2014年11月28日金曜日

『ヨハネの黙示録』では語られなかったこと

この記事は、以下の『ヨハネの黙示録』を解読するシリーズと題した下記記事の補足となります。
未読の方はこちらの記事より順番にご覧下さい。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】
『ヨハネの黙示録』第一章~第三章、アジア州にある七つの教会の天使に宛てた手紙について。
(補足)【『アジア州にある七つの教会』が示唆するもの】

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その2)】
『ヨハネの黙示録』第四章~第七章、イエスが神から託された巻物の七つの封印のうち、第一~第六の封印を開いてゆく。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その3)】
『ヨハネの黙示録』第八章~第十一章、イエスが巻物の第七の封印を開き、神からラッパを与えられた七人の天使のうち、第七の天使がラッパを吹くまで。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その4)】
『ヨハネの黙示録』第十二章~第十三章、悪魔サタンが天から堕とされた経緯と、地上でキリスト教会に侵蝕してゆく過程について。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その5)】
『ヨハネの黙示録』第十四章~第十五章、地上が悪魔サタンの支配下に置かれた頃、天で進行していた『神の裁き』の時に向けての準備の様子。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その6)】
『ヨハネの黙示録』第十六章、『神の裁き』として、七人の天使が地上にもたらす災いの様子と、『神の裁き』の目的について。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その7)】
『ヨハネの黙示録』第十七章~第十八章、多くの水の上に座っている大淫婦に対する『神の裁き』の様子。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その8)】
『ヨハネの黙示録』第十九章、大淫婦に対する『神の裁き』に伴うキリスト教会の再生と、獣達の辿る顛末について。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その9)】
『ヨハネの黙示録』第二十章、悪魔サタンの封印と、イエスと聖なる者による千年の統治、サタンの復活と最後の審判について。
(補足)【『ヨハネの黙示録』を構成する三段階】

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その10)】
『ヨハネの黙示録』第二十一章~第二十二章、新しい世界と聖なる都エルサレムの様子と、イエスからの忠告について。





■ 『ヨハネの黙示録』が書かれた目的について

上記黙示録の解読記事をご覧の皆様は、既に見当がついているのではないかと思いますが、改めて『ヨハネの黙示録』が書かれた目的について、冒頭で述べておきたいと思います。
まず、『ヨハネの黙示録』とは、一つ繋がりの物語が綴られているわけではありません。
大まかに述べると、一言で「神による人間育成計画」と表現できる神の計画の全体像を示すと共に、その中で特に『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点』が開いた時機に発動する『神の裁き』の進捗に焦点を当てて、その時代に生きる人々に向けて、極力的確な情報を伝える所にあります。
黙示録では、神の働きかけに対する、悪魔サタンの妨害行為についての記述に多くを割いていますが、これも「悪魔の行為自体が、結果的に人間の成長を促進する」との神の判断に基づいており、悪魔に対する裁きの時が繰り延べにされています。
では、「悪魔の行為が、人間の成長を促進する」とは、どういう事なのでしょうか。
神の考え方と悪魔の考え方の違いを一言で表現すると、核技術で原子力発電をするのか、それとも核爆弾を作るのかの違いです。
そして人間は、その行為が正しいのか、それとも間違えているのかを知る為には、実際に正解と間違いの両方の作業を経験しないと、それが正しい(或いは間違い)と納得できないのです。
記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その9)】では、イエスと聖なる者達による千年の統治の後、サタンが再び拘束を解かれて地上に現れるとありますが、イエスや聖なる者達を通じた神の働きかけだけでは、やはり「何故それが正しいのか?」の理解が曖昧になりがちです。
イエス達の統治の元にある諸国の民は、「イエスや聖なる者達が「そうしなさい」と言うから、彼らの言う通りにするのが正しいのだ」という、誤った理解に繋がりやすいからです。
ですから、再びサタンの封印を解いて、「諸国の民は、本当に神の働きかけの意味を理解しているのか?」を試しているのです。
小羊が巻物の封印を開く度に発動する『神の裁き』も、目的は同じです。
『神の裁き』の時代に、諸国の民である私たちが、日々の暮らしの中で行う一つ一つの判断を、イエスが慎重に見極めています。
そこで「この人は、人間として学ばなくてはならない経験を充分に積んだ」と見なされた人は、人間としての生涯が終わった後に、イエスと共に神の働きかけに携わる部隊の末席に加わります。
一方、「この人はまだまだ未熟で、悪魔の唆しに簡単に乗せられてしまう」と見なされた人は、再び人間として地上に産まれることになります。
特に、イエスが巻物の第七の封印を開く為には、イエスと共に統治に携わる聖なる者が大量にいなくては、千年に及ぶと言われるイエスの統治も覚束ないでしょう。
今も、そして第七の封印を開くまでの間に渡って、人間としての経験を重ねている人々は皆、イエスの千年に及ぶ統治の際には、聖なる者へと成長を遂げて、統治の作業に加わって欲しい――その様な思惑があるからこそ、予めこの様な文書を残して置いたのではないでしょうか。





