2014年9月19日金曜日

『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その6)

この記事は、以前投稿した下記記事の続編となりますので、未読の方はこちらの記事より順番にご覧下さい。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】
『ヨハネの黙示録』第一章~第三章、アジア州にある七つの教会の天使に宛てた手紙について。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その2)】
『ヨハネの黙示録』第四章~第七章、イエスが神から託された巻物の七つの封印のうち、第一~第六の封印を開いてゆく。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その3)】
『ヨハネの黙示録』第八章~第十一章、イエスが巻物の第七の封印を開き、神からラッパを与えられた七人の天使のうち、第七の天使がラッパを吹くまで。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その4)】
『ヨハネの黙示録』第十二章~第十三章、悪魔サタンが天から堕とされた経緯と、地上でキリスト教会に侵蝕してゆく過程について。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その5)】
『ヨハネの黙示録』第十四章~第十五章、地上が悪魔サタンの支配下に置かれた頃、天で進行していた『神の裁き』の時に向けての準備の様子。





■ 神の怒りを地上に注ぐ七人の天使

黙示録の第十六章第一節には、七人の天使に対して「行って、七つの鉢に盛られた神の怒りを地上に注ぎなさい」との声があった、とあります。
ここで言う『神の怒り』とは、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その5)】でも述べた様に、ここまでの間に人間が積み重ねて来た行為の結果として、人間に取っては災いと感じられる現象が現れると言うことです。
神様の視点から見ると、人間が自ら災いを招く種を蒔いたので、災いという名の果実を自分で刈り取るのは当たり前――そういう話なので、これから解読してゆく七つの災いとは、人間が自ら招き寄せたものだという観点に立って解読した方が、より『ヨハネの黙示録』の本質に迫れるのではないかと思います。
それでは、前置きはこのくらいにして、七人の天使が神の怒りを地上に注いだ為に生じる七つの災いについて、皆様と共に解読してゆきましょう。





■ 第一の天使が鉢の中身を地上に注いだ

黙示録の第十六章第二節には、第一の天使が鉢の中身を地上に注ぐと、獣の刻印を押されている人間達や、獣の像を礼拝する者達に、悪性の腫れ物が出来たとあります。
悪性の腫れ物というと、癌等の病気が多発して肉体を蝕む様子を思い浮かべますが、これは何らかの病気が流行することを指しているのでしょうか。
霊界の住人の話によると、一般的に「良くない」と言われる習慣を止められずに、「そんな事はない」と馬鹿にしていると、案の定悪い結果が現れる――その様な状態を指すようです。
ここで思い出して頂きたいのですが、『獣の刻印を押されている者』や、『獣の像を礼拝する者』については、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その4)】でも取り上げました。
『獣の刻印を押された者』とは、神を崇め奉る対象と捉えて、またどこまでも人間であり続けることに拘って、より成熟した存在への成長を否定する価値観を持つ者を指します。
そして『獣の像を礼拝する者』とは、悪魔サタンの価値観に基づいて築かれた社会の仕組みを受け入れることを指します。
その様な社会は、悪魔サタンが人間に取っての神として君臨する為には都合が良いのですが、私たちの世界を成りたたせている仕組みとの間に齟齬が生じますので、悪魔サタンの価値観に基づいた社会は永続しません。
永続が不可能である状態を無理に続けようとして、無理が行き過ぎた為に反動が現れるのは、既に『因果律』についての理解を十分に深められた方でしたら、当然と認識されているでしょう。
そこでもう一度、上で取り上げた過去記事を思い出して頂きたいのですが、そもそも悪魔サタンとは、神になることを強く望む天使でした。
しかし、神が定めた「霊が生物に宿って成長するシステム」によって、元々はサタンより未熟であった者が、サタンよりも先に神になってしまう事態が起こりました。
そこでサタンは、神が造った「霊が生物に宿って成長するシステム」自体を逆恨みし、また自分より未熟な者の成長を妨げようとした為に、天から追放されて地上に堕とされたのです。
今回の試み以前に、管理人はキリスト教を信仰したことはありませんし、聖書について専門的に学んだ経験もありませんが、この度『ヨハネの黙示録』を解読する作業を進める中で、キリスト教会は悪魔サタンを、実態以上に強力で恐ろしい存在として描いている印象を受けました。
何故なら、黙示録の第十二章でも、悪魔サタンを「全人類を惑わす者」と述べていますが、ここまで『ヨハネの黙示録』を解読するうちに、実は聖書で描かれている悪魔サタンとは、観察力のある人間なら気づける程度の問題点や違和感・不審点にすら気づけない、意外と未熟な存在なのではないかと感じたからです。
だからこそ、察しの良い一部の人にとっては、「今までの行動を踏まえれば、そういう結果になるのは当然だ」と分かるような結末に向かって、自分から猛進してゆく様に見えるのかも知れません。
一度その構図に気づいてしまえば、そう簡単には騙されない程度の姑息な手管かも知れませんが、さすがに相手は長い時間をかけて少しずつキリスト教会を罠に嵌め、その末に世界中へと影響力を広めた大層なペテン師ですから、注意して慎重に観察し続けなくては見抜けない程度の巧妙さは備えているようです。
ともあれ、第一の天使が鉢の中身を注ぐと、悪魔的な価値観に絡め取られている人々が、神の名を掲げて今まで行ってきた悪事の数々が、最早誤魔化しようもない程明確に、白日の下に晒されます。
神の名を楯にする人程、神を冒涜する行いに忙しいと言うことでしょうか。





