2014年8月22日金曜日

『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その4)

この記事は、以前投稿した下記記事の続編となりますので、未読の方はこちらの記事より順番にご覧下さい。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】
『ヨハネの黙示録』第一章~第三章、アジア州にある七つの教会の天使に宛てた手紙について。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その2)】
『ヨハネの黙示録』第四章~第七章、イエスが神から託された巻物の七つの封印のうち、第一~第六の封印を開いてゆく。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その3)】
『ヨハネの黙示録』第八章~第十一章、イエスが巻物の第七の封印を開き、神からラッパを与えられた七人の天使のうち、第七の天使がラッパを吹くまで。





■ 身ごもった女と赤い竜

黙示録の第十二章に入ると、場面が変わります。
まず第一節~第五節で、天に大きなしるしが現れます。
一人の女が身に太陽をまとって、月を足の下にして、頭には十二の星の冠を被っています。
女は身ごもっていましたが、子供を産む痛みと苦しみの為に叫んでいました。
また、もう一つのしるしが天に現れます。
火のように赤い大きな竜が現れたのです。
七つの頭と十本の角があって、その頭には七つの冠を被っています。
竜の尻尾が、天の星を掃き寄せて、地上に投げつけます。
そして、竜は身ごもった女の前に立ちはだかって、生まれてきた子を食べてしまおうと待ち構えていました。
そこに女が子を産みました。
その子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていたので、神の元へ、その玉座へ引き上げられます。
さて、ここで述べられている身ごもった女とは、人間を始めとした生物を生みだした神であり、霊を肉体に宿す仕組みを表します。
一方、産まれた子とは、人間を含む生物を指します。
これは以前、霊界の住人から伺っていたのですが、霊と物質を融合する仕組みの調整に多くの時間と手間を掛けたそうですので、恐らくその事を「子を産む痛みと苦しみ」と表現しているのでしょう。
では、何故そんなに苦労をして子を産むのでしょうか。
その答えが第五節で、「鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた」からです。
実は第二章二十七節にも「彼は鉄の杖をもって彼らを治める」とあります。
それはティアティラの人達の中にいて、勝利を得る者には、諸国の民の上に立つ権威をイエスから授けられたからです。
その権威とは、かつてイエス自身も父なる神から授けられたものでした。
これらをまとめると、神は霊が成長する為の乗り物として、人間を含む生物を生み出しました。
霊が人間や生物に宿る経験を通じて、やがて神の境涯に達するまでの霊的成長の仕組みを作り上げたのです。
しかし、そこに問題が生じます。
赤い大きな竜が現れたのです。
霊界の住人によると、赤い竜とは、かつては神になることを強く望んだ天使だったようです。
しかし、神が、人間を含む生物に宿る経験を通じて、霊が成長する仕組みを作り上げたことによって、以前は自分よりも未熟であった霊が、いつの間にか自分よりも先に、神の境涯へ引き上げられてゆく様子を目の当たりにしました。
赤い竜は、かつては未熟だったはずなのに、いつの間にか自分よりも早く成長してゆく他の霊に嫉妬します。
その挙げ句に、とうとう他の霊の成長を邪魔し始め、霊が成長する為の仕組みを破壊しようと試みたのです。
続く第六節~第九節では、子を産んだ女は荒れ野へ逃げ込みます。
そこは女がそこに一定期間留まれるように、神が用意した場所でした。
一方、天では赤い竜の反逆に対抗して、ミカエル達が竜に戦いを挑んで打ち破ります。
その巨大な竜であり、年を経た蛇であり、悪魔やサタンと呼ばれる者は、サタンの使いの者と共に、地上へ投げ落とされてしまいました。
この部分で述べることは、天使と悪魔との間で戦いがあったという表現は、人間が想像する戦いとは隔たりがあると思いますが、赤い竜による、霊が成長する仕組みへの介入に対して、天使達が阻止する活動をしていたようです。
やがて赤い竜は、元々の自らの希望である「神になる」道が閉ざされてしまい、また他の天使との関係も悪化して居たたまれなくなったので、自ら地上近くへ逃げ出したというのが、どうも実態に近いようです。





■ 天から堕とされた赤い竜

黙示録の第十二章第十節~第十二節では、赤い竜が地に堕とされたのを受けて、天で大きな声が言ったそうです。
「神の救いと力、神の権威によって、我々の兄弟を神の御前で告発する者が投げ落とされた。
兄弟達は、小羊の血と、自分たちの証しの言葉で、彼に打ち勝った。
そこで天に住む人々よ、喜べ。
しかし地と海は不幸だ。
悪魔は怒りに燃えて、お前達の所へ降っていった。
残された時が少ないのを知ったからである。」
さて、ここで述べているのは、赤い竜が神の前で偽りの告発を並べ立てて、他の霊や天使達を陥れようと画策したことと、他の霊が自らの冤罪を神に訴えて認められたこと、その結果、赤い竜はペテン師の烙印を押されて、天に居場所がなくなってしまったことです。
しかし、赤い竜は自らの行いを他所に、怒りと嫉妬に狂って新たな策略を試みます。
赤い竜が降っていった地と海に対して策略を行うので、地と海が不幸なのです。
続く第十三節~第十八節では、赤い竜が地上へ投げ落とされたことに気づくと、男の子を産んだ女の後を追いかけます。
しかし女には、荒れ野にある自分の居場所に飛んでいけるように、大きな鷲の羽が与えられていました。
女は蛇から逃れて、一定期間養われることになっていたのです。
蛇は、口から川のように水を女の後ろに吐き出して、女を押し流そうとしました。
しかし、大地が女を助けて、口を開けて、竜が吐き出した川を飲み干しました。
竜は女に対して激しく怒って、その子孫である、神の掟を守る者、イエスの証しを守り通している者達と戦おうとして、出ていきました。
そして、竜は海辺の砂の上に立ちました。
さて、第十二章の冒頭に出て来た女は、人間や生物を生んだ神であり、また霊が生物に宿って成長する仕組みを指すと述べましたが、嫉妬に狂った赤い竜は、この仕組みが原因で、自分が神になる道が閉ざされたと逆恨みしておりました。
そして、天では概ねその知識が共有されておりましたが、地上では一部の者のみが朧気に知る程度の状況でした。
そこで赤い竜は考えました。
地上に住む人々を相手にするなら、人間や生物の存在理由や、霊が成長する仕組みや目的についての知識が欠けているので、こちらで偽りの知識を与えて騙すことにより、人々を思いのままに操ることが出来るかも知れない。
よくよく考えてみれば、それは神が人々を従えるのと変わらないじゃないか、と。
赤い竜は、地上の各地に伝わる、神と人々の関わりを伝える古の神話・伝説の類を消して回りました。
しかし事は思うように運ばず、地上の人々の中にも、一部には神々と人間の関係をよく知る人々がいて、物事は思うように捗りません。
ましてや、いつの間にか女の子孫であるイエスが地上に使わされて、せっかく自分が打ち消して回った神と人間の関わりにまつわる秘密を、逆に地上の人々に広めようとしたのです。
そこで、神の掟を守り、イエスの証しを守り通している者達=キリスト教に目をつけ、彼らを籠絡してペテンに掛けようと近づいていきました。
ということで、地上に堕とされた悪魔サタンは、地上の人々が神様や天についての知識が欠けている所に付け込んで、自分が地上の人々にとっての神様に成り代わろうとしました。
竜が水を吐き出して、女を押し流そうとする描写がありますので、あるいはノアの時代には、サタンの影響を受けていた可能性を伺わせます。
しかし思うように事が運ばずに、ましてや天から新たな使者としてイエスが使わされ、神とイエスを信仰する新たな集団が生まれてしまいました。
悪魔サタンは、イエスの言葉や生涯のエピソードが地上に伝わることにより、自分の目的の妨げになると考えたので、地上の人々のイエスに対する知識や記録を改竄し、あわよくばキリスト教の神に成り代われないかと野望を抱いたのです。





