関係や親子関係は上書きされて無かった事になるのか?」については、過去の人間関係は、その生涯で目的とする経験を積む為に必要な“設定”として、記憶されます。
人間として過ごしている時には、過去の記憶は封印されていますが、肉体との繋がりが解けると、生涯を終えた直前の人生と共に、それ以前の過去の記憶も全てが開放されます。
ですから、過去の記憶が開放された時点で、人間であった時のお互いの関係が、一時的な仮の関係である事を理解しますから、特定の過去世の関係に拘る意味を感じないのです。





■ 特定の霊に対する執着

特定の霊同士が、お互いの立場や関係性を変えながら、共に人間としての生涯を過ごして行く例えについて述べましたが、では、そういった特定の霊に対する執着には、どの様な意味があるのでしょうか。
霊界の住人は、「良い意味でも悪い意味でも、執着してしまう間柄には何らかの意味があるので、何故執着してしまうのかを学ぶ為に、同じグループの者同士で人間としての生涯を送る選択をする」のだと言います。
良い意味と悪い意味とある様に、仲の良い相手ばかりではなく、傷付け合ったり敵対する者同士の間でも、執着してしまう関係が成りたつようです。
お互いの関係が良くても、悪くても、執着するからには、その相手との関係の中に自分の理解できないことがあり、それを理解したいと自分が望んでいることになります。
例えば、お互いに相手を嫌な奴と思っていても、何故か度々自分に突っかかってくる相手がいる――或いは、どうしても相手が気になって、自分から絡んでいく――そのような場合もあると思います。
幾ら自分がその相手が気に入らないと思っても、その相手と関わる中から学ばなくてはならない物事がある――そんな事例もあり得るようです。
それがどの様な相手であっても、執着するにはそれなりの理由があって、その相手と関わる中から執着の理由を見つけて、その理由を解消してしまえば、善し悪しにつけ、過度の執着はなくなってゆく様です。
もちろん、自分がその理由に気づいても、相手が気づかない場合もあります(その逆もあります)が、執着する関係の片方だけがその理由に気づいた場合でも、今度はお互いの学ぶテーマ(関心の対象)にズレが生じてしまうので、次第にお互いの関係が解消されて、離れて行ってしまうそうです。





■ 地上生活での人間関係を霊界に持ち込む者達

以上の前提を踏まえて、匿名様の質問の事例について考えてみましょう。
先に述べたように、地上生活における人間関係は、特定の経験を積む為に必要な“設定”であり、一時的な仮の関係なのですから、その関係を帰幽後に持ち込んでいる時点で、地上に産まれた本来の目的を見失っていることになります。
霊界の住人は、「人として産まれた当初の目的を忘れて、霊界に戻ってからも人間的な恋愛感情を持ち込んでしまう場合は、再び地上に誕生して、例えば一人の男性を二人の女性が取り合うなど、人間的な感情の赴くままに振る舞える環境を選択して、醜く争うことになる」と述べております。
本人達はそれで何とか決着を付けようとするようですが、霊界の住人に言わせれば「それがどの様な不毛な選択であるのかを理解して、飽きてしまうまでは何度でも繰り返すことになる」のだそうです。
そして、「その姿はまるで虜囚のようである」と見えるようです。





この度ご紹介した質問については、霊媒と協議の上、霊界の住人の見解をお知らせした方が良いと判断しました。
しかし、コメント欄からお寄せ頂いた質問は、基本的に管理人から回答するという方針には変わりありませんので、その旨ご了承下さい。

Silvercord管理人 





上記記事の内容についてのご意見・ご感想・ご質問はコメント欄よりお寄せ下さい。
また、コメントを投稿される際は、記事【改めて、ご覧の皆様へのお願いと連絡事項】をご覧下さい。

2014年8月8日金曜日

『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その3)

この記事は、以前投稿した下記記事の続編となりますので、未読の方はこちらの記事より順番にご覧下さい。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】
『ヨハネの黙示録』第一章~第三章、アジア州にある七つの教会の天使に宛てた手紙について。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その2)】
『ヨハネの黙示録』第四章~第七章、イエスが神から託された巻物の七つの封印のうち、第一~第六の封印を開いてゆく。





■ 巻物の第七の封印

黙示録第八章の冒頭で、イエスはいよいよ巻物の第七の封印を開きます。
第二節~第五節では、神から七人の天使にラッパが与えられ、金の香炉を持った別の天使には多くの香が与えられます。
玉座の前にある金の祭壇の火を香炉に満たして、そのまま天使は香炉を地上に投げつけます。
ここで、金の祭壇の火とは神聖なる力を表しますので、この後地上で起こる出来事は神様の神聖な力による出来事であることを示します。
そして神様よりラッパを与えられた七人の天使が、事態の進捗状況を知らせる為にラッパを鳴らします。
それは以下のような流れで進みます。





■ 第一の天使がラッパを吹いた

黙示録の第八章第七節では、第一の天使がラッパを吹きました。
すると血の混じった雹と火が生じて、地上に投げ入れられます。
その為に地上の三分の一が焼け、木々の三分の一も焼け、全ての青草も焼けてしまいます。
霊界の住人によると、これは大規模な陸上戦闘によって多くの血が流れ、また大地が著しく荒廃してしまうことを示しているようです。
一見すると、さらりと簡単に流しているようでも、地上の三分の一を焼くのですから、恐らく相当大規模の戦争が起こるのか、もしくは広範囲で紛争の絶えない世の中になることを示唆しているのではないかと思います。
それでも、今後に控えている事態を思えば、まだまだ序の口と言うことなのでしょうか。





■ 第二の天使がラッパを吹いた

黙示録の第八章第八節~第九節では、第二の天使がラッパを吹きました。
すると火で燃えている大きな山のようなものが、海に投げ入れられます。
その為に海の三分の一が血に変わり、被造物で海に住む生き物の三分の一が死にます。
また、船の三分の一が壊されます。
霊界の住人によると、これは大規模な海上戦闘が起こり、その為に海の生物に多くの被害が出て、また多数の船舶が沈められる事を示しているようです。
特に注意したいのは、あえて「被造物で海に住む生き物」と表現している点で、被造物=神の手により創造された生き物であると強調したい心の内が伺えます。
つまり、人間同士の諍いが原因で起こった戦争に、神が創造された海の生物を多数巻き込む理不尽さを諫めているように読めるのですが、いかがでしょうか。
ともあれ、海の三分の一を血に染める大海戦が起こるようです。





■ 第三の天使がラッパを吹いた

黙示録の第八章第十節~第十一節では、第三の天使がラッパを吹きました。
すると松明のように燃えている大きな星が天から落ちてきて、川の三分の一とその水源の上に落ちます。
その星の名は「苦よもぎ」といって、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなったので、多くの人が死にました。
霊界の住人によると、これは深刻な水質汚濁が起こり、飲用水として使用していた川の水が汚染されて、毒水に変わってしまった事を示しているようです。
それ程の深刻な水質汚濁の実情を知らなかったのか、もしくは知っていても、他に清浄な水を手に入れる手段がなかった為に、毒水と知りつつ飲用せざるを得なかったのかは分かりません。
いずれにせよ、毒水を飲んだ為に多くの人が犠牲になってしまうようです。
さて、ここで述べている「苦よもぎ」が、ウクライナ語ではチェルノブイリと言う、との指摘があります。
この記述が、1986年にチェルノブイリ原子力発電所で起きた、原子力事故を暗示しているのではないか、との意見なのですが、霊界の住人は明確に否定します。
第一章から順番に、『ヨハネの黙示録』の一連の流れをご覧になってきた皆様でしたら、ここでいきなりチェルノブイリ原子力発電所事故の記述がされるのは不自然であり、文章の前後と何の脈絡もないと気づかれることでしょう。
それよりもむしろ、「苦よもぎ」の海外での名称が、『創世記』の「楽園から追放された蛇が這った後に生えた草」であるという伝説があって、それに因んで名づけられたそうなのですが、そちらとの関係の方が強そうです。
『創世記』第三章では、予め神から禁じられていたにもかかわらず、蛇がエバを騙して善悪を知る者の実を食べさせ、アダムも蛇に唆されたエバの言うままに木の実を食べてしまったので、それを知った神はアダムとエバを楽園から追放します。
エバを騙した蛇とは悪魔サタンを指しますが、その蛇の這った後に出来た草ですから、悪魔サタン的な価値観を象徴する草と見ることが出来ます。
つまり、人間社会がサタン的価値観に支配された結果として、必然的に清浄な水も毒水に変質してしまうと言う比喩表現でしょうか。
残念ながら、「苦よもぎ」の名前にまつわる伝説は確認できませんでしたが、もしその伝説の内容が詳しく分かれば、他にも何かが分かるかも知れません。





■ 第四の天使がラッパを吹いた

黙示録の第八章第十二節~第十三節では、第四の天使がラッパを吹きました。
すると太陽の三分の一、月の三分の一、星の三分の一が損なわれて、それぞれ三分の一が暗くなりました。
その為に、昼は光の三分の一を失い、夜も同じようになりました。
そして一羽の鷲が空を高く飛びながら、大声で言いました。
「不幸だ、不幸だ、不幸だ、地上に住む者達。なお三人の天使が吹こうとしているラッパの響きのゆえに」
霊界の住人によると、これは壮絶な大気汚染が起こり、太陽や月、星の明かりが地上に届きにくくなる程、空が暗くなってしまうことを示しているようです。
そんな空に一羽の鷲が飛んでいて、これから三人の天使がラッパを吹く度に、地上に住む人に不幸が襲うと警告しております。
何故鷲がその様なことを言うのでしょうか。
聖書の中で鷲が何を象徴しているのか、軽く調べてみましたが、何か特定の象徴とされているようには感じられませんでした。
あえて一つ上げるなら、第四章第六節~第七節に、玉座の中央と周りに四つの生き物がいるのですが、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであったということなので、あるいはこの鷲のような生き物を指しているのかも知れません。
そして、この鷲が発した言葉の意味は、以下の様な意味合いと受け取るのが正解でしょう。
第一~第四の天使がラッパを吹いた時には、それが例え思ったような結果に結びつかなくても、地上に住む人が自ら選択した行動です。
しかも、その選択は蛇の這った後に「苦よもぎ」が生えたように、悪魔サタンが引いたレールに沿って進められてきたものです。
だから自ら選択した結果は自分で刈り取る決まりに則って、これから三人の天使が吹くラッパの合図と共に、自ら選んだ結果が還ります。
それが地上に住むあなた方にとっては、不幸な偶然としか見えなくても。





