2014年7月11日金曜日

『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)

前回投稿の記事【『環水平アーク』現象が示すもの[謎解き編]】にて、去る5月に観測された『環水平アーク』と呼ばれる虹の様な現象に関連して、霊界の住人の方から寄せられたメッセージの解読を試みました。
その際に、霊界の住人の方より「このイメージと『ヨハネの黙示録』を併せて読むと、より深く内容を理解できる」とのアドバイスがありましたので、今回から何回かに渡って『ヨハネの黙示録』の内容を読み解いてゆきたいと思います。





■ ヨハネの黙示録を読み込む為の準備

作業を始める前に、幾つか確認しておきたいことがあります。
ご覧の皆様もご存じのことと思いますが、『ヨハネの黙示録』は新約聖書に収められており、また新約聖書はキリスト教会の教典として扱われて来ました。
その為に、いわゆるキリスト教的価値観の大きな影響を受けた文章となっております。
しかし、これから解説するヨハネの黙示録の文面にも記されているように、キリスト教的価値観の影響により、ヨハネの黙示録に込められた本来の意味合いが歪められた状態のまま、今日まで伝わって来ました。
そこで、キリスト教的価値観によって装飾された記述を解釈し直すことによって、ヨハネの黙示録に込められたメッセージの核心に迫りたいと思います。

なお、これからご紹介する『ヨハネの黙示録』についての解説は、あくまで現時点における霊界の住人の方のアドバイスを参考に、管理人が文章に纏めて再構成したものです。
作業に当たっては、霊界の住人の方の助言と確認のもとに進めておりますが、霊界通信の特性により、「現時点で有効と思われる解釈である」と強調しておきます。
後ほどご説明致しますが、『ヨハネの黙示録』の構成が複雑であり、また『ヨハネの黙示録』は遙か過去の時代に書かれた文章でありながら、遙か後の世に伝え読まれることを想定した表現を用いております。
ですから、時代が移り変わって世の中の価値観が変わっても、ある程度意味合いが通じるように書かれているのですが、反面表現の曖昧さが誤った解釈に繋がってしまう可能性を秘めております。

そこで、実際に『ヨハネの黙示録』の解読に入る前に、最低限必要と思われる予備知識の確認をしておきましょう。
とはいえ、以前より『銀の紐』をご覧の皆様には既にご存じのことと思いますが、この度初めてご覧になる方に向けて、改めて簡単に説明致しますので、既にご存じの方は復習を兼ねて少々お付き合い下さい。





■ 『神の目的』及び『霊界と地上界を繋ぐ拠点』について

神様が人間に対して働きかけるのは、人間の霊的成長を促し、この宇宙に存在する全ての霊を神の境涯へ導く為です。
そして、神様が地球上に存在する全ての生命――特に自ら知的創造活動を行う人類に対して働きかける手段の一つとして、地球上の六カ所に『霊界と地上界を繋ぐ拠点』が作られました。
神様はこの拠点を通じて、管理人が「創造性と思考力を活性化させるエネルギー」と呼ぶ霊的エネルギーを霊界から地上界へ向けて流すことにより、人間の霊的成長を促す働きかけを行って参りました。
さて、地球上の六カ所にある『霊界と地上界を繋ぐ拠点』とは、以下の場所にあります。
東京、バチカン、米国もしくはカナダ(五大湖周辺)、チベット、エルサレム、スーダンの六カ所です。
そのうち、東京の拠点は人類が誕生する際に、六カ所の拠点の最後に開かれて以来、現在までずっと開かれたまま機能しております。
その他の五カ所の拠点は、人類が誕生する際には開かれていたものの、その後順次閉じられ、次に必要とされる時が来るまで閉じられたままとなっておりました。
そして去る2011年の12月に、二番目となるバチカンの拠点が開かれました。
それまでは東京の拠点一カ所から全世界へ向けて送られていた霊的エネルギーは、現在では東京とバチカンの二カ所の拠点から、全世界へ向けて送られております。
ここまで『霊界と地上界を繋ぐ拠点』について、簡単に説明してきましたが、それぞれの拠点には霊界から送られた霊的エネルギーを一旦受け取って、人間に馴染むように性質を変換して送り出す役割――霊媒Mや管理人が『覡(かんなぎ)』と呼ぶ役割の方がおります。
東京の拠点の覡は歴代の天皇が務め、バチカンの拠点の覡は歴代のローマ教皇が務めます――とはいえ、バチカンの拠点は開いたばかりですので、実際に覡を務めているのは先代の教皇からです。
現在は閉じている四カ所の拠点には、今のところ覡を務めている方はおりません。
しかし、遙かな昔に閉じられた拠点の守人を委ねられ、いずれ必要とされる時期に拠点の覡を産み出す苗床となる種族が各拠点ごとに居り、各々の拠点が開かれるまで雌伏の時を過ごしております。

関係する参考資料としては、以下をご覧下さい。
『銀の紐を越えて』掲載記事【『霊界と地上界を繋ぐ拠点』と日本の役割について(メッセージ107)】
『銀の紐を越えてα』掲載記事【宇宙の構造と神々や人間が目指すもの[メッセージ修正版01]】
『銀の紐を越えてα』掲載記事【霊界と地上界を繋ぐ拠点と霊的エネルギーの役割[メッセージ修正版02]】





■ ヨハネがアジア州にある七つの教会に向けて書いた手紙

これから、実際に『ヨハネの黙示録』の文面を追いながら、その言葉に秘められた意味合いを繙いてゆきます。
諸般の事情により、聖書に記されている文章を、記事の中で直接引用は致しません。
その代わりとして、実際に『ヨハネの黙示録』を読みながら、「概ね~の様に述べている」というように、文章の概要を紹介しながら解説を進めてゆきますので、記事に目を通すだけでも内容をご理解頂けるのではないかと思います。
しかし、実際に『ヨハネの黙示録』を読み込んでゆくと、細かな表現にも特定の意味合いを込めている様に感じますので、もし可能な環境でしたら聖書を手元に置いて頂いて、この解説と聖書の文面を照らし合わせてゆくと、一層理解が深まるのではないでしょうか。

さて、『ヨハネの黙示録』の冒頭には、神様から知らされた将来に起こる出来事の幻を、イエスが天使を通じてヨハネに見せたと、この文章が書かれた目的が示されております。
そして、アジア州にある七つの教会に手紙を送るように指示されておりますが、ここで示されている七つの教会とは、上の予備知識で説明した『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を指すのだと、霊界の住人は述べております。
しかし、先程『霊界と地上界を繋ぐ拠点』は世界中に六カ所あると述べましたので、アジア州にある七つの教会には一カ所足りません。
そこで改めて霊界の住人に伺った所、『霊界と地上界を繋ぐ拠点』六カ所+αの、計七者に対するメッセージなのだそうです。
この+αの正体については、記事を読み進めるうちに明らかになってゆきます。
また、七つの教会に向けて書かれた手紙は、いずれも教会の天使宛となっております。
天使とは神の使いであり、神と直接の繋がりを持って神の御用を補助する者ですから、主に『霊界と地上界を繋ぐ拠点』の覡と守人に向けたメッセージと受け取れば良いでしょうか。

では、アジア州にある七つの教会に向けて書かれた手紙の内容を、順番に見てゆきましょう。





■ エフェソにある教会の天使への手紙

第二章の最初に、エフェソにある教会の天使に向けた手紙が示されております。
第二節では使徒と偽る者を見抜いたと記され、第三節ではイエスの名の為に我慢をしたと記されております。
さて、「イエスの名の為に」とは、どういう事なのでしょうか。
これは、イエスの名によって代表される宗教と言うことで、キリスト教とその拠点であるバチカンを指しているのでしょう。
つまり、キリスト教を維持する事によって、神の言葉を記した聖書を後の世に伝え、また神が地上界に直接働きかける為の拠点であるバチカンを守り抜いたと言う意味ではないでしょうか。
しかし、第三節では初めの頃の愛がなくなってしまった=キリスト教が形骸化して、神の言葉を見失ってしまったと指摘し、第四節では悔い改めて初めの頃の行いに立ち戻るよう、諭しております。
更に、悔い改めなければ、あなたの燭台を取りのけてしまうと述べております。
第一章第十九節には、七つの燭台は七つの教会であるとあり、前の項で述べたように教会とは『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を指しますので、悔い改めなければバチカンの拠点を取りのけてしまうと言う意味でしょうか。
『霊界と地上界を繋ぐ拠点』としての機能の核心は覡にありますから、本来の神の言葉を見失ってしまったキリスト教の聖職者達に囲まれた、ローマ教皇の不安定な立場を暗示しているような表現です。
続く第六節では、ニコライ派の者達の行いを憎んでいるのが取り柄だと述べております。
イエスも憎んでいるというニコライ派の行いとは何でしょうか。
ここまで読み進めてきた皆様でしたら、何となく想像できるのではないかと思いますが、言わばキリスト教とは、バチカンの拠点が開かれる時まで、神の言葉を記した聖書とバチカンの拠点を維持し、それら全てを後の世に伝えてゆく為の箱船であり、またバチカンの拠点が開かれた後は、神様が人間の成長を促す為の働きかけを行う為の重要拠点として機能します。
そのバチカンの拠点を放棄し、神様の意向を無視して勝手に『神の使徒』と称して人心を惑わす、プロテスタント、東方教会などの諸教派こそが、イエスも憎んでいるというニコライ派の正体です。
そしてエフェソにある教会への手紙の最後には、勝利を得る者には神の楽園の命の木の実を食べさせると述べて終わるのですが、これはどういう事でしょうか。
神の楽園と言えば、旧約聖書の創世記に記されたエデンの園を思い浮かべます。
そこで創世記を見ると、第三章二十二節には、命の木の実を食べると永遠に生きるものになるとあります。
勝利――つまり悪魔サタンに勝利すると、神の楽園に迎えられて永遠に生きるものになると、バチカンの拠点の覡や守人達に述べているのです。
そこで、神の楽園や永遠の命についても気になる所ですが、その説明は後ほど行うとして、次の手紙を見てゆきましょう。