■ 第二の天使が鉢の中身を海に注いだ

黙示録の第十六章第三節では、第二の天使が鉢の中身の海に注ぐと、海は死人の血のようになって、その中の生き物は全て死んでしまいました。
海が死人の血のようになって、全ての海の生き物が死んでしまうのですから、何らかの大規模な海戦が行われるのか、もしくは海洋汚染の為に海の生物が大量死する様子を想像してしまいますが、果たしてその様に素直に読んで良いものなのでしょうか。
霊界の住人によると、海は死人の血のようになってしまうと言うのは、神の御業によって創造された生物が、人間の行いによって血を流してしまうという意味合いを指すようです。
ですから、人間の経済活動が環境破壊の原因となり、海洋汚染が悪化して多くの生物を死に至らしめるという意味合いも、この中に含まれます。
但し、それは海の中の出来事だけを指すわけではないようです。
海が海洋生物の暮らす世界とすれば、地上は陸上生物の暮らす世界であり、その中でもとりわけ人間の暮らす世界を人間社会と言います。
人間の経済活動の犠牲となった生物が海洋にもあり、そして陸上にもある様に、人間社会の中にも、悪魔サタン的な価値観を基準として築き上げられた歪な社会を維持する為との名目を掲げて、今も数多くの犠牲者の山を積み重ね続けております。
悪魔サタンの価値観とは、自分が地上の神として君臨し続ける為に、地上に暮らす者の成長を否定し、妨害し、ただ悪魔サタンを地上の神として崇め奉る様に求める事を指すのですから、その様な社会を作り、又維持する為にはどれ程多大な犠牲を払おうと、地上の神にとっては知ったことではありません。
むしろ、自分にとって都合のいい地上世界を築く為に、より多くの犠牲が払われる程、悪魔サタンは「自分の理想世界は、これほど大きな犠牲を払ってでも守り続ける程価値があるのだ」などと、勝手に脳内変換して自尊心を満たしているのかも知れません。
しかし、第二の天使が鉢の中身を海に注ぐことによって、誰がその様な犠牲を強いていたのか、その為に、どれ程多くの人々が日々犠牲になっているのかが明らかになります。
目的の為には容赦なく他の生命の血を流し、死体を積み上げている者の正体が暴露されます。
そうすると、今までは犠牲を強いる者の正体が分からないまま、今ある社会の仕組みに流されるままに、歪な社会を維持する為の犠牲となっていた者が、逆に犠牲を強いていた者に反旗を翻して、歪な社会を維持する為に機能していた組織や仕組みごと、今まで犠牲を強いていた者を排除する為に立ち上がるでしょう。





■ 第三の天使が鉢の中身を川に注いだ

黙示録の第十六章第四節~第七節では、第三の天使が鉢の中身を川と水の源に注ぐと、水は血になります。
その時に水を司る天使が言います。
「あなたは正しい裁きをしました。
この者どもは、聖なる者や預言者の血を流したので、彼らに血を飲ませるのは当然です。」
そして祭壇は「神の裁きは真実で正しい」と言いました。
さて、第二の天使の項目と同じように、ここでも水が血になりましたので、神の御業によって創造された生物を、人間の行いによって血を流してしまうという意味合いは共通します。
更に水を司る天使が、「聖なる者や預言者の血を流した者に血を飲ませるのは当然」と述べています。
これは、人間の経済活動の犠牲となった生物が川や水源地にも居り、川や水源地の水質汚濁によって多くの生命が犠牲になるばかりでなく、その水は人間の命をも犠牲にする事を指します。
水質汚濁の原因を作ったのは人間なので、その結果として汚れた毒水が人間の命を奪うのです。
それと同時に、聖なる者や預言者の血を流して作り上げた、悪魔サタンの価値観に基づく歪な社会を維持する為に生じた弊害は、とうとう歪な社会を維持する為に活動する組織や人々の生命をも奪い始めました。
しかし彼らは、その様な結末に至る原因を自分で作り上げてきたのですから、最早誰にも顧みられることはありません。





■ 第四の天使が鉢の中身を太陽に注いだ

黙示録の第十六章第八節~第九節では、第四の天使が鉢の中身を太陽に注ぐと、太陽は人間を火で焼くことを許されます。
人間は激しい熱で焼かれた為に、この災いを支配する権威を持つ神の名を冒涜しました。
そして悔い改めようとはせず、神の栄光を讃えようともしませんでした。
人間が太陽の熱で焼かれるのですから、第一~第三の天使が鉢の中身を注いだ際に、世界的な環境破壊が進んで多くの血が流れ、いよいよ自分の喉を潤す水すらも手に入らなくなった時に、大地は生命力を失って旱魃と砂漠化が進行するイメージが浮かびます。
一方、霊界の住人は、「第四の天使が鉢の中身を太陽に注ぐことによって、人間が太陽の熱で焼かれるのですから、今までに手を染めた悪事を全て暴露され、衆人環視の元で公開処刑される様な状況を指している」と言います。
今までに悪魔の手先として、率先して悪魔の価値観に基づいた社会を築いてきた者達は、その為に犯した罪の償いを迫られることになります。
きっと彼らは、『神の裁き』の時が訪れるまでは、「この社会を作り上げて維持する為に多大なる貢献をした」と評価・賞賛されているでしょうから、そうして築き上げた地位や名誉、財産を『神の裁き』によって全て失うことになるでしょう。
しかし、そうして今まで周囲に強いてきた犠牲を自分の罪とは受け止められずに、「あんなに社会に貢献したのに」と恨み言を漏らし、遂にはこの様な事態を許した――災いを携えた七人の天使に金の鉢を渡して、鉢の中身を注ぐ様に指示した者を呪い、天に唾を吐き続けます。
幾ら天に向かって唾を吐きかけても、その唾は自然の法則に従って自分にかかるだけなのですが、「天が悪い」、「天のせいだ」と、いつまでも恨み言を呟きながら、飽くことなく天に唾を吐き続けるのです。





■ 第五の天使が鉢の中身を獣の王座に注いだ

黙示録の第十六章第十節~第十一節では、第五の天使が鉢の中身を獣の王座に注ぐと、獣が支配する国は闇に覆われてしまいます。
人は苦しみ悶えて舌を噛み、苦痛と腫れ物に苛まれましたが、天の神を冒涜するばかりで、自分の行いを悔い改めようとはしませんでした。
今度は、獣が支配する国は闇に覆われてしまうのですが、第一~第四の天使が鉢の中身を注いだ際にも、様々な環境破壊が進んでいますから、いよいよその影響が太陽光をも遮る程の大気汚染として現れて、その為に病気が蔓延する様子を連想します。
しかし霊界の住人によると、第五の天使が鉢の中身を獣の王座に注ぐことによって、それまでは神の働きかけによって受けていた恩恵を、例え獣自身が意識していなくとも、自分自身で遮って損なわれることを表しているようです。
これを例えて言うと、ある工業製品を作る為には、どうしても有害物質を使用しなくてはなりません。
そこで、有害物質を使用する際に、環境への負荷を考慮した処置を施しておけば、当座の処理費用が嵩んでも、環境への負荷は自然回復が可能な範囲に抑制できます。
しかし、当座の処理費用の負担を惜しんだ為に、有害物質がそのまま屋外に放出されてしまったら、時間が経つに連れて徐々に有害物質が土壌や河川、海洋などに流出し蓄積されてゆきます。
そして有害物質が人体や生活環境に深刻な悪影響を及ぼすまで、高濃度の濃縮・蓄積が進むと、最早生命を育む活力が失われて、文字通り「死の土地(川、湖など)」になってしまうでしょう。
その様な土地で取れた作物には、大量の有毒物質が混入しているので、その様な汚染された食糧を日頃から口にしていれば、食糧を通じて継続的に摂取され、体内に蓄積・濃縮された有毒物質が肉体を蝕んでゆくのです。





