2015年5月23日土曜日

なぜ仏像は盗まれるのか?[小ネタ]

今回は、前回投稿した記事【彼らの目的は果たされない[小ネタ]】の関連記事となります。
あれからしばらくの間、各地の神社仏閣が毀損されてしまいましたが、同時に神社仏閣でも警戒を強め、また警察による巡回警備を強化した為なのか、ようやく落ち着きを取り戻したようです。
このまま事態が沈静化すると共に、神社仏閣を傷付けた者が然るべき裁きを受ければ良いのですが…。

この度の一連の『事件』では、神社仏閣の社殿が油のような液体で汚される事例が相次いで確認されましたが、仏像も一体紛失しています。
尤も、仏像が紛失する事件は以前から時折報道されていて、それらの一部が外国に持ち出されており、美術品として取引される事例もあるのだそうです。
そこで今回の記事の題名に繋がるのですが、「なぜ仏像が盗まれるのか?」と言う点について、人間とは異なる視点からの解説を霊界の住人の方に伺いました。

なお、この記事は[小ネタ]枠ですので、霊界の住人と管理人の会話の模様を、管理人の記憶に基づいて再構成しております。





■ とある霊界の住人の話

(前回の記事を念頭に御覧下さい)

管理人が
「一連の事件で仏像が一体紛失しているそうです。
今までにも度々仏像が紛失したとの報道があり、後に窃盗として犯人が逮捕された事例もあります。
なので、今回の仏像も盗まれた可能性を疑ってしまうのですが、仏像が盗まれてしまうことについて、霊界の住人から見るとどの様な意味があるのでしょうか。」
と聞くと、霊界の住人はこの様に答えました。

「この話は今回の場合が……というわけではないけれども、仏像によっては特定の役割を担っている場合がある。
人間が感情を表す時には、その感情に相応した霊的エネルギーを発しているのだけど、怒りや妬み、恨みのエネルギーなどが充満すると、理由もなく怒ったり恨みを持つ人が増えてしまって、社会の秩序に悪影響を及ぼしてしまう場合がある。
そうならないように、仏像の中には怒りや恨みのエネルギーを自分の中に取り込んで、周囲の霊的エネルギーのバランスを保つ役割を担っているものがある。
その仏像は周辺の環境を快適に保つために働いているのだけど、傍から見ると怒りや恨みのエネルギーの塊に見えるので、霊感のある人がその仏像に近づくと違和感や嫌悪感を抱くかも知れない」

そこで管理人が
「オカルト話などで『古くからお寺に伝わる曰く付きの何某が……』という話を聞きますが、それらと似たような物でしょうか?」
と聞くと、霊界の住人は、

「まあ、そのようなものだろう。
依り代となっているもの自体はただの物質に過ぎないが、長い間に渡って怒りや恨みなどを抱え続ける人と同じ場所に居続けたり、特定の物に対して強く念じた場合などは、ただの物にも感情のエネルギーが付きまとってしまう。
仏像の場合は、周辺の霊的エネルギーのバランスを保つために自ら吸収しているが、曰く付きの何某は周囲を彷徨うエネルギーに感染するだけなので、そこは違う。」

そこで管理人に疑問が湧きました。
一つ目は「仏像が怒りや恨みのエネルギーを吸収しているとしても、無限には吸収できないはず。その辺りはどの様に処理をしているのか?」という点でした。
二つ目は「それが『仏像が盗まれる』こととどの様な関わるがあるのか?」です。
霊界の住人はこの様に述べました。

「仏像が怒りや妬み、恨みなどのエネルギーを許容量一杯まで吸収し終える頃になると、その仏像が放つエネルギーはどす黒い悪意の塊のような状態になる。
悪意のエネルギーに満たされた仏像は、真っ当な暮らしをしている人には不気味に見えるかも知れないし、霊感の鋭い人は嫌悪感を持つかも知れない。
ところが、普段から怒りや妬み・恨みの感情を抱えている人、悪意を持つ人に取っては、その仏像が『親近感の湧く良い物』に感じられる。
双方とも似たようなエネルギーに満たされているので、その仏像がとても魅力的に見えるのだ。
元々悪意を持つ人なのだから、仏像を盗む行為にも良心の呵責とは無縁であり、なおかつ自分の放つ悪意に近い印象を受ける仏像なので、わざわざ悪意に満ちた像を盗んでしまう。」

人間にも気の合う人と合わない人がいますが、仏像に対しても同様だということでしょうか。
因みに、盗まれてしまった仏像は、その後どうなってしまうのでしょうか。
霊界の住人はこの様に述べました。

「悪意を充分に吸収した仏像は、盗人の手によってその悪意を受けるに相応しい場所へ運ばれて、そこで仏像の身内に吸収した全ての悪意を解放する。
そうして悪意を受け取るに相応しい者(その悪意を発した者)の元に悪意は返る。」

ということで、人間の目では因果関係が見えなくても、霊界の住人から見た世の中は以外と公正に機能しているようです。
霊界の住人によると、それが『仏の慈悲』なのだそうです。

「怒りや妬み・恨みなど他人に悪影響を及ぼす感情“悪意”を抱いても、その人(に宿る霊)の成長には繋がらない。
そのままの状態で見守っていても、いつかは当人もその事に気づくのだが、人によってはその事に気がつくまでに多くの時間が掛かってしまう。
そこで、より多くの人により早く成長してもらうために、気づくきっかけが得られるように働きかけている。」

つまり、悪意を撒き散らす時間が長引けばその分だけ、悪意を撒き散らされた周囲の人も苦しく、悪意を撒き散らした本人も苦しみます。
そこに仏像が媒介することにより、悪意が撒き散らされてから本人の元に返るまでの期間を早めてやり、かつ本人が「悪意を抱いても良いことは何もない」と気づきやすい場面に遭遇するように働きかけることによって、少しでも早く「悪意に囚われた心理状態」からの脱却を促すのが『仏の慈悲』と言うことのようです。
人間の視点から見ると、「神仏にも見放された」と嘆きたくなる状態に置かれている人でも、実は『仏の慈悲』の現れとして、自分自身の考え方や行動を顧みて、改めるきっかけを与えられているのかも知れません。





上記記事は、特定の事例について述べたのではなく、一般的に「この様な場合がある」という解説でした。
盗まれた仏像についての話ですので、ご覧の皆様の中には、特定の事例が頭の中に浮かんでいる場合もあるかも知れませんが、個別の事例についてはお応えできませんので、その点はご了承下さい。


さて、三月に投稿した記事【今後の予定について】にて、『古事記』を解読する為の準備を開始すると述べましたが、それから少しずつ準備を進めています。
いつ頃解読記事を投稿できるのか、まだ日程の目処は立ちませんが、費やした時間に見合う読み応えのある記事に仕上げたいと思いますので、しばらくお待ち下さい。

Silvercord管理人 





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