■ 海の中から上がってきた第一の獣

黙示録の第十三章第一節~第七節では、一匹の獣が海の中から上がってきます。
この獣には(赤い竜と同じように)、十本の角と七つの頭があります。
そして(赤い竜は七つの頭に冠を被っていましたが)、角の方に十の王冠があり、頭には神を冒涜する様々の名が記されています。
その獣は豹に似ていて、熊のような足と、獅子のような口をしていました。
竜はこの獣に、自分の力と王座と権威を与えました。
そして獣の頭の一つが傷付けられて、死ぬ程の致命傷を与えられたものの、その傷も治ってしまいました。
それを見た全ての土地の人々は、驚いてこの獣に服従しました。
竜は自分の権威を獣に与えたので、人々は竜と獣を拝みました。
「誰もこの獣に敵わないし、誰も戦えないだろう」
この獣には大言と冒涜の言葉を吐く口が与えられて、四十二ヶ月の間、活動する権威が与えられました。
そこで、獣は口を開いて、神と、天に住む者達を冒涜しました。
獣は、聖なる者達と戦って勝つことが許されました。
また、あらゆる種族、民族、国民を支配する権威が与えられました。
さて、海から上がってきた一匹の獣とは、一体何を指すのでしょうか。
管理人は、この獣の正体を、ローマ帝国による庇護を受けたキリスト教会と推定しました。
ただし、キリスト教会が中心ではありますが、キリスト教的価値観に支配された国家全般に影響は及びますので、ローマ帝国及び、ローマ帝国衰退後のキリスト教国の総称として獣に例えたという解釈が妥当だと思います。
まず、海から上がってきた獣とは、ローマ帝国が地中海を舞台に広大な領域を支配した経緯を見れば、正に海から上がってきた獣の表現が相応しいでしょう。
獣には十本の角と七つの頭がありますが、十本の角にはそれぞれ王冠がありますので、これはローマ帝国と後継国家など、キリスト教会を守護してきた王国を指します。
そして七つの頭には神を冒涜する名が記されていますが、これはキリスト教会の影響が及ぶ土地と解釈しました。
異教徒を排斥し、異教の神を悪魔に貶めることによって、キリスト教会の布教が進んでいったからです。
竜は獣に、自分の力と王座と権威を与えますが、これがローマ帝国によるキリスト教会の保護と国教化を示すと推定しました。
さて、獣の頭の一つが死ぬ程の致命傷を負うのですが、その傷も治ったというのは、イスラム勢力のイベリア半島侵攻からレコンキスタまでの流れを表していると解釈しました。
ローマ帝国時代からキリスト教圏であったイベリア半島では、八世紀に入ってから地中海対岸の北アフリカを版図に治めていたイスラム国家による侵攻を受けました。
その後ほぼ十五世紀一杯まで掛けて、ようやくイスラム勢力をイベリア半島から駆逐します。
そのレコンキスタの間に、イベリア半島ではポルトガルとスペインが誕生しており、レコンキスタの終結から程なく、スペイン、ポルトガルともに、北アフリカを端緒とした海外侵略を開始、大航海時代を迎えることになります。
その大航海時代を示すと思われるのが、第五節~第七節に当たる部分で、特に欧州諸国によって南北米大陸が征服されてゆく様子が、「獣は聖なる者達と戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた」の部分に象徴されていると思います。
そうすると、第五節~第六節の部分はどの様に受け止めたら良いのでしょうか。
この獣には、大言と冒涜の言葉を吐く口が与えられると同時に、四十二ヶ月の間、活動する権威が与えられたので、獣は神や神の名、神の幕屋、天に住む者達を冒涜したとあります。
そこでキリスト教の歴史について調べてみると、キリスト教の教義・典礼・教会法などについて審議・決定する『公会議』と呼ばれる最高会議があるそうです。
初期の『公会議』で議題となっているのは、父なる神と子であるイエス、そして聖霊の関係について、教派によってばらついていた解釈を、キリスト教会としての統一見解を定める所にあったようです。
その際に『ニカイア信条』や『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』などを採択しておりますが、これらがキリスト教会として公式の解釈=教義と定められました。
インターネット上でも、これらの『信条』の日本語訳が閲覧できるのですが、管理人が確認した限りでは、むしろ聖書の記述を歪めて解釈をねじ曲げている印象を受けました。
例えば、先程述べた神とイエスと聖霊の関係について、上記信条ではいわゆる『三位一体』論の解釈を定めていますが、黙示録の第三章第二十一節では、イエスの導きのままに努力し、勝利を得た者に対して、「私が勝利を得た時に、父なる神と共に着いた玉座に、あなたも共に座らせよう」と述べています。
これは神、イエス、聖霊が一体で唯一の神とする、『三位一体』論の明確な否定に当たると思うのですが、キリスト教会の方はどの様に受け止めているのでしょうか。
ともあれ、上記の理由により、キリスト教の『公会議』は、聖書の記述と一致しない解釈を教義と定めていますので、神と神の名や、神の幕屋、天に住む者を冒涜する行為に当たると思うのですが、いかがでしょうか。

続く第八節~第十節には、こうあります。
地上に住む者のうち、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書に名前が記されていない者達は、皆、この獣を拝むでしょう。
聞く耳を持つ者は、聞きなさい。
捕らわれるべき者は、捕らわれてゆく。
剣で殺されるべき者は、剣で殺される。
ここに、聖なる者達の忍耐と信仰が必要になります。
さて、屠られた小羊=イエスの命の書とは、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】でも取り上げましたが、そこに名前が記されていると第二の死を避けられるとあります。
第二の死については、今後投稿予定の記事にて解説しますので、ここでは割愛しますが、言葉を換えると、獣を拝む者はイエスの命の書に名前が記されないので、第二の死を免れないと言うことでしょうか。
その様な、言わば獣に支配された世の中なのですから、聖なる者=聖書に綴られた神の言葉やイエスの言葉をよく理解して実践する者ほど、獣とそれを拝む者にとっては目障りなので、過酷な境遇に置かれやすいのでしょう。
その様な悪魔の時代を聖なる者が生き抜くには、並々ならぬ忍耐が求められるとの、イエスからの忠告でしょうか。