■ 第六の天使が鉢の中身をユーフラテス川に注いだ

黙示録の第十六章第十二節~第十六節では、第六の天使が鉢の中身をユーフラテス川に注ぐと、川の水が涸れて、日の出る方角から来る王達の道が出来ました。
また、竜の口や、獣の口や、偽預言者の口から、蛙のような汚れた三つの霊が出て来ます。
この三つの霊はしるしを行う悪霊で、全世界の王を集める為に出ていきます。
そして汚れた霊どもは、ヘブライ語で「ハルマゲドン」と呼ばれる所に、王達を集めました。
さて、第十六節にユーフラテス川が出て来ましたが、この川は聖書にも度々登場します。
『ヨハネの黙示録』では、第九章第十四節にて、人間の三分の一を殺す為に用意されていた四人の天使が、必要とされる時まで繋がれていた場所として登場します。
また、『創世記』第十五章では、主とアブラム(アブラハム)が契約を結んで、「あなたの子孫にこの土地を与える」と述べたのが、エジプトの川からユーフラテス川に至る範囲の土地でした。
また、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】の項目『スミルナにある教会の天使への手紙』にて、主とアブラハムが結んだ契約とは、アブラハムの子孫が『霊界と地上界を繋ぐエルサレムの拠点』の守人として、必要とされる時までエルサレムの拠点を「聖なる土地」として守り続けることだと述べました。
これらの関連する要素を勘案すると、以下のように解釈できるでしょう。
『エルサレムの拠点』にとってのユーフラテス川とは、拠点の内側と外側を分ける境界であり、その境界の水が涸れて、悪霊に扇動された王達が、拠点の中心に向かって進軍する為の道が開かれるのです。
そして、拠点の外側とは、第一~第五の天使による災いの深刻な影響を受けた土地であり、最早人間が日常生活を送るには適さない程の、著しい環境汚染に苛まれております。
しかし、拠点の土地に暮らす人々は、各拠点の守人を務めている方と隣り合って暮らしていますので、他の土地に暮らす人々と比べると、悪魔サタンの価値観の矛盾を見破る観察力を持ち、また神が創造した世界や生物などへの畏敬の念を抱いている方の割合が高くなります。
ですから、悪魔サタンの価値観の影響を比較的受けにくく、またある程度の影響を受けていても、他の土地に暮らす人々と比べると軽微な影響に止まる傾向がありますので、他の土地と比べると肥沃で、環境汚染の程度も人間の生活には支障が出ない程度に収まっているでしょう。
言わば、周囲一体が致死性の毒物で汚染されている“毒の砂漠”の真ん中に、狭いけれども清浄なオアシスが幾つか点在していると例えれば良いでしょうか。
悪魔サタンの価値観に共感する者達が、調子に乗って世界を自分たちの価値観に染め上げたものの、それは人間や生物の生存に適さない毒の塊を作り上げる作業でした。
しかし、悪魔サタンとそれに与する者達は、自らの誤りを認めて悔い改めるのではなく、僅かに残った清浄な土地――悪魔に扇動されずに、神の言葉の通りに努めた拠点の土地に向かって、「あいつらは清浄な土地と水と空気を自分達で独占してけしからん。みんなであの土地を奪いに行こう」と、悪魔に与する国の王達を集めて回るのです。
また、この三つの霊はしるしを行う悪霊とのことですが、では「しるしを行う悪霊」とは、どういう意味なのでしょうか。
ここで思い出して頂きたいのですが、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その4)】にも、黙示録の第十二章で「大きなしるしを行った」とあり、どちらも同じ一連の物語を表しております。
しるしとは、黙示録の第五章で、小羊イエスが父なる神から受け取った、七つの封印のある巻物の封印を開くという意味です。
封印を開くので、しるしが現れます。
では、「しるしを行う」とは、どういう事でしょうか。
黙示録の十二章では、巻物の第一の封印を開いたのですが、今回は第二の封印を開いた時に当たります。
そして既に、第二の封印とは『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点』であると解説しましたし、2011年にバチカンの拠点が開いたことは、これまでにも記事【『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点』が完全開放されました】などを通じて、度々お伝えしております。
そして、今解読を試みている、災いをもたらす七人の天使の働きかけと、それに伴って地上で起こる様々な事態は、封印を開いた時点からの連動した流れとして見る必要があります。
ですから、第二の封印を開いた事によって、災いをもたらす七人の天使は、神の怒りが盛られた鉢の中身を注いでゆく作業を始めたので、それに伴って地上に様々な災いが現れました。
その一連の流れ全体を捉えて、「しるしを行った」と一言でまとめております。
その中で、「しるしを行う悪霊」達がどの様な役割を果たしているのかを理解するには、第七の天使が鉢の中身を注いでからにした方が良さそうですので、ここでは一旦解説を割愛して、先を急ぎましょう。
そして第十五節には、「私は盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身につけている人は幸いだ」とありますが、ここで参考にして頂きたいのは、黙示録の第三章第三節、サルディスにある教会の天使に宛てた手紙の部分と、同じく第三章第十七節~第十八節の、ラオディキアにある教会の天使に宛てた手紙の一部です。
そうすると、「盗人のように抜き足差し足でやってくる私」とはイエスであり、イエスがやってくる目的とは、目を覚まして衣をつけているのか、それとも裸のままで歩いて恥を晒しているのかを見極める為です。
イエスによって見極められる対象は、その時に地上に暮らしているすべての人が該当します。
そして、目を覚まして衣をつけている人とは、物事の道理を弁えていて、白い衣を着ている(着る資格がある)人であり、勝利を得ることが約束されている人を指します。
悪霊どもが「しるしを行う」作業の一環として、最後に残された肥沃な楽園=拠点の土地をも手に入れようと、悪魔サタンに与する諸国の王達を、「ハルマゲドン」と呼ばれる土地に集めている間にも、イエスは神の言葉に忠実な者と、そうでない者を、誰にも気づかれないように確認して回るようです。