■ 第五の天使がラッパを吹いた

黙示録の第九章に入って第一節~第十二節では、第五の天使がラッパを吹きました。
すると、一つの星が天から地上に落ちてきます。
この星には、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられていましたので、底なしの淵の穴を開きました。
すると穴から、大きな竈から出るような煙が上がって、太陽も空も煙の為に暗くなってしまいました。
その煙の中からイナゴの群が地上へ出てきます。
そのイナゴには、地に住むサソリが持っているような力が与えられており、地上の草木を損なってはならないが、額に神の刻印を押されていない人には害を加えても良い、と言い渡されました。
害を加えると言っても、殺してしまうのではなくて、五ヶ月の間苦しめることを許されました。
サソリのような力を与えられたイナゴは、サソリが人間を刺したような苦痛を与えます。
イナゴに刺された人は、五ヶ月の間、いっそ死んでしまいたいと望んでも、死ぬことが適いません。
イナゴの姿は出陣の用意を調えた馬に似ていて、頭には金の冠に似たものをつけ、顔は人間のようです。
女のような髪を生やして、獅子の歯のような歯があります。
胸には鉄の胸当てのようなものを着けて、羽の音は、多くの馬に引かれて戦場に急ぐ戦車の響きのようです。
更にサソリのような尻尾と針があって、尻尾には五ヶ月の間、人に害を与える力がありました。
イナゴは底なしの淵の使いを王として仕えていました。
王の名はアバドン、又はアポリオンと言います。
さて、一見すると、地上に大きなクレーターを作る程大きな隕石が落下して、その隕石の中に混入していた未知のウイルスが活性化、死に至る程ではないにせよ、一時的に感染が広がって多くの罹患者が出る――そんなシナリオが思い浮かびそうですが、ここはちょっと捻って考える必要がありそうです。
底なしの淵から煙が上がって、煙の中からイナゴの群が出て来ます。
このイナゴについてかなり詳細に説明しておりますが、このイナゴ――サソリのような力を与えられて、額に神の刻印を押されていない人に苦痛を与えるイナゴとは、一体何者なのでしょうか。
そのヒントは、イナゴが閉じ込められていた底なしの淵にあります。
『ルカによる福音書』第八章第二十七節~第三十三節には、イエスがレギオンと名乗る男と出会ったエピソードが記されております。
レギオンは悪霊に取り憑かれておりましたが、悪霊はイエスに「底なしの淵へ行け」と命じないように、イエスに願います。
ちょうど辺りの山には豚の群がいたので、悪霊は豚の中に入るからとイエスに願い出ると、イエスもそれを許します。
悪霊が豚に取り憑くと、豚の群は湖になだれ込んで溺れ死んでしまいました。
このエピソードから、底なしの淵とは、イエスが悪霊に「そこへ行け」と命じるような場所であり、恐らく悪霊に満ちた場所である事が想像できます。
ですから、イナゴの正体は、かつてイエスに「底なしの淵へ行け」と命じられた悪霊達なのでしょう。
このイナゴには、サソリのような力――毒で人に苦痛を与える力が与えられますが、致死性ではなく、「額に神の刻印を押されていない人」を、五ヶ月の間だけ苦しめることが出来ます。
では、サソリの毒とは、一体何でしょう。
それを知るには、イナゴの姿を知ることが頼りになります。
イナゴは出陣の用意を調えた馬に似ていて、胸に鉄の胸当ての様な物を着けて、羽の音は、多くの馬に引かれて戦場に急ぐ馬車の響きのようなので、イナゴの目的は何らかの戦闘の準備であることがわかります。
また、いずれも~のような物とか、~に似た物とあるので、そのものを指しているのではなくて、物の例えとしてその様な表現をしているのでしょう。
更に、イナゴの頭には金の冠に似た物を着けています。
金の冠とは、黙示録の第四章第四節で、神の玉座の周りにある二十四の座にいる、白い服を着た二十四人の長老が、頭に金の冠を被っていました。
長老は白い衣を着ているのですから、きっと遙か昔に勝利を得ていた者であり、神の玉座の周りに専用の座を与えられているのですから、神の側近と言ってもよい程の、高い権威のある方達なのでしょう。
その長老が被る金の冠と似た物を被っているのですから、きっと長老達を装った偽者なのです。
更に、顔が人間のようであり、女のような髪の毛が生えています。
さて、人間のようであり、女のように見えるとはどういう事でしょう。
女と言えば、『創世記』の第三章には、蛇が女を唆して、神に禁じられた善悪を知る実を食べさせ、アダムも女の言うがままに、善悪を知る実を食べてしまうエピソードが記されています。
つまり、かつて楽園で女が蛇に言われるがままアダムを堕落させたように、何者かの言うがままに「額に神の刻印を押されていない人」をたらし込んでしまう――それがイナゴに与えられた、サソリのような力の意味ではないでしょうか。
イナゴは神の近くにいる聖なる存在を装って、「額に神の刻印を押されていない人」に近づき、かつて蛇がアダムと女を騙したように、人を陥れるような話を耳元で囁いて唆すのでしょう。
「額に神の刻印を押されていない人」が、聖書に記された神の言葉の意味を理解できるとは思えませんし、そもそも神の言葉に照らして考えようとも思わないでしょうから、その話を真に受けてしまった為に、苦痛を受ける事になるのでしょう。
それは聖なる者を騙る紛い者、現代でも見られる犯罪紛いの宗教ビジネスやカルト宗教の主催者達にこそ、ピタリと当て嵌まる姿ではないでしょうか。
「~を買わないと呪われる」とか、「~をしないと救われない」などと、知識が欠けている人々の恐怖と不安感を煽って誘導し、精神的に追い詰めて洗脳してしまう――その様な被害に遭ってしまった方にとっては、例え死に至らなくとも過酷な精神的苦痛を受けるでしょうし、場合によっては死んでしまいたいと思い詰めてしまう人もいるかも知れません。
イナゴが与える苦痛とは、神の教え、神の言葉であると偽った紛い物の言葉によって、神の刻印を押されていない人を苦しめ、惑わせることを指すようです。
そして、イナゴがこの様な苦痛を与えるのは、この後に訪れる戦闘に備える為です。
ところで、「額に神の刻印が押されていない人」とわざわざ名指ししているのですから、この頃にも「額に神の刻印を押されている人」もいるのでしょう。
では、刻印を押されていない人がイナゴに苦しめられている時、刻印を押されている人はどうしているのでしょうか。
神の刻印を押されている人とは、神の言葉の意味をよく理解し、その言葉のままに実践している人を指します。
前回の記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その2)】でも述べておりますが、黙示録の第七章で第六の封印を開いた後、天使が神の僕(しもべ)達の額に刻印を押して回っていました。
彼らは既に勝利を得ることが約束されており、後に白い衣を着て、神の玉座の近くで仕えることになります。
ですから、幾らイナゴ達が聖なる者を装って、紛い物の言葉で騙そうとしても、神の言葉とそうでない物を的確に見極める事が出来ます。
ですから、額に神の刻印を押されている人は、上手にイナゴの苦痛を避けることが出来るのです。
説明が長引いてしまいましたが、あと少しだけお付き合い下さい。
では、そもそもイナゴが出て来た煙、底なしの淵の穴の鍵が開いた時に上がった、大きな竈から出るような煙とは何でしょうか。
その煙によって、太陽も空も覆い隠されて暗くなってしまうとあります。
これは、イナゴである悪霊達が吹聴して回る価値観、物の考え方が社会に蔓延って、神の言葉と紛い物の言葉の違いが分かり難くなってしまうことを表しております。
そして、底なしの淵に閉じ込められていた悪霊を解放した者、天から地上に落ちてきた星であり、底なしの淵の穴を開く鍵を持っていた者は悪魔サタンと言うことになります。
これで、第五の天使がラッパを吹いてから起こる出来事に付いて、概ね解説しましたが、最後に一つだけ付け加えます。
それは、悪魔サタンに底なしの淵の穴の鍵を渡したのは誰なのか、と言うことです。
ここで先に結論を述べてしまうと、神様から底なしの淵の穴の鍵を開ける権限を与えられたのですが、何故神様は、地上に暮らす人々に苦痛を与えるような行為を許したのでしょうか。
今後の記事において、その辺りの事情が少しずつ明らかになってゆくでしょう。





■ 第六の天使がラッパを吹いた

黙示録の第九章第十三節~第十一章第十四節では、第六の天使がラッパを吹きました。
そうすると、神の御前にある金の祭壇の四本の角から聞こえた声が、第六の天使に向かって言いました。
「大きな川、ユーフラテスのほとりに繋がれている四人の天使を放してやれ」
四人の天使は、人間の三分の一を殺す為に解き放たれました。
天使達は、この時の為に用意されていたのです。
その騎兵の数は二億であり、彼らは炎と紫、硫黄の色の胸当てを着けて、馬の頭は獅子の頭のようで、口から火と煙と硫黄を吐いていました。
口から吐く火と煙と硫黄により、人間の三分の一が殺されてしまいました。
馬の力は口だけではなく、尻尾にもあって、尻尾には蛇に似た頭があって、その頭で害を加えます。
それらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、悪霊や、金属類や石や木で造った偶像を礼拝することを止めませんでした。
また、彼らは人を殺したり、まじない、淫らな行い、盗みを悔い改めませんでした。
ここまでで第九章が終わりますので、まずはここまでの流れを見てゆきましょう。
最初の、神の御前に出てくる金の祭壇とは、第八章の冒頭で、天使が地上に投げつけた香炉は、金の祭壇から火をつけていましたが、こちらも同じ祭壇です。
また、ユーフラテスのほとりに繋がれている四人の天使、人間の三分の一を殺す為に用意されていた天使とは、第七章の冒頭で大地の四隅に立っていた四人の天使でしょう。
何故なら、彼らには大地と海とを損なうことを(神に)許されているのですが、神の僕の額に刻印が押されるまでは、大地と海を損なってはならないと、神の刻印を押す天使より申し渡されていたからです。
その、神の刻印を押される対象者全員に刻印を押してしまったので、いよいよ四人の天使が大地と海を損なう時が訪れたのです。
四人の天使は、二億の騎兵を用いて、人間の三分の一を殺しました。
この二億の騎兵とは、一体何者なのでしょうか。
騎兵の胸当ては炎と紫と硫黄の色であり、馬の口から火と煙と硫黄を吐いているので、恐らく大規模な戦争を示唆しているのでしょう。
更に、騎兵が乗る馬の尻尾にも力があって、尻尾には蛇に似た頭があって、殺されなかった人に対してはその尻尾で害を加えたのです。
尻尾で害を加えると言えば、第五の天使がラッパを吹いた時に、サソリのような力を与えられたイナゴが、五ヶ月の間だけ、額に神の刻印を押されていない人に苦痛を与えましたが、それと同じ様な事を行ったのでしょう。
つまり、人間の三分の一を殺した騎兵とは、神の言葉を理解できなかった為に、天使によって神の刻印を押されることもなく、神聖な者を装って近づいたイナゴが吹聴する悪魔サタンの考えに洗脳されて、言わばカルト宗教に絡め取られてしまった人々です。
彼らは、自分たちの考えと異なる者の存在が許容できないので、そういった対立する相手には戦争を仕掛けて滅ぼし、それ以外の者には、自分たちが絶対と信じる悪魔サタンの考えで害してゆくのです。
ですから案の定、この争いで生き残った人間は、神聖な者を装った悪霊や、物質で造った偶像を崇めるようになってしまいます。
また殺人や呪術、淫行や盗みを行うことにも疑問を感じなくなってしまいました。
第六の天使の項はまだまだ続きますので、先を急ぎましょう。

そこでもう一人の力強い天使が、雲をまとって天から降りてきます。
頭に虹を頂き、顔は太陽のようで、足は火の柱のようで、手には開いた小さな巻物を持っています。
天使が足で海と大地を踏みしめて、大声で叫ぶと、七つの雷が何かを語りました。
そこで天から声があって、「七つの雷が語ったことは秘めておけ」と言います。
天使は「第七の天使がラッパを吹く時、神の秘められた計画が成就する」と言いました。
そこで再び天の声が「天使の手にある、開かれた巻物を受け取れ」と言います。
天使は「(巻物を)受け取って、食べてしまえ。それはあなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い」と言いますが、それを食べると口には甘く、腹は苦くなりました。
さて、第十章に当たるこの部分は、全体的によく分からないことが記されています。
但し、はっきりと言えるのは、ここまでの流れが神の秘められた計画に沿っており、この後に訪れる第七の天使がラッパを鳴らした時に、神の計画は成就すると言うことです。
そして、ここはあくまでも管理人の予想なのですが、ヨハネが天使から受け取った小さな巻物とは、イエスが七つの封印を開いていった巻物の概要ではないかと思います。
巻物全体ではなく、神の計画を理解する為に欠かせない主要部分のみを抜粋した巻物なので、完全コピーではないと言う意味の小さな巻物なのでしょう。
それは口には密のように甘く=ぱっと見には簡潔にまとめられていて分かりやすく、腹には苦い=内容の核心を理解するのは難しい、と言うことなのでしょう。
その様に考えてゆくと、七つの雷が語ったことは、神の秘められた計画の核心に迫る内容だったので、神の計画が成就する前に明かすのは時期尚早であり、計画の進行に差し支えると言うことなのかも知れません。