■ 地中から上がってきた第二の獣

黙示録の第十三章第十一節~第十五節では、もう一匹の獣が地中から上がってきます。
この獣には、小羊の角に似た二本の角があって、竜のように物を言っています。
第二の獣は、第一の獣が持っていた全ての権力を、第一の獣の前で振るう事によって、そこに住む人々に第一の獣を拝むように仕向けました。
そして、大きなしるしを行って、人々の前で天から地上に火を降らせました。
更に、第一の獣の前で行ったしるしによって、地上に住む人を惑わせ、また、第一の獣の像を造るように、地上の人々に命令しました。
第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像が物を言うことさえ出来るようにしました。
そして獣の像を拝もうとしない者は、皆殺しにさせました。
さて、ここで第二の獣が出て来ます。
小羊に似た角があるので、イエスを装っているのですが、口から出るのは赤い竜であるサタンの唆しです。
イエスを装っていますので、イエスの足跡を辿ることによって、第二の獣の正体を明らかにするヒントが掴めそうです。
イエスは生前に、ユダヤ教のファリサイ派や律法学者の姿勢を激しく批判しておりますが、これは従来のユダヤ教に対する見直しの象徴と捉えることが出来ます。
その様に考えると、大航海時代の最中に始まった宗教改革運動は、従来のキリスト教に対する見直しの動きですので、イエスを装った第二の獣とは、宗教改革運動をきっかけにしてカトリックから分裂した、プロテスタントが該当することになります。
先程の項目で第一の獣について検証した様に、第二の獣についても歴史的経緯に照らして確認してゆきましょう。
第十二節で、第二の獣は、第一の獣が持っていた全ての権力を、第一の獣の前で振るいます。
それによって、地とそこに住む人々に、第一の獣を拝ませるのですが、これは大航海時代に欧州諸国が南北米大陸に侵攻、植民地化する際に、「キリスト教の布教」という建前を使用した経緯を表していると推定します。
そうすると、北米はプロテスタントが優勢ですが、中南米はむしろカトリックが支配的ですので、第二の獣がプロテスタントと断定するには無理がありそうです。
しかし、その次に、大きなしるしを行って、人々の前で天から地上へ火を降らせたとあります。
この「大きなしるし」とは、黙示録の第六章で述べている、小羊が神から受け取った巻物の第一の封印を開いたことを指しますので、その後に「人々の前で天から地上へ火を降らせた」のは、第一次世界大戦と第二次世界大戦、とりわけ第二次世界大戦において、巨大な爆撃機が大量の爆弾を地上に投下する様子を想像させます。
更に、先程の「大きなしるし」によって、地上に住む人々を惑わせ、また第一の獣の像を造るように、地上の人々に命じたとありますが、米国は戦争で疲弊した欧州を復興する為に、『マーシャル・プラン』を立ち上げました。
そして、第一の獣に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものをいう事が出来るようにしたというのは、欧州の復興がやがてローマ帝国の再来を思わせるEU統合への筋道をつけること、それに加えて、欧米が中心となって各種国際機関を設立して、キリスト教的価値観を共有する欧米諸国主導の国際社会秩序が形作られてゆく過程を述べているのでしょう。
それから、獣の像を拝もうとしない者を皆殺しにさせたというのは、いわゆる米ソの代理戦争と言われたあらゆる紛争や、対テロ戦争と言われた米国主導の多国籍軍による戦争などが該当するのでしょう。
もう一つの意味合いとして、技術の進歩に伴って新たに創り出されたテレビ、ラジオなどの映像・通信系機器類は、獣の像に息を吹き込む事に該当するでしょう。
そして、獣の像を拝む者が、テレビ・ラジオ等のマスメディアの論調を鵜呑みにする者を指すなら、マスメディアに違和感を持つ人にとっては息苦しく、精神的に殺されたような日々を送っていたとも表現できるでしょう。
ここまで来ると、どうやら第二の獣とは米国及びプロテスタントの価値観が該当しそうですが、第二の獣についての記述がもう少しだけ続きますので、最後まで確認してしまいましょう。

第十六節~第十八節では、あらゆる者の右手か額に刻印を押させます。
その刻印がある者でなければ、物の売り買いが出来ないようになりました。
その刻印は獣の名であり、獣の名の数字です。
その数字とは人間を指しており、六百六十六です。
先程までの話の流れを考慮に入れると、これが何を指すのか、ご覧の皆様にも大体想像がつくのではないかと思います。
それを一言で表現すると、グローバリズム、グローバル資本主義などという事が出来るでしょう。
世界各国の経済活動・商取引のルールを統一しようとする考え方なのですが、現実には世界最大の経済規模を持ち、国際決済通貨ドルと世界各国に軍隊を派遣している米国主導で、国際的な経済活動のルール統一に向けた働きかけが続いております。
そういえば、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】でペルガモンにある教会の天使に宛てた手紙を紹介しましたが、ペルガモンとは米国を指すこと、ここにサタンの王座があること、そしてオバマ大統領と同じ名前と同等の立場に立つ人物の言及がありました。
更に今回の記事では、サタンの影響を受けた獣が、今のEUと米国を指しているように読み取れます。
そうなると、ここで述べている獣の名の刻印とは、カトリックとプロテスタントに代表される現代のキリスト教的価値観そのものを指すことになります。
では、獣の数字は人間を指すと言うこと、またその数字六百六十六とは、どの様な意味なのでしょうか。
創世記の第一章には、第六の日に神は地上の獣らを産み出し、また人間を創造していますので、獣の数字の六とは獣や人間が誕生した日を指すのでしょう。
では、六百六十六とは何を意味するのでしょうか。
創世記の第二章によると、天地と万物が完成されたので、第七の日に神は仕事を離れて安息します。
そして第七の日を神は祝福し、聖別します。
一見すると、第六の日で天地万物が完成されたようにも見えますが、第七の安息の日に辿り着いて、やっと天地創造が完成します。
しかし、獣の名の刻印をされた者は、いつまでも人間のままでいることに安住して、第七の日へ向けてステップアップしようとしません。
その姿はまるで、父なる神やイエスを唯一無二の特別な存在と崇め奉っても、生前のイエスの行為に見習って父なる神の玉座へ引き上げてもらおう等とは、いつまで経っても思いも寄らないキリスト教徒の姿に重なるのですが、いかがでしょうか。
ということで、六百六十六とは、聖書に綴られた神の言葉や、イエスの言葉や足跡に学んで自身を鍛えようとせず、父なる神やイエスを唯一無二の神の座に祭り上げた上で、神の名を掲げて背信行為を繰り返すキリスト教徒を表す数字と言えるでしょう。
また、かつては神の座を激しく欲しながらも天から堕とされ、今度はキリスト教会に付きまとって、キリスト教の教義を聖書の記述から突き放して、悪魔の価値観に変質させた上で、キリスト教徒にとっての神を気取ってみても、絶対に本物の神の座に辿り着くことは出来ないと言う意味でもあります。
六を三つ重ねても(幾ら重ねても)七には成らないから、獣の数字であって人間を指すのです。
ちなみに、獣の刻印に該当する具体的な対象としては、国際決済通貨としてのドル(もしくはユーロ)であり、クレジットカードなどの電子情報伝達による決済システム辺りが該当するでしょうか。





■ 悪魔サタンとキリスト教の関わりについてのまとめ

前回の記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その3)】では、第七の天使がラッパを吹いた所までを紹介しましたので、今回はその続きなのかと思いましたが、実際に解読してみると、悪魔サタンが天から堕とされた経緯や、その後キリスト教会に付きまとって侵蝕してゆく様子が描かれていました。
ここまで皆様にもご覧頂いたように、キリスト教会は成立後間もない頃から悪魔サタンに付け狙われ、キリスト教会に関わる人々への干渉を続ける中から、少しずつキリスト教の教義を聖書の記述から引き離し、悪魔サタンの価値観へと変質させてゆきました。
そして今や、イエス・キリストの名を借りた悪魔信仰を武器として世界に覇を唱え、日常生活に欠かせない社会システムそのものが、彼らの信仰する悪魔サタンの価値観を礎に築かれてしまいました。
六百六十六の獣の数字を刻まれたのは、キリスト教会の本質が聖書から悪魔信仰にすり替わってゆくのを見抜けなかった――あるいは積極的に推進した――キリスト教徒だけではありません。
キリスト教会の硬軟取り混ぜた巧みな、あるいは強引な布教活動に誘導され、彼らの価値観を受け入れてしまった、現代を生きる大半の人間に、六百六十六の数字が刻まれてしまったのです。
しかし、この様な事態は、『ヨハネの黙示録』が書かれた時点で既に想定されていました。
何故なら、十二章の最初に「天に大きなしるしが」あって、それから身ごもった女が現れます。
更に、「もう一つのしるしが天に」現れて、それから赤い大きな竜が現れます。
そして十三章に入ると、第二の獣が「大きなしるし」を行いますが、これは小羊イエスが神から授かった巻物の七つの封印のうち、第一の封印を開いたことを指すと述べました。
ここで言う『しるし』について、今は「神が予め“必ずここを通過する”と定めた通過点」とだけ、述べておきましょう。
私たち人間は、悪魔サタンの罠にまんまと嵌まって、思いのままに翻弄されているようにも見えますが、そのシナリオは予め『ヨハネの黙示録』に示されていました。
これは一体どの様に受け止めれば良いのでしょうか。
きっと『ヨハネの黙示録』のどこかに、何らかのヒントが隠されていることを期待して、次回以降の記事をお待ち下さい。

Silvercord管理人 





なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご覧下さい。

閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/


上記記事の内容についてのご意見・ご感想・ご質問はコメント欄よりお寄せ下さい。
また、コメントを投稿される際は、記事【改めて、ご覧の皆様へのお願いと連絡事項】をご覧下さい。

2014年8月15日金曜日

転生を繰り返しながら共に過ごす霊たち[小ネタ]