■ 第七の天使が鉢の中身を空中に注いだ

黙示録の第十六章第十七節~第二十一節では、第七の天使が鉢の中身を空中に注ぐと、天の神殿の玉座から「事は成就した」という声が聞こえます。
そして轟音の稲妻や、人間が経験したことがない程の巨大地震が起こりました。
大きな都が三つに引き裂かれて、諸国の民の方々の町も倒れてしまいます。
神は大バビロンを思い出して、自分の激しい怒りのぶどう酒の杯を、倒壊した都や町に与えます。
全ての島は逃げ去って、山々も消え失せてしまいました。
一タラントン(二十六キログラム程度)の重さの雹が、天から人々の上に降ってきます。
人々は余りに甚大な雹の被害を受けたので、神を冒涜しました。
さて、第七の天使が鉢の中身を空中に注ぐと、空前絶後の巨大地震が大地を揺るがせるようです。
多くの町が倒壊し、おそらくはサタンの王座がある場所と思われる、あの大きな都ですら三つに裂けてしまいます。
島々や山々の形状が変わってしまうことを示唆する表現もありますので、その巨大地震による被害の甚大さが伺えます。
更に巨大な雹が天から降ってきて、人々に甚大な被害をもたらします。
ここまでの流れは、一見すると地震を始めとした様々な自然災害の表現に見えるのですが、必ずしもそうとは言い切れないようです。
霊界の住人の話によると、地震を始めとした様々な災害とは、悪魔サタンの価値観に基づいた社会を築いた結果、サタンに与する者や国々の間でも利害の調整が難しくなって、世界各国の利害が対立することを表しているようです。
そして大きな都が三つに引き裂かれるというのは、グローバリズムの行き詰まりが極まって、各国の政策や価値観の違いによって対立し、幾つかの勢力圏に分裂することを意味しているそうです。
ですから、言葉通りに自然災害と読んで良いのかどうか、判断の難しい所です。
いずれにせよ、悪魔サタンに与する王達の国が、『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を有する国に攻め込む準備を整えていた所で、何らかの想定外の事態が勃発した為に、侵攻を断念せざるを得なくなるようです。
加えてもう一つの疑問は、巨大地震を思わせる災害の為に、大きな都も町も壊滅的な被害を受け、島や山の形や位置が変わってしまう程の影響を及ぼすのですが、何故か人々は、天から降ってきた巨大な雹の被害を深刻に捉えて、天に玉座を構える神を冒涜するのだそうです。
この雹とは一体何を表すのか、最初は『ヨハネの黙示録』の文章を読んでも、霊界の住人の話を聞いても、自然災害としての雹を意味するらしいとしか読めなかったのですが、管理人にはどうしても、巨大地震よりも深刻な雹の被害がどの様なものか、全く想像がつきませんでした。
そこで再度、霊界の住人の話を伺った所、今回の記事で解読してきた、七つの災いをもたらす天使による災害の件は、前回のしるしを行った時にも、概ね同様の経緯で事態が進行していて、今後小羊イエスが巻物の封印を順番に開いてゆく度に、やはり同様の経緯で事態が展開してゆく筈なのだそうです。
それならば、小羊が巻物の第一の封印を開いた時に何が起こったのかを調べれば、何らかの手掛かりが掴めるかも知れません。
とはいえ、ここで詳細を調べるには、紙面と時間の都合により無理がありますので、取りあえず今は大雑把な確認に留めます。
まず、小羊が巻物の第一の封印を開いた時期は、既に開いていた日本の拠点で、覡が本格的な活動を開始した時期であり、明治時代に入って、明治天皇が江戸城に住まいを移された頃がその時だと推定します。
その後、日本は日清戦争や日露戦争を経て世界の強国へと頭角を現し、第一次世界大戦後には世界の五大国と目されるようになります。
当時の世界は、主権国家としての欧米と、欧米に支配された植民地とで成りたっておりました。
欧米にとって、東アジアは自分の手が届いていない最後の地域だったのですが、日本は主権国家として欧米と肩を並べるか、欧米の植民地に屈するかの瀬戸際を綱渡りした結果、何とか主権国家として認められました。
しかし、日本と欧米諸国の間には価値観の違いが大きく、また欧米の植民地経営にも問題が生じている所に、価値観の異なる日本が台頭することにより、欧米は日本に対する警戒感を強めます。
最終的に日本は米国、英国などと戦端を開いて、米国の圧倒的な物量の前に敗北します。
この経緯を七人の天使の災いに当て嵌めると、第六の天使の辺りが昭和初期に該当して、大東亜戦争の辺りは第七の天使の災いに当たるでしょうか。
その様に考えると、第六の天使の災いで、しるしを行う悪霊によって集められた全世界の王とは連合国の面々であり、彼らは日本侵略に備えて着々と準備を整えていたことになります。
しかし、日本との関係が決定的な状態に至る前に、欧州で内輪揉めとも言える戦端が開かれたので、日本侵攻の準備を整えていた欧米は、日本への対応を後回しにせざるを得ませんでした。
その様に考えると、自然災害を思わせる表現は、激しい戦闘と爆撃を思わせますし、雹の被害とは絨毯爆撃で市街地が焦土と化した表現に符合します。
でも、結局日本は敗北して、一時的にせよ占領されたじゃないか――そう仰る方がいるかも知れません。
しかし、日本は敗北したけれども植民地化を免れ、連合国による分割統治も回避しました。
明治時代以降に国土に組み入れた土地の多くは放棄せざるを得なくなりましたが、今も主権国家を維持しております。
それよりも欧米諸国の方が、日本との大戦を経て植民地の放棄に追い込まれ、また西側と東側の諸国で対立する構図が明確になったので、最早日本を侵略・蹂躙する計画(があったのかどうかは、よく分かりませんが)どころではなくなってしまいました。
その様に見てゆくと、今回取り上げたテーマ「七つの災いを携えた七人の天使による、七つの災い」とは、かつて日本が辿った明治時代から大東亜戦争の敗戦辺りまでの流れを現しており、恐らくはそれと似通った出来事が、今度は日本の立場をバチカンがひきうける形で展開するのではないでしょうか。