それからヨハネは杖のような物差しを与えられて、この様に告げられます。
「神の神殿と祭壇を測り、そこで礼拝している者を数えなさい。
しかし神殿の外の庭はそのままにしておいて、測ってはいけない。
そこは異邦人に与えられたので、彼らは四十二ヶ月の間、この聖なる都を踏みにじるだろう。
自分の二人の証人に粗布をまとわせて、千二百六十日の間、預言をさせよう」
この二人の証人は、地上の主の御前に立つ二本のオリーブの木、又は二つの燭台です。
この二人に害を与えようとする者は、彼らの口から火が出て、その敵を滅ぼしてしまうでしょう。
彼らには、預言をしている間ずっと雨が降らないように天を閉じる力があります。
また、水を血に変える力があって、望みのままに何度でも、あらゆる災いを及ぼせます。
二人がその証しを終えると、一匹の獣が底なしの淵から上がってきて、彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまいます。
彼らの死体は、かつて彼らの主イエスが十字架に掛けられた都、ソドムとかエジプトと呼ばれる大きな都の大通りに取り残されます。
様々な民族の人々は三日半の間、彼らの死体を眺めて、墓に葬ることを許さないでしょう。
地上の人々は、二人の預言者に苦しめられたので、彼らの有様にとても喜んで、贈り物をやりとりするでしょう。
三日半後に命の息が神から出て、二人に入ると立ち上がったので、これを見た人はとても恐れました。
二人は、天からの「ここへ上がってこい」という声に応えて、雲に乗って天に昇りました。
その時大地震が起こって、都の十分の一が倒れて、この地震の為に七千人が死に、残った人々は恐れを抱いて神の栄光を讃えました。
さて、ヨハネが杖のような物差しで測っている神の神殿と祭壇とは、『銀の紐』で度々紹介している『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を指します。
そこで礼拝している者とは、それぞれの拠点の守人達です。
拠点の外側は異邦人に与えられてしまったので、拠点の守人達は拠点の外に出ないように、注意を促しています。
この後、異邦人は四十二ヶ月の間、拠点のある都を踏みにじるので、守人が巻き込まれないようにと言うことでしょうか。
異邦人が拠点のある都を踏みにじるのは、人間の三分の一が殺されてしまう程大きな争いがあって、治安が乱れてしまっているからでしょう。
争いの中を生き残った人々は、とうとう拠点を構えた土地にも牙を剥いて、襲いかかってきたのです。
そこに二人の証人が使わされて、千二百六十日の間、神の言葉を伝える役目を委ねます。
二人の証人とは、かつてイエスが人として為した様に、神が予め伝えた言葉が実際に起こると証明する役割を担う者です。
二人は粗布をまとっていますが、粗布とは言わば喪服のような物で、死者を弔ったり悲しみを表す際にまとうそうです。
彼らは何故粗布をまとっているのでしょうか。
拠点の意味と価値も分からないまま、拠点を構えた土地を占拠したり、偶像崇拝や殺人、呪術、淫行、盗みなどを止めなかった人々は、程なく裁きを受ける事が確定したので、救われない彼らに対する悲しみを表したのでしょうか。
二人の証人が異邦人達に伝えて回った神の言葉とは、きっと「今までに自ら行った行為の結果がこれから現れる」という趣旨であったと想定できます。
異邦人達は、今までに神の言葉に耳を傾けるチャンスが無数にありながら、神の言葉を語る者を迫害し、悪魔サタンの価値観に心酔して暴虐の限りを尽くしたので、この後第七の天使がラッパを吹いた後に起こることを告げたのではないでしょうか。
それは異邦人達にとっては都合の悪い内容だったのですが、二人の証人が誰にも邪魔されずに神の言葉を伝え終える為に、二人には強大な力が与えられました。
二人に害を加えようとする者は滅ぼされ、神の言葉を語る間は雨が降らず、またあらゆる災いをもたらす力です。
しかし、それは異邦人達が今そうされなくても、第七の天使がラッパを吹いた後には、遠からずそうなってしまう宿命なのです。
そんな強大な力を持った二人の証人も、神の言葉を伝え終えてしまうと、底なしの淵から上がってきた一匹の獣に負けて、殺されてしまいます。
その獣とは、第五の天使がラッパを吹いた時に、イナゴが出て来た煙と同じ様に、底なしの淵から上がってきました。
ですから、その獣は悪魔サタンに従う者です。
一方、獣に殺された二人の証人は、都の大通りに三日半も遺体を放置されますが、それは二人の証人が異邦人達に激しく嫌われ、疎ましく思われていたからです。
幾ら証人の言うことが神の言葉であっても、また正しいことであっても、異邦人である彼らにとっては非常に都合が悪く、また思い当たる節のある事を述べていたからです。
ですからきっと、一匹の獣が二人の証人を殺してしまった時に、異邦人達は心底ホッとしたことでしょう。
幾らあの縁起が悪い話を止めさせようとしても、不思議な力を持つ二人の証人には手を出せなかったけれども、これからはあのイヤな話を聞かされなくて済むのです。
異邦人達は大いに喜んで、お互いに贈り物のやりとりまでしたのでした。
そんな彼らによって占拠された都は、ソドムやエジプトに例えられてしまいます。
ソドムとは、『創世記』第十九章で、不品行の為に神によって滅ぼされた町です。
エジプトは、『出エジプト記』第五章~第十一章で、イスラエル人を過酷に使役した上、彼らのエジプトからの出立をファラオが拒否したので、神によって十の災いがもたらされた都です。
ですからこの都にも、かつてのソドムやエジプトと同様の結果がもたらされます。
一方、二人の証人は、かつてイエスが十字架に掛けられた時のように、三日半の後に復活し、神の御許に迎えられます。
その時に大地震が起こって、都に被害が出たり死者が出ると、異邦人達は慌てて神の栄光を讃えるのです。
例え口先で神を讃えようと、彼らは決して自らの行為を顧みて、悔い改めようとはしません。
彼らは異邦人、神の言葉の意味を理解できない人々なのですから。





■ 第七の天使がラッパを吹いた

第十一章第十五節にて、第七の天使がラッパを吹きます。
ここからいよいよ神の裁きが始まります。
第十七節~第十九節では、神の御前に座を構える二十四人の長老が、「神の僕、聖なる者、御名を畏れる者には等しく報いがあり、地を滅ぼす者が滅ぼされる時が来た」事を告げます。
そして、天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見えました。
そういえば、第十一章の冒頭にも「神の神殿と祭壇とを測り~」とありましたが、上ではこれを『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を指すと述べました。
ですから「天にある神の神殿が開かれる」とは、『霊界と地上界を繋ぐ拠点』が開かれる事を指すはずなのですが、ここまでにイエスが巻物の六つの封印を開く度に、地上にある六カ所の拠点が開いてゆき、この時点では既に全ての拠点が開かれているはずです。
しかし、それに加えて更に拠点を開くとは、一体どういう事でしょうか。
ここで、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】の七つの教会の天使に宛てた手紙に戻ると、六カ所の拠点の覡と守人に宛てた手紙以外に、もう一通の手紙がありました。
第三章第十四節~第二十二節の、ラオディキアにある教会の天使に宛てた手紙です。
そこで管理人は、ラオディキアにある教会の天使とは、『霊界と地上界を繋ぐ拠点』の覡や守人を除いた全ての方を指していると述べました。
そこで管理人が思い出したのは、以前投稿した記事【生存報告と今後の予定について】にて紹介した、霊媒Mが取り組んでいる新たなプロジェクトについてです。
以前は、この新たなプロジェクトの内訳についても、出来る限りご紹介しようと考えておりましたが、霊界の住人の方と霊媒Mの意向により、新プロジェクトについては余り詳しく紹介しない方が良いという話になりました。
ですので、この場では説明の為に大まかな内容を述べると、現在は『霊界と地上界を繋ぐ拠点』にて、覡を通じて『想像力と思考力に働きかける霊的エネルギー』を供給しておりますが、いずれは私たち個々の人間が霊界と直接繋がって、霊界から直接霊的エネルギーの供給を受けるようになるそうです。
霊媒Mは、将来的に霊界と人間の関わりをその様に変えてゆく為の、言わば下準備的な作業の一部に携わっているそうです。
人間が霊界と直接繋がると言うことは、現在は各拠点の覡が行っている作業を、個々の人間が行うようになります。
言葉を換えれば、人間全体としての成長度合いが、霊界と直接繋がれるようになるまでの間は、仮に各拠点の覡が、霊的エネルギー供給の作業を代行していると考えれば良いでしょうか。
ということは、第十一章を通して述べているのは、第七の天使がラッパを吹くまでの間に、霊界と直接繋がる準備が出来た人は、第七の天使がラッパを吹いた時に、霊界とその人が直接繋がるようになる=天にある神の神殿が開くのでしょう。
つまり、第十一章の冒頭に出て来た「(地上の)神の神殿と祭壇や礼拝する人」とは、霊界と直接繋がる準備が整っている人なのです。
いずれその様な時が訪れるからこそ、黙示録の第三章でラオディキアにある教会の天使への手紙と題して、私たち多くの人間に向けて準備を促すメッセージを、イエスが残したのでしょう。
一方、第七の天使がラッパを吹くまでに、霊界と直接繋がる準備が出来なかった人は、地を滅ぼす者として滅ぼされることになります。
尤も、滅ぼされると言っても、これは恐らくキリスト教的価値観の影響を受けた大仰な表現だと思いますが、その点については今後投稿する記事の中で明かされることになるでしょう。





■ 第一~第七の天使がラッパを吹くまでのまとめ

『ヨハネの黙示録』の解説を行うに先立って、大雑把に全体的な下読みを行っていたのですが、特に今回の記事については、下読みの段階では読み解けなかった部分が多々ありました。
それは例えば、第五の天使がラッパを吹いた時に現れたイナゴの正体だったり、第六の天使がラッパを吹いた時にヨハネが天使から受け取った小さな巻物だったり、また地上の神の神殿と天の神の神殿の意味について等です。
しかし全般として、第一の天使~第七の天使がラッパを吹くまでの間に掛けては、如何にして、滅ぼされる者が滅ぼされても仕方のない経緯を辿って、最後の審判に臨むのかが語られていた印象があります。
そして、第七の天使がラッパを吹くその時までは、例え一時的に悪魔サタンの誘惑に唆されそうになっても、悔い改めて滅びを免れる為の猶予が与えられていると言うことも、同時に示されています。
そこで、ご覧の皆様がこれからの時間をどの様に使うのかを考えるきっかけにして頂ければ、この記事を投稿した意義があると思います。
次回は、いよいよ裁きの時が始まります。

Silvercord管理人 





なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご利用下さい。

閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/


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2014年7月25日金曜日

『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その2)

この記事は、以前投稿した記事【ヨハネの黙示録に託されたメッセージ(その1)】からの連載記事となっておりますので、まだご覧になっていない方は先にそちらをご覧下さい。

前回は、『ヨハネの黙示録』の第一章~第三章、アジア州にある七つの教会の天使に宛てた手紙を見てきましたので、今回は第四章からとなります。





■ イエスが担った役目

黙示録の第四章~第五章にかけては、言わば本題に先駆けた前置きの部分です。
その中で、特に言及しておきたい部分は、以下の点です。
第五章第一節~第四節では、神様が右手に持っている巻物には七つの封印があるのですが、封印を解いて巻物を開ける者がいないとヨハネは嘆いていました。
しかし第五節~第七節にかけて、ユダ族からでた獅子、ダビデのひこばえと呼ばれる小羊が勝利を得たので、小羊は神の手から巻物を受け取ります。
この小羊、屠られたような小羊とは、十字架に掛けられて処刑されてしまったイエスを指します。
ここで強調しておきたいのは、イエスは人間として地上での行いの結果、勝利を得たので、七つの封印を解いて巻物を見ることが出来る様になったという点です。
これは第三章のラオディキアにある教会の天使への手紙にもありましたが、私たちも今後の行い次第で勝利を得ることは十分に可能ですし、勝利を得てイエスのようになり得るのです。
しかし現代のキリスト教会では、その様に受け取られていない印象があります。
聖書を教典とする宗教の徒でありながら、その教典の記述とは食い違った解釈を行う者が聖職者を名乗るのは、余り感心できる姿勢ではありません。
ともあれ、神から託された巻物の封印を解き、巻物を開く役割がイエスに委ねられました。