今回は『ヨハネの黙示録』を解読するシリーズを一回お休みして、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その2)】のコメント欄にお寄せ頂いた質問の回答と、関連する事柄について、霊界の住人の意見を紹介したいと思います。
なお、今回の記事は[小ネタ]枠になります。
霊界の住人の意見を、管理人の責任で編集した文章をお届けすることになりますので、予めその点だけご了承下さい。





■ 匿名様の質問

霊界における結婚や家族の概念とはどのようなものでしょうか。気になるのは複数回転生を繰り返しその度に結婚や出産を経験する霊も沢山いると思うのですが、転生した時、以前の夫婦関係や親子関係は上書きされて無かった事になるのかというところです。また少し考えを発展させて、例えば500年前にある男女が結婚し仲睦まじい人生を終え帰幽しました。男の方は現在地上に転生し地上で新しい女性と結婚しました。女の方は転生することなく霊界で過ごしています。そして新しい地上生活をこれもまた仲睦まじく終えた男女が帰幽した場合、霊界で重婚や三角関係などでややこしい事にならないのものでしょうか。





■ 霊の性別について

匿名様の質問を拝見した際に、取りあえず管理人から以下の回答を述べておりますので、最初に管理人の回答の抜粋を転記した上で、霊界の住人の方の意見を紹介して参ります。
匿名様の上記質問に対して、管理人が回答したのは、以下の二点でした。
・男女の性別は人間の肉体的特性なので、霊に性別はないこと。
・霊にも個性はあるので、男性的な霊や女性的な霊はいる。

まず、上記の二点については、霊界の住人の方も同様の見解でした。
霊には、人間のような肉体的な性別は必要がないので、人間が考えているような男女の概念はない」とのことです。
また、「霊には父性と母性が予め備わっていて、それらを状況に応じて使い分けている」そうです。
そして、「霊的に未熟な間は、父性と母性のバランスを欠いている為、父性と母性を適切に使い分けることが出来ないので、霊によって父性が強く出たり、逆に母性が強く出る」場合がある様です。
ここで管理人は、霊の個性として男性的、女性的な霊はいると述べましたが、「未熟である為に父性と母性のバランスが上手く取れない」という見解が正解のようです。
但し、神話の神々にも男性神と女性神が居りますし、神様でしたら父性と母性のバランスを安定させられる程度に成熟していると思われますので、神様の男女については、役割に応じて父性と母性を使い分けている現れと見ることが出来るでしょう。





■ 霊はどの様にして、男/女として生まれることを選択するのか

未熟な成長段階の霊には、父性が強い霊と母性が強い霊がいるのでしたら、父性が強い霊は男性に生まれ、母性が強い霊は女性に生まれるのかというと、実は一概にそうとも言えないようです。
霊が人間として生まれる際には、人間としての生涯を送る中でどの様な経験に学びたいのかという、明確な目的意識があるそうですので、その目的を成し遂げる為には男性の方がやりやすい、もしくは女性でなくては出来ない場合もあります。
そこで、その時の人生の目的に応じて、達成の為に都合の良い方の性別を選ぶようです。
ですから、誕生前に選んだ性別と霊的な父性・母性のバランスによって、男性的な女性もいれば、女性的な男性もいます。
尤も、最近は肉体的な性別と霊的な特性が食い違っていても、自分のありのままの姿を表現し、又その様な人々に対して寛容に受け入れる社会に変わりつつある印象があります。
その辺りの選択は、個々の霊の目的意識と関心の方向性によりますので、霊の視点から見ると一概に善し悪しを断定できません。
いずれにせよ、最終的に父性と母性を共に活かせるようになって、上手く双方のバランスを取れるようになることが到達点となります。
そこへ至るまでの道程は、各々の霊によって千差万別です。





■ 近しい間柄の人間として生まれる霊達の関係

前置きはこのくらいにして、いよいよ匿名様の質問の本題に入っていきましょう。
霊界の住人は、「家族や友人などの近しい間柄の者として、何らかの深い関わり合いを持つ機会が多い存在は、霊の状態の時に同じグループ内にいて、お互いに影響を与え合いながら学ぶことを決めていて、予め契約を結んだ状態で人間として産まれてくる」のだと言います。
転生する度に、個々の霊にとって学びを得たい経験は異なりますが、特定の霊同士がお互いに学びたいテーマを学べるように、相互の役割や関係性を変えながら、そのグループのメンバーが皆協力しながら、必要な経験を積み重ねてゆく様です。
例えば、ある生涯では夫婦として過ごした霊たちが、次の生涯では親子や兄弟・姉妹であったり、唯一無二の親友であったりといった関係を、その都度必要に応じて立場を入れ替わったり、同じ夫婦や恋人同士であっても、男女の関係を入れ替わったりと言ったように、お互いの肉体に宿る霊は同じでも、お互いの立場と関係性を変えて行くことによって、共同してより多くの経験を積み重ねることが出来ます。
ですから、匿名様への回答その一としては、人間である時のお互いの関係性は、関係者である霊同士が、その人生で学びたい経験を、共同で積み重ねる為に都合の良い間柄だということが言えます。
人間の時に作り上げた関係を、生涯を終えた後にまで引きずるのではなく、誕生前にお互いがどの様な関係で人生を送るのかを決めてから、その約束に基づいて人間としての関係を結んで、目的とする経験を積み重ねて行くことになります。
ですから、質問にある「転生した時、以前の夫婦関係や親子関係は上書きされて無かった事になるのか?」については、過去の人間関係は、その生涯で目的とする経験を積む為に必要な“設定”として、記憶されます。
人間として過ごしている時には、過去の記憶は封印されていますが、肉体との繋がりが解けると、生涯を終えた直前の人生と共に、それ以前の過去の記憶も全てが開放されます。
ですから、過去の記憶が開放された時点で、人間であった時のお互いの関係が、一時的な仮の関係である事を理解しますから、特定の過去世の関係に拘る意味を感じないのです。





■ 特定の霊に対する執着

特定の霊同士が、お互いの立場や関係性を変えながら、共に人間としての生涯を過ごして行く例えについて述べましたが、では、そういった特定の霊に対する執着には、どの様な意味があるのでしょうか。
霊界の住人は、「良い意味でも悪い意味でも、執着してしまう間柄には何らかの意味があるので、何故執着してしまうのかを学ぶ為に、同じグループの者同士で人間としての生涯を送る選択をする」のだと言います。
良い意味と悪い意味とある様に、仲の良い相手ばかりではなく、傷付け合ったり敵対する者同士の間でも、執着してしまう関係が成りたつようです。
お互いの関係が良くても、悪くても、執着するからには、その相手との関係の中に自分の理解できないことがあり、それを理解したいと自分が望んでいることになります。
例えば、お互いに相手を嫌な奴と思っていても、何故か度々自分に突っかかってくる相手がいる――或いは、どうしても相手が気になって、自分から絡んでいく――そのような場合もあると思います。
幾ら自分がその相手が気に入らないと思っても、その相手と関わる中から学ばなくてはならない物事がある――そんな事例もあり得るようです。
それがどの様な相手であっても、執着するにはそれなりの理由があって、その相手と関わる中から執着の理由を見つけて、その理由を解消してしまえば、善し悪しにつけ、過度の執着はなくなってゆく様です。
もちろん、自分がその理由に気づいても、相手が気づかない場合もあります(その逆もあります)が、執着する関係の片方だけがその理由に気づいた場合でも、今度はお互いの学ぶテーマ(関心の対象)にズレが生じてしまうので、次第にお互いの関係が解消されて、離れて行ってしまうそうです。