■ 第一~第七の天使が鉢の中身を注ぐまでのまとめ

今回は、バチカンの拠点を開いた事が発端となって、今後『神の怒り』がどの様に進行して行くのか、そして最終的にどの様な結末を迎えるのかについて、『ヨハネの黙示録』を頼りに推測してみました。
前の項目でも、七人の天使が鉢の中身を注ぐ件は、小羊イエスが神から受け取った巻物の封印を開く度に、同じ様な経緯を繰り返すと述べました。
ところが、封印を一つずつ開いて行く度に変化する条件はありますし、その時代、開かれる拠点の場所によっても、条件は異なってきます。
ですから、今回取り上げた部分は、『ヨハネの黙示録』の他の部分と比べても、曖昧で難しいのではないかと思います。
しかし逆に、既に同じサイクルを一度経験しているとのことなのですから、既に経験したサイクルを、歴史を繙いて詳細に分析することによって、更に理解を深める助けとなることでしょう。
管理人が今後、その作業に時間を割けるかどうかは分かりませんが、もしご覧の皆様の中に興味のある方がいらっしゃれば、上記記事なども参考に、解読に挑んでみてはいかがでしょうか。

さて、この記事ではあと一つだけ、最後に確認しておかなくてはなりません。
それは、第六の天使の項で先送りにしていた、「しるしを行う悪霊達」の役割についてです。
実は、第六の天使の項で、既に答えは出ていたのですが、これだけは一番最後に述べる方が良いと考えましたので、ここで改めて解説します。
「しるしが現れるのは、小羊イエスが巻物の封印を開いたからだ」と、既に説明しましたが、では、その中で悪霊は、どの様な役割を負っているのでしょうか。
第六の天使の項で、イエスは「神の言葉に忠実な者と、そうでない者を、誰にも気づかれないように確認して回っている」と述べましたが、何故その様なことをするのでしょうか。
記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】の最初に、神様が人間に働きかける目的について説明しましたが、人間が神の玉座に引き上げられる為には、理解を深めておかなくてはならないことが沢山あります。
しかも、たとえどの様な過酷な境遇に置かれようとも、揺るぎない確信を得ていなくては、とても理解を深めたとは言えません。
そこで神様は、悪魔サタンの価値観が霊の成長を妨げるものであると予め理解し、しかも悪魔サタンは主体的に人間の成長を阻害して回ることを承知の上で、サタンが地上で活動することを許可しました。
そうすると、人間が地上で生活している間に、神様の働きかけと、悪魔サタンの働きかけを、同時に見比べることが可能な環境が出来ます。
人間が実際に、神様の働きかけと、サタンの働きかけを体感することによって、神様の働きかけとサタンの働きかけは、何がどの様に異なるか、そして何故サタンの働きかけではダメなのかを、自分自身で見極めて欲しい――以上が、悪魔サタンが地上で活動することを、神様が許可した理由の一つです。
一見すると、悪魔サタンは神様の働きかけを邪魔しているようでも、実はきちんと私たちが理解を深める助けになっているのです。
それこそが、ここで述べている「しるしを行う悪霊達」の意味です。
悪魔サタンの唆しに引っかかるようでは、まだまだ修行が足りないということです。
なお、神様が悪魔サタンの活動を許可している理由は他にもありますが、それは今後投稿予定の記事で述べた方が良いと思いますので、その時までお待ち下さい。

Silvercord管理人 





なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご覧下さい。

閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/


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2014年9月5日金曜日

『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その5)

この記事は、以前投稿した下記記事の続編となりますので、未読の方はこちらの記事より順番にご覧下さい。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】
『ヨハネの黙示録』第一章~第三章、アジア州にある七つの教会の天使に宛てた手紙について。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その2)】
『ヨハネの黙示録』第四章~第七章、イエスが神から託された巻物の七つの封印のうち、第一~第六の封印を開いてゆく。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その3)】
『ヨハネの黙示録』第八章~第十一章、イエスが巻物の第七の封印を開き、神からラッパを与えられた七人の天使のうち、第七の天使がラッパを吹くまで。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その4)】
『ヨハネの黙示録』第十二章~第十三章、悪魔サタンが天から堕とされた経緯と、地上でキリスト教会に侵蝕してゆく過程について。