■ スミルナにある教会の天使への手紙

二通目は、スミルナにある教会の天使に宛てた手紙です。
第二章第九節~第十節にかけて、スミルナにある教会の天使が置かれている状況が述べられております。
苦難と貧しさの下に置かれ、また自らをユダヤ人と名乗る者によって非難されているようです。
それは一体誰なのかと、霊界の住人の方に伺ってみると、アブラハムの子孫を指すのだそうです。
旧約聖書の創世記にも記されているように、神様との間に永遠の契約を結んだ、あのアブラハムの子孫達です。
そして、自らをユダヤ人と名乗っているが、実はユダヤ人を騙ってサタンに与する者に虐げられているようです。
と言うことで、スミルナにある教会とは、今は閉じているエルサレムの拠点を指します。
そして恐らく、今のエルサレムを統治するイスラエル国の内情を調べてみると、アブラハムの子孫とは誰なのか、そしてユダヤ人を騙る悪魔サタンの仲間は誰なのかが想定できそうな気はしますが、ここではご覧の皆様の想像にお任せして、先へ進みます。
さて、イエスはスミルナにある教会の天使に対して、苦難や貧しさの中に置かれていても、本当は豊かなのだと述べております。
貧しくても豊かとはどういう事でしょうか。
アブラハムの子孫達は、かつて神との間に結んだ契約に基づいて、『霊界と地上界を繋ぐ拠点』のうち、エルサレムの拠点の守人としての務めを全うして来ました。
ですから、物質的・経済的には貧しい環境に置かれていても、かつて契約を交わした神様との繋がりにおいては豊かであると言うことです。
そしてアブラハムの子孫達は、悪魔の試みによって、これからも様々な苦難を乗り越えなくてはなりません。
彼らのうちの一部は牢に放り込まれ、十日の間苦しめられるだろうと告げられております。
更にイエスは、アブラハムの子孫に対して、それでも死に至るまで(神との契約に対して)忠実であるように求めております。
そうすれば命の冠が与えられるそうなのですが、それは人間として死後に果たされると思われます。
ですから、第十一節で述べているように、勝利を得る者は第二の死から害を受けることはないのでしょう。
そこで第二の死とは何を指すのか、気になる所ではありますが、この点については後ほど説明することとして、次の手紙を見て参りましょう。





■ ペルガモンにある教会の天使への手紙

三通目は、ペルガモンにある教会の天使に宛てた手紙です。
第十三節にて、冒頭イエスは、そこにサタンの王座があると述べております。
また、私の忠実な証人としてアンティパスの名が上げられておりますが、wikipediaによりますと、この人物ヘロデ・アンティパスは、ユダヤがローマ帝国の保護国であった時期からユダヤ属州となった時期に、属州から免れたユダヤの分割領土を治めた領主だそうです。
つまり、ペルガモンにある教会とは、かつてどこかの国の保護国か植民地であり、後にその土地の領主が殺されて、サタンが王国を築いた場所です。
私の名をしっかり守って、私に対する信仰を捨てなかったとのことですので、その様な状態にあっても『霊界と地上界を繋ぐ拠点』の守人としての務めを果たし続けているのでしょう。
さて、霊界の住人によると、そこは米国なのだそうです。
そこで改めて調べてみると、米国には『イロコイ連邦』という、オンタリオ湖南岸からカナダに跨がって保留地を領有する、六つのインディアン部族による部族国家集団があるのだそうです。
現時点では、米国の拠点は五大湖周辺にあるだろうという程度の確認しか取れておりませんが、この『イロコイ連邦』を構成する部族が米国の拠点の守人である可能性はありそうです。
しかし第十四節で、イエスはあなたに対して言うべき事があると述べております。
ここでバラムとバラクという人物が出て来ますので、簡単に説明しておきましょう。
旧約聖書の民数記第二十二章~第二十五章にて一連の事件が語られ、民数記第三十一章では事件の真相が述べられております。
占い師バラムが、イスラエルの民を主に背かせる為に女たちを唆したと言うエピソードが、ここでイエスの警告する意図を理解する助けとなります。
黙示録に戻って、第十四節を読み進めてゆくと、彼らに「偶像に捧げた肉を食べさせる」とあります。
これは霊界の住人によると、悪魔を信奉し、その恩恵に預かることを指すのだそうです。
本来なら受け取れる立場にないものを、当然の権利とうそぶいて強引に奪い取ったり、正当な手順を踏まずに、身勝手な解釈で物事を推し進める行為、不正な手段によって富を独占するといった行為や、物の考え方を表しているそうです。
それらの、生命力を衰えさせる行為は、偶像に捧げた肉を食べる行為に等しく、迫害や価値観の押しつけなどは邪悪な行為とされます。
逆に、神の教えに沿った行為とは、生命力を豊かに強くするものなのだそうです。
ですから、米国の拠点の守人達の中には、神の教えに背かせようとするバラムの唆しに乗せられている者がいるということなのでしょう。
また民数記で、占い師バラムに頼んでイスラエルの民に呪いを掛けようとしたモアブ人のバラク王と、アメリカ合衆国大統領バラク・オバマ氏の名前と立場が一致するのは、単なる偶然の為せる業なのでしょうか。
更に第十五節へ読み進むと、エフェソにある教会への手紙と同様に、ここにもニコライ派が出て来ます。
米国の宗教事情を調べてみれば、さもありなんという所でしょうか。
その様な状態ですので、第十六節でイエスは悔い改めよと呼びかけ、改めない者に対しては私の口の剣で戦おうと述べております。
口の剣とは、口から発するもので、悔い改めない者の言い分を「間違っている」と証明することによって断ち切るものであり、それはイエスの口から発するものでなくてはなりません。
その様に考えてゆくと、恐らく「聖書に記されたイエスの言葉が、後に実現することによって、物事の真偽が明らかにされる」という意味でありましょうか。
続く第十七節には、勝利を得る者には隠されていたマンナを与えるとあり、また白い小石を与えるとあります。
その白い小石には、受け取る者の他には誰にも分からない新しい名が記されているとありますが、マンナ、そして新しい名が記されている白い石とは何でしょうか。
マンナとは、旧約聖書の出エジプト記第十六章に出てくる、主がイスラエルの民のために天から降らせたパンを指すようです。
それは砂漠で飢えていた民の命を長らえる生命力を象徴します。
そして白い小石とは、古代ローマでは裁判の判決に白い小石と黒い小石を用いて投票することにより、被疑者の無罪・有罪の判断をしていたそうです。
また、その白い小石には、これを受ける者の他には誰も分からない、新しい名前が記されているとあります。
第十三節にも、あなたは私の名前をしっかり守ってきたとありますが、勝利を得る者に与えられる白い石には、別の新しい名前が記されているそうです。
それはつまり、米国の拠点はキリスト教とは異なる者によって開かれるけれども、その新しく開かれた拠点の覡はイエスと繋がっていると言うことなのではないでしょうか。