■ 巻物の第一の封印

イエスが巻物の第一の封印を開きます。
第六章第二節には、白い馬が現れて、それに乗っている者が弓を持っていたとあります。
彼は冠を与えられていたので、既に勝利を得ている者です。
それが更に勝利を得ようと出ていきました。
これは一体どういう事でしょうか。
そこで思い出して頂きたいのは、記事【ヨハネの黙示録に託されたメッセージ(その1)】掲載の項目『神の目的及び霊界と地上界を繋ぐ拠点について』です。
世界の六カ所に『霊界と地上界を繋ぐ拠点』があり、その拠点を通じて神様が霊的エネルギーを送る作業によって、人間に対して働きかけていると説明しました。
最初は日本の拠点のみが開かれており、2011年になって二番目となるバチカンの拠点が開かれたと述べております。
ですから、第一の封印とは日本の拠点を指します。
しかし、日本の拠点は『ヨハネの黙示録』が書かれる以前から開かれておりましたし、歴代の天皇が日本の拠点の覡を務めて参りました。
ところが、明治天皇より後の歴代天皇は、それ以前の天皇と比べると、覡として分担する役割の幅が拡大しました。
その様な仕組みの変更は、先に霊界側から環境整備の為の働きかけがあり、それを受けて地上界側で新たな仕組みを成りたたせる為の環境が整えられます。
新たな仕組みが整った後は、霊的エネルギーを放出する霊界側と、そのエネルギーを受け取る地上界側の関係者の連携作業として、定常的な働きかけが行われます。
ですから、白い馬に乗っているのは、日本の拠点を通じて霊的エネルギーを送り出している霊界の住人を指します。

もう一つの解釈として、白い馬に乗っている者は勝利の上に更に勝利を得ようと出ていったのですから、例えれば、イエスが聖書を通じて語った言葉の通りに実践して見せるような働きかけとなるでしょう。
その様な観点から見た時に、国内に向けては道徳教育の一環として『教育勅語』が発布されたり、海外に向けては第一次世界大戦後のパリ講和会議において、日本が『人種的差別撤廃提案』を行ったり、その後には欧米列強の支配する植民地を開放するきっかけとなる行動に出ております。
更に、人権意識や人道主義が社会的影響力を強めるのは、第二次世界大戦後ではないでしょうか。
その働きかけが実を結んだかどうかは別にしても、霊界の住人が意図して働きかけていた方向に日本が導かれ、その波紋が一定の時間を置いて世界中に波及しているように感じるのは、きっと私だけではないでしょう。





■ 巻物の第二の封印

イエスが第二の封印を開きます。
第六章第四節には、火のように赤い別の馬が現れたとあります。
その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられます。
そしてその者には大きな剣が与えられます。
さて、第一の封印の項でも述べましたが、第二の封印とはバチカンの拠点であり、そして火のように赤い馬に乗っているのは、バチカンの拠点を通じて働きかける霊界の住人を指します。
しかしそれでは、バチカンの拠点を通じて働きかける霊界の住人は、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせるように働きかけると読めます。
これは一体どういう事でしょうか。
大辞林によると、平和とは以下のような意味を指します。
①戦争もなく世の中が穏やかである・こと(さま)。
②争いや心配事もなく穏やかである・こと(さま)。
つまり、外国との紛争がなく、国内も治安が安定している状態を指すのですが、そもそも地上は常に平和とは程遠い状態に置かれていました。
巻物の第一の封印を開いた後、確かに一部の地域では目立った国際紛争もなく、国内の治安も概ね安定しておりました。
例えば日本は、戦後復興の時期を通じて徐々に治安の安定化と経済成長を促進させ、以後数十年に渡って平和と繁栄を謳歌した国の一つと言えるでしょう。
しかし、その平和と繁栄が世界中に広まった訳ではなく、常に戦火や流血と隣り合わせになった場所もあれば、旱魃や食糧不足による生命の危機に晒されている場所もあります。
巻物の第一の封印を開いた時に、白い馬に乗った者が勝利の上に勝利を重ねようと出ていったものの、その働きかけは思ったように運びませんでした。
平和と繁栄の果実を謳歌している人々が一部に限定されており、またその原動力となった価値観――人権意識や人道主義と言った価値観も、霊界の住人による働きかけを歪んだ形で人間が受け止めてしまいました。
その為に新たな弊害が現れております。
それは、人権意識や人道主義への理解を深めて実践するのではなく、私利私欲を貪る本質を偽る為の体面・体裁として、人権意識や人道主義などのキーワードが乱用され、それらの言葉が示す本質と実態が大きくかけ離れてしまいました。
そこで第二の封印を開き、人権意識や人道主義という仮面の裏に隠れた本質を表に引きずり出して、その様に体裁を取り繕えなくするというのが、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられるという事の意味でしょう。
第一の封印を開いた時に、せっかく参考となる理想像が示されたのに、その意味を歪めて悪用する人々が多くを占めるので、今度は悪用する人々の仮面を剥ぎ取って、お互いに醜い本質を直視する中から、反面教師としての学びを得て欲しいという観点からの働きかけです。
ですから、第二の封印が開いた時――バチカンの拠点が開かれた時期から、徐々に国内も、海外も治安が悪化してゆくことになるでしょう。
既にその兆候は現れておりますが、現代を生きる私たちに求められるのは、そんな不安定な状況を導いたのは私たちの不徳の致す所であることを直視し、その上で現状の問題を解決する為にどうするのかを考えて、実行することです。





■ 巻物の第三の封印

イエスが第三の封印を開きます。
第六章第七節には、黒い馬が現れたとあります。
その馬に乗っている者は、手に秤を持っているのだそうです。
更に第八節では、小麦や大麦、オリーブ油とぶどう酒について言及されております。
さて、第三の封印とは米国の拠点であり、黒い馬に乗っている者は米国の拠点を通じて働きかける霊界の住人です。
そして黒い馬に乗っている、米国の拠点から働きかける霊界の住人が、手に秤を持って食糧の重さを量っているようです。
これは一体どういう事でしょうか。
既に前の項で説明しましたが、第一の封印を開いたのは過去の出来事であり、第二の封印を開いたのは数年前であり、現在進行中の出来事です。
それに対して、第三の封印以降を開くのはこれから未来の出来事となりますので、現時点では不確定の要素が増してゆきますが、出来る限り想像力を逞しくして読み解いてみましょう。
まず、第二の封印を開いてから、徐々に国家間の対立や国内での対立が激しくなり、国際紛争や内戦が各地で勃発します。
行き過ぎたグローバリズムの揺り戻しとは、価値観の異なる者同士の対立と紛争から始まり、そして新たな境界線を引き直した上でお互いに一定の距離を置くことによって、一応の収束を迎えることとなるでしょう。
しかし、事態はそれだけでは片付きません。
紛争の結果として多くの血が流れ、また国土が荒れて食糧生産が滞る為、各地で食糧不足となるでしょう。
ですから、黒い馬に乗った者が手に秤を持ち、食糧の重さを厳密に量っているのです。
ここで人間は、かつては豊富に収穫されていながらも、必要な分量の食糧をより多くの人々に対して適切に分配できなかった経験を踏まえて、食糧生産が減少する時代をどの様に生き抜くかが問われて来ます。
しかも、限られた食糧を分け合う相手が、かつて互いに血を流して争った者同士です。
その結果として一応の手打ちは、恐らくすることになると予測しますが、その様な相手と、ただでさえ貴重な食糧を分け合わなくては、お互いの命を長らえることが適いません。
もし、限りある食糧を分け合えなければ、更に多くの血が流れ、更に多くの土地が荒廃した結果、ただでさえ限りある食糧が、更に目減りする結果を避けられないでしょう。
霊媒の話によると、米国の拠点が開かれるのは、今からおよそ三百年くらい後のこととなる(今後の展開次第では前後する)そうです。





■ 巻物の第四の封印

イエスが第四の封印を開きます。
第六章第八節には、青い馬が現れたとあります。
その馬に乗っている者の名前は「死」といって、この者には陰府=地獄が従っていたとあります。
更に、彼らには地上の四分の一を支配すること、そして剣と飢饉と死によって、それから地上の野獣によって人を滅ぼす権威が与えられたとあります。
さて、第四の封印とはチベットの拠点であり、青い馬に乗っている者は、チベットの拠点を通じて働きかける霊界の住人を指します。
しかしそれでは、チベットの拠点を通じて働きかける霊界の住人とは死神であり、地上の四分の一に及ぶ地域において、紛争と飢饉による死をもたらし、また地上の野獣を使役して人を滅ぼすと読めます。
陰府・地獄を従えているので、死神は地獄に堕とす為に人の首を刈るのです。
これは一体どういう事でしょうか。
まず、第四の封印を開いた影響がおもに及ぶのは、青い馬に乗っている者が支配する、地上の四分の一の地域に限定されます。
当然ながらその周囲にも影響は及びますし、地上全体が何らかの影響を受ける可能性は否めませんが、最も深刻な影響が及ぶのは、黙示録に指定されている範囲でしょう。
そして、青い馬に乗っている者が支配するのは、拠点のあるチベットを中心とした地域になるでしょう。
ですから、現在は人口大国である中華人民共和国やインド共和国などは、特に大きな影響を受けるであろうと想定されますし、その近隣諸国も少なからぬ影響を免れないでしょう。
彼らは食糧供給が滞る事態になっても、自らの私利私欲の為に限りある食糧を独占し、奪い合って争うことを止めなかったので、その結果として自らがお互いにつぶし合って自滅するのです。
この地域には特に多くの人々が暮らしている為、つぶし合いによって自滅する人は膨大な数に上るでしょう。
その中でも、自らの愚かさを直視して行いを改める僅かな者のみが、この厳しい時代を乗り越えるチャンスを手にするのではないでしょうか。
霊媒の話によると、チベットの拠点が開かれるのは、今からおよそ三千年くらい後のこととなる(今後の展開次第では前後する)でしょう。





■ 巻物の第五の封印

イエスが第五の封印を開きます。
第六章第九節には、神の言葉と自分たちが立てた証しの為に殺された人々の魂を、祭壇の下に見たとあります。
第十節で彼らは、主に対して「いつまで地に住む者への裁きを行わないで、私たちの血を流した復讐をしないのですか」と訴えかけます。
続く第十一節では、彼らに白い衣が与えられると共に、かつて自分たちが殺されたのと同じように、今地上で殺されようとしている仲間の僕達の数が満ちるまで、しばらく待つように告げられます。
地上の様子が語られておりませんので、推測に頼るしかないのですが、巻物の第四の封印が開かれた時には地域を限定して起こった混乱が、更に地域を拡大して継続しているように伺えます。
第五の封印とはエルサレムの拠点を指しますので、少なくともエルサレムを中心とした一帯が、極めて深刻な状態に置かれているだろう事は想像できるのではないでしょうか。
その環境下で、神の言葉と自分たちが立てた証し=神の教えに沿っていたが故に、「異端の者」として殺されてしまった人々が、数多く存在したのでしょう。
しかし、彼らはただ殺されてしまったのではなく、白い衣を与えられて神の御許に控えることを許されました。
第九節で述べている祭壇とは、第八章第三節にあるように、玉座の前にある金の祭壇を指すと思われます。
もちろん、玉座とは主である父なる神の玉座です。
祭壇の下に集っていた魂の集団は、主に対して、「神の教えに沿っていた私たちを殺した者を裁いて、早く復讐をして下さい」と急かすように訴えるのですが、主は逆に、あなたたちと同じように、神の教えに沿っていた為に殺されてしまう人の数が満ちるまで、しばらく待つようにと諭します。
前回投稿した記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】でも言及しておりますが、白い衣を与えられるのは勝利を得た者です。
ですから、祭壇に集う魂達は、たとえ「異端の者」の汚名を着せられて殺されようとも、死してなお聖書に記された神の言葉のままに貫いたので、人間としての死後に勝利を得た者と認められました。
そして神は、勝利を得た者の数がまだ足りないので、一定の人数に達するまで待つように促すのです。
今しばらくの間は、地上の混乱は止まる所を知りません。
霊媒の話によると、イスラエルの拠点が開かれるのは、今からおよそ八千年後のこととなる(今後の展開次第では前後する)でしょう。