■ 小羊がシオンの山に立っていた

黙示録の第十四章第一節~第五節では、小羊がシオンの山に立っていました。
また、小羊と共に十四万四千人の者がいて、額には小羊と、小羊の父の名が記されていました。
天から、大水の轟くような音や、激しい雷のような音が響きます。
その音を例えると、琴を弾く者たちが竪琴を弾いているようでした。
彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老達の前で、新しい歌の類を歌いました。
その歌は、地上から贖われた十四万四千人の者以外には、覚えることが出来ませんでした。
彼らは、女に触れて身を汚したことがありません。
彼らは童貞だからです。
彼らは、小羊のゆく所へは、どこまでも従ってゆきます。
彼らは、神と小羊に捧げられる初穂として、人々の中から贖われた者達で、偽りを述べす、咎められる所のない者達です。
さて、冒頭で小羊イエスがシオンの山に立っているのですが、この「シオンの山」を、一般的には、エルサレム市街にあるシオンという名の丘を指すと見ているようです。
調べてみると、Google Mapsでも確認できました。
しかし、シオンの山にいるはずの小羊と十四万四千人の者は、玉座の前や、四つの生き物と長老達の前で、新しい歌の類を歌っています。
彼らがいる場所は、本当にエルサレム市街のシオンなのでしょうか。
第四章には、天に玉座があり、玉座の周りに四つの生き物がおり、長老達の二十四の座があると記されております。
また、イエスと共にいる十四万四千人とは、第七章でイエスが第六の封印を開いた時に、天使によって神の刻印を押された者達です。
記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その2)】では、この十四万四千人は勝利を得る者であり、人間としての生涯を全うした後に、神の御許で神の御役を行うと説明しました。
その時に、第六の封印を開くのは、今から一万二千年程後になると述べましたが、第十四章は素直に第十三章から続いていますので、第十四章が取り上げている時代は、悪魔の価値観が世界を覆い尽くした現代です。
一万二千年後に世界中から集められた「神の刻印を押された者」十四万四千人が、なぜ第二の封印を開いたばかりの現代に、既にいることになっているのでしょうか。
この辺りの構造の複雑さが、『ヨハネの黙示録』の解釈を難しくしている要因の一つです。
既に【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その3)】で紹介したように、第八章以降は、イエスが巻物の第七の封印を開いた後の出来事として記述されているのですが、実際は第十二章で時間が巻戻り、悪魔サタンとキリスト教会に焦点を当てた記述に切り替わっております。
この辺りの事情は憶測に頼るよりないのですが、例えば、キリスト教成立後の早い段階から、悪魔サタンがキリスト教会に干渉して乗っ取りを謀っている事情を、もっと分かりやすく『ヨハネの黙示録』に記述していたら、果たして『ヨハネの黙示録』は現代まで聖書の一部として束ね続けて来れたでしょうか。
その様に考えてゆくと、『ヨハネの黙示録』が複雑で分かり難い構成をしているのは、今までに述べてきたような神の計画と悪魔サタンの干渉の実態を、サタンに気づかれずに後世に伝える為だったのではないかと想定できます。
その意図は、『ヨハネの黙示録』が書かれた時代には誰にも見抜けなくても、時間の経過に伴って、黙示録の記述に符合する歴史が積み重なってゆけば、いずれはその仕組みに気づく人が現れると見抜いていたのでしょう。
それを見抜く人が現れる時代になれば、『ヨハネの黙示録』に刻まれた記述の一部は既に実現しているので、きっと黙示録に隠された真相にも辿り着くだろうと、これを書いたヨハネに予め読まれていたかのようです。
ちょっと脱線しましたので、本題へ戻しましょう。
第二節~第三節は、激しい自然現象を思わせる演奏を従えて、十四万四千人の者が、父なる神や長老達に賛美歌を披露している様子が浮かびますが、これは何を表しているのでしょうか。
十四万四千人の者は、歌の類を歌っているように見えるだけで、それは歌ではありません。
彼らが、厳しい自然環境を思い起こさせる、父なる神が設えた過酷な境遇に置かれ、そこで様々な経験を積み重ねた末に、ようやく小羊イエスと共にシオンの山に登り、父なる神や長老達へのお目通りが適いました。
そしてここまで来てようやく、何故あの様な過酷な境遇に置かれたのか、そしてここへ辿り着くまでに重ねた経験の意味と貴重さを悟りました。
これからは父なる神の傍で、小羊イエスの後に続いて、神の御業のお手伝いをします。
きっと、彼ら自身の経験に基づいた確信を披露し、自分たちが成長したことを神様に報告したのでしょう。
その歌の類が、十四万四千人の者の各々の記憶に基づいているから、その他は覚えていることが出来なかったのです。
そして第四節~第五節では、十四万四千人の者を、女に触れて身を汚したことのない者だと述べています。
聖書の中で女というキーワードが何を表すのかは、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その3)】でも解説しました。
第五の天使がラッパを吹いた項で、『創世記』第三章にある、蛇が女を騙して善悪を知る実を食べさせ、またアダムも女の薦めるままに善悪の実を食べ、神に禁じられた約束ごとを破ってしまった例を上げて説明しました。
ですからここで出てくる女も、悪魔の唆しによって、神の言葉を背かせようとする働きを指します。
同じく童貞という言葉も、悪魔の唆しに屈しなかった者という意味です。
修道院を設けているキリスト教会のような、「異性との性行為が神の教えに反する」と言う意味合いではありません。
人間は生まれながらにして、男性と女性が交わって子孫を残す、生物学的構造を持っています。
それは人類が誕生する時点で、その様な仕組みを神の働きかけによって備えたのですから、それを妨げる考え方は悪魔の価値観です。
尤も、何事も行き過ぎは社会秩序の混乱を招くのですが、社会の秩序を乱さない範囲内の、節度を守った異性間の性交渉は、神が天地創造の際に定めた人間の生物学的特性に沿っていると言えます。
ですから、修道院を営んでいたり、あるいは同性愛に好意的な現代のキリスト教会は、聖書に綴られた神の言葉をグロテスクに曲解し、悪魔の価値観にすっかり毒されて身を汚している実情が、この様な側面からも伺えます。
さて、十四万四千人の者が、小羊イエスの行く所にはどこへでもついて行くのは、先程解説したように、父なる神とイエスの活動の意図を彼らなりに理解できたので、彼ら自身が神とイエスの意図に共感し、率先してイエスの率いるプロジェクトに参加するのです。
そんな彼らは皆、嘘を吐かない、そして道理に合わないことはしない者達です。





■ 空高く飛ぶ天使達

黙示録の第十四章第六節~第十三節では、三人の天使が次々と現れます。
最初の天使は、地上に住む人々、あらゆる国民や種族、言葉の違う民や民族に告知する為に、永遠の福音を携えて来て言いました。
「神の裁きが来たので、神の栄光を讃えなさい。」
続いて、第二の天使が来て言いました。
「怒りを招く淫らな行いのぶどう酒を、諸国の民に飲ませた、大バビロンの都が倒れた。」
続いて、第三の天使が来て言いました。
「獣の像を拝んで、獣の刻印を受けた者は、神の怒りのぶどう酒を飲むことになり、天使や小羊の前で火と硫黄に苦しめられる。
苦しみの煙は限りなく立ち上り、獣とその像を拝み、獣の刻印を受ける者は、昼も夜も安らぐことはない。」
その時には、神の掟を守って、イエスに対する信仰を守る、聖なる者達の忍耐が必要です。
天から告げる声が、「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いです」と言いました。
そして“霊”も「彼らの行いが報われるので、彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る」と言いました。
さて、ここで突然三人の天使が現れますが、この三人の天使は、神の裁きの時が訪れたことを告げに来ました。
記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その4)】の最後で述べたように、獣の像を拝んで、獣の刻印を受けた者がいるのは現代社会ですので、淫らな行いのぶどう酒を諸国の民に飲ませた大バビロンの都とは、現代社会そのものを指します。
現代社会を形作る仕組み・価値観と言いかえた方が良いでしょうか。
現代の価値観は、父なる神やイエスの言葉とは遠くかけ離れていて、悪魔の価値観にすっかり毒されてしまったので、神の怒りに触れたのです。
とはいえ、神の怒りという表現は、キリスト教的価値観の影響を強く受けており、実態とは異なっていますので、ここで簡単に紹介しましょう。
父なる神は何も、人間が神の言うことを聞かないから怒るのではありません。
キリスト教会に付きまとって、まんまと聖書の神に成り代わったつもりの悪魔サタンでも、世の理を外れることは不可能です。
そして世の理についての理解が不足しているのに、自分が未熟だという自覚がないので、悪魔サタンは神になれずに天から堕とされました。
そんな悪魔サタンに出来るのは、未熟でも向上心に溢れる人間を騙して唆して、人間の向上心を折って萎えさせようとする程度が精々でしょう。
そんな悪魔サタンにも、世の理の影響は及びますし、サタンが行った行為の結果は自分で刈り取ることになります。
それはサタンに与する獣も同様ですし、獣の刻印を押された者も同じです。
サタンや獣や、獣の刻印を押された者達などの、大バビロンの都に住む者達は、彼らの今までの行いの結果として、火と硫黄で苦しめられる事態に置かれることを、天使達は告げたのです。
また、先程述べたように、大バビロンの都とは現代社会そのものを指します。
その一部に神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続けている者がいても、否応なく大バビロンの都ごと神の裁きに巻き込まれてしまいますので、その仕組みを体験を通して理解するという意味での忍耐が求められます。
それは死を伴う過酷なものになるでしょう。
しかし彼らは、死に臨むまで神の言葉に沿って来たので、死後にその行いが報われて、(再び人間として地上での暮らしを送る)労苦から解放されて、(神の御許で)安らぎを得るのです。