■ イエスに与えられた権限

前の項目では、イエスが神から渡された巻物の第七の封印を開いた後に、千年に及ぶ統治を共に行う聖なる者達を育成する為に、予め『ヨハネの黙示録』が残されたのではないかと述べました。
霊界の住人の方の話によると、イエスが管轄しているのは第二の封印=『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点』だけなのだそうです。
そうすると、かつてはパレスチナに生きたとされるナザレのイエスが、ローマのバチカンを中心とする宗教の信仰対象になっている不思議な経緯の由縁が、ほんの少しだけ見えてくるような気がします。
そこで思い出して頂きたいのですが、黙示録の第二章~第三章にかけて、アジア州にある七つの教会の天使に向けて書かれた手紙が、世界に六カ所ある『霊界と地上界を繋ぐ拠点』の守人達と私たちに向けた手紙であると紹介しました。(記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】参照)
その中でイエスは、七つの教会の天使に対して「わたしは~をする」と述べていて、イエスが直接何らかの働きかけを行う意思を表明していますが、聖書で語られるイエス・キリスト、生前ナザレのイエスと呼ばれた方は、エフェソの教会である『バチカンの拠点』が管轄する欧州地域の人々に対してのみ、働きかけを行う権限を持っていることになります。
それでは、エフェソの教会を除く六つの教会の天使に宛てた手紙は、無効になってしまうのでしょうか。
ここで、イエスが神から委ねられた役割について思い出して頂きたいのですが、黙示録の第五章では、神の手にあった巻物が七つの封印で封じられていて、この巻物を開いて見るのに相応しい者がいませんでした。
しかし、長老の一人が「ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことが出来る」と述べます。
イエスの役割を一言にまとめると、神の「人類育成計画」が記された巻物の封印を開いて、神が予め計画した通りの結果をもたらすことです。
『ヨハネの黙示録』では、神の巻物の七つの封印を全て開くのがイエスの役割と書かれていますが、霊界の住人によると、イエスの役割は第二の封印である『バチカンの拠点』を開くことです。
それ以外の拠点には、やはりイエスと同様の役目を担った別の方がいるそうです。
それぞれの拠点について、イエスが行うのと同等の働きかけが行われますが、働きかけを行っているのはイエスではないとのことでした。
また、黙示録の第五章の冒頭に、神の手にあった巻物にある七つの封印を開いて、見る事の出来る者が誰もいなかったとありますが、その理由については述べておりませんでした。
先に『ヨハネの黙示録』を一通り解読してから、黙示録では語られていない、その辺りの入り組んだ事情を解説した方が、ご覧の皆様にも理解を深めて頂けるのではないかと考えたからです。
管理人自身もきちんと確認したわけではありませんが、黙示録を含む聖書では語られていないと思いますし、その他の歴史的な資料等の記録も残されていないだろうと推測しています。
あくまでも、霊界の住人が語った話ですので、「もしかしたら、そんな事があったのかも知れない」程度の軽い気持ちでご覧下さい。