■ 巻物の第六の封印

イエスが第六の封印を開きます。
第六章第十二節には、大地震が起き、太陽が“毛の粗い布地のように”暗くなって、月は全体が血のようになるとあります。
続く第十三節には、天の星が地に落ちた様子を、「イチジクの青い実が、大風に揺さぶられて振り落とされる」ようだと表現しております。
第十四節では、天は巻物が巻き取られる様に消え去り、山も島も元の場所から移ってしまう程の天変地異が襲った様です。
第十五節では、その様な天変地異を受けて、地上の王から奴隷から、あらゆる立場の人々が洞穴や山の岩間に隠れます。
そして第十六節で、山と岩に向かって、主とイエスの怒りから私たちを守ってくれと、乞い願うのです。
続く第十七節には、神とイエスの怒りの大いなる日が来たとあり、誰がそれに耐えられるだろうかと問いかけております。
さて、ここまでで黙示録の第七章が終わるのですが、巻物の第六の封印を開いた時の記述は第八章へと続きます。
そこでここまでの内容を前半として簡単にまとめておくと、第六の封印とはスーダンの拠点を指しますので、恐らく天変地異に襲われる舞台の中心は、スーダンの拠点があるアフリカ大陸となるでしょう。
しかし、その影響がどの程度の範囲に及ぶのか、もしくは地球全土を覆ってしまうのかは、現時点では読み解けません。
但し、第十二節に太陽と月についての言及がありますので、これが大気汚染の描写であったとすると、全地球的な何らかの影響は避けられないでしょう。
それは第十三節にある、天の星が落ちる描写についても言えますし、第十四節にある、山や島の位置すら変わってしまうという、地殻変動を暗示する描写についても同様に言えます。
その頃に地上で暮らしている人々の大半は、自らの誤った行いを悔い改めるのではなく、洞穴や山の岩間に隠れて、目の前の天変地異をやり過ごすことくらいしか思いつきませんでした。

さて、第七章に入って第一節~第三節には、大地の四隅に天使が立っているのを見たとあります。
この天使達は、大地の四隅から吹く風を抑えて、大地や海や木に吹き付けないようにしていたそうです。
更にもう一人の天使が、生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上がってきます。
この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使、つまり第一節で大地の四隅に立っていると説明された天使に向かって、こう言ったとあります。
我々が、神の僕達の額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならないと。
そして第四節~第八節に掛けては、イスラエルの子らの全部族の中から十四万四千人が刻印を押されていたとあります。
ところが第九節では、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった大群衆が、白い衣をまとい、ナツメヤシの枝を手に持って、主とイエスの前に現れます。
ここで述べるイスラエルの子らという表現は、単純に「かつて神と契約を結んだアブラハムの子孫」という意味ではなく、どの様な苦境に遭っても神の言葉に沿ってきた者という意味でしょう。
たとえアブラハムの子孫であっても、神の言葉に沿っていない者は天使の刻印を受けられず、逆にアブラハムの子孫でなくても、神の言葉に沿っている者は天使の刻印を受けられます。
ちなみに『ヨハネの黙示録』では、巻物の第七の封印を開くと共に、裁きの時が訪れる構成になっているのですが、霊媒の話によると、第一~第六の封印を開いた時にも、毎回裁きの時は訪れているそうです。
そして裁きの時に先だって、天使が神の言葉に沿っている者に刻印を押して回るそうです。
今はちょうど第二の封印を開いたばかりで、裁きの時と言われる時代が始まったばかりですので、ひょっとすると、今この記事をご覧のあなたの所にも、天使が刻印を押しに訪れているのかも知れませんね。
尤も、仮に天使が皆様の元を訪れていたとしても、霊的能力を使える方でないと確認できないかも知れませんが。
いずれにせよ、イエスが巻物の七つの封印を開く度に、続けて裁きの時代を潜り抜ける仕組みになっている様です。
前回投稿した記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】でも簡単に述べましたが、霊媒の話によると、5月に観測された『環水平アーク』現象は、第二の封印を開いた時に起こる『神の裁き』の始まりを告げる天の印なのだそうです。
また、裁きの時には一体何が起きるのか、それから神の裁きの意味についても、今後投稿予定の記事で説明致しますので、それまで少々お待ち下さい。
続く第十節~第十二節にかけて、神とイエスを称える言葉が述べられます。
そして第十三節~第十七節では、長老の一人がこの様に述べます。
第九節で述べた、白い衣をまとう大群衆は、大きな苦難を通ってきた者で、その衣を小羊(=イエス)の血で洗って白くしたのだと。
それ故に彼らは神の神殿で仕えることになり、飢え乾き、暑さ寒さに襲われる心配もなくなります。
ここで注意したいのですが、これはイエスの死を持って贖罪されるという意味ではありません。
イエスの人生、そしてイエスの死の意味を正しく理解し、迫害に遭うことも厭わずにその行いを見習い、その行いの意味や価値を確信が持てるまでに昇華した状態を述べております。
「何をしても懺悔をすれば許される」とするのは悪魔の教えです。
また、白い衣をまとった大群衆が、神の神殿で仕えることになる云々の部分は、彼らはもはや人間として積まなくてはならない経験を一通り積み終えたので、これからは霊界の住人の一員として、神が人間に対して働きかける作業の一部を分担して担うことを示しております。
それに伴い、彼らが何故これまで人間としての苦難に塗れた経験を積み重ねてきたか、そして神は何を目指していて、その中で彼らはどの様な役目を求められているのかを知ることになります。
霊媒の話によると、スーダンの拠点が開かれるのは、今からおよそ一万二千年くらい後のこととなる(今後の展開次第では前後する)でしょう。





■ 第一~第六の封印までのまとめ

今回は第一~第六の封印が開かれるまでの流れを追いながら、六つの封印とは、『銀の紐』などで以前から述べてきた『霊界と地上界を繋ぐ拠点』であるという点について解説してきました。
この度、じっくりと『ヨハネの黙示録』を拝見してみて、特に第一~第四の封印を開いた時についての記述は非常に簡単でしたので、ちょっと呆気ないと思われる方がいらっしゃるかも知れません。
この文章を書いたヨハネと名乗る方は(イエスが見せた幻を記録したと述べておりますが)、第七の封印を開いた時に重点を置いているようですので、相対的に他の部分は簡単な説明に留めているようです。
やはり『最後の審判』の時だからなのでしょうか。

ともあれ、いよいよ次回は第七の封印を開く時について取り上げます。

Silvercord管理人 





なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご覧下さい。

閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/


上記記事の内容についてのご意見・ご感想・ご質問はコメント欄よりお寄せ下さい。
また、コメントを投稿される際は、記事【改めて、ご覧の皆様へのお願いと連絡事項】をご覧下さい。

2014年7月11日金曜日

『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)

前回投稿の記事【『環水平アーク』現象が示すもの[謎解き編]】にて、去る5月に観測された『環水平アーク』と呼ばれる虹の様な現象に関連して、霊界の住人の方から寄せられたメッセージの解読を試みました。
その際に、霊界の住人の方より「このイメージと『ヨハネの黙示録』を併せて読むと、より深く内容を理解できる」とのアドバイスがありましたので、今回から何回かに渡って『ヨハネの黙示録』の内容を読み解いてゆきたいと思います。





■ ヨハネの黙示録を読み込む為の準備

作業を始める前に、幾つか確認しておきたいことがあります。
ご覧の皆様もご存じのことと思いますが、『ヨハネの黙示録』は新約聖書に収められており、また新約聖書はキリスト教会の教典として扱われて来ました。
その為に、いわゆるキリスト教的価値観の大きな影響を受けた文章となっております。
しかし、これから解説するヨハネの黙示録の文面にも記されているように、キリスト教的価値観の影響により、ヨハネの黙示録に込められた本来の意味合いが歪められた状態のまま、今日まで伝わって来ました。
そこで、キリスト教的価値観によって装飾された記述を解釈し直すことによって、ヨハネの黙示録に込められたメッセージの核心に迫りたいと思います。

なお、これからご紹介する『ヨハネの黙示録』についての解説は、あくまで現時点における霊界の住人の方のアドバイスを参考に、管理人が文章に纏めて再構成したものです。
作業に当たっては、霊界の住人の方の助言と確認のもとに進めておりますが、霊界通信の特性により、「現時点で有効と思われる解釈である」と強調しておきます。
後ほどご説明致しますが、『ヨハネの黙示録』の構成が複雑であり、また『ヨハネの黙示録』は遙か過去の時代に書かれた文章でありながら、遙か後の世に伝え読まれることを想定した表現を用いております。
ですから、時代が移り変わって世の中の価値観が変わっても、ある程度意味合いが通じるように書かれているのですが、反面表現の曖昧さが誤った解釈に繋がってしまう可能性を秘めております。

そこで、実際に『ヨハネの黙示録』の解読に入る前に、最低限必要と思われる予備知識の確認をしておきましょう。
とはいえ、以前より『銀の紐』をご覧の皆様には既にご存じのことと思いますが、この度初めてご覧になる方に向けて、改めて簡単に説明致しますので、既にご存じの方は復習を兼ねて少々お付き合い下さい。





■ 『神の目的』及び『霊界と地上界を繋ぐ拠点』について

神様が人間に対して働きかけるのは、人間の霊的成長を促し、この宇宙に存在する全ての霊を神の境涯へ導く為です。
そして、神様が地球上に存在する全ての生命――特に自ら知的創造活動を行う人類に対して働きかける手段の一つとして、地球上の六カ所に『霊界と地上界を繋ぐ拠点』が作られました。
神様はこの拠点を通じて、管理人が「創造性と思考力を活性化させるエネルギー」と呼ぶ霊的エネルギーを霊界から地上界へ向けて流すことにより、人間の霊的成長を促す働きかけを行って参りました。
さて、地球上の六カ所にある『霊界と地上界を繋ぐ拠点』とは、以下の場所にあります。
東京、バチカン、米国もしくはカナダ(五大湖周辺)、チベット、エルサレム、スーダンの六カ所です。
そのうち、東京の拠点は人類が誕生する際に、六カ所の拠点の最後に開かれて以来、現在までずっと開かれたまま機能しております。
その他の五カ所の拠点は、人類が誕生する際には開かれていたものの、その後順次閉じられ、次に必要とされる時が来るまで閉じられたままとなっておりました。
そして去る2011年の12月に、二番目となるバチカンの拠点が開かれました。
それまでは東京の拠点一カ所から全世界へ向けて送られていた霊的エネルギーは、現在では東京とバチカンの二カ所の拠点から、全世界へ向けて送られております。
ここまで『霊界と地上界を繋ぐ拠点』について、簡単に説明してきましたが、それぞれの拠点には霊界から送られた霊的エネルギーを一旦受け取って、人間に馴染むように性質を変換して送り出す役割――霊媒Mや管理人が『覡(かんなぎ)』と呼ぶ役割の方がおります。
東京の拠点の覡は歴代の天皇が務め、バチカンの拠点の覡は歴代のローマ教皇が務めます――とはいえ、バチカンの拠点は開いたばかりですので、実際に覡を務めているのは先代の教皇からです。
現在は閉じている四カ所の拠点には、今のところ覡を務めている方はおりません。
しかし、遙かな昔に閉じられた拠点の守人を委ねられ、いずれ必要とされる時期に拠点の覡を産み出す苗床となる種族が各拠点ごとに居り、各々の拠点が開かれるまで雌伏の時を過ごしております。

関係する参考資料としては、以下をご覧下さい。
『銀の紐を越えて』掲載記事【『霊界と地上界を繋ぐ拠点』と日本の役割について(メッセージ107)】
『銀の紐を越えてα』掲載記事【宇宙の構造と神々や人間が目指すもの[メッセージ修正版01]】
『銀の紐を越えてα』掲載記事【霊界と地上界を繋ぐ拠点と霊的エネルギーの役割[メッセージ修正版02]】





■ ヨハネがアジア州にある七つの教会に向けて書いた手紙

これから、実際に『ヨハネの黙示録』の文面を追いながら、その言葉に秘められた意味合いを繙いてゆきます。
諸般の事情により、聖書に記されている文章を、記事の中で直接引用は致しません。
その代わりとして、実際に『ヨハネの黙示録』を読みながら、「概ね~の様に述べている」というように、文章の概要を紹介しながら解説を進めてゆきますので、記事に目を通すだけでも内容をご理解頂けるのではないかと思います。
しかし、実際に『ヨハネの黙示録』を読み込んでゆくと、細かな表現にも特定の意味合いを込めている様に感じますので、もし可能な環境でしたら聖書を手元に置いて頂いて、この解説と聖書の文面を照らし合わせてゆくと、一層理解が深まるのではないでしょうか。