■ 刈り入れの時が来た

黙示録の第十四章第十四節~第二十節では、白い雲が現れます。
雲の上には、人の子のような方が座っていて、頭には金の冠を被っていて、手には鋭い鎌を持っています。
そこに、別の天使が神殿から出て来て、白い雲に座っている方に向かって叫びました。
「刈り入れの時が来ました。地上の穀物は実っているので、鎌を入れて刈り取って下さい」
そこで、白い雲に座っている方が、地に向かって鎌を投げると、地上で刈り入れが行われました。
また、別の天使が天にある神殿から出て来ましたが、この天使も手に鋭い鎌を持っていました。
そこに、祭壇の所から、火を司る権威を持つ天使が出て来て、鋭い鎌を持つ天使に言いました。
「ぶどうの実は熟しているので、その鋭い鎌を入れて、地上のぶどうの房を取り入れなさい」
そこで天使は、地に鎌を投げ入れて、地上のぶどうを取り入れると、神の怒りの大きな搾り桶に投げ入れました。
搾り桶は、都の外で踏まれました。
すると、血が搾り桶から流れ出て、馬のくつわに届く程になり、千六百スタディオンに渡って広がりました。
さて、人の子のような方が白い雲に乗って現れますが、頭に金の冠を被っているので、黙示録第四章で神の玉座の周りに二十四の座を構える長老達と同様の、高貴な方だと言うことが分かります。
そして人の子のように見えるので、かつて人としての経験を積み、イエスと同じように、ここまで成熟してきた方なのでしょう。
そこで別の天使が神殿から出て来て、穀物を刈り取るように言いますが、この神殿とは第十一章にも出て来た、天にある神の神殿でしょう。
そして、人の子のような方が刈り取る穀物とは、財産であり、命の糧です。
一方、火を司る天使が、鋭い鎌を持った天使に、ぶどうを刈り取るように言いますが、そうして地上で刈り取られたぶどうは、神の怒りの搾り桶に投げ入れられます。
そしてぶどうを搾ると、血が搾り桶が出てくるのですから、火の力によって多くの血が流れる暗示でしょう。
馬のくつわに届く高さで、千六百スタディオン(1スタディオン=約180メートルなので、 228キロメートル位)ですから、見渡す限り地の海状態という意味合いでしょうか。
それは一見すると、神の神殿から出て来た天使が働きかけているように見えますが、そもそも穀物の種を蒔いたのは地上の人間であり、ぶどうの種を蒔いたのも地上の人間です。
天で鎌を振るう天使達は、ただ単に「自分で蒔いた種は、自分で刈り取らなくてはならない」という因果律に乗っ取って、与えられた役割を果たしているに過ぎません。
それに、そもそも因果律という仕組みが成りたつのは、神様の働きかけではあるのですが、別に神が人間に向かって怒りをぶつけているわけではありません。
神様は機械的に、論理的に、予め定められた法則性に則って、人間の行いという種を蒔いた結果を刈り取るだけです。
多くの血が流れる結果を導いたのは、その前に人間がいずれ血を流すことになる種を蒔いたからです。
多くの血が流れるような結末を避けたければ、最初に流血を避ける種を蒔かなくてはなりません。
ともあれ、天使達が活動する天では、地上での神の裁きに先立って、この様な働きかけを行うようです。