■ ティラティアにある教会の天使への手紙

四通目は、ティラティアにある教会の天使に宛てた手紙です。
第十九節には、イエスの行いや愛、信仰、奉仕、忍耐を知っているとあり、更に、近頃の行いが最初の頃の行いに優っていると、ここまでの三通と比べると絶賛と言っていい褒め具合です。
しかし、イゼベルという女のすることを大目に見ているのは問題であると指摘しております。
霊界の住人によると、ティラティアにある教会とは日本の拠点であり、またイゼベルという女は朝鮮を指すのだそうです。
ここまでの三通は、いずれもキリスト教と歴史的な関わりのある土地の拠点について取り上げられてきましたが、キリスト教的価値観から見ると、何故黙示録の中に日本と朝鮮が現れるのか、少々不可解な気がします。
しかし、ティラティアにある教会を日本と仮定して第十九節を読み返すと、近頃のあなたの行いが最初の頃より優っているとありますが、これは明治天皇以降の歴代天皇は、拠点の覡としての役割分担が増している点と符合すると考えると、何だかしっくり当て嵌まるような気がしませんか。
この様に、一通りヨハネの黙示録の解説をご覧になることによってご理解頂けると期待して、話を先へ進めましょう。
そして、改めてティラティアにある教会への手紙を眺めると、イエスが諫めているのはイゼベルの行いと、イゼベルに惑わされている人々であって、ティラティアにある教会の天使に対しては、イエスがそこへ行く時まで今持っているものを固く守るように述べております。
つまり、ティラティアにある教会の天使については、イゼベルの扱い以外は全て正しいので、その状態を維持するようにと言っているのです。
それに加えて、イゼベルという女に関連して、以下のように述べております。
イゼベルは自分が預言者=神の言葉を聞けるのだと偽って、イエスの教えを信仰する者を騙し、惑わせて、『偶像に捧げた肉を食べさせている』とあります。
ここで、ペルガモンにある教会への手紙にあった『偶像に捧げた肉を食べさせている』という表現が、再び出て来ました。
つまり、イゼベルという女は預言者と偽っているものの、実は悪魔を信奉し、その恩恵に預かっている者だと言うことです。
第二十一節には、イエスがイゼベルに悔い改める為の機会を与えたとありますが、この機会とは日本が朝鮮を併合した時代に当たるそうです。
しかし、それでもイゼベルは悔い改めません=日本統治時代の経験に何も学べなかったのでした。
イエスはこの様に続けます。
イゼベルを床に伏せさせ、またイゼベルと共に淫らな行いをする者達も、“その行いを悔い改めないなら”酷い苦しみに遭わせようと述べております。
イゼベルが床に伏せさせられるのは、既に確定しております。
しかし、イゼベルと共に淫らな行いをする者=日本国民でありながら朝鮮に与している者には、その行いを悔い改める為の猶予が、まだ残されております。
その機会を有効に活かして悔い改めるのか、あるいは悔い改めず苦しみに遭わされるのかは、本人の判断に委ねられております。
続く第二十三節には、イゼベルの子供達を打ち殺そうとあります。
今後どの様な経緯を辿るのかは分かりませんが、自らサタンの行いに明け暮れ、悔い改める機会を活かせなかったイゼベルは、やがて何らかの形で子孫を無き者とされることになるのでしょう。
そして、全教会=世界中の人々――は、イエスが人の思いや判断を見通す者だと言うことを悟るようになると述べ、あなた方が行ったことについて一人一人に報いよう=全ての因果が誰の目にも分かりやすく巡ると述べております。
第二十四節には、ティラティアの人達=日本国民の中で、イゼベルの教え=悪魔を信仰し、その恩恵に預かることを受け入れず、サタンの奥深い秘密=サタンの本性や性質を知らない人々には、別の重荷を負わせない=イゼベルによる迷惑行為以外の負担は負わせない――とあります。
ティラティアにある教会の天使は、今持っているものを頑なに守っていれば、イエスがイゼベルの行いに見合った結末に導いてくれるそうです。
そして第二十六節~第二十八節にかけて、イエスは勝利を得る者に、諸国の民の上に立つ権威を授けると述べております。
それはかつて父なる神がイエスに授けた権威であり、それがここで勝利を得る者に受け継がれることを示しております。
この点については、ヨハネの黙示録の解説を全て終えてからの方が、すんなりとご理解頂けると思いますので、説明を保留にして次の手紙を見ていきましょう。





■ サルディスにある教会の天使への手紙

五通目は、サルディスにある教会の天使に宛てた手紙です。
第三章第一節で、早くもあなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいると述べております。
続く第二節で目覚めを促されているので、文字通り死んでいるのではなくて、『霊界と地上界を繋ぐ拠点』の守人として、全く機能していないと言うことなのでしょう。
死にかけている残りの者達を強めよとありますので、拠点の守人としての役割に支障が出る程深刻な影響が現れている様子が伺えます。
そこで第三節では、どの様に(拠点の守人の役目を)受け、(その役目の意義を)聞いたかを思い起こして、(拠点を)守り抜くように、悔い改めよとイエスに諭されております。
そして、目を覚まさないものに対して、イエスは盗人のように行くと述べております。
別に、誰にも気づかれないように、抜き足差し足でこっそり現れると言うだけでなく、盗人が盗み取るようにして、本人の知らないうちに拠点の守人としての役目を剥奪するという意味です。
さて、この様にして、イエスから見ると目も当てられないような酷い有様の守人達のいる、サルディスにある教会とは、一体どこでしょうか。
霊界の住人によると、サルディスにある教会とは、アフリカのスーダンにある拠点を指すのだそうです。
こちらの拠点は、世界に六カ所ある拠点の中で一番最初に開いた拠点であり、人類が誕生した後に一番早く閉じた拠点です。
そして、これから時間の経過と共に順次開いてゆく拠点のうち、一番最後に開く拠点となります。
さて、スーダンの現状をご覧になれば、イエスにこの様な評価をされてしまうのは、致し方ないのではないでしょうか。
しかし第四節では、少数ながら衣を汚さなかった者=拠点の守人としての務めを果たしている者がおり、白い衣を着てイエスと共に歩くと述べております。
そして第五節では、勝利を得る者は白い衣を着せられること、そして命の書から名前を消されることはなく、神や天使の前で公表すると述べております。
命の書とは、ヨハネの黙示録第二十章第十二節~第十五節に、命の書に名前のないものは火の池に投げ込まれたとあり、この火の池が第二の死とありますので、ここで勝利を得る者は第二の死を免れることになります。
第二の死については、スミルナにある教会への手紙にも言及がありますので、まとめて後ほど解説したいと思います。





■ フィラデルフィアにある教会の天使への手紙

六通目は、フィラデルフィアにある教会の天使に宛てた手紙です。
第三章第八節では、イエスがフィラデルフィアにある教会の天使の前に門を開け、その門は誰も閉めることが出来ないと述べております。
そしてあなたは力が弱いけれども、イエスの言葉を守り、イエスを知らないとは言わなかったとあります。
霊界の住人によると、フィラデルフィアとはチベットを指すのだそうです。
そこで改めて第八節をチベットの歴史と照らし合わせてゆくと、興味深い事実が明らかになってゆきます。
七世紀頃の吐蕃王朝成立を持って、実質的なチベット国の建国と見なされているようですが、以後、モンゴルや明との関わりは冊封と朝貢により、また内政は不安定な時期が続くようです。
その後、十七世紀になってダライラマ政権が確立すると、内政は安定化していきますが、明に変わって台頭する清に征服されてしまいます。
清朝の滅亡後、チベットは独立を宣言してダライラマ政権を樹立しましたが、後に中華人民共和国によるチベット侵攻により征服されて、現在に至ります。
ここで強調しておきたいのは、清によるチベット支配は、チベット仏教とダライラマに対する一定の配慮を示しておりましたが、中華人民共和国は今もなおチベット仏教とダライラマを徹底的に弾圧しております。
そして現在、ダライラマ法王はインドに亡命政権を樹立するとともに、世界的に著名な仏教指導者の一人として活動しております。
そんなダライラマ法王の活動の一かけらを、当Blogでも記事【ダライラマ法王を拝見して】にて紹介しました。
以上を考慮して再び第八節に目を向けると、イエスによって開けられた門によって、ダライラマ法王はインドへの逃亡を余儀なくされ、中共の侵略によりチベットの民は塗炭の苦しみを受けております。
それは力が弱いから避けられないのだけれども、私の言葉を守り、私の名を知らないとは言わなかった=チベットはキリスト教を信仰しているわけではないけれども、彼らのチベット仏教の本質はイエスの言葉に通じていて、なおかつ中共の弾圧にも負けずに自らの信仰を守り続けていることを示しております。
そして第九節では、サタンの集いに属していて、自分がユダヤ人だと述べる者が出て来ます。
それはユダヤ人だと偽っているのですが、イエス自身がフィラデルフィアの天使を愛していると話して、足下にひれ伏すようにすると述べております。
そういえば、ユダヤ人を騙ってサタンの集いに属する者は、スミルナにある教会への手紙にも出て来ました。
彼らはアブラハムの子孫を非難しておりますが、いずれチベットの拠点が開かれる頃になると、自らの過ちを自覚してひれ伏すようになるのでしょうか。
次の第十節では、イエスはよく忍耐したとねぎらい、地上に住む人々を試す為に全世界で起ころうとしている試練から守ろうと述べております。
この点については、次の章以降で詳しく説明致しますが、この場では、いわゆるキリスト教的価値観で言う神の審判のことを指しているとだけ、述べておきます。
続く第十一節では、栄冠を誰にも奪われないように、持っているものを固く守るように述べております。
つまり、これまでの行いの中で既に栄冠を得ているので、それをきちんと守るようにと、念を押されているのです。
更に第十二節には、勝利を得る者を神の神殿の柱にすると述べております。
続けて、もう決して外へ出ることはないとありますが、これは二重の意味合いを持たせているのでしょう。
一つ目は、ここで勝利を得る者は、その後人として地上に生まれることはなく、神の神殿の柱=神の目的を神の傍で補佐するようになるという意味でしょう。
そして二つ目は、チベット国が再建されてダライラマ法王が帰還し、その後チベットの拠点が開かれる事になるので、今後のチベット国再建の後は、二度とチベット国が他国の脅威に襲われないという意味でしょう。
だからこそ、イエスの神の名と、イエスの神の新しい都の名そしてイエスの名を書き記すことになるのではないでしょうか。