さて、『ヨハネの黙示録』の冒頭には、神様から知らされた将来に起こる出来事の幻を、イエスが天使を通じてヨハネに見せたと、この文章が書かれた目的が示されております。
そして、アジア州にある七つの教会に手紙を送るように指示されておりますが、ここで示されている七つの教会とは、上の予備知識で説明した『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を指すのだと、霊界の住人は述べております。
しかし、先程『霊界と地上界を繋ぐ拠点』は世界中に六カ所あると述べましたので、アジア州にある七つの教会には一カ所足りません。
そこで改めて霊界の住人に伺った所、『霊界と地上界を繋ぐ拠点』六カ所+αの、計七者に対するメッセージなのだそうです。
この+αの正体については、記事を読み進めるうちに明らかになってゆきます。
また、七つの教会に向けて書かれた手紙は、いずれも教会の天使宛となっております。
天使とは神の使いであり、神と直接の繋がりを持って神の御用を補助する者ですから、主に『霊界と地上界を繋ぐ拠点』の覡と守人に向けたメッセージと受け取れば良いでしょうか。

では、アジア州にある七つの教会に向けて書かれた手紙の内容を、順番に見てゆきましょう。





■ エフェソにある教会の天使への手紙

第二章の最初に、エフェソにある教会の天使に向けた手紙が示されております。
第二節では使徒と偽る者を見抜いたと記され、第三節ではイエスの名の為に我慢をしたと記されております。
さて、「イエスの名の為に」とは、どういう事なのでしょうか。
これは、イエスの名によって代表される宗教と言うことで、キリスト教とその拠点であるバチカンを指しているのでしょう。
つまり、キリスト教を維持する事によって、神の言葉を記した聖書を後の世に伝え、また神が地上界に直接働きかける為の拠点であるバチカンを守り抜いたと言う意味ではないでしょうか。
しかし、第三節では初めの頃の愛がなくなってしまった=キリスト教が形骸化して、神の言葉を見失ってしまったと指摘し、第四節では悔い改めて初めの頃の行いに立ち戻るよう、諭しております。
更に、悔い改めなければ、あなたの燭台を取りのけてしまうと述べております。
第一章第十九節には、七つの燭台は七つの教会であるとあり、前の項で述べたように教会とは『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を指しますので、悔い改めなければバチカンの拠点を取りのけてしまうと言う意味でしょうか。
『霊界と地上界を繋ぐ拠点』としての機能の核心は覡にありますから、本来の神の言葉を見失ってしまったキリスト教の聖職者達に囲まれた、ローマ教皇の不安定な立場を暗示しているような表現です。
続く第六節では、ニコライ派の者達の行いを憎んでいるのが取り柄だと述べております。
イエスも憎んでいるというニコライ派の行いとは何でしょうか。
ここまで読み進めてきた皆様でしたら、何となく想像できるのではないかと思いますが、言わばキリスト教とは、バチカンの拠点が開かれる時まで、神の言葉を記した聖書とバチカンの拠点を維持し、それら全てを後の世に伝えてゆく為の箱船であり、またバチカンの拠点が開かれた後は、神様が人間の成長を促す為の働きかけを行う為の重要拠点として機能します。
そのバチカンの拠点を放棄し、神様の意向を無視して勝手に『神の使徒』と称して人心を惑わす、プロテスタント、東方教会などの諸教派こそが、イエスも憎んでいるというニコライ派の正体です。
そしてエフェソにある教会への手紙の最後には、勝利を得る者には神の楽園の命の木の実を食べさせると述べて終わるのですが、これはどういう事でしょうか。
神の楽園と言えば、旧約聖書の創世記に記されたエデンの園を思い浮かべます。
そこで創世記を見ると、第三章二十二節には、命の木の実を食べると永遠に生きるものになるとあります。
勝利――つまり悪魔サタンに勝利すると、神の楽園に迎えられて永遠に生きるものになると、バチカンの拠点の覡や守人達に述べているのです。
そこで、神の楽園や永遠の命についても気になる所ですが、その説明は後ほど行うとして、次の手紙を見てゆきましょう。





■ スミルナにある教会の天使への手紙

二通目は、スミルナにある教会の天使に宛てた手紙です。
第二章第九節~第十節にかけて、スミルナにある教会の天使が置かれている状況が述べられております。
苦難と貧しさの下に置かれ、また自らをユダヤ人と名乗る者によって非難されているようです。
それは一体誰なのかと、霊界の住人の方に伺ってみると、アブラハムの子孫を指すのだそうです。
旧約聖書の創世記にも記されているように、神様との間に永遠の契約を結んだ、あのアブラハムの子孫達です。
そして、自らをユダヤ人と名乗っているが、実はユダヤ人を騙ってサタンに与する者に虐げられているようです。
と言うことで、スミルナにある教会とは、今は閉じているエルサレムの拠点を指します。
そして恐らく、今のエルサレムを統治するイスラエル国の内情を調べてみると、アブラハムの子孫とは誰なのか、そしてユダヤ人を騙る悪魔サタンの仲間は誰なのかが想定できそうな気はしますが、ここではご覧の皆様の想像にお任せして、先へ進みます。
さて、イエスはスミルナにある教会の天使に対して、苦難や貧しさの中に置かれていても、本当は豊かなのだと述べております。
貧しくても豊かとはどういう事でしょうか。
アブラハムの子孫達は、かつて神との間に結んだ契約に基づいて、『霊界と地上界を繋ぐ拠点』のうち、エルサレムの拠点の守人としての務めを全うして来ました。
ですから、物質的・経済的には貧しい環境に置かれていても、かつて契約を交わした神様との繋がりにおいては豊かであると言うことです。
そしてアブラハムの子孫達は、悪魔の試みによって、これからも様々な苦難を乗り越えなくてはなりません。
彼らのうちの一部は牢に放り込まれ、十日の間苦しめられるだろうと告げられております。
更にイエスは、アブラハムの子孫に対して、それでも死に至るまで(神との契約に対して)忠実であるように求めております。
そうすれば命の冠が与えられるそうなのですが、それは人間として死後に果たされると思われます。
ですから、第十一節で述べているように、勝利を得る者は第二の死から害を受けることはないのでしょう。
そこで第二の死とは何を指すのか、気になる所ではありますが、この点については後ほど説明することとして、次の手紙を見て参りましょう。





■ ペルガモンにある教会の天使への手紙

三通目は、ペルガモンにある教会の天使に宛てた手紙です。
第十三節にて、冒頭イエスは、そこにサタンの王座があると述べております。
また、私の忠実な証人としてアンティパスの名が上げられておりますが、wikipediaによりますと、この人物ヘロデ・アンティパスは、ユダヤがローマ帝国の保護国であった時期からユダヤ属州となった時期に、属州から免れたユダヤの分割領土を治めた領主だそうです。
つまり、ペルガモンにある教会とは、かつてどこかの国の保護国か植民地であり、後にその土地の領主が殺されて、サタンが王国を築いた場所です。
私の名をしっかり守って、私に対する信仰を捨てなかったとのことですので、その様な状態にあっても『霊界と地上界を繋ぐ拠点』の守人としての務めを果たし続けているのでしょう。
さて、霊界の住人によると、そこは米国なのだそうです。
そこで改めて調べてみると、米国には『イロコイ連邦』という、オンタリオ湖南岸からカナダに跨がって保留地を領有する、六つのインディアン部族による部族国家集団があるのだそうです。
現時点では、米国の拠点は五大湖周辺にあるだろうという程度の確認しか取れておりませんが、この『イロコイ連邦』を構成する部族が米国の拠点の守人である可能性はありそうです。
しかし第十四節で、イエスはあなたに対して言うべき事があると述べております。
ここでバラムとバラクという人物が出て来ますので、簡単に説明しておきましょう。
旧約聖書の民数記第二十二章~第二十五章にて一連の事件が語られ、民数記第三十一章では事件の真相が述べられております。
占い師バラムが、イスラエルの民を主に背かせる為に女たちを唆したと言うエピソードが、ここでイエスの警告する意図を理解する助けとなります。
黙示録に戻って、第十四節を読み進めてゆくと、彼らに「偶像に捧げた肉を食べさせる」とあります。
これは霊界の住人によると、悪魔を信奉し、その恩恵に預かることを指すのだそうです。
本来なら受け取れる立場にないものを、当然の権利とうそぶいて強引に奪い取ったり、正当な手順を踏まずに、身勝手な解釈で物事を推し進める行為、不正な手段によって富を独占するといった行為や、物の考え方を表しているそうです。
それらの、生命力を衰えさせる行為は、偶像に捧げた肉を食べる行為に等しく、迫害や価値観の押しつけなどは邪悪な行為とされます。
逆に、神の教えに沿った行為とは、生命力を豊かに強くするものなのだそうです。
ですから、米国の拠点の守人達の中には、神の教えに背かせようとするバラムの唆しに乗せられている者がいるということなのでしょう。
また民数記で、占い師バラムに頼んでイスラエルの民に呪いを掛けようとしたモアブ人のバラク王と、アメリカ合衆国大統領バラク・オバマ氏の名前と立場が一致するのは、単なる偶然の為せる業なのでしょうか。
更に第十五節へ読み進むと、エフェソにある教会への手紙と同様に、ここにもニコライ派が出て来ます。
米国の宗教事情を調べてみれば、さもありなんという所でしょうか。
その様な状態ですので、第十六節でイエスは悔い改めよと呼びかけ、改めない者に対しては私の口の剣で戦おうと述べております。
口の剣とは、口から発するもので、悔い改めない者の言い分を「間違っている」と証明することによって断ち切るものであり、それはイエスの口から発するものでなくてはなりません。
その様に考えてゆくと、恐らく「聖書に記されたイエスの言葉が、後に実現することによって、物事の真偽が明らかにされる」という意味でありましょうか。
続く第十七節には、勝利を得る者には隠されていたマンナを与えるとあり、また白い小石を与えるとあります。
その白い小石には、受け取る者の他には誰にも分からない新しい名が記されているとありますが、マンナ、そして新しい名が記されている白い石とは何でしょうか。
マンナとは、旧約聖書の出エジプト記第十六章に出てくる、主がイスラエルの民のために天から降らせたパンを指すようです。
それは砂漠で飢えていた民の命を長らえる生命力を象徴します。
そして白い小石とは、古代ローマでは裁判の判決に白い小石と黒い小石を用いて投票することにより、被疑者の無罪・有罪の判断をしていたそうです。
また、その白い小石には、これを受ける者の他には誰も分からない、新しい名前が記されているとあります。
第十三節にも、あなたは私の名前をしっかり守ってきたとありますが、勝利を得る者に与えられる白い石には、別の新しい名前が記されているそうです。
それはつまり、米国の拠点はキリスト教とは異なる者によって開かれるけれども、その新しく開かれた拠点の覡はイエスと繋がっていると言うことなのではないでしょうか。