■ 七人の天使と七つの災い

黙示録の第十五章第一節~第四節では、天にもう一つの大きな驚くべきしるしがありました。
そして七人の天使が、最後の七つの災いを携えていましたが、これらの災いによって、神の怒りが極みに達します。
また、火が混じったガラスの海のようなものがありました。
更に、獣や、獣の像や、獣の名の数字に勝った者達がありました。
彼らは神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸に立っていました。
彼らは、「神の偉大で驚くべき力によって、正しい裁きが明らかになりました」と、モーセの歌と小羊の歌を歌って神を讃えました。
さて、第十五章の冒頭で、「天にもう一つの大きな驚くべきしるし」がありました。
もう一つの、と述べているのは、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その4)】で、第十三章第十三節に「大きなしるしを行って、人々の前で天から地上へ火を降らせた。」とありますので、その大きなしるしに続いて、もう一つの大きなしるしがあったと言うことです。
そして、前回の大きなしるしとは、小羊イエスが父なる神から託された巻物の、第一の封印を開いたことだと述べました。
そして【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その2)】では、巻物の第一の封印を開いたのは、『霊界と地上界を繋ぐ拠点』のうち、東京の拠点の覡が受け持つ役割の範囲が拡大して、拠点としての機能を本格的に発揮し始めた事を指すと説明しました。
その時とは、明治時代になって天皇の居所が現在の皇居に移ってからです。
ですから、それに続くもう一つの大きなしるしとは、小羊イエスが巻物の第二の封印を開いたことであり、記事【『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点』が完全開放されました】でもお伝えした様に、バチカンの拠点を開放したことを指します。
次いで、七人の天使が七つの災いを携えていたとありますが、これはいわゆる『神の裁き』の時代が七つの段階(もしくは七つの要素)を持って進んでゆくことを表します。
そして、既に記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】の末尾で簡単に述べました様に、5月に関東から中四国にかけて見られた『環水平アーク』と呼ばれる虹のような現象は、『神の裁き』の始まりを告げる印だと、霊界の住人は言います。
ですから、七人の天使が携えている七つの災いとは、これから私たちの目の前で起こること、これから私たちが経験することなのでしょう。
ここまで管理人と共に、『ヨハネの黙示録』の解読作業にお付き合い下さった皆様でしたら、第十二章からここまでの記述が、欧州を中心とした大まかな歴史の流れを示しており、またキリスト教会がサタンに侵蝕されてゆく過程を述べていると、概ねご理解頂けると思います。
ここまでの記述が概ね私たちの知る歴史と一致するなら、この先の記述も概ね一致するのではないかと、気になる方もいらっしゃるでしょう。
七人の天使と七つの災いについても、『ヨハネの黙示録』に記述がありますので、今後順番に解読してゆきたいと思いますが、その前にあと少しだけ、前置きの部分が残っておりますので、今しばらくお付き合い下さい。
第十五章第一節の解読に戻って、これらの災いにより、神の怒りが極みに達するとあります。
これは一つ前の項目でも述べましたが、人間や、悪魔とそれに与する者達が、今までの間に地上で蒔いた種が実をつけたので、機械的に刈り取りの作業が行われるに過ぎません。
それを、種を蒔く時の自分の行いを棚に上げておきながら、自分にとっては都合の悪い実がなったので、結果を刈り取る時になってから、「神の怒り」などと見当違いの暴言を吐いているだけなのです。
また、第二節にある「火が混じったガラスのような海のようなもの」とは、宇宙空間から地球の大洋の辺りを見下ろしたら、きっとその様な表現が相応しく見えるのだろうとは思いませんか。
火が混じっているので、一つ前の項目で述べた、火を司る天使が働きかけている様子が、きっと遠目にも映るのでしょう。
そして、獣や、獣の像や、獣の名の数字に勝った者とは、獣たちが作り出した悪魔の価値観に毒されずに、死の床まで神の言葉のままに貫いた者であり、この記事の最初の項目で小羊と共にいた者達です。
同じく、彼らが持っていた神の竪琴とは、この記事の最初の項目で、竪琴の演奏に例えられた自然現象です。
獣に勝った者達は、地上に近いけれども、地上の有様全体を見渡せる天の一角にいて、第十二章の最初に仕組んだ神の計画の一端を垣間見ることになるのでしょう。
獣に勝った者達は、この時になってやっと『神の裁き』の意味と役割を理解したので、その遠大な計画と精密な仕組みに驚いて、目の前で展開する神の御業を讃えたのでしょう。
モーセの歌と小羊の歌を歌う件は、キリスト教的価値観の影響を色濃く残した表現です。





■ 神の怒りが盛られた七つの金の鉢

黙示録の第十五章第五節~第八節では、天にある証しの幕屋の神殿が開かれます。
この神殿から、七つの災いを携えた七人の天使が出て来ますが、天使達は輝く清い亜麻布の衣を着て、胸に金の帯を締めていました。
そこに、神の玉座の周りにいる四つの生き物の一つがきて、神の怒りが盛られた七つの金の鉢を、七人の天使に渡します。
この神殿は、神の栄光と力とから立ち上る煙で満たされていたので、七人の天使の七つの災いが終わるまでは、誰も神殿の中に入ることが出来ませんでした。
さて、七つの災いを携えた七人の天使は、天にある証しの幕屋の神殿から出てくるのですから、七つの災いとは証しとして行われます。
幾ら悪魔サタンが地上を悪魔の価値観で染め上げようとしても、必ず破綻する時が来ます。
悪魔に与する者達や、悪魔の価値観に毒されてしまった者達が、幾ら「上手く行った」と思うように事を運んでいるつもりでも、必ず途中で破綻が明らかになります。
何故なら、一番最初に破綻を約束された種を蒔いているのですから、破綻という結果を刈り取るのは当たり前なのです。
その様な仕組みを成りたたせているのが神の御業であり、その仕組みを証しするものが、七人の天使による七つの災いなのです。
ですから、七人の天使は、神の玉座の周りにいる生き物から、神の怒りが盛られた金の鉢を受け取ります。
この災いが、神の意思として行われ、神が成りたたせている仕組みの一環として行われるからです。
また、この神殿が神の栄光と力とから立ち上る煙によって、七つの災いが終わるまで誰も立ち入れないのは、ここまで見てきた神の計画の中で、『神の裁き』である所の七つの災いの役割が極めて重要と位置づけられているからでしょう。
そう考えると、七つの災いを携えた七人の天使とは、神の計画の詳細と、七人の天使が受け持つ役割の意味合いについて熟知した、言わば神の側近とも言える天使達なのではないでしょうか。
父なる神は、神の計画に精通し、『神の裁き』の重要性をよく心得た、極めて信頼の置ける天使達に、『神の裁き』としての七つの災いの執行を委ねたのです。





■ 『神の裁き』としての七つの災いが下るまでのまとめ

前回の記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その4)】では、悪魔サタンが天から堕とされた後、キリスト教会に近づいて侵蝕し、自らが神に成り代わって地上の神として君臨しようと画策する様子、そして悪魔サタンの価値観に染め上げられてゆく地上の有様が述べられていました。
一方、今回取り上げた第十四章~第十五章では、ちょうど悪魔サタンの価値観が地上に蔓延った頃(恐らく現代ですが)、父なる神のお膝元の天界はどうなっているのか――という視点から描かれておりました。
今回取り上げた部分は、どちらかというとキリスト教的価値観の影響が色濃く漂っていると、管理人は個人的に感じたのですが、ご覧の皆様はどの様な感想を持ちましたか。
ともあれ、『ヨハネの黙示録』の記述がようやく現代に追いつきました。
これまでに投稿してきた一連の『ヨハネの黙示録』を解読するシリーズの記事の中でも、『神の裁き』と言われる時期の始まりが現在だと意識して、霊界の住人の助言を頂きながら、管理人が「根拠になる」と思われる点を幾つか述べて参りましたが、すんなりとご理解頂ける解説になっているでしょうか。
ある程度限られた紙面で、取りあえず大雑把な『ヨハネの黙示録』の全体像を駆け足でなぞってゆく方針ですので、あるいは、一部に恣意的な解釈や、論理性に欠けた強引な展開が見られるかも知れません。
もし、何か気づいたところがございましたら、下のコメント欄よりお知らせ下さい。
当面は、一通り『ヨハネの黙示録』の解読作業を終えてしまう方を優先しますが、一通り解読を終えた段階で、修正などの作業について検討したいと考えております。

Silvercord管理人 





なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご覧下さい。

閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/


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