■ 地上生活での人間関係を霊界に持ち込む者達

以上の前提を踏まえて、匿名様の質問の事例について考えてみましょう。
先に述べたように、地上生活における人間関係は、特定の経験を積む為に必要な“設定”であり、一時的な仮の関係なのですから、その関係を帰幽後に持ち込んでいる時点で、地上に産まれた本来の目的を見失っていることになります。
霊界の住人は、「人として産まれた当初の目的を忘れて、霊界に戻ってからも人間的な恋愛感情を持ち込んでしまう場合は、再び地上に誕生して、例えば一人の男性を二人の女性が取り合うなど、人間的な感情の赴くままに振る舞える環境を選択して、醜く争うことになる」と述べております。
本人達はそれで何とか決着を付けようとするようですが、霊界の住人に言わせれば「それがどの様な不毛な選択であるのかを理解して、飽きてしまうまでは何度でも繰り返すことになる」のだそうです。
そして、「その姿はまるで虜囚のようである」と見えるようです。





この度ご紹介した質問については、霊媒と協議の上、霊界の住人の見解をお知らせした方が良いと判断しました。
しかし、コメント欄からお寄せ頂いた質問は、基本的に管理人から回答するという方針には変わりありませんので、その旨ご了承下さい。

Silvercord管理人 





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また、コメントを投稿される際は、記事【改めて、ご覧の皆様へのお願いと連絡事項】をご覧下さい。

2014年8月8日金曜日

『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その3)

この記事は、以前投稿した下記記事の続編となりますので、未読の方はこちらの記事より順番にご覧下さい。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】
『ヨハネの黙示録』第一章~第三章、アジア州にある七つの教会の天使に宛てた手紙について。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その2)】
『ヨハネの黙示録』第四章~第七章、イエスが神から託された巻物の七つの封印のうち、第一~第六の封印を開いてゆく。





■ 巻物の第七の封印

黙示録第八章の冒頭で、イエスはいよいよ巻物の第七の封印を開きます。
第二節~第五節では、神から七人の天使にラッパが与えられ、金の香炉を持った別の天使には多くの香が与えられます。
玉座の前にある金の祭壇の火を香炉に満たして、そのまま天使は香炉を地上に投げつけます。
ここで、金の祭壇の火とは神聖なる力を表しますので、この後地上で起こる出来事は神様の神聖な力による出来事であることを示します。
そして神様よりラッパを与えられた七人の天使が、事態の進捗状況を知らせる為にラッパを鳴らします。
それは以下のような流れで進みます。





■ 第一の天使がラッパを吹いた

黙示録の第八章第七節では、第一の天使がラッパを吹きました。
すると血の混じった雹と火が生じて、地上に投げ入れられます。
その為に地上の三分の一が焼け、木々の三分の一も焼け、全ての青草も焼けてしまいます。
霊界の住人によると、これは大規模な陸上戦闘によって多くの血が流れ、また大地が著しく荒廃してしまうことを示しているようです。
一見すると、さらりと簡単に流しているようでも、地上の三分の一を焼くのですから、恐らく相当大規模の戦争が起こるのか、もしくは広範囲で紛争の絶えない世の中になることを示唆しているのではないかと思います。
それでも、今後に控えている事態を思えば、まだまだ序の口と言うことなのでしょうか。





■ 第二の天使がラッパを吹いた

黙示録の第八章第八節~第九節では、第二の天使がラッパを吹きました。
すると火で燃えている大きな山のようなものが、海に投げ入れられます。
その為に海の三分の一が血に変わり、被造物で海に住む生き物の三分の一が死にます。
また、船の三分の一が壊されます。
霊界の住人によると、これは大規模な海上戦闘が起こり、その為に海の生物に多くの被害が出て、また多数の船舶が沈められる事を示しているようです。
特に注意したいのは、あえて「被造物で海に住む生き物」と表現している点で、被造物=神の手により創造された生き物であると強調したい心の内が伺えます。
つまり、人間同士の諍いが原因で起こった戦争に、神が創造された海の生物を多数巻き込む理不尽さを諫めているように読めるのですが、いかがでしょうか。
ともあれ、海の三分の一を血に染める大海戦が起こるようです。





■ 第三の天使がラッパを吹いた

黙示録の第八章第十節~第十一節では、第三の天使がラッパを吹きました。
すると松明のように燃えている大きな星が天から落ちてきて、川の三分の一とその水源の上に落ちます。
その星の名は「苦よもぎ」といって、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなったので、多くの人が死にました。
霊界の住人によると、これは深刻な水質汚濁が起こり、飲用水として使用していた川の水が汚染されて、毒水に変わってしまった事を示しているようです。
それ程の深刻な水質汚濁の実情を知らなかったのか、もしくは知っていても、他に清浄な水を手に入れる手段がなかった為に、毒水と知りつつ飲用せざるを得なかったのかは分かりません。
いずれにせよ、毒水を飲んだ為に多くの人が犠牲になってしまうようです。
さて、ここで述べている「苦よもぎ」が、ウクライナ語ではチェルノブイリと言う、との指摘があります。
この記述が、1986年にチェルノブイリ原子力発電所で起きた、原子力事故を暗示しているのではないか、との意見なのですが、霊界の住人は明確に否定します。
第一章から順番に、『ヨハネの黙示録』の一連の流れをご覧になってきた皆様でしたら、ここでいきなりチェルノブイリ原子力発電所事故の記述がされるのは不自然であり、文章の前後と何の脈絡もないと気づかれることでしょう。
それよりもむしろ、「苦よもぎ」の海外での名称が、『創世記』の「楽園から追放された蛇が這った後に生えた草」であるという伝説があって、それに因んで名づけられたそうなのですが、そちらとの関係の方が強そうです。
『創世記』第三章では、予め神から禁じられていたにもかかわらず、蛇がエバを騙して善悪を知る者の実を食べさせ、アダムも蛇に唆されたエバの言うままに木の実を食べてしまったので、それを知った神はアダムとエバを楽園から追放します。
エバを騙した蛇とは悪魔サタンを指しますが、その蛇の這った後に出来た草ですから、悪魔サタン的な価値観を象徴する草と見ることが出来ます。
つまり、人間社会がサタン的価値観に支配された結果として、必然的に清浄な水も毒水に変質してしまうと言う比喩表現でしょうか。
残念ながら、「苦よもぎ」の名前にまつわる伝説は確認できませんでしたが、もしその伝説の内容が詳しく分かれば、他にも何かが分かるかも知れません。





■ 第四の天使がラッパを吹いた

黙示録の第八章第十二節~第十三節では、第四の天使がラッパを吹きました。
すると太陽の三分の一、月の三分の一、星の三分の一が損なわれて、それぞれ三分の一が暗くなりました。
その為に、昼は光の三分の一を失い、夜も同じようになりました。
そして一羽の鷲が空を高く飛びながら、大声で言いました。
「不幸だ、不幸だ、不幸だ、地上に住む者達。なお三人の天使が吹こうとしているラッパの響きのゆえに」
霊界の住人によると、これは壮絶な大気汚染が起こり、太陽や月、星の明かりが地上に届きにくくなる程、空が暗くなってしまうことを示しているようです。
そんな空に一羽の鷲が飛んでいて、これから三人の天使がラッパを吹く度に、地上に住む人に不幸が襲うと警告しております。
何故鷲がその様なことを言うのでしょうか。
聖書の中で鷲が何を象徴しているのか、軽く調べてみましたが、何か特定の象徴とされているようには感じられませんでした。
あえて一つ上げるなら、第四章第六節~第七節に、玉座の中央と周りに四つの生き物がいるのですが、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであったということなので、あるいはこの鷲のような生き物を指しているのかも知れません。
そして、この鷲が発した言葉の意味は、以下の様な意味合いと受け取るのが正解でしょう。
第一~第四の天使がラッパを吹いた時には、それが例え思ったような結果に結びつかなくても、地上に住む人が自ら選択した行動です。
しかも、その選択は蛇の這った後に「苦よもぎ」が生えたように、悪魔サタンが引いたレールに沿って進められてきたものです。
だから自ら選択した結果は自分で刈り取る決まりに則って、これから三人の天使が吹くラッパの合図と共に、自ら選んだ結果が還ります。
それが地上に住むあなた方にとっては、不幸な偶然としか見えなくても。