■ ティラティアにある教会の天使への手紙

四通目は、ティラティアにある教会の天使に宛てた手紙です。
第十九節には、イエスの行いや愛、信仰、奉仕、忍耐を知っているとあり、更に、近頃の行いが最初の頃の行いに優っていると、ここまでの三通と比べると絶賛と言っていい褒め具合です。
しかし、イゼベルという女のすることを大目に見ているのは問題であると指摘しております。
霊界の住人によると、ティラティアにある教会とは日本の拠点であり、またイゼベルという女は朝鮮を指すのだそうです。
ここまでの三通は、いずれもキリスト教と歴史的な関わりのある土地の拠点について取り上げられてきましたが、キリスト教的価値観から見ると、何故黙示録の中に日本と朝鮮が現れるのか、少々不可解な気がします。
しかし、ティラティアにある教会を日本と仮定して第十九節を読み返すと、近頃のあなたの行いが最初の頃より優っているとありますが、これは明治天皇以降の歴代天皇は、拠点の覡としての役割分担が増している点と符合すると考えると、何だかしっくり当て嵌まるような気がしませんか。
この様に、一通りヨハネの黙示録の解説をご覧になることによってご理解頂けると期待して、話を先へ進めましょう。
そして、改めてティラティアにある教会への手紙を眺めると、イエスが諫めているのはイゼベルの行いと、イゼベルに惑わされている人々であって、ティラティアにある教会の天使に対しては、イエスがそこへ行く時まで今持っているものを固く守るように述べております。
つまり、ティラティアにある教会の天使については、イゼベルの扱い以外は全て正しいので、その状態を維持するようにと言っているのです。
それに加えて、イゼベルという女に関連して、以下のように述べております。
イゼベルは自分が預言者=神の言葉を聞けるのだと偽って、イエスの教えを信仰する者を騙し、惑わせて、『偶像に捧げた肉を食べさせている』とあります。
ここで、ペルガモンにある教会への手紙にあった『偶像に捧げた肉を食べさせている』という表現が、再び出て来ました。
つまり、イゼベルという女は預言者と偽っているものの、実は悪魔を信奉し、その恩恵に預かっている者だと言うことです。
第二十一節には、イエスがイゼベルに悔い改める為の機会を与えたとありますが、この機会とは日本が朝鮮を併合した時代に当たるそうです。
しかし、それでもイゼベルは悔い改めません=日本統治時代の経験に何も学べなかったのでした。
イエスはこの様に続けます。
イゼベルを床に伏せさせ、またイゼベルと共に淫らな行いをする者達も、“その行いを悔い改めないなら”酷い苦しみに遭わせようと述べております。
イゼベルが床に伏せさせられるのは、既に確定しております。
しかし、イゼベルと共に淫らな行いをする者=日本国民でありながら朝鮮に与している者には、その行いを悔い改める為の猶予が、まだ残されております。
その機会を有効に活かして悔い改めるのか、あるいは悔い改めず苦しみに遭わされるのかは、本人の判断に委ねられております。
続く第二十三節には、イゼベルの子供達を打ち殺そうとあります。
今後どの様な経緯を辿るのかは分かりませんが、自らサタンの行いに明け暮れ、悔い改める機会を活かせなかったイゼベルは、やがて何らかの形で子孫を無き者とされることになるのでしょう。
そして、全教会=世界中の人々――は、イエスが人の思いや判断を見通す者だと言うことを悟るようになると述べ、あなた方が行ったことについて一人一人に報いよう=全ての因果が誰の目にも分かりやすく巡ると述べております。
第二十四節には、ティラティアの人達=日本国民の中で、イゼベルの教え=悪魔を信仰し、その恩恵に預かることを受け入れず、サタンの奥深い秘密=サタンの本性や性質を知らない人々には、別の重荷を負わせない=イゼベルによる迷惑行為以外の負担は負わせない――とあります。
ティラティアにある教会の天使は、今持っているものを頑なに守っていれば、イエスがイゼベルの行いに見合った結末に導いてくれるそうです。
そして第二十六節~第二十八節にかけて、イエスは勝利を得る者に、諸国の民の上に立つ権威を授けると述べております。
それはかつて父なる神がイエスに授けた権威であり、それがここで勝利を得る者に受け継がれることを示しております。
この点については、ヨハネの黙示録の解説を全て終えてからの方が、すんなりとご理解頂けると思いますので、説明を保留にして次の手紙を見ていきましょう。





■ サルディスにある教会の天使への手紙

五通目は、サルディスにある教会の天使に宛てた手紙です。
第三章第一節で、早くもあなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいると述べております。
続く第二節で目覚めを促されているので、文字通り死んでいるのではなくて、『霊界と地上界を繋ぐ拠点』の守人として、全く機能していないと言うことなのでしょう。
死にかけている残りの者達を強めよとありますので、拠点の守人としての役割に支障が出る程深刻な影響が現れている様子が伺えます。
そこで第三節では、どの様に(拠点の守人の役目を)受け、(その役目の意義を)聞いたかを思い起こして、(拠点を)守り抜くように、悔い改めよとイエスに諭されております。
そして、目を覚まさないものに対して、イエスは盗人のように行くと述べております。
別に、誰にも気づかれないように、抜き足差し足でこっそり現れると言うだけでなく、盗人が盗み取るようにして、本人の知らないうちに拠点の守人としての役目を剥奪するという意味です。
さて、この様にして、イエスから見ると目も当てられないような酷い有様の守人達のいる、サルディスにある教会とは、一体どこでしょうか。
霊界の住人によると、サルディスにある教会とは、アフリカのスーダンにある拠点を指すのだそうです。
こちらの拠点は、世界に六カ所ある拠点の中で一番最初に開いた拠点であり、人類が誕生した後に一番早く閉じた拠点です。
そして、これから時間の経過と共に順次開いてゆく拠点のうち、一番最後に開く拠点となります。
さて、スーダンの現状をご覧になれば、イエスにこの様な評価をされてしまうのは、致し方ないのではないでしょうか。
しかし第四節では、少数ながら衣を汚さなかった者=拠点の守人としての務めを果たしている者がおり、白い衣を着てイエスと共に歩くと述べております。
そして第五節では、勝利を得る者は白い衣を着せられること、そして命の書から名前を消されることはなく、神や天使の前で公表すると述べております。
命の書とは、ヨハネの黙示録第二十章第十二節~第十五節に、命の書に名前のないものは火の池に投げ込まれたとあり、この火の池が第二の死とありますので、ここで勝利を得る者は第二の死を免れることになります。
第二の死については、スミルナにある教会への手紙にも言及がありますので、まとめて後ほど解説したいと思います。





■ フィラデルフィアにある教会の天使への手紙

六通目は、フィラデルフィアにある教会の天使に宛てた手紙です。
第三章第八節では、イエスがフィラデルフィアにある教会の天使の前に門を開け、その門は誰も閉めることが出来ないと述べております。
そしてあなたは力が弱いけれども、イエスの言葉を守り、イエスを知らないとは言わなかったとあります。
霊界の住人によると、フィラデルフィアとはチベットを指すのだそうです。
そこで改めて第八節をチベットの歴史と照らし合わせてゆくと、興味深い事実が明らかになってゆきます。
七世紀頃の吐蕃王朝成立を持って、実質的なチベット国の建国と見なされているようですが、以後、モンゴルや明との関わりは冊封と朝貢により、また内政は不安定な時期が続くようです。
その後、十七世紀になってダライラマ政権が確立すると、内政は安定化していきますが、明に変わって台頭する清に征服されてしまいます。
清朝の滅亡後、チベットは独立を宣言してダライラマ政権を樹立しましたが、後に中華人民共和国によるチベット侵攻により征服されて、現在に至ります。
ここで強調しておきたいのは、清によるチベット支配は、チベット仏教とダライラマに対する一定の配慮を示しておりましたが、中華人民共和国は今もなおチベット仏教とダライラマを徹底的に弾圧しております。
そして現在、ダライラマ法王はインドに亡命政権を樹立するとともに、世界的に著名な仏教指導者の一人として活動しております。
そんなダライラマ法王の活動の一かけらを、当Blogでも記事【ダライラマ法王を拝見して】にて紹介しました。
以上を考慮して再び第八節に目を向けると、イエスによって開けられた門によって、ダライラマ法王はインドへの逃亡を余儀なくされ、中共の侵略によりチベットの民は塗炭の苦しみを受けております。
それは力が弱いから避けられないのだけれども、私の言葉を守り、私の名を知らないとは言わなかった=チベットはキリスト教を信仰しているわけではないけれども、彼らのチベット仏教の本質はイエスの言葉に通じていて、なおかつ中共の弾圧にも負けずに自らの信仰を守り続けていることを示しております。
そして第九節では、サタンの集いに属していて、自分がユダヤ人だと述べる者が出て来ます。
それはユダヤ人だと偽っているのですが、イエス自身がフィラデルフィアの天使を愛していると話して、足下にひれ伏すようにすると述べております。
そういえば、ユダヤ人を騙ってサタンの集いに属する者は、スミルナにある教会への手紙にも出て来ました。
彼らはアブラハムの子孫を非難しておりますが、いずれチベットの拠点が開かれる頃になると、自らの過ちを自覚してひれ伏すようになるのでしょうか。
次の第十節では、イエスはよく忍耐したとねぎらい、地上に住む人々を試す為に全世界で起ころうとしている試練から守ろうと述べております。
この点については、次の章以降で詳しく説明致しますが、この場では、いわゆるキリスト教的価値観で言う神の審判のことを指しているとだけ、述べておきます。
続く第十一節では、栄冠を誰にも奪われないように、持っているものを固く守るように述べております。
つまり、これまでの行いの中で既に栄冠を得ているので、それをきちんと守るようにと、念を押されているのです。
更に第十二節には、勝利を得る者を神の神殿の柱にすると述べております。
続けて、もう決して外へ出ることはないとありますが、これは二重の意味合いを持たせているのでしょう。
一つ目は、ここで勝利を得る者は、その後人として地上に生まれることはなく、神の神殿の柱=神の目的を神の傍で補佐するようになるという意味でしょう。
そして二つ目は、チベット国が再建されてダライラマ法王が帰還し、その後チベットの拠点が開かれる事になるので、今後のチベット国再建の後は、二度とチベット国が他国の脅威に襲われないという意味でしょう。
だからこそ、イエスの神の名と、イエスの神の新しい都の名そしてイエスの名を書き記すことになるのではないでしょうか。





■ ラオディキアにある教会の天使への手紙

ここまでに六通の手紙を見てきましたが、いずれも『霊界と地上界を繋ぐ拠点』の守人に宛てた手紙であると言うのが、当Blogの見解です。
そして、記事の冒頭で説明しましたように、世界には六カ所の『霊界と地上界を繋ぐ拠点』があります。
しかし、イエスはヨハネに、七通の手紙を送るようにと指示しておりました。
それでは、残る一通の手紙、ラオディキアにある教会の天使とは、一体何を指すのでしょうか。
第三章第十五節~第十六節では、イエスが、あなたは冷たくも熱くもないと述べております。
冷たいか熱いかのどちらかであって欲しいが、生温いので、あなたを口から吐き出そうとしているそうです。
これは一体どういう事でしょうか。
次の第十七節では、私は金持ちで満ちたりていると言っている人に対して、自分が惨めで、哀れで、貧しくて、目が見えなくて、裸であることをわかっていないと指摘しています。
お金や物を集めて満足する、言わば「物質的な充足を重視する価値観」は、イエスから見ると貧しいと言うことです。
記事の冒頭で「神の目的」について簡単に説明しましたが、人間を含む全ての霊的な存在を神の境涯へ導くのが神の目的なのですから、物質に拘っている間はいつまでも神の境涯には近づけません。
と言うことで、ラオディキアにある教会の天使とは、前の六通に当て嵌まらない(私たちやこの記事をご覧の皆様を含めた)全ての方を対象としていると思うのですが、いかがでしょうか。
そう考えると、第十五節~第十六節についても、物事の善し悪しや正邪の違いはともかく、『霊界と地上界を繋ぐ拠点』の守人達や、逆にサタンとそれに集う者達は、何らかの明確な信念や目的意識を持っていますが、それ以外の方は、明確な考えもなく、周りの様子を見て右往左往しているだけだとイエスは見ていることになります。
つまり、私たちやご覧の皆様のうちの多くの方にとって、この後に述べられている事はとても気になります。
第十八節では、イエスは次のことを勧めております。
一つ目は裕福になるように、火で洗練された金をイエスから買うように。
ここでイエスは、あなたが貧しいのは不純物が混ざった原石だからなので、火で洗練された金のように、あなたを裕福にしようと訴えかけております。
二つ目は裸の恥を晒さないように、身につける白い衣を買うように。
ここで述べている白い衣とは、サルディスの教会への手紙で、勝利を得る者が着る白い衣です。
イエスのアドバイスを活かせば、あなたにも勝利を得る者への道が開けます。
三つ目は見えるようになる為に、目に塗る薬を買うように。
イエスは、物質が見えていても目が見えていないのと同じ――物事の道理が見えるように、目に見える薬を買いなさいと述べています。
この目に塗る薬とは、例えば聖書を指すのだと思いますが、当Blogやご覧の記事が目に塗る薬の処方箋の極一部として皆様に感じて頂ければ、記事を投稿する意義はあったと思います。
ですから、第十九節でイエスは、愛する者を叱ったり、鍛えたりしながら洗練させてゆくので、手紙を送られた皆様に悔い改めて、熱心に努めるように訴えております。
第二十節では、イエスは戸口を叩いて、あなたが気づくのを待っているので、あなたが気づいて扉を開けさえすれば、イエスも共に食事をする、つまり共に歩むと述べております。
第二十一章では、勝利を得る者を、イエス自身の座に共に座らせる――つまり今後はイエスと共に霊界から働きかけるようになると述べております。
それは、かつてのイエス自身も、父なる神の支えによって玉座に着いたので、それと同じ事なのだそうです。