■ イエスの誕生に至る物語

これはイエスが生まれる遙か昔の話ですが、いわゆるギリシャ神話の神々が人々の信仰を集めていた時代に、神々と人間はもっと身近な関係にあったのだそうです。
日本では、現在でも全国各地に多くの神社があって、神々と人々が共に暮らしていると言っても差し支えない環境にありますが、かつてはギリシャ神話の神々も、日本の神々と同じ距離感で人々に接していたようです。
と言うことで、『日本の拠点』を通じて人間に働きかけるのが、日本の神々である様に、『バチカンの拠点』を通じて人間に働きかけるのは、ギリシャ神話に記された神々なのだそうです。
しかし、今『バチカンの拠点』の守人を務めているのはキリスト教会で、覡はローマ教皇です。
これは一体どういう事なのでしょうか。
そこで黙示録の第十二章を見ると、子供を身ごもった女が現れて、次に赤い竜が現れます。
最初に竜が狙っていたのは、女が身ごもった子供でした。
しかし、子供が神の玉座へ引き上げられると、赤い竜は一転して女を付け狙います。
記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その4)】では、この女を「人間などの生物に宿って霊が成長するシステム」を指すと述べましたが、これを神格化すると「大地母神」と言えるでしょうか。
また、赤い竜とは、元々はギリシャ神話の神々の眷属であり、天使だったと解説したのは、聖書的な価値観では天使に該当すると言う意味です。
さて、赤い竜は神になることを強く求めたのですが、既に解説したように、かつては自分より未熟な人間であったにもかかわらず、自分より先に神になってしまった者が現れました。
嫉妬に狂った挙げ句に、自ら地上付近へ逃げてくるのですが、そこで赤い竜は、ギリシャ神話の神々を信仰する人々に対して、この様に囁いて唆します。
「お前達は神様の凄い力を畏れて崇拝しているけれども、本当はお前達だって同じ力を使えるんだ。
でも、お前達がその力を使えるようになると、神様はお前達を支配できなくなる。
だから神様は、お前達に神の凄い力の秘密を隠して独占いるんだ。」
この様な世迷い言を囁いたのですが、人々は赤い竜にまんまと唆されて、神々への信仰は急速に衰えていきます。
その挙げ句に、かつては人々と共に過ごしていた神々は、一旦地上から手を引いて、天界へ引き上げることにしたのです。
その様子を見て調子に乗った赤い竜は、「やはり未熟な人間が自分より優れているはずがない」と自信を深めました。
そして、「こうなったらもう二度と、人間を神になどさせはしない。むしろ、俺が地上の神になる!」と執念を燃やすのでした。
その様な事情でしたので、ギリシャ神話の神々とローマ神話の神々が結びつけられて行くのは、いわば自然の成りゆきなのですが、その神々に対する信仰が衰えて行くと、今度は『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点』が必要とされる時まで、聖なる土地・特別な意味合いを持った土地として維持する為の、新たな仕組みを構築する必要が出て来ました。
そこでギリシャ神話の神々は、『バチカンの拠点』に近い『エルサレムの拠点』が管轄する地域にいた、イスラエルの民の民族宗教に注目しました。
彼らは、自分達の先祖が交わした神との契約に基づいて、自分達の民族神を信仰していました。
聖書にも『創世記』を始めとして、随所に記述がある様に、元々は他の神々の存在や、他の民族が他の神を信仰することを、必ずしも否定しているわけではありません。
しかし、過去に先祖と契約を交わしているイスラエルの民に対しては、イスラエルびとの神である主への信仰を守るように、度々繰り返して強調しています。
ところが、イエスが誕生する時代になると、イスラエルびとの神であった主が、いつの間にか唯一の神であると受け止められるようになっていました。
どうやら、イスラエルびとの国家であったユダ王国がバビロニアに滅ぼされて、当時ユダ王国の指導者であった者達がバビロンに強制移住を強いられた、いわゆるバビロン捕囚の時代に、そういった神への信仰の見直しがあった様です。
実は、『ヨハネの黙示録』の解読に際して、大バビロンという名の大淫婦についての理解を深める参考として、旧約聖書でバビロン捕囚に言及している部分に目を通したのですが、どうやらバビロニアに滅ぼされる前のユダ王国の時代には、神との契約を損ねる不品行が横行していたようです。
ましてや、ユダ王国からバビロンへ強制移住させられた者達は、そこで世代を重ねるに連れて、自らの神に対する信仰を根本的に変質させてしまいました。