■ ラオディキアにある教会の天使への手紙

ここまでに六通の手紙を見てきましたが、いずれも『霊界と地上界を繋ぐ拠点』の守人に宛てた手紙であると言うのが、当Blogの見解です。
そして、記事の冒頭で説明しましたように、世界には六カ所の『霊界と地上界を繋ぐ拠点』があります。
しかし、イエスはヨハネに、七通の手紙を送るようにと指示しておりました。
それでは、残る一通の手紙、ラオディキアにある教会の天使とは、一体何を指すのでしょうか。
第三章第十五節~第十六節では、イエスが、あなたは冷たくも熱くもないと述べております。
冷たいか熱いかのどちらかであって欲しいが、生温いので、あなたを口から吐き出そうとしているそうです。
これは一体どういう事でしょうか。
次の第十七節では、私は金持ちで満ちたりていると言っている人に対して、自分が惨めで、哀れで、貧しくて、目が見えなくて、裸であることをわかっていないと指摘しています。
お金や物を集めて満足する、言わば「物質的な充足を重視する価値観」は、イエスから見ると貧しいと言うことです。
記事の冒頭で「神の目的」について簡単に説明しましたが、人間を含む全ての霊的な存在を神の境涯へ導くのが神の目的なのですから、物質に拘っている間はいつまでも神の境涯には近づけません。
と言うことで、ラオディキアにある教会の天使とは、前の六通に当て嵌まらない(私たちやこの記事をご覧の皆様を含めた)全ての方を対象としていると思うのですが、いかがでしょうか。
そう考えると、第十五節~第十六節についても、物事の善し悪しや正邪の違いはともかく、『霊界と地上界を繋ぐ拠点』の守人達や、逆にサタンとそれに集う者達は、何らかの明確な信念や目的意識を持っていますが、それ以外の方は、明確な考えもなく、周りの様子を見て右往左往しているだけだとイエスは見ていることになります。
つまり、私たちやご覧の皆様のうちの多くの方にとって、この後に述べられている事はとても気になります。
第十八節では、イエスは次のことを勧めております。
一つ目は裕福になるように、火で洗練された金をイエスから買うように。
ここでイエスは、あなたが貧しいのは不純物が混ざった原石だからなので、火で洗練された金のように、あなたを裕福にしようと訴えかけております。
二つ目は裸の恥を晒さないように、身につける白い衣を買うように。
ここで述べている白い衣とは、サルディスの教会への手紙で、勝利を得る者が着る白い衣です。
イエスのアドバイスを活かせば、あなたにも勝利を得る者への道が開けます。
三つ目は見えるようになる為に、目に塗る薬を買うように。
イエスは、物質が見えていても目が見えていないのと同じ――物事の道理が見えるように、目に見える薬を買いなさいと述べています。
この目に塗る薬とは、例えば聖書を指すのだと思いますが、当Blogやご覧の記事が目に塗る薬の処方箋の極一部として皆様に感じて頂ければ、記事を投稿する意義はあったと思います。
ですから、第十九節でイエスは、愛する者を叱ったり、鍛えたりしながら洗練させてゆくので、手紙を送られた皆様に悔い改めて、熱心に努めるように訴えております。
第二十節では、イエスは戸口を叩いて、あなたが気づくのを待っているので、あなたが気づいて扉を開けさえすれば、イエスも共に食事をする、つまり共に歩むと述べております。
第二十一章では、勝利を得る者を、イエス自身の座に共に座らせる――つまり今後はイエスと共に霊界から働きかけるようになると述べております。
それは、かつてのイエス自身も、父なる神の支えによって玉座に着いたので、それと同じ事なのだそうです。

一言でまとめれば、ラオディキアにある教会の天使と表現されている大多数の人々に対して、イエス自身が助力をして導くので、自分自身を鍛えて下さい。
それが成し遂げられた暁には、私イエスの同志として共に活動することになります――その様に訴えかけていることになります。
さて、イエスの訴えかけに対して、ご覧の皆様はどの様に答えられますか。





■ ヨハネの黙示録は、イエスから現代を生きる人々へのメッセージ

ここまでは、ヨハネの黙示録の第一章~第三章にかけての解説をお届けしましたが、ご覧の皆様にとっても気になる疑問があるのではないでしょうか。
その一つは、冒頭のアジア州にある七つの教会の天使に宛てた手紙が、何故現代を生きる私たちへのメッセージなのか、と言う点だと思います。
詳しくは、今後黙示録の流れを追っていく中から徐々に明らかにしてゆきたいと思いますが、この場で簡単に説明すると、ヨハネの黙示録の第五章からの記述は、日本で言う明治時代以降の行く末を大まかに述べております。
そして、ヨハネの黙示録は新約聖書に束ねられておりますので、キリスト教を通じて伝えられる物であり、またバチカンの拠点開放と重要な関わりを持っております。
つまり、2011年にバチカンの拠点が開かれましたので、いよいよ審判の時期が始まります。
そして、記事【『環水平アーク』現象が示すもの[謎掛け編]】【同[謎解き編]】で取り上げた霊界の住人のメッセージは、ヨハネの黙示録の内容とシンクロしており、また5月に見られた環水平アーク現象は、審判の開始を告げる空の印なのだそうです。

次回以降にて、審判の時期がどの様に進んでゆくのか、そして審判の結果どうなってしまうのかなどについて、黙示録の文面を辿りながら徐々に明らかにしてゆきたいと思います。

Silvercord管理人 





なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご覧下さい。

閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/


上記記事の内容についてのご意見・ご感想・ご質問はコメント欄よりお寄せ下さい。
また、コメントを投稿される際は、記事【改めて、ご覧の皆様へのお願いと連絡事項】をご覧下さい。

29 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

管理人さんお疲れ様です。そしてありがとうございます。今や聖書はパソコンやスマホでも気軽に読めるので良い生き方のヒントを探す為に開くことはありましたが、創世記や黙示録は今回の一連の記事を見るまであまり興味ありませんでした。余りにも抽象的すぎてとっつきにくかったからです。しかし今回の管理人さんの解釈を読んでみて物凄い内容だったんだなと驚きの連続です。悪魔に魅入られた人たちが一人でも多く地上生活の間に目覚めることができるようお手伝いできればと思います。
今回の記事とは直接関係ないですが安倍首相が30日付の英紙フィナンシャル・タイムズに、「私の『第3の矢』は日本経済の悪魔を倒す」と題した論文を寄稿されたようです。日本人の概念に悪魔なんてのは無いように思えるので、恐らく誰かが書いた原稿に署名しただけなのでしょうが、それでも署名する方に問題があると思います。私に言わせれば安倍さん本人が悪魔に乗っ取られた様にしか思えないのです。今回の記事で言えば偶像に捧げた肉を食べて(食べさせられて)しまったのか、それとも霊界の奥深い思し召しなのか。帰幽後の安倍さん麻生さんには先に逝かれた中川さんと良い酒を飲んでもらいたいものです。

ひまわり さんのコメント...

管理人様、霊媒M様、霊界の住人の皆様方、
ありがとうございます。

まだ1度しかこの記事を読んでいないので、
意見を述べる程の理解は出来ておりませんが・・・

この記事を読む事が出来た事を、心から感謝しています。

何度も読んで、もっと理解を深める努力をしたいと思います。
ただお礼を申し上げたくて。
ありがとうございました。

今後の記事を読むのも楽しみにしています。

Silvercord管理人 さんのコメント...

匿名様

『ヨハネの黙示録』は二十二章で構成されておりますが、今回投稿した記事では、そのうちの第一章~第三章について解読を試みました。
匿名様のコメントでご指摘のように、『ヨハネの黙示録』は抽象的で取っつきにくいと管理人も感じておりましたが、実際にその真意を読み解くのはなかなか骨が折れますし、一筋縄ではいきません。
しかし、この度は霊界の住人のアドバイスを所々で頂きつつ、また記事の内容を最終的に確認して頂いた上で投稿しておりますので、大まかな全体像については明らかに出来ているだろうと、それなりの手応えは感じております。
また、『ヨハネの黙示録』が抽象的である理由も、解読作業の過程で分かってきましたので、その辺りは今後投稿予定の記事で述べることになると思います。

ところで、「安倍政権の第三の矢が日本経済の悪魔を倒す」のかどうかは分かりませんが、上記記事の中でも、神の考えと悪魔の考えを判別する目安を示しております。
ここで改めて簡単に述べると、神の考えは生命力を強く豊かにする考えで、悪魔の考えは生命力を衰えさせる考えです。
では、安倍政権の第三の矢は、日本と日本国民の生命力を豊かにするでしょうか、それとも衰えさせるでしょうか。

Silvercord管理人 さんのコメント...