■ 第五の天使がラッパを吹いた

黙示録の第九章に入って第一節~第十二節では、第五の天使がラッパを吹きました。
すると、一つの星が天から地上に落ちてきます。
この星には、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられていましたので、底なしの淵の穴を開きました。
すると穴から、大きな竈から出るような煙が上がって、太陽も空も煙の為に暗くなってしまいました。
その煙の中からイナゴの群が地上へ出てきます。
そのイナゴには、地に住むサソリが持っているような力が与えられており、地上の草木を損なってはならないが、額に神の刻印を押されていない人には害を加えても良い、と言い渡されました。
害を加えると言っても、殺してしまうのではなくて、五ヶ月の間苦しめることを許されました。
サソリのような力を与えられたイナゴは、サソリが人間を刺したような苦痛を与えます。
イナゴに刺された人は、五ヶ月の間、いっそ死んでしまいたいと望んでも、死ぬことが適いません。
イナゴの姿は出陣の用意を調えた馬に似ていて、頭には金の冠に似たものをつけ、顔は人間のようです。
女のような髪を生やして、獅子の歯のような歯があります。
胸には鉄の胸当てのようなものを着けて、羽の音は、多くの馬に引かれて戦場に急ぐ戦車の響きのようです。
更にサソリのような尻尾と針があって、尻尾には五ヶ月の間、人に害を与える力がありました。
イナゴは底なしの淵の使いを王として仕えていました。
王の名はアバドン、又はアポリオンと言います。
さて、一見すると、地上に大きなクレーターを作る程大きな隕石が落下して、その隕石の中に混入していた未知のウイルスが活性化、死に至る程ではないにせよ、一時的に感染が広がって多くの罹患者が出る――そんなシナリオが思い浮かびそうですが、ここはちょっと捻って考える必要がありそうです。
底なしの淵から煙が上がって、煙の中からイナゴの群が出て来ます。
このイナゴについてかなり詳細に説明しておりますが、このイナゴ――サソリのような力を与えられて、額に神の刻印を押されていない人に苦痛を与えるイナゴとは、一体何者なのでしょうか。
そのヒントは、イナゴが閉じ込められていた底なしの淵にあります。
『ルカによる福音書』第八章第二十七節~第三十三節には、イエスがレギオンと名乗る男と出会ったエピソードが記されております。
レギオンは悪霊に取り憑かれておりましたが、悪霊はイエスに「底なしの淵へ行け」と命じないように、イエスに願います。
ちょうど辺りの山には豚の群がいたので、悪霊は豚の中に入るからとイエスに願い出ると、イエスもそれを許します。
悪霊が豚に取り憑くと、豚の群は湖になだれ込んで溺れ死んでしまいました。
このエピソードから、底なしの淵とは、イエスが悪霊に「そこへ行け」と命じるような場所であり、恐らく悪霊に満ちた場所である事が想像できます。
ですから、イナゴの正体は、かつてイエスに「底なしの淵へ行け」と命じられた悪霊達なのでしょう。
このイナゴには、サソリのような力――毒で人に苦痛を与える力が与えられますが、致死性ではなく、「額に神の刻印を押されていない人」を、五ヶ月の間だけ苦しめることが出来ます。
では、サソリの毒とは、一体何でしょう。
それを知るには、イナゴの姿を知ることが頼りになります。
イナゴは出陣の用意を調えた馬に似ていて、胸に鉄の胸当ての様な物を着けて、羽の音は、多くの馬に引かれて戦場に急ぐ馬車の響きのようなので、イナゴの目的は何らかの戦闘の準備であることがわかります。
また、いずれも~のような物とか、~に似た物とあるので、そのものを指しているのではなくて、物の例えとしてその様な表現をしているのでしょう。
更に、イナゴの頭には金の冠に似た物を着けています。
金の冠とは、黙示録の第四章第四節で、神の玉座の周りにある二十四の座にいる、白い服を着た二十四人の長老が、頭に金の冠を被っていました。
長老は白い衣を着ているのですから、きっと遙か昔に勝利を得ていた者であり、神の玉座の周りに専用の座を与えられているのですから、神の側近と言ってもよい程の、高い権威のある方達なのでしょう。
その長老が被る金の冠と似た物を被っているのですから、きっと長老達を装った偽者なのです。
更に、顔が人間のようであり、女のような髪の毛が生えています。
さて、人間のようであり、女のように見えるとはどういう事でしょう。
女と言えば、『創世記』の第三章には、蛇が女を唆して、神に禁じられた善悪を知る実を食べさせ、アダムも女の言うがままに、善悪を知る実を食べてしまうエピソードが記されています。
つまり、かつて楽園で女が蛇に言われるがままアダムを堕落させたように、何者かの言うがままに「額に神の刻印を押されていない人」をたらし込んでしまう――それがイナゴに与えられた、サソリのような力の意味ではないでしょうか。
イナゴは神の近くにいる聖なる存在を装って、「額に神の刻印を押されていない人」に近づき、かつて蛇がアダムと女を騙したように、人を陥れるような話を耳元で囁いて唆すのでしょう。
「額に神の刻印を押されていない人」が、聖書に記された神の言葉の意味を理解できるとは思えませんし、そもそも神の言葉に照らして考えようとも思わないでしょうから、その話を真に受けてしまった為に、苦痛を受ける事になるのでしょう。
それは聖なる者を騙る紛い者、現代でも見られる犯罪紛いの宗教ビジネスやカルト宗教の主催者達にこそ、ピタリと当て嵌まる姿ではないでしょうか。
「~を買わないと呪われる」とか、「~をしないと救われない」などと、知識が欠けている人々の恐怖と不安感を煽って誘導し、精神的に追い詰めて洗脳してしまう――その様な被害に遭ってしまった方にとっては、例え死に至らなくとも過酷な精神的苦痛を受けるでしょうし、場合によっては死んでしまいたいと思い詰めてしまう人もいるかも知れません。
イナゴが与える苦痛とは、神の教え、神の言葉であると偽った紛い物の言葉によって、神の刻印を押されていない人を苦しめ、惑わせることを指すようです。
そして、イナゴがこの様な苦痛を与えるのは、この後に訪れる戦闘に備える為です。
ところで、「額に神の刻印が押されていない人」とわざわざ名指ししているのですから、この頃にも「額に神の刻印を押されている人」もいるのでしょう。
では、刻印を押されていない人がイナゴに苦しめられている時、刻印を押されている人はどうしているのでしょうか。
神の刻印を押されている人とは、神の言葉の意味をよく理解し、その言葉のままに実践している人を指します。
前回の記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その2)】でも述べておりますが、黙示録の第七章で第六の封印を開いた後、天使が神の僕(しもべ)達の額に刻印を押して回っていました。
彼らは既に勝利を得ることが約束されており、後に白い衣を着て、神の玉座の近くで仕えることになります。
ですから、幾らイナゴ達が聖なる者を装って、紛い物の言葉で騙そうとしても、神の言葉とそうでない物を的確に見極める事が出来ます。
ですから、額に神の刻印を押されている人は、上手にイナゴの苦痛を避けることが出来るのです。
説明が長引いてしまいましたが、あと少しだけお付き合い下さい。
では、そもそもイナゴが出て来た煙、底なしの淵の穴の鍵が開いた時に上がった、大きな竈から出るような煙とは何でしょうか。
その煙によって、太陽も空も覆い隠されて暗くなってしまうとあります。
これは、イナゴである悪霊達が吹聴して回る価値観、物の考え方が社会に蔓延って、神の言葉と紛い物の言葉の違いが分かり難くなってしまうことを表しております。
そして、底なしの淵に閉じ込められていた悪霊を解放した者、天から地上に落ちてきた星であり、底なしの淵の穴を開く鍵を持っていた者は悪魔サタンと言うことになります。
これで、第五の天使がラッパを吹いてから起こる出来事に付いて、概ね解説しましたが、最後に一つだけ付け加えます。
それは、悪魔サタンに底なしの淵の穴の鍵を渡したのは誰なのか、と言うことです。
ここで先に結論を述べてしまうと、神様から底なしの淵の穴の鍵を開ける権限を与えられたのですが、何故神様は、地上に暮らす人々に苦痛を与えるような行為を許したのでしょうか。
今後の記事において、その辺りの事情が少しずつ明らかになってゆくでしょう。