言わば、かつて神と契約したイスラエルの民が、悪魔の淫らな唆しに酔い痴れた瞬間です。
この様な経緯があったので、かつてのバビロンに相当する役割を担って、諸国の民を淫らな行いの果実で酔わせてしまったキリスト教会は、『ヨハネの黙示録』で大バビロンと呼ばれました。
さて、バビロン捕囚から時は流れて、イエスが『公生涯』と呼ばれる宣教活動を行っていた頃、ファリサイ派や律法学者達を「偽善者で、不幸である」と述べて、度々厳しく批判したと福音書に記されています。
例えば、「良きサマリア人のたとえ」と言われる『ルカによる福音書』第十章第二十五節~第三十七節にて、律法学者がイエスを試そうとして「永遠の命を受け継ぐ為にはどうすれば良いか」を尋ねます。
イエスは「律法には何と書いてあるか」を問い返すと、律法学者は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分の様に愛しなさい、とあります」と答えました。
イエスは「正しい答えだ、それを実行しなさい。そうすれば命を得られる」と答えています。
そこで律法学者が「では、私の隣人とは誰ですか」と尋ねると、イエスが「良きサマリア人のたとえ」を返すのですが、このエピソードから、当時の律法学者は文章としての律法を知っていても、その意味をきちんと理解して日常生活に活かすのではなく、屁理屈を捏ねて神の言葉に込められた意図を歪めている様子が伺えます。
だからこそ、イエスは「律法に記された正しい行いをしなさい」と諭して、かつてのイスラエルの民の姿勢に立ち戻る様に訴えているのです。
そして、律法を深く理解する者程、ファリサイ派や律法学者よりも、イエスの言葉の方が、聖書に記された神の言葉に照らして正しいと判断することになるのですが、それではファリサイ派や律法学者達の立場が危うくなります。
その様な経緯により、イエスを罪人として処罰することによって、「あれはとんでも無い偽者のペテン師だ」と印象づけると共に、イエスによって揺るがされた自分達への信頼を取り戻す必要があると考えたのでしょう。
イエスは処刑されてしまいますが、死の淵にあっても神の言葉のままを通したので、イエスの死後には、父なる神と共に信仰の対象とされる様になりました。
特に、イエスの復活と昇天についてのエピソードは、人間であったイエスが神の座に引き上げられた事を示す象徴となり、これによりイエスは父なる神に並ぶ信仰の対象となりました。
そこで不思議なのは、生前にイエスが活動していたのはパレスチナの地だったのに、キリスト教がローマ帝国の国教として保護を受ける様になって、拠点をローマに構えました。
そこまでの一連の経緯が、ギリシャ神話の神々による、『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点』を、必要となる時まで「聖なる土地」として守り続ける仕組みを作る働きかけだったと言ったら、ご覧の皆様はどの様に考えますか。
これはあくまでも管理人の個人的な解釈であると、予め強調しておきますが、実は『ヨハネの黙示録』の中にも、ギリシャ神話の神々の関与を匂わせる記述があるのではないかと考えております。
黙示録の第四章第四節には、神の玉座の周りに二十四の座があって、それらの座の上には白い服を着て、頭に金に冠を被った二十四人の長老が座っていたとあります。
第五章に入ると、神が右手に巻物を持っているのですが、七つの封印で封じられており、力強い天使にも封印を解いて開くことは出来ませんでした。
しかし、長老の一人がこの様に言います。
「見よ、ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を見る事が出来る」
この一連の流れで気になったのは、イエスが登場する前に、既に長老であった二十四人の者とは、一体誰なのかと言うことでした。
更によく見ると、イエスが勝利を得たと告げているのは長老の一人なので、長老の働きかけによってイエスが勝利を得たと想像できます。
仮に、霊界の住人が述べたギリシャ神話の神々についての話が事実であったと仮定すると、『ヨハネの黙示録』は二十四人の長老として描くことによって、ギリシャ神話の神々の関与を前提においた物語と言えるのではないでしょうか。
尤も、霊界の住人の話を裏づける根拠を示せるわけではありませんが、遙かな古の神話とキリスト教の間には深い関わりがあって、もはや神話の中だけの存在と思っていた神々が、今も私たちの成長を促す為に日々働きかけを続けているとしたら、かつて彼らへの信仰を捨てた人々の子孫である欧州に暮らす人々は、一体どの様に思うのでしょうか。