ひまわり様

上記記事は『ヨハネの黙示録』を解読する第一弾ですので、実は解読してゆく勝手が充分に理解できていないと思える部分も含まれております。
また、紙面の都合上、大まかな全体像の解説を優先しましたので、詳細な内容の解読という点では足りない部分もあると思います。
但し、より詳細な部分を解読する為のヒントは紹介しておりますので、興味がございましたら、上記記事も参考に解読を深められてはいかがでしょうか。

その結果として、もし新たな成果や、上記記事についての異論・反論などがございましたら、コメント欄を通じて管理人にも教えて下さい。
異なる意見について考えることによって、『ヨハネの黙示録』の解読が更にブラッシュアップされると思いますので、その時を期待してお待ちします。

匿名 さんのコメント...

 なるほど、生命力ですか。国家国民を豊かにするのではなく、国家国民の生命力を豊かにするという視点は凄く新鮮に感じました。

 国家国民の生命力を豊かにする為にまず最初に考えたのは力を付けるには何かしらの負荷が必要だという事です。例えば強靭な肉体を得たければ筋肉に適度な負荷を掛け疲労した筋肉を超回復させるのがオーソドックスなやり方です。この適度な負荷というのがポイントで小さすぎても大きすぎても目標には到達できません。この適度な負荷による成長は肉体だけではなく頭や心の成長にも通じるものだと思います。

 そういった意味で国土強靭化政策は目的に適うものであると考えます。国家があらゆる災厄に強くなる為に国民が自らの頭や身体を動かす事で、心技体に表されるような個としての強靭な生命力を育み、延いてはその集合体である国家も強く豊かな生命力を得られるからです。国土強靭化政策担当内閣参与の藤井聡さんの基本理念がこうであったことを思い出しました。額に汗した分だけ自分の力になる。自然の摂理そのままだと思います。

 人間目線で考えれば国土強靭化政策が達成された時がひとまず日本国家国民の生命力が強く豊かになった時だと考えて良いと思います。次にその政策施行過程における障害や困難が負荷と呼ばれるものになりますが、軽すぎる負荷では成長できないし重すぎる負荷ではそもそも身を滅ぼしてしまいます。現在抱える困難に生産力(人)不足、エネルギー不足が考えられます。これが軽すぎる負荷なのか重すぎる負荷なのか適正な負荷なのか、どの様に判断するかで第三の矢の価値が評価されると思います。個人的にはこの二つの困難を自力で克服する事が目いっぱいの適正負荷であるように思えます。さらに余計な荷物を背負うほど楽なトレーニングではないと考えます。

Silvercord管理人 さんのコメント...

匿名様

「国家、国民の生命力を豊かにする」とは、言葉を換えれば、国民を「頑張ろう」「やってみよう」という気にさせることによって、結果的に国家が繁栄すると言うことです。
実際に豊かさを手にするかどうかは、個々の国民の判断に委ねられるのですが、国民をその気にさせる為の環境整備は、政府に求められる役割でしょう。
その意味では、『アベノミクス』と称される安倍政権の経済政策は、ものによって妥当と思われる政策もありますが、全体としてちぐはぐで、アクセルとブレーキを一緒に踏んでいる印象があります。
その政策を行った先に目指す目的地が曖昧で、今目につく問題点を解決することに囚われているので、政策全体としてちぐはぐで一貫性を欠いているように見えるのではないでしょうか。
安倍政権の外交政策は、対中国シフトと米国の国力衰退を見据えて、安全保障環境の整備に動いていると見ていて、それは概ね妥当だと思うのですが、内政において一貫性を欠いているように見えるのは残念ですね。

匿名 さんのコメント...

はじめまして。
いつも、このブログを楽しみにしております。
今回の解説で一つ気にかかったというか、腑に落ちた点があります。
現在、スーダンに駐留している自衛隊のことです。
なぜ、彼らが派遣されなければならなかったか。
民主党の愚策に過ぎないと思っていましたが、必然だったのですね。
彼らが守っている場所、もしくは守っている人々の中に『拠点』もしくは
『守り人となる人』がいるからではないでしょうか。
そこに思い至った時、この世に無駄な物事はないのだと思いました。

Silvercord管理人 さんのコメント...

匿名様

スーダンの拠点については、現時点では霊媒の元に詳しい情報が届いておりません。
スーダンの拠点の守人についても、今のところはよく分かりません。
スーダンという国は、独立以来内戦や紛争が頻発している、政情不安定な国の一つと言えるでしょう。
2011年には南スーダンが独立し、匿名様のコメントにもあります様に、自衛隊がPKO活動を行っております。
そこで、管理人も気になりましたので、霊媒に確認をとったのですが、スーダンが南北に別れても、両者のどちらか片方が拠点を守るというわけではなくて、今は二つに分かれていても、南北で一つという印象なのだそうです。
ですから、いずれ南北スーダンは再び統一する事になるのかも知れません。

匿名 さんのコメント...

 更新をいつも楽しみにしております。
 「環水平アーク」については、こちらで紹介されるまで、そんな現象が現れていたことは恥ずかしながら知りませんでしたが、今回の記事を拝読し、「環水平アーク」=審判の開始 ということを知った今、遂に来るべきときが来たのか、と思わざるをえません。

 これによって、まずウイグル・チベットの方々の長かった試練・苦難にようやく終止符が打たれることを、切に祈りたいと思います。

 日本に関しての「手紙」の解説は、2chあたりで有名な某日記に具体的かつ詳細に書かれていることと時期的にも符合するので、「驕れるもの久しからず」のそのときがもうそこまで来ているのかなと改めて思いました。
 この期に及んでも未だに朝鮮の肩を持ち日本を貶めることに余念のない、地方紙を含めた極左メディアや某議員の皆様におかれましては、少しでもダメージを避けられるよう、今からでも心から悔い改め、その姿勢を180度転換されることを、切に祈りたいと思います。

Silvercord管理人 さんのコメント...

匿名様

記事では、イゼベルという女の行く末は決まっているけれども、イゼベルに与する者には悔い改める機会が残されていると述べました。
しかし、『悔い改める』と言うことは、過去に誤りがあったことを認めなくてはなりません。
そして、過去に誤りがあったと認めると、その誤りに伴って発生した損害を修復する責任を、否応なく背負うことになります。
その様に考えた時に、イゼベルに与する者に残された時間が限られた中で、彼らが悔い改める可能性は少ないのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

匿名 さんのコメント...

>2chあたりで有名な某日記に具体的かつ詳細に
>書かれていることと時期的にも符合する

差し支えなければサイト名をご表記願えませんか?
ぜひ読んでみたいと思いました。

匿名 さんのコメント...

管理人さんではありませんが、たぶん「余命3年時事日記」のことだと思います。一回分の文章がとても長いので、読むのに大変ですが、大変面白いので友人達には教えてます。初代余命さんは昨年12月に亡くなられましたが、その後を継いでまだ続いています。
昨年10月頃から読まれても流れ的には十分理解できると思います。

Silvercord管理人 さんのコメント...

>2chあたりで有名な某日記に具体的かつ詳細に
>書かれていることと時期的にも符合する

申し訳ありません。
管理人は把握しておりません。

匿名 さんのコメント...

返信ありがとうございます。
やはり、拠点が開かれるまで明らかにはならないということでしょうね。
統一がなされる際には平和裏に進むことを祈ります。

匿名 さんのコメント...

たいへん興味深かったです。
最近辛い事柄から逃げがちだったので、気を引き締めて日々を送ろうと、気持ちも新たに拝見させて頂きました。

話題は少しずれてしまうのですが、先日、日蓮を崇拝する方達から勧誘を受けて、酷く心を乱されました。
神仏は両方崇めればいいという私の言に対し、勧誘を迫るその方達は現在の信仰を捨て、唯一正しい日蓮の教えを信仰しなければ、成仏出来ず、日本は亡国を迎えるというお話。
これは危ないと感じ、勧誘を回避してその場を逃げ切る事が出来ました。

私自身としては仏教に限らずでしょうが、山の頂上に辿り着くには各人によって色々な道があり、宗教が違っても、相手を尊重し合い、共存し合うべきだと考えております。
勧誘の再戦があるかは不明ですが、まず相手を知る為に、その方達の崇める日蓮について簡単にではありますが調べて、当時の情勢は知りませんが、仏教の他の宗派が間違った解釈で広まる事で日本が滅ぶという教えで、現代、その分派した信徒が世界中の人々が日蓮に帰依しないと世界が悪い方に向かうと勧誘して回っており、私の理解の範疇を超えていると結論づけました。

今回、イエスがキリスト教を歪めて伝えている宗派を憎んでいるという内容があったので、気になって初めて書き込みさせて頂きました。
それでは仏教もなかなか色んな解釈で広まっていますが、仏教側では現在どのようになっているのでしょうか?

Silvercord管理人 さんのコメント...