一言でまとめれば、ラオディキアにある教会の天使と表現されている大多数の人々に対して、イエス自身が助力をして導くので、自分自身を鍛えて下さい。
それが成し遂げられた暁には、私イエスの同志として共に活動することになります――その様に訴えかけていることになります。
さて、イエスの訴えかけに対して、ご覧の皆様はどの様に答えられますか。





■ ヨハネの黙示録は、イエスから現代を生きる人々へのメッセージ

ここまでは、ヨハネの黙示録の第一章~第三章にかけての解説をお届けしましたが、ご覧の皆様にとっても気になる疑問があるのではないでしょうか。
その一つは、冒頭のアジア州にある七つの教会の天使に宛てた手紙が、何故現代を生きる私たちへのメッセージなのか、と言う点だと思います。
詳しくは、今後黙示録の流れを追っていく中から徐々に明らかにしてゆきたいと思いますが、この場で簡単に説明すると、ヨハネの黙示録の第五章からの記述は、日本で言う明治時代以降の行く末を大まかに述べております。
そして、ヨハネの黙示録は新約聖書に束ねられておりますので、キリスト教を通じて伝えられる物であり、またバチカンの拠点開放と重要な関わりを持っております。
つまり、2011年にバチカンの拠点が開かれましたので、いよいよ審判の時期が始まります。
そして、記事【『環水平アーク』現象が示すもの[謎掛け編]】【同[謎解き編]】で取り上げた霊界の住人のメッセージは、ヨハネの黙示録の内容とシンクロしており、また5月に見られた環水平アーク現象は、審判の開始を告げる空の印なのだそうです。

次回以降にて、審判の時期がどの様に進んでゆくのか、そして審判の結果どうなってしまうのかなどについて、黙示録の文面を辿りながら徐々に明らかにしてゆきたいと思います。

Silvercord管理人 





なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご覧下さい。

閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/


上記記事の内容についてのご意見・ご感想・ご質問はコメント欄よりお寄せ下さい。
また、コメントを投稿される際は、記事【改めて、ご覧の皆様へのお願いと連絡事項】をご覧下さい。

2014年6月27日金曜日

『環水平アーク』現象が示すもの[謎解き編]

前回投稿した記事【『環水平アーク現象が示すもの[謎掛け編]】から、しばらく時間を置きましたが、霊界の住人の方からお寄せ頂いたメッセージの意味を、ご覧の皆様はどの様に読み解かれましたか。
今回は[謎解き編]と題して、霊界の住人の方にお寄せ頂いたメッセージの意味を解読してゆきましょう。

最初に、前回紹介した霊界の住人の方のメッセージを、改めて再掲します。





■ 霊界の住人の方のメッセージ(再掲)

手を石鹸で洗って水で濯ぐと、濯いだ水滴が落ちます。
その下は一面が水で覆われていて、水滴が水面に落ちると、水面に波紋が広がりながら緑に変わってゆきます。
更に、一面を覆った緑の奥から、澄んだ水が止めどなく湧き出て来ます。

上から真っ黒に汚れた水滴が落ちてきて、澄んだ水で覆われた水面に当たります。
しかし、一面の澄んだ水に比べて、黒く汚れた水滴は小さすぎるので、その汚れた水滴だけで一面の澄んだ水面を汚すことは出来ません。
実は、澄んだ水面を汚そうとして、ワザと黒く汚れた水滴を落とした者がいたのですが、一滴の汚水だけでは汚せないので、ムキになって沢山の水滴を落とします。
水滴を落とすと言っても、まるで全身に黒い水の衣を羽織っているようで、その身体から黒い滴が止めどなくしたたり落ちています。
しかし、黒い水滴が澄んだ水面に落ちた瞬間、薄黒くモヤモヤッと広がりますが、すぐに浄化されてしまいます。
黒い水滴を落とした者は、怒って澄んだ水を干上がらせて、その場を自分が落とした黒い水滴で満たします。
しかし、そこは澄んだ水が止めどなく湧き出る泉だったので、瞬く間に黒い水滴を外に洗い流してしまいます。

そして、止めどなく澄んだ水が湧き出る泉は山の頂上にあったので、泉の澄んだ水によって外に押し出された黒い水は、山の麓を丸く取り囲むようにして溜まっています。
更に山頂の泉から、澄んだ水が麓の方に溢れてゆき、やがては麓を囲んでいた黒い水も徐々に浄化してゆきます。
黒い水滴を落としていた者は、幾ら澄んだ水を汚して黒く染め上げようとしても、それが無理であることにやっと気づいたので、居心地が悪くなってその場を立ち去ってしまいました。

黒い水滴を落としていた者は、そうすることが自分にとって居心地が良かったので、自分の周りを全て黒く汚れた水で満たそうとしました。
周りの者は一時的にそれを受け入れたのですが、やがて居心地が悪くなって、とうとう黒い水で満たすことを拒絶しました。

黒い水を落としていた者は、別の山に行っては同じ事を繰り返して、ついに七度目を失敗で終えた時、一番最初に交わされていた契約に基づいて裁きを受け、全てが洗浄されます。

(2014年5月12日~6月2日)





続いて、このメッセージの内容を解読する為に必須となる、キーワードの解説です。

  • 石鹸で洗っているのは、神の手です。
  • 水滴・水・泉は、霊的エネルギーです。
  • 神は霊的エネルギーを媒介として、生命力を豊かにする働きかけを行います。
    (神が手を洗った時に落ちた水滴が、水面を緑に変えてゆくので)
  • 澄んだ水は神が働きかける霊的エネルギーで、黒い水は神の働きかけと相反する霊的エネルギーです。
  • 山の山頂は霊界で、麓は地上界です。

更に、以前『銀の紐を越えて』などに投稿した以下の記事を参考にして、霊界の住人の方のメッセージを、時系列に沿って分かりやすく書き直してみましょう。

『銀の紐を越えて』掲載記事【『霊界と地上界を繋ぐ拠点』と日本の役割について(メッセージ107)】
『銀の紐を越えてα』掲載記事【宇宙の構造と神々や人間が目指すもの[メッセージ修正版01]】
『銀の紐を越えてα』掲載記事【霊界と地上界を繋ぐ拠点と霊的エネルギーの役割[メッセージ修正版02]】





■ 霊界の住人の方のメッセージが示す物語

現在よりも遙か昔のこと、神様と共に霊界から地上界への働きかけに携わっていた、神の使いの中の一人が、神様に向かって言いました。
使「神様、今のやり方よりも素晴らしい方法を考えました。
こちらの方がより良い結果に繋がると思うので、新しい方法に変えましょう」
神「今の方法を続けるには、それなりの理由があるのですが……」
使「でも、今のこんなにまどろこしい方法より、こちらの方が絶対に良いはずです。
だから、すぐに新しい方法に変えましょう」
神「そんなに言うなら、あなたが自分でやりたいようにやってみなさい。
合計七回まで、試す機会を与えましょう。
但し、七回試しても上手く行かなかったら、あなたは今までに学んできたはずの智慧をまるで理解していなかったことになるので、また一から学び直すことになります。
それでも、自分の考えた方法を試してみますか」
使「わかりました。
もし自分で考えた新しい方法の方が正しいと証明できたら、神様もこちらの方が正しいと認めて、今までのやり方を改めて下さいね」
神「いいでしょう」
そうして、神の使いの一人は神様の元を離れて、自分で考えた新しい方法で地上界に働きかけることとなりました。
従来、神様は霊界と地上界の間に専用の道を作って、その道に特定の作用をもたらす霊的エネルギーを流し込むことによって、地上界に対し働きかけて来ました。
そこで、神の使いは霊界と地上界を繋ぐ専用の道に目をつけて、そこに流す霊的エネルギーを変えてしまえば良いと思いつきました。
神様より自分の方が正しければ、自分が働きかける霊的エネルギーで地上界が満たされるにつれて、きっと地上界も今までよりずっと素晴らしい所になるはずだ。
神の使いは試行錯誤の末、専用の道の霊界側の入口を占拠しました。
そこから地上界に向けて、自分が働きかける霊的エネルギーを流そうと準備を始めたのですが、神様が働きかける霊的エネルギーが流れ込まないように堰き止めた封が切れて、勢い余って溢れ出してきました。
神の使いは、自分で働きかけられる霊的エネルギーの量に限界があったので、 ある程度の量が溜まるまで待っていたのですが、そこに勢い込んで流れてきた神の働きかける霊的エネルギーに押されて、そのまま専用の道を伝って地上界に落ちて行ってしまいました。
使「せっかく溜めていたのに、何ということでしょう」
神の使いは怒ったり呆れたりしておりましたが、ふと地上界の方を見ると、先程まで自分が溜めていた霊的エネルギーが、地上界に満ちてゆく様子が分かりました。
使「自分の霊的エネルギーは充分に溜められなかったけど、それでも地上界に満ちているじゃないか。
もしかしたら、これだけでも地上界に働きかけるには充分じゃないだろうか」
そう思った神の使いは、一旦霊界を後にして、地上界へ様子を見に行きました。
使「やった!
地上界が自分の働きかけた霊的エネルギーに満ちているじゃないか。
これで地上界も変わって、神様も自分の誤りに気づくはずだ」
一旦は自分の試みが成功したと思った神の使いですが、それも束の間のこと、尚も霊界から専用の道を通じて、神様の働きかける霊的エネルギーが地上界に注がれ続け、瞬く間に自分が働きかける霊的エネルギーが押し流されて、何処へと雲散霧消してゆきます。
それから程なく、地上界は神様の働きかける霊的エネルギーに満たされてしまいました。
使「どうやら今回は失敗したみたいだ。
でも、神様は七回も試す機会をくれたのだし、今回の失敗で問題点も分かった。
次こそ成功させよう」

それから、神の使いが失敗の原因を分析した所、既に使われている専用の道を、途中で借りようとしたことが問題ではないかと思いつきました。
神様は、地上界に暮らす人々の成長段階に合わせて、霊界と地上界を繋ぐ専用の道を開いたり閉じたり操作していて、これから一つずつ順番に専用の道を開いてゆくので、道が開く時を狙えば上手く行くかも知れません。
専用の道は六つあって、今は一つだけが開いています。
今度は二つ目の道が開く時が狙い目でしょう。

そして二つ目、三つ目、四つ目、五つ目、六つ目と全ての道が開かれる時も全て失敗し、その後に一か八かの最後の挑戦に賭けたものの、結局神の使いは目的を果たすことが出来ませんでした。
また、長年に渡る神様の働きかけの末、地上界に暮らす人々が霊的に成長し、もはやある程度成熟した者でないと地上界には止まれなくなってしまいました。
では、地上界に止まれない程、霊的に未熟な者はどうなってしまうのでしょうか。
未熟な者には、それに見合った別の場所が用意してあって、この後は自分の成長段階に見合った場所で、自分のペースに合わせて霊的成熟への階段を一歩ずつ昇ってゆくのです。
もちろん、神の使いもここまで来てやっと自分の過ちと未熟さを受け入れて、最も未熟な段階から霊的成熟への歩みを始めることになります。
それは、今よりも遙か未来に起こるはずの出来事です。

(了)





上記『霊界の住人の方のメッセージが示す物語』は、あくまで霊界の住人の方のメッセージを元に、上記関連資料や、霊媒によるアドバイスを参考の上、ご覧の皆様の理解を深めて頂けると考えて、管理人が再構成した物語です。
また、今回は[謎解き編]と題してお送りしましたが、どの程度まで謎の核心に迫れたのか、少々不安を抱えながらの投稿となります。

なお、記事のタイトルにある『環水平アーク』が、霊界の住人の方のメッセージとどの様な関係があるのかについて、メッセージを読み込むだけではよく分かりませんでした。
そこで、前回掲載の記事でも述べたように、聖書の『ヨハネの黙示録』を併せて読むことによって、より深い意味合いが理解できるとのことでしたので、現在準備を進めております。
世の中には、既に多くの「ヨハネの黙示録の意味を読み解く」系の書物や言論の類が存在しますが、従来のキリスト教的価値観とは一線を画した、ちょっとビックリのヨハネの黙示録解読記事になると予想しておりますので、お楽しみに。

Silvercord管理人 





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