■ キリスト教の神とユダヤ教の神と聖書

ここまでの話を踏まえて、聖書で述べている神について、改めて整理しておきましょう。
私たちは今まで、キリスト教もユダヤ教も同じ聖書(旧約聖書は基本的に共通)を聖典としているのだから、どちらの神も同じ神だと思いがちなのですが、実は、キリスト教の神とユダヤ教の神は別の神です。
と言うよりも、旧約聖書の神と、新約聖書の神は、同じ神でも別の存在を指すと言った方が良いでしょうか。
前の項目でも述べましたが、旧約聖書の神とは、かつてアブラハムと契約を結んだイスラエルの民の民族神であり、恐らく『霊界と地上界を繋ぐエルサレムの拠点』を通じて働きかける神だと考えられます。
しかし、新約聖書の神とは、『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点』から働きかける、イエスや二十四人の長老達にとっての神です。
『ヨハネの黙示録』を慎重に読み込んで行くと分かるのですが、天から地上へ向けて働きかけるのはイエスや長老達、天使達であって、神は天の玉座から御言葉を述べるのみです。
旧約聖書の神とは、新約聖書のイエスや長老達と同じ立場の存在で、おそらく彼らを統括するのが新約聖書の神に当たるのでしょう。
因みに、『銀の紐』流の表現では、旧約聖書の神や、新約聖書のイエスや長老達は、それぞれの『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を管理する神であり、新約聖書の神とは、地球全体を統括する神となります。
加えて、旧約聖書はユダヤ教にとっての聖典ですが、キリスト教に取っての聖典は新約聖書のみと言って差し支えないと思います。
旧約はイスラエルの民にとっての神に対する信仰の為の書であって、キリスト教の主体である欧州に暮らす人々の為に書かれた書ではありません。
但し、新約聖書に綴られた文書を理解するには、旧約聖書の存在が欠かせませんので、新約聖書についての理解を深める為の暗号解読キーとして、キリスト教に取っても旧約聖書が重要な書物であると言えます。
また、キリスト教ではナザレのイエスをメシアであると受け止めていますが、ユダヤ教では偽メシアと見られております。
この様な解釈の違いが生じるのは、イエスの役割を考えれば当然です。
イエスは『バチカンの拠点』を通じて欧州諸国の人々に働きかける存在ですから、欧州の拠点を守るキリスト教に取ってのメシアという解釈は妥当です。
一方、ユダヤ教は『エルサレムの拠点』を守る民にとっての教えと言えますので、ナザレのイエスは彼らにとってのメシアではありません。
どちらかが正しくて、どちらかが間違っているのではなくて、どちらも正しいというのが管理人の見解です。
なお、エルサレムを聖地とする宗教にはイスラム教もありますが、現時点では調査の手が及んでいません。
イスラム教も聖書を聖典と見なしている(但し、改竄されて聖典としての価値を失ったとの立場)ので、調べてみる価値はありそうです。