■ 第六の天使がラッパを吹いた

黙示録の第九章第十三節~第十一章第十四節では、第六の天使がラッパを吹きました。
そうすると、神の御前にある金の祭壇の四本の角から聞こえた声が、第六の天使に向かって言いました。
「大きな川、ユーフラテスのほとりに繋がれている四人の天使を放してやれ」
四人の天使は、人間の三分の一を殺す為に解き放たれました。
天使達は、この時の為に用意されていたのです。
その騎兵の数は二億であり、彼らは炎と紫、硫黄の色の胸当てを着けて、馬の頭は獅子の頭のようで、口から火と煙と硫黄を吐いていました。
口から吐く火と煙と硫黄により、人間の三分の一が殺されてしまいました。
馬の力は口だけではなく、尻尾にもあって、尻尾には蛇に似た頭があって、その頭で害を加えます。
それらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、悪霊や、金属類や石や木で造った偶像を礼拝することを止めませんでした。
また、彼らは人を殺したり、まじない、淫らな行い、盗みを悔い改めませんでした。
ここまでで第九章が終わりますので、まずはここまでの流れを見てゆきましょう。
最初の、神の御前に出てくる金の祭壇とは、第八章の冒頭で、天使が地上に投げつけた香炉は、金の祭壇から火をつけていましたが、こちらも同じ祭壇です。
また、ユーフラテスのほとりに繋がれている四人の天使、人間の三分の一を殺す為に用意されていた天使とは、第七章の冒頭で大地の四隅に立っていた四人の天使でしょう。
何故なら、彼らには大地と海とを損なうことを(神に)許されているのですが、神の僕の額に刻印が押されるまでは、大地と海を損なってはならないと、神の刻印を押す天使より申し渡されていたからです。
その、神の刻印を押される対象者全員に刻印を押してしまったので、いよいよ四人の天使が大地と海を損なう時が訪れたのです。
四人の天使は、二億の騎兵を用いて、人間の三分の一を殺しました。
この二億の騎兵とは、一体何者なのでしょうか。
騎兵の胸当ては炎と紫と硫黄の色であり、馬の口から火と煙と硫黄を吐いているので、恐らく大規模な戦争を示唆しているのでしょう。
更に、騎兵が乗る馬の尻尾にも力があって、尻尾には蛇に似た頭があって、殺されなかった人に対してはその尻尾で害を加えたのです。
尻尾で害を加えると言えば、第五の天使がラッパを吹いた時に、サソリのような力を与えられたイナゴが、五ヶ月の間だけ、額に神の刻印を押されていない人に苦痛を与えましたが、それと同じ様な事を行ったのでしょう。
つまり、人間の三分の一を殺した騎兵とは、神の言葉を理解できなかった為に、天使によって神の刻印を押されることもなく、神聖な者を装って近づいたイナゴが吹聴する悪魔サタンの考えに洗脳されて、言わばカルト宗教に絡め取られてしまった人々です。
彼らは、自分たちの考えと異なる者の存在が許容できないので、そういった対立する相手には戦争を仕掛けて滅ぼし、それ以外の者には、自分たちが絶対と信じる悪魔サタンの考えで害してゆくのです。
ですから案の定、この争いで生き残った人間は、神聖な者を装った悪霊や、物質で造った偶像を崇めるようになってしまいます。
また殺人や呪術、淫行や盗みを行うことにも疑問を感じなくなってしまいました。
第六の天使の項はまだまだ続きますので、先を急ぎましょう。

そこでもう一人の力強い天使が、雲をまとって天から降りてきます。
頭に虹を頂き、顔は太陽のようで、足は火の柱のようで、手には開いた小さな巻物を持っています。
天使が足で海と大地を踏みしめて、大声で叫ぶと、七つの雷が何かを語りました。
そこで天から声があって、「七つの雷が語ったことは秘めておけ」と言います。
天使は「第七の天使がラッパを吹く時、神の秘められた計画が成就する」と言いました。
そこで再び天の声が「天使の手にある、開かれた巻物を受け取れ」と言います。
天使は「(巻物を)受け取って、食べてしまえ。それはあなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い」と言いますが、それを食べると口には甘く、腹は苦くなりました。
さて、第十章に当たるこの部分は、全体的によく分からないことが記されています。
但し、はっきりと言えるのは、ここまでの流れが神の秘められた計画に沿っており、この後に訪れる第七の天使がラッパを鳴らした時に、神の計画は成就すると言うことです。
そして、ここはあくまでも管理人の予想なのですが、ヨハネが天使から受け取った小さな巻物とは、イエスが七つの封印を開いていった巻物の概要ではないかと思います。
巻物全体ではなく、神の計画を理解する為に欠かせない主要部分のみを抜粋した巻物なので、完全コピーではないと言う意味の小さな巻物なのでしょう。
それは口には密のように甘く=ぱっと見には簡潔にまとめられていて分かりやすく、腹には苦い=内容の核心を理解するのは難しい、と言うことなのでしょう。
その様に考えてゆくと、七つの雷が語ったことは、神の秘められた計画の核心に迫る内容だったので、神の計画が成就する前に明かすのは時期尚早であり、計画の進行に差し支えると言うことなのかも知れません。