匿名様

今回の『ヨハネの黙示録』を解読する試みは、霊媒Mと管理人がインターネット上で情報発信を始めるきっかけとなった、『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点開放』と関わりの深いテーマですので、聖書やキリスト教については霊界の情報も含めて、多少は知識の蓄積があるのですが、仏教については殆ど手付かずと言ってよい状態です。
ですから、お尋ねの点については、現時点ではよく分かりません。
しかし、四番目に開かれる予定のチベットの拠点は、チベット仏教の聖地でもありますので、聖書に例えると『ヨハネの黙示録』に該当する内容の、仏教の経典が現代に伝えられている可能性があると考えております。
いずれ機会があれば、仏教の経典についても解読に挑戦してみたいとは思いますが、現時点でお約束できるものではありません。
それから、「イエスがキリスト教を歪めて伝えている宗派を憎んでいる」という内容についてですが、キリスト教を歪めて伝えているという意味では、全ての宗派が該当します。
この点は、今後公開予定の記事で解説します。
しかし、霊界では覡役に予定されていた『ローマ教皇』を、キリスト教会の権威ある存在として守り続けて来ました。
また、『霊界と地上界を繋ぐ拠点』の一つであるバチカンの地を、キリスト教の聖地として守り続けて来ました。
この二点は、霊界からの働きかけを考えると大きな意味合いを持ちますので、イエスがカトリック以外の宗派を憎んでいると表現していても、カトリックの活動を全面的に肯定するわけではありません。
むしろ上記の二点を除けば、カトリックも他の宗派も、イエスから及第点をもらうのは難しそうです。

ご質問については以上ですが、前半の日蓮を崇拝する方についても、一言述べておきましょう。
この方の個人的な意見なのか、もしくはこの方の所属する団体の方針なのかはよく分かりませんが、日蓮を崇拝している風を装いつつ、実はこの方自身が日蓮を貶め、愚弄していることに気づいていないのでしょうか。
信仰とは、「成仏できない」とか「亡国になる」と物騒な言葉で脅して、自分の所属する団体に勧誘することを指すのではありません。
信仰の対象とする方を目標として日々精進し、少しでも自分自身を目標とする方の姿に近づけようと努力する事を信仰と呼ぶのではないかと思います。
他人を勧誘するのではなく、自分自身をどの様に高めるかであって、その姿勢が周囲から見て「素晴らしい」「見習いたい」と映れば、わざわざ強引に勧誘をしなくても、いつの間にか人は周囲に集まってきます。
ですから、日蓮を崇拝しているのでしたら、日常から日蓮を目標にして自分を鍛えれば良いのです。
そういう当たり前の信仰を蔑ろにして、「日蓮の教え」と称して、信仰者という以前に人として非常識な勧誘活動に勤しむのですから、傍から見れば「日蓮の教え」とは、自分で根拠も示せない嘘偽りの脅し文句を羅列して、強引に自分の組織に引きずり込むことなのだ――と誤解されても仕方がありません。
何しろ、「日蓮の教え」を知らない人にとっては、日蓮を崇拝する人の行動こそが、「日蓮の教え」の中身を判断する為のバロメーターなのですから。

コメントを拝見する限りでは、匿名様のご意見は概ね共感できますので、管理人から特に述べることはないのですが、少々気になりましたので個人的な意見を申し添えました。
理由はよく分かりませんが、日蓮を信仰する団体にはエキセントリックなところが多いような印象がありますので、余り関わり合いにならない方が良いと思います。

匿名 さんのコメント...

管理人様
内容がズレてしまいましたが、ご回答とご助言いただきありがとうございました。それとお礼が遅くなってしまい申し訳ありません。

仏教についてはいつかを楽しみに、黙示録の続きを興味深く拝見していきたいと思います。
毎回大変な長文で、解読とはとても大変な作業と存知ますが、猛暑ですので、どうかお身体を大切になさって下さい。

勧誘の件についてもご助言いただきありがとうございました。
自分の意見があっても、考え過ぎると少し自信がなくなってしまったり、考えをしっかり表現出来なくて落ち込んだりもしましたが、管理人様の言を受けてとてもすっきりしました。

もし今度外出先で勧誘の元友人に出くわす事があったとしても、胸を張って『NO!』と言い退却しようと思います。
本当にありがとうございました。

匿名 さんのコメント...

霊媒M様
こんばんは。

ご返答ありがとうございました。
また、違う記事へ、コメントを投稿したこと、お許しください。

主が述べられたことは、神が述べられた事とイコールだと認識しているため
主が言われたことかどうかを気にしながら呼んでいました。

聖書を読むときの意識の持ち方に注意して読んでみようと思います。

ラオディキアにある教会にあてたものの中に、「・・主が助力をして導く」
「・・主が共に歩まれる」とあるのが、とても魅力的で興味を持ちました。

まだまだ理解するまでには程遠いですが、これからも楽しみにしています。

失礼します。

七篠権兵衛 さんのコメント...

非常に興味深く拝読させていただきました。

>またイゼベルという女は朝鮮を指すのだそうです。

この一文を読んでみて、真っ先に思い浮かんだのは、韓国大統領の朴槿恵ですね。
朝鮮の例えがイゼベルという「女」で、現在の韓国の指導者も「女」というのは、
偶然の一致なのでしょうか?


>イゼベルと共に淫らな行いをする者=日本国民でありながら朝鮮に与している者には、
>その行いを悔い改める為の猶予が、まだ残されております。

朝日新聞が8月5日に「慰安婦強制連行」に関する誤報を認め、9月11日には謝罪会見も行われました。
そういう意味では、朝日新聞や朝鮮シンパのメディアにとっては、
悔いを改める「チャンス」がやってきたのかなと思います。

ただ、8月5日の件と9月11日の件を見てますと、どうも朝日新聞は悔いを改める気がないように思えます。
朝日新聞にとっては地獄が待っているようです。


>悔い改める機会を活かせなかったイゼベルは、
>やがて何らかの形で子孫を無き者とされることになるのでしょう。

朝鮮半島は、中国に併合されるのかなと思いました。
チベットやウイグルを武力で併合し、台湾や沖縄、尖閣諸島に野心を燃やす中国が、
朝鮮半島だけは黙殺するという事は考えにくいと思います。
当然、北朝鮮ごと朝鮮半島は、中国に併合されるでしょう。

Silvercord管理人 さんのコメント...

七篠権兵衛様

この記事は、「ヨハネがアジア州にある七つの教会に向けた手紙」を全て盛り込みたかったので、手紙の内容は大雑把な解説に留めています。
この度はせっかくコメントを頂きましたので、この場でイゼベルという女についての補足説明を致しましょう。

まず、黙示録の第二章第二十一節に「わたし(=イエス)は悔い改める機会を与えたが、この女(=イゼベル)は淫らな行いを悔い改めようとしなかった」とありますが、これが日本による朝鮮統治の時代を指すことは既に述べました。
ですから、ここでイエスから「イゼベルの淫らな行い」として咎められているのは、清の属国としての朝鮮王朝までの時代を指します。
そして、悔い改める機会を与えられたのは、日清戦争後の「下関条約」により、清が朝鮮を完全無欠の独立自主の国として認めてから、大東亜戦争の敗戦に伴って、朝鮮半島が日本から切り離されるまでの期間が該当します。
敗戦に伴って、かつて日本の勢力圏であった各地から本土へ引き上げる日本国民が、様々な混乱状態の下に置かれましたが、当時の大日本帝国の中では比較的優遇されていた朝鮮人の、敗戦に伴う豹変ぶりをもって、「淫らな行いを悔い改めようとしなかった」と言えるのです。
そして現在、朝鮮半島に存在する二つの国(お互いに相手を「不法占拠の反政府勢力」扱いしていますが)は、イゼベルの子供達になります。
黙示録の第二章第二十三節には、「この女(=イゼベル)の子供達も打ち殺そう」とありますので、少なくともイゼベルが悔い改めなかった時点で、イゼベルの子供達の命脈は尽きていたと読めるのです。
因みに、聖書の『列王記上』第十六章~第二十一章にかけて、及び『列王記下』第九章でもイゼベルについて言及しておりますし、【イゼベル:wikipedia】でイゼベルという女の大まかな人となりを紹介しております。

さて、イゼベルと共に淫らな行いをする者について、七篠権兵衛様は「一部のマスメディア」ではないかと推測されているようですが、これはあくまでも管理人の個人的な見解と予めお断りして申し上げると、マスメディアはイゼベルと共に淫らな行いをする者たちの極一部であり、黒幕は別にいると考えております。
そして、「北朝鮮による一連の日本人拉致事件」が見過ごされてきた理由を追求することによって、イゼベルと共に淫らな行いをする者達の黒幕が明らかになるのではないかと想像しています。

最終的に朝鮮半島がどうなってしまうにせよ、『ヨハネの黙示録』に綴られた物語の全体的な流れを考慮すると、今世紀末頃までの間には何らかの結果が現れていると思います。
『ヨハネの黙示録』とは、キリスト教会が聖なる土地として守ってきた、『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点』を開くと共に始まった『神の裁き』について述べている文書なので、淫らな行いを改めなかったイゼベルの子供達を打ち殺すプロセスも、『神の裁き』が終わる二十一世紀末に向けて進展すると考えられます。

なお、上記記事の「フィラデルフィアにある教会の天使への手紙」より、チベットは中共の支配を脱して独立を取り戻す可能性が想定されますので、その頃には中共の求心力が衰えていて、複数の国家に分裂している可能性があると考えております。
中共の求心力が今後衰えて行くのに、これから朝鮮半島を併合するというシナリオには無理があると管理人は思うのですが、いかがでしょうか。

七篠権兵衛 さんのコメント...