■ 『ヨハネの黙示録』で語られなかったことのまとめ

今回は、『ヨハネの黙示録』を解読するシリーズでは触れられなかった、「黙示録には書かれていないけれども、黙示録の理解をより深める材料になる」と管理人が考えた点について、あくまでも管理人の個人的な意見として紹介しました。
解読に当たって、霊界の住人の方の話を伺いながら作業を進めていると、時折私たちの理解を越えた知識や、私たちの常識を覆す見解がもたらされることがあります。
その中から、今回は、黙示録の記述としては過去の時代に当たる部分について、黙示録の内容を補足するエピソードを取り上げましたが、いかがでしたか。
この補足記事を書き始めた当初は、一度の投稿で全ての内容を網羅できると予想していたのですが、意外に長引いてしまいましたので、二分割でのお届けになります。
次回は、「黙示録には書かれていないエピソード」のうち、現代から未来に当たる部分についての話を紹介したいと思います。
『ヨハネの黙示録』を解読するシリーズは、一応次回で一旦終了にしたいと考えておりますので、あと少しだけお付き合い下さい。

Silvercord管理人 





なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご覧下さい。

閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/


上記記事の内容についてのご意見・ご感想・ご質問はコメント欄よりお寄せ下さい。
また、コメントを投稿される際は、記事【改めて、ご覧の皆様へのお願いと連絡事項】をご覧下さい。

2014年11月24日月曜日

『アジア州にある七つの教会』が示唆するもの

以前投稿した記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】のコメント欄にお寄せ頂いたソラゴト様のコメントに関連しまして、新たに補足記事を投稿することと致しました。
詳しくは当該記事のコメント欄を参照して頂くことにして、大まかな経緯を述べると、黙示録の冒頭に、ヨハネがイエスから「アジア州にある七つの教会」に向けて手紙を書く様に指示を受けたのですが、ここで述べている七つの教会の順番にはどの様な意味があるのかという論点からの仮説を披露して頂きました。
ソラゴト様の説を受けて、改めて霊界の住人の方に話を伺った所、非常に興味深いことが分かりましたので、以下にご紹介します。





■ アジア州にある七つの教会についてのおさらい

冒頭のリンク先の記事で解説しております様に、黙示録に登場する『アジア州にある七つの教会』とは、以前より『銀の紐』などを通じて度々ご紹介してきた『霊界と地上界を繋ぐ拠点』に相当します。
その関係性を列記にすると以下の様になります。

エフェソの教会 → バチカンの拠点
スミルナの教会 → エルサレムの拠点
ペルガモンの教会 → 米国の拠点
ティラティアの教会 → 日本の拠点
サルディスの教会 → スーダンの拠点
フィラデルフィアの教会 → チベットの拠点
ラオディキアの教会 → 地上全体

そして、今は小羊が神に渡された巻物の第二の封印を開いた所で、これから概ね今世紀末にかけて『神の裁き』と呼ばれる事態が徐々に進行します。
今回の『神の裁き』で裁かれるのは、主に「大淫婦」と呼ばれるキリスト教会です。
ですから、この先『神の裁き』の進捗状況に応じて、キリスト教会のあり方が大きく変わって行くことになります。
以上を踏まえて、アジア州にある七つの教会の順番に込められた意味を確認していきましょう。





■ バチカンの拠点とエルサレムの拠点

管理人が最初に解読した時点では、アジア州にある七つの教会の順番から特別な意味合いを見いだせなかったのですが、ソラゴト様のコメントを受けて改めて霊界の住人に確認した所、『神の裁き』の影響が大きな場所から順番に並んでいるとのことでした。
そう言われてみると、確かにエフェソの教会に当たる「バチカンの拠点」は、今回の『神の裁き』の中心と言えますので、最も大きな影響を受けるのは頷ける話です。