それからヨハネは杖のような物差しを与えられて、この様に告げられます。
「神の神殿と祭壇を測り、そこで礼拝している者を数えなさい。
しかし神殿の外の庭はそのままにしておいて、測ってはいけない。
そこは異邦人に与えられたので、彼らは四十二ヶ月の間、この聖なる都を踏みにじるだろう。
自分の二人の証人に粗布をまとわせて、千二百六十日の間、預言をさせよう」
この二人の証人は、地上の主の御前に立つ二本のオリーブの木、又は二つの燭台です。
この二人に害を与えようとする者は、彼らの口から火が出て、その敵を滅ぼしてしまうでしょう。
彼らには、預言をしている間ずっと雨が降らないように天を閉じる力があります。
また、水を血に変える力があって、望みのままに何度でも、あらゆる災いを及ぼせます。
二人がその証しを終えると、一匹の獣が底なしの淵から上がってきて、彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまいます。
彼らの死体は、かつて彼らの主イエスが十字架に掛けられた都、ソドムとかエジプトと呼ばれる大きな都の大通りに取り残されます。
様々な民族の人々は三日半の間、彼らの死体を眺めて、墓に葬ることを許さないでしょう。
地上の人々は、二人の預言者に苦しめられたので、彼らの有様にとても喜んで、贈り物をやりとりするでしょう。
三日半後に命の息が神から出て、二人に入ると立ち上がったので、これを見た人はとても恐れました。
二人は、天からの「ここへ上がってこい」という声に応えて、雲に乗って天に昇りました。
その時大地震が起こって、都の十分の一が倒れて、この地震の為に七千人が死に、残った人々は恐れを抱いて神の栄光を讃えました。
さて、ヨハネが杖のような物差しで測っている神の神殿と祭壇とは、『銀の紐』で度々紹介している『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を指します。
そこで礼拝している者とは、それぞれの拠点の守人達です。
拠点の外側は異邦人に与えられてしまったので、拠点の守人達は拠点の外に出ないように、注意を促しています。
この後、異邦人は四十二ヶ月の間、拠点のある都を踏みにじるので、守人が巻き込まれないようにと言うことでしょうか。
異邦人が拠点のある都を踏みにじるのは、人間の三分の一が殺されてしまう程大きな争いがあって、治安が乱れてしまっているからでしょう。
争いの中を生き残った人々は、とうとう拠点を構えた土地にも牙を剥いて、襲いかかってきたのです。
そこに二人の証人が使わされて、千二百六十日の間、神の言葉を伝える役目を委ねます。
二人の証人とは、かつてイエスが人として為した様に、神が予め伝えた言葉が実際に起こると証明する役割を担う者です。
二人は粗布をまとっていますが、粗布とは言わば喪服のような物で、死者を弔ったり悲しみを表す際にまとうそうです。
彼らは何故粗布をまとっているのでしょうか。
拠点の意味と価値も分からないまま、拠点を構えた土地を占拠したり、偶像崇拝や殺人、呪術、淫行、盗みなどを止めなかった人々は、程なく裁きを受ける事が確定したので、救われない彼らに対する悲しみを表したのでしょうか。
二人の証人が異邦人達に伝えて回った神の言葉とは、きっと「今までに自ら行った行為の結果がこれから現れる」という趣旨であったと想定できます。
異邦人達は、今までに神の言葉に耳を傾けるチャンスが無数にありながら、神の言葉を語る者を迫害し、悪魔サタンの価値観に心酔して暴虐の限りを尽くしたので、この後第七の天使がラッパを吹いた後に起こることを告げたのではないでしょうか。
それは異邦人達にとっては都合の悪い内容だったのですが、二人の証人が誰にも邪魔されずに神の言葉を伝え終える為に、二人には強大な力が与えられました。
二人に害を加えようとする者は滅ぼされ、神の言葉を語る間は雨が降らず、またあらゆる災いをもたらす力です。
しかし、それは異邦人達が今そうされなくても、第七の天使がラッパを吹いた後には、遠からずそうなってしまう宿命なのです。
そんな強大な力を持った二人の証人も、神の言葉を伝え終えてしまうと、底なしの淵から上がってきた一匹の獣に負けて、殺されてしまいます。
その獣とは、第五の天使がラッパを吹いた時に、イナゴが出て来た煙と同じ様に、底なしの淵から上がってきました。
ですから、その獣は悪魔サタンに従う者です。
一方、獣に殺された二人の証人は、都の大通りに三日半も遺体を放置されますが、それは二人の証人が異邦人達に激しく嫌われ、疎ましく思われていたからです。
幾ら証人の言うことが神の言葉であっても、また正しいことであっても、異邦人である彼らにとっては非常に都合が悪く、また思い当たる節のある事を述べていたからです。
ですからきっと、一匹の獣が二人の証人を殺してしまった時に、異邦人達は心底ホッとしたことでしょう。
幾らあの縁起が悪い話を止めさせようとしても、不思議な力を持つ二人の証人には手を出せなかったけれども、これからはあのイヤな話を聞かされなくて済むのです。
異邦人達は大いに喜んで、お互いに贈り物のやりとりまでしたのでした。
そんな彼らによって占拠された都は、ソドムやエジプトに例えられてしまいます。
ソドムとは、『創世記』第十九章で、不品行の為に神によって滅ぼされた町です。
エジプトは、『出エジプト記』第五章~第十一章で、イスラエル人を過酷に使役した上、彼らのエジプトからの出立をファラオが拒否したので、神によって十の災いがもたらされた都です。
ですからこの都にも、かつてのソドムやエジプトと同様の結果がもたらされます。
一方、二人の証人は、かつてイエスが十字架に掛けられた時のように、三日半の後に復活し、神の御許に迎えられます。
その時に大地震が起こって、都に被害が出たり死者が出ると、異邦人達は慌てて神の栄光を讃えるのです。
例え口先で神を讃えようと、彼らは決して自らの行為を顧みて、悔い改めようとはしません。
彼らは異邦人、神の言葉の意味を理解できない人々なのですから。





■ 第七の天使がラッパを吹いた

第十一章第十五節にて、第七の天使がラッパを吹きます。
ここからいよいよ神の裁きが始まります。
第十七節~第十九節では、神の御前に座を構える二十四人の長老が、「神の僕、聖なる者、御名を畏れる者には等しく報いがあり、地を滅ぼす者が滅ぼされる時が来た」事を告げます。
そして、天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見えました。
そういえば、第十一章の冒頭にも「神の神殿と祭壇とを測り~」とありましたが、上ではこれを『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を指すと述べました。
ですから「天にある神の神殿が開かれる」とは、『霊界と地上界を繋ぐ拠点』が開かれる事を指すはずなのですが、ここまでにイエスが巻物の六つの封印を開く度に、地上にある六カ所の拠点が開いてゆき、この時点では既に全ての拠点が開かれているはずです。
しかし、それに加えて更に拠点を開くとは、一体どういう事でしょうか。
ここで、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】の七つの教会の天使に宛てた手紙に戻ると、六カ所の拠点の覡と守人に宛てた手紙以外に、もう一通の手紙がありました。
第三章第十四節~第二十二節の、ラオディキアにある教会の天使に宛てた手紙です。
そこで管理人は、ラオディキアにある教会の天使とは、『霊界と地上界を繋ぐ拠点』の覡や守人を除いた全ての方を指していると述べました。
そこで管理人が思い出したのは、以前投稿した記事【生存報告と今後の予定について】にて紹介した、霊媒Mが取り組んでいる新たなプロジェクトについてです。
以前は、この新たなプロジェクトの内訳についても、出来る限りご紹介しようと考えておりましたが、霊界の住人の方と霊媒Mの意向により、新プロジェクトについては余り詳しく紹介しない方が良いという話になりました。
ですので、この場では説明の為に大まかな内容を述べると、現在は『霊界と地上界を繋ぐ拠点』にて、覡を通じて『想像力と思考力に働きかける霊的エネルギー』を供給しておりますが、いずれは私たち個々の人間が霊界と直接繋がって、霊界から直接霊的エネルギーの供給を受けるようになるそうです。
霊媒Mは、将来的に霊界と人間の関わりをその様に変えてゆく為の、言わば下準備的な作業の一部に携わっているそうです。
人間が霊界と直接繋がると言うことは、現在は各拠点の覡が行っている作業を、個々の人間が行うようになります。
言葉を換えれば、人間全体としての成長度合いが、霊界と直接繋がれるようになるまでの間は、仮に各拠点の覡が、霊的エネルギー供給の作業を代行していると考えれば良いでしょうか。
ということは、第十一章を通して述べているのは、第七の天使がラッパを吹くまでの間に、霊界と直接繋がる準備が出来た人は、第七の天使がラッパを吹いた時に、霊界とその人が直接繋がるようになる=天にある神の神殿が開くのでしょう。
つまり、第十一章の冒頭に出て来た「(地上の)神の神殿と祭壇や礼拝する人」とは、霊界と直接繋がる準備が整っている人なのです。
いずれその様な時が訪れるからこそ、黙示録の第三章でラオディキアにある教会の天使への手紙と題して、私たち多くの人間に向けて準備を促すメッセージを、イエスが残したのでしょう。
一方、第七の天使がラッパを吹くまでに、霊界と直接繋がる準備が出来なかった人は、地を滅ぼす者として滅ぼされることになります。
尤も、滅ぼされると言っても、これは恐らくキリスト教的価値観の影響を受けた大仰な表現だと思いますが、その点については今後投稿する記事の中で明かされることになるでしょう。





■ 第一~第七の天使がラッパを吹くまでのまとめ

『ヨハネの黙示録』の解説を行うに先立って、大雑把に全体的な下読みを行っていたのですが、特に今回の記事については、下読みの段階では読み解けなかった部分が多々ありました。
それは例えば、第五の天使がラッパを吹いた時に現れたイナゴの正体だったり、第六の天使がラッパを吹いた時にヨハネが天使から受け取った小さな巻物だったり、また地上の神の神殿と天の神の神殿の意味について等です。
しかし全般として、第一の天使~第七の天使がラッパを吹くまでの間に掛けては、如何にして、滅ぼされる者が滅ぼされても仕方のない経緯を辿って、最後の審判に臨むのかが語られていた印象があります。
そして、第七の天使がラッパを吹くその時までは、例え一時的に悪魔サタンの誘惑に唆されそうになっても、悔い改めて滅びを免れる為の猶予が与えられていると言うことも、同時に示されています。
そこで、ご覧の皆様がこれからの時間をどの様に使うのかを考えるきっかけにして頂ければ、この記事を投稿した意義があると思います。
次回は、いよいよ裁きの時が始まります。

Silvercord管理人 





なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご利用下さい。

閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/


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