管理人様、補足説明ありがとうございます。

>そして現在、朝鮮半島に存在する二つの国(お互いに相手を「不法占拠の反政府勢力」扱いしていますが)は、
>イゼベルの子供達になります。

>中共の求心力が今後衰えて行くのに、これから朝鮮半島を併合するというシナリオには
>無理があると管理人は思うのですが、いかがでしょうか。

「イゼベルの子供を撃ち殺す」という解釈については、韓国と北朝鮮の消滅という事で良いのかなと思いました。
最初、中国による朝鮮併合によって、この二つの国が消滅すると思っていたのですが、
違うのであれば、何かしらの「新国家」が朝鮮半島に誕生する事になると考えられます。

例えば、中国分裂の混乱により難民と化した中国人が、朝鮮半島に流入し、
朝鮮半島に誕生する「新国家」は、それまでの「朝鮮人による国家」から、
大きく変容するという事が起こるのかもしれません。

ソラゴト さんのコメント...

聖書を読んでいて、面白いことに気づきましたので、言葉遊びの小ネタ程度のものかもしれませんが、書き込みに参りました。

ヨハネに対し、七つの教会に手紙を書送るよう告げる「人の子のようなもの」が、最初のエフェソにある教会の天使へ書送る内容を告げる際、
「七つの金の燭台の間を歩く者」と名乗る場面があるのですが、別の聖書の訳を見ると、「七つの金の燭台の真ん中を歩く者」となっています。
気になって元になった英語版を調べてみると、前者は「walks among the seven golden lampstands」、後者は「walks in the middle of the seven golden candlesticks」のようなものになっています。どうやら英訳された時点で2種類の訳があるようです。

「七つの金の燭台の間を歩く者」という場合、七つの燭台の配置はよくわからないながら、配置の間の空白を歩いている印象があります。
他方、「七つの金の燭台の真ん中を歩く者」という場合、規則的に並んだ燭台の真ん中、という印象になります。例えば燭台が円形に並んでいるならその中心であろうと思われますが、横一直線に置かれていた場合、真ん中は右からも左からも4番目の燭台になります。

4番目の燭台は、ここではティアティラの教会、すなわち日本の拠点になります。もしかしたら、ヨハネ黙示録当時、おそらく唯一開かれていた拠点である日本を通ってやってきた、ということの暗喩なのかもしれないと思うと、面白いなと思いました。もっと普通に、王道をゆくというニュアンスなのかもしれませんが…

長々と書きましたが、まあ…それだけのことです。
誤訳の末の誤解なのかもしれませんが、小ネタとして…
なお、日本語訳で一般に採用されているのは、前者の「walks among the seven golden lampstands」の文の方のようです。

Silvercord管理人 さんのコメント...

ソラゴト様

なかなか興味深いご意見を拝見しました。
英語訳の聖書にも複数の種類の訳があるとのご指摘ですが、日本語訳の聖書にも部分的な翻訳の揺らぎがある事は、管理人も把握しておりました。
そこで、上記記事でも、今回の解読記事では「新共同訳聖書」を利用すると、予め述べております。

さて、黙示録の第二章第一節にある「七つの金の燭台の間を歩く者」と、「七つの金の燭台の真ん中を歩く者」についてですが、管理人が利用した「新共同訳聖書」では、前者の訳を用いておりました。
ここでは仮に、ソラゴト様の推測にある様に、正訳が後者の「七つの金の燭台の真ん中を歩く者」であったとしましょう。
「七つの金の燭台の真ん中」が、左右どちらから見ても四番目の燭台であり、四番目の燭台がティアティラの教会であるとの根拠は、黙示録の第一章第十一節で示された教会の並び順であり、なおかつ第二章~第三章にかけて、七つの教会の天使に宛てた手紙が書かれる順番に基づいていると受け取りました。

一方、管理人は、「七つの金の燭台」の並びに意味があるのでしたら、ティアティラの教会の順番だけではなく、七つの教会の各々の並び順に込められた意味があるのではないかと思いました。
ところが、管理人が解読した時点では、七つの教会の並びから特別な意味合いを読み取ることは出来ませんでした。
ティアティラの教会の順番のみに特別な意味が込められていて、その他の教会の順番には特に意味がない――その様な可能性は否定できませんが、管理人の印象としては、どちらかというと違和感があります。
むしろ、黙示録の第四章以降の、小羊が巻物の七つの封印を順番に解いて行く様子を考慮に入れると、予め定められた計画に則って、直線的な時系列上に配置された特定の時期に特定の封印を解いてゆく――その様子を「七つの金の燭台の真ん中を(間を)歩く者」と表現したのでしたら、「寄り道せずに計画通りのルートを辿っている」という意味で、黙示録に記されたイエスの役割を的確に表していると思いますが、いかがでしょうか。
その上で、七つの教会の並びに込められた意味合いを読み解くことが出来れば、黙示録の理解を深める新たな発見となることでしょう。

ちなみに、どちらの訳が正しいのかを見極めるには、やはり『ヨハネの黙示録』の原本に遡るしかないのですが、どうやら最古の原本は既に失われているようですね。

今回のソラゴト様のご意見により、『ヨハネの黙示録』をより深く理解するきっかけとなりました。
この様な知的好奇心を刺激されるご意見は、管理人にとっても勉強になります。

ソラゴト さんのコメント...

管理人さん、思いつきのような言葉遊び…と思いつつ投稿したのですが、深い考察をいただくことができて、むしろ恐縮です。
管理人さんが翻訳の表記の揺れについて既にご理解があることは、聖書の出典元を明らかにされていることから既に承知しております。
たまたま私の手元に2冊の聖書があり、片方の訳の「真ん中を歩く」が深読みが可能だったために、英訳版まで確認する形になりましたが…

原点はラテン語のようですが、既に失われてしまっているようで…現在、各国語に翻訳される際の種本はギリシャ語版らしいです。
ラテン語→ギリシャ語→英語→日本語、と翻訳されているものを私たちはみているわけで、さらに印刷技術のない時代は写本という手段だったことを考えると、削ったり追加したりする意図がなくても実際は誤ってやってしまってそうな気がします。実際、獣の数字を「六百十六」と書いている写本もあるのだとか。
しかしながら、黙示録は遥か未来のために、そしてヨーロッパにとどまらず全世界に向けて書かれた文書であるわけで、そこには文意を解読できるレベルに保つ力が働いていると私は個人的には信じています。その上で、故意の改変を禁ずる語句を最後に盛り込んだのだと…

ところで、管理人さんのご指摘のとおり、七つの金の燭台の並びには、確かに規則性が感じられません…
最初はローマ教会を起点に西回りかと考えたのですが、いきなりエルサレム(西)にいってしまうので、それも違うのですよね。
ただ、順不同というのも納得がいかないのです。特に教会の順番は数字に変換可能なわけで、別の意味を持たせることが可能なのではないかと思うだけに、ただ思いついた順というわけではないのではないかと思えてなりません(感覚的に、というだけですが…)。

そもそも、ヨハネが手紙を書送るように言われた教会のある土地は、当時から実際に存在する地名なのだそうで、とりあえずGoogleのマイページ機能を使って各地をマーキングしてみたのですが…

見事に規則性が見当たらない…
(作った地図は、ムダにするのももったいないので、この後掲示板の方に貼りにいきます。皆様の考察の一助になればいいのですが…)


今回私がやってみたようなことは、古今東西で既にたくさんの方が試みてきたことだろうなとは思うのですが…各地の封印と関係付けられたことで見えてくるものがないか、どうして順番が黙示録の記載の通りでなくてはならなかったか、と考えました。
結果として現在のところ収穫なしではありますが…
ただ、ティアティラは、古代、太陽神崇拝で栄え、神殿もあった都市で有名だったということはわかりました。一方、エフェソスは月(アルテミス)信仰で有名で、「聖母マリアの家」という史跡には毎年(?)バチカンからの参拝があるそうです。二つの都市とも、大陽信仰、月信仰という異教からキリスト教に改宗して教会ができ、そこへヨハネから手紙が…という設定のようです。

ただ、他の土地に6つの拠点とのつながりが見えるかというと非常に難しく…この文脈でもダメなのかも、と一旦この方向で調べるのを断念しました。

翻訳の方に話を戻すならば、おそらく、普通に英訳すれば「walks among …」となる一方、「walks in the middle of the…」でも間違いではない場合、例えば管理人さんのおっしゃるように、「寄り道せずに計画通りのルートを辿っている」=正々堂々正道、王道を歩む者、というニュアンス付けができる「walks in the middle of the…」の方をあえて選択した訳本もあるのだ、と考えるのが自然だとは思います。
「真ん中」で「ティアティラ」→日本の封印と解釈したのは管理人さんのご指摘どおり、手紙が書かれた順によるものです。
暗号好きとしては、こういう仕掛けがあったら面白い、という程度の発想なのですが、考えれば考えるほど、何かあるんじゃないかと思わされるところが、黙示録の魅力なのかもしれませんね。

返信へのお礼でしたのに長くなりました。
置き土産を掲示板の方に置いておきますね。
ありがとうございました!

ソラゴト さんのコメント...

訂正です…

原点はラテン語のようですが→原典はラテン語のようですが

いきなりエルサレム(西)に…→いきなりエルサレム(東)に…

です。推敲したつもりでもこの誤記…申し訳有りません。察してはいただけるかと思いましたが、一応訂正しておきます…

Silvercord管理人 さんのコメント...

ソラゴト様

先日に引き続いて、とても興味深いコメントを拝見しました。
別途掲示板にお寄せ頂いた地図と合わせて、今後更に黙示録を深く知る為の参考とさせて頂きます。

さて、獣の数字の「六一六」説については、解読の段階で管理人も把握しておりましたが、「六一六」説では、聖書の記述に照らして妥当な解釈が成りたちませんでしたので、「六六六」説を採りました。
解釈の詳細は、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その4)】で述べております。

また、ヨハネが手紙を書いた、アジア州にある七つの教会の順番についてですが、この度改めて霊界の住人に確認を取った所、以下の様な話がありました。
最初に確認として、アジア州にある七つの教会と、世界にある『霊界と地上界を繋ぐ拠点』の関係はこの様になっています。

エフェソにある教会 → バチカンの拠点
スミルナにある教会 → エルサレムの拠点
ペルガモンにある教会 → アメリカの拠点
ティラティアにある教会 → 日本の拠点
サルディスにある教会 → スーダンの拠点
フィラデルフィアにある教会 → チベットの拠点
ラオディキアにある教会 → 記事には明記していませんが、地上全体に当て嵌まります。

更に、黙示録全体として、小羊が巻物の第二の封印を開いた時に起こる『神の裁き』に焦点を当てて、今回の『神の裁き』へと至る経緯から、『神の裁き』がどの様に進行するかという流れの説明に多くのスペースを割いています。
そして、今回の『神の裁き』を受けるのは、大淫婦に例えられるキリスト教会です。
大淫婦が『神の裁き』を受ければ、一番大きな影響を受けるのはエフェソの教会に当たる「バチカンの拠点」である事は容易に想像がつきますが、それは同時にキリスト教の聖地であるエルサレムにも大きな影響を及ぼしますし、カトリック・プロテスタント共に多くの信者を抱える南北米国大陸に及ぶ影響も大きなものとなるでしょう。
ということで、七つの教会の順番は、今回の『神の裁き』によってキリスト教会が大きな変化を余儀なくされるので、その変化による影響が大きな拠点の順番に並んでいるのだそうです。
この点については、これから『神の裁き』の進展に伴って徐々に影響が観察できる様になると思いますが、詳しくは新たに補足記事を投稿することとして、そちらでご説明します。

silvercode愛読者 さんのコメント...

いつも納得させる記事の投稿、ありがとうございます。

今更このような質問もなんなんですが、詳しい解説が未だにされていないと思い、質問投稿いたします。

こちらの解説の最後の部分にて触れられている、イエスが勧めている三つのアドバイス”一つ目は裕福になるように、火で洗練された金をイエスから買うように。”・”二つ目は裸の恥を晒さないように、身につける白い衣を買うように。”・”三つ目は見えるようになる為に、目に塗る薬を買うように。”とあります。

三つ目は多分正しい霊的知識を身につけなさいって事だと思うんですが、後の金と白い衣を手に入れなさいの具体的な意味がいま一つピンと来ません。

良ければ、この事が何を意味するのか詳しい解説お願いしたいです。

Silvercord管理人 さんのコメント...

silvercord愛読者様

イエスからのアドバイスは『ヨハネの黙示録』の第三章第十八節ですが、その前の第十七節でイエスは、「私は金持ちで満ちたりている」と言っている人に対して、「自分が惨めで、哀れで、貧しくて、目が見えなくて、裸であることをわかっていない」と指摘しています。
ここで「私は金持ちで満ちたりている」と言う人は、その人が多くの財産を所有し、物質的に満たされた環境に暮らしており、周囲の羨望を集める社会的地位を占めている状態に満足しているのですが、イエスはそれらに価値が無いと述べているのです。
記事の冒頭で、「神様が人間に対して働きかけるのは、人間の霊的成長を促し、この宇宙に存在する全ての霊を神の境涯へ導く為」だと述べました。
イエスからのアドバイスは、人間に宿っている霊の成長に寄与しますし、人間としての生涯を終えた後にも、目に見えない「霊的知識」という貴重な財産を持ち越すことが出来ます。
一方、「私は金持ちで満ちたりている」と述べる人の財産は、物質世界や人間社会でのみ価値があると見なされる物であり、人間としての生涯を終えた後に持ち越すことは出来ません。
霊の成長を促すための一時的な乗り物が人間であるなら、人間である一時期にのみ活かせる物と、人間としての生涯を終えた後も活かせる物のどちらに価値があるのでしょうか。
これらの点について、silvercord愛読者様は既にご理解頂いていると思いますが、他の閲覧者の方に向けた前段の話として述べました。

では、イエスが勧めている三つのアドバイスに込められた意味は何でしょうか。
一つ目は「裕福になるように、火で洗練された金をイエスから買うように」と述べています。
続けて「あなたが貧しいのは不純物が混ざった原石だからなので、火で洗練された金のように、あなたを裕福にしよう」とあります。
前段の話で述べたように、イエスのアドバイスは神の目的に沿っていて、神の目的は「全ての霊を神の境涯に導く為」ですので、不純物が混ざった原石とは人間に宿る霊であり、火で洗練することによって金に変わる――神の境涯に相応しい霊に成長すると述べています。
では、火で洗練するとはどういうことでしょうか。
『ヨハネの黙示録』で火についての記述を抽出すると、天の玉座にある祭壇の火、火と硫黄という戦乱を思わせる表現、サタンが投げ込まれる火の池などでしょうか。
火の池については、『銀の紐』掲載の【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その10)】の項目「新しい天と新しい地」で述べているように、今私たちが暮らしている地上世界こそが「火の池」ということになりますし、火と硫黄も地上の戦乱の表現ですので、人間として地上で様々な経験を積むことを指して「火で洗練する」と表現しているようです。
そこでわざわざ「火で洗練された金をイエスから買うように」と述べているのですから、「地上で人間として様々な経験を積む中から、イエスの教えに基づいて物事を判断できるようになりなさい」というのが、第一のアドバイスの意味でしょうか。

二つ目は「裸の恥を晒さないように、身につける白い衣を買うように」と述べています。
黙示録の第三章第五節では、「勝利を得る者は白い衣を着せられる」とあり、最後の審判の後、新しい天と新しい地に住むことが出来るのは、勝利を得る者だけです。
ここで勝利を得られない者は、黙示録の第二十一章第八節にあるように「火と硫黄の燃える池」に投げ込まれてしまうのですから、第二のアドバイスは「新しい天と新しい地に住むことが出来るように、勝利を得る者を目指しましょう」と言うことになります。
敢えて「裸の恥」と述べているのは、「私は金持ちで満ちたりている」と言う人は、人間の肉体に衣を着ていても、あなたの霊は白い衣を着ていないので、人生を終えた後に自分の無知を恥じるということでしょうか。

三つ目は「見えるようになる為に、目に塗る薬を買うように」と述べています。
神の目的は「全ての霊を神の境涯に導く為」ですので、人間に宿る霊が神の境涯に辿り着くには、神の活動についても今のうちから理解を深めてゆかなくてはなりません。
神の活動とは、大まかに物質的な側面と霊的な側面に分かれるのですが、「私は金持ちで満ちたりている」と言ってしまう人は、物質的な側面の理解も中途半端ですし、ましてや霊的な側面の理解は皆無に等しいと言って差し支えないでしょう。
ですから、人間に宿る霊のうちから徐々に神の活動について学んでゆき、神として活動できるくらいに理解が深まると、ようやく神の組織の一員と認められるのです。
では、目に塗る薬とは何でしょうか。
記事では聖書を上げましたが、要は、聖書にある神の言葉やイエスの教えを読み込み、同時に身の回りで起こる出来事や、自分自身の経験に照らして、それらに共通する法則性を導き出しましょうと言うことです。
その共通する法則性こそがいわゆる神の業であり、自然の摂理ということになりますが、それを見極める観察力・洞察力を養うことが「見えるようになる」ことに繋がります。
これらを黙示録のテーマに沿って言い換えると、「神の働きかけと、悪魔の唆しの違いを見極めましょう。違いを見極められる観察力・洞察力を養う為に、聖書にある神の言葉やイエスの教えを参考にしましょう」となります。

silvercode愛読者 さんのコメント...

詳しい解説ありがとうございました。

今回のヨハネの黙示録の一番伝えたかったのは、この三ポイントではないかなって自分自身では感じており、特に解説が無かったので、敢えて質問させてもらいました。

神の働きかけと、悪魔の唆しの違いを見極めましょう。違いを見極められる観察力・洞察力を養う為に、聖書にある神の言葉やイエスの教えを参考にしましょう」

これがベースとなるテーマだったと言うことなんで、自分なりに”何が真実で何が偽りなのか?”ってことに選別の目を磨きながら色んな体験を通して学んで生きたいと思います。

どうもありがとうございました。