次のスミルナの教会に当たる「エルサレムの拠点」は、『神の裁き』の中心である「バチカンの拠点」から最も近い拠点であり、「バチカンの拠点」と「エルサレムの拠点」は、双方の拠点が管轄する地域が地続きで接しています。
更に、エルサレムはキリスト教会にとっても聖地ですので、当然ながらキリスト教会に対する『神の裁き』の影響はあるでしょう。
なお、黙示録を解読した時点では、スミルナにある教会の天使を「アブラハムの子孫」と推定しました。
そして、聖書の記述にある神とアブラハムの契約とは、アブラハムが神から特定の土地を与えられるのではなく、『霊界と地上界を繋ぐエルサレムの拠点』を、必要となる時まで聖なる土地として守り続けていく守人としての契約を結んだのだと述べました。
そこで「アブラハムの子孫」というと、一般的にはユダヤ人を思い浮かべそうですが、聖書の記述を追いかけて行くと、単純にアブラハムの子孫=ユダヤ人とは当て嵌められないことに気付くのです。
アブラハムの子孫達は、やがてイスラエル王国を建国しますが、その後に内紛を経て北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂します。
その後、北のイスラエル王国はアッシリアの侵攻を受けて滅亡し、かつてイスラエル王国の国民であった者達の行方が分からなくなってしまいました。
これがいわゆる「イスラエルの失われた十支族」と呼ばれる人々です。
一方、南のユダ王国は、北のイスラエル王国滅亡後もしばらく国家を維持しましたが、やがてバビロニアの侵攻を受けて滅亡し、ユダ王国の指導者達がバビロニアの首都バビロンに連行されてしまいます。
これがいわゆる「バビロン捕囚」で、この時代にイスラエルの民の信仰がユダヤ教に変質していったのだそうです。
そして現在のユダヤ人と呼ばれる人達は、かつてのユダ王国の国民であった者の子孫と、その後にユダヤ教に改宗した人々の集団を指します。
ここで疑問となるのは、「アブラハムの子孫の国が分裂した後、片割れであるユダ王国の民の子孫のみが正当な後継者であるのか否か?」と言うことです。
もし、ユダの二支族の後継者が、いわゆるユダヤ人として現在まで血脈を繋いでいるのと同じように、イスラエルの十支族が現在まで血脈を繋いでいるのだとしたら、両者が融合して一つの民族として再生した時にこそ、古の神との契約に基づいて、「イスラエルの拠点」の守人としての本来の務めを果たす準備が整うのではないでしょうか。
因みに、これはあくまでも管理人の個人的な見解と強調して述べるのですが、かつてアッシリアに滅ぼされたイスラエル王国の民の末裔は、現在はムスリムの中に溶け込んでいるのではないかと予想しております。
歴史的な経緯を辿ると、イスラエル王国の滅亡後も、元々その土地に暮らしていた民の一部はなおその場に留まっており、また移動した場合でも近隣の地域に分散した者が多かったようです。
但し、ユダ王国の末裔がユダヤ教を拠り所として民族的独自性の維持に努めた反面、イスラエル王国は「バビロン捕囚」に伴ういわゆるユダヤ教の成立以前に民族的一体性を失ったので、そのまま時間の経過と共にイスラム教に吸収されていったのではないでしょうか。
旧約聖書やクルアーンの中に、その辺りの事情を示唆する記述が残されている可能性があると予想しているのですが、残念ながら今のところは調査の手が行き届いておりません。
また、特にクルアーンの扱いに気をつけないと、一部の狂信的信者の標的にされるリスクがありますので、なかなか勇気の要るテーマになります。

なお、今回の『神の裁き』を乗り越えた後の話として、「バチカンの拠点」が管轄する欧州の人々と、「イスラエルの拠点」が管轄する中東の人々の関係について、霊界の住人の方はこの様に述べております。
「今回の『神の裁き』を通じて、欧州に住む人々の価値観が大幅に変化して、日本に住む人々の価値観に近づいて行く。
そうすると、欧州に隣接する中東に住む人々は、日本に取っての朝鮮と似た様な関係になり、今後欧州の人々は中東の人々の干渉に悩まされることになるだろう。
その経験を通じて、日本がどれ程朝鮮に悩まされ続けていたのかを理解して行くことになる。」
ということで、日本の場合は朝鮮の嘘偽りである誹謗中傷に悩まされていますが、今後の欧州は、かつて自分達が中東諸国に強いた仕打ちの報復という形で、現在の日本よりも更に厳しい境遇に置かれることになるのではないでしょうか。





■ バチカンの拠点と米国の拠点

「米国の拠点」が管轄する地域は、南北米国大陸とオーストラリア大陸になります。
そして、中南米はカトリックの信者を多数抱えており、北米はプロテスタントが優勢、オーストラリアは聖公会を含むキリスト教系の信徒が多数を占めますので、当然ながら今回の『神の裁き』によるカトリック教会の変化を受けた影響の大きな地域の一つです。
但し、カトリックの総本山がある「バチカンの拠点」とは海を隔てておりますので、地続きで隣接している「エルサレムの拠点」が管轄する中東諸国と比べると、「米国の拠点」が管轄する地域への影響は限定的なものとなるでしょう。
ここで改めて、「米国の拠点」に該当する、ペルガモンにある教会の天使に宛てた手紙を確認すると、サタンの王座がある土地とされております。
とはいえ、ペルガモンの土地にサタンの王座があるのは、今回の『神の裁き』の始まりの時点であり、それは現在です。
また、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その4)】によると、米国にいる第二の獣が、欧州にいる第一の獣から全ての権力を受け継いだ後に、「大きなしるし」として最初の『神の裁き』を迎えていますので、少なくとも最初の『神の裁き』の始まりの時である明治維新の時点では、悪魔の王座が欧州から米国に移動していたと読めます。
そして、一度開いてしまった封印――開放してしまった『霊界と地上界を繋ぐ拠点』が管轄する土地に、サタンが王座を築くのは難しいと思いますので、今後サタンの王座は拠点が開かれていない別の土地へ移動することになるのではないでしょうか。
また、後のことはともかくとしても、取りあえず今は米国にサタンの王座があり、旧約聖書に登場した占い師バラムとバラク王に例えられる人物の策動により、ペルガモンの土地に住む人々は悪魔を信奉し、その為に不正な見返りを受ける事になります。
しかし、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その8)】で述べている様に、今回の『神の裁き』を通じて、第二の獣にとっては扱いやすい道具であり楯であった第一の獣が、しるしを行った偽預言者と共に「硫黄の燃えている火の池」に投げ込まれてしまいますので、サタンや第二の獣にとっては大きな痛手となるでしょう。
ですから、「バチカンの拠点」が開かれて『神の裁き』が始まると、キリスト教会や欧州に住む人々の価値観が否応なく変化してゆき、サタンにとって重要な手駒の一つが、自分にとって対立する存在として立ちはだかることになるでしょう。
それはサタンの陣営にとっても、敗北感を深める苦い出来事として記憶されることになるのではないでしょうか。





■ バチカンの拠点と日本の拠点

記事の冒頭で、「日本の拠点」はティラティアの教会に該当すると述べておりますが、ティラティアにある教会の天使に宛てた手紙は、主にイゼベルという女との関わりについて書かれており、イゼベルが悪魔を信奉している――サタンの手先であると記されています。
また、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その4)】によると、第二の獣が第一の獣の前で「大きなしるし」として、日本の拠点に対する『神の裁き』で大きな役割を担いました。
ですから、「バチカンの拠点」がある欧州にいる第一の獣よりは、「米国の拠点」にいる第二の獣との関わりの方が強い時代が続きました。
しかし、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その8)】では、小羊と清い花嫁の婚礼が行われた後に、「白い馬に乗っている方」が現れます。
この方は、小羊が巻物の第一の封印を解いた時に現れて、白い馬に乗って弓を持っていた者と同じ方です。
彼は頭に多くの王冠を被り、天の軍勢を従えて、第一の獣とそれに与する王達の軍勢に立ち向かいます。
その結果として、第一の獣と人々を唆した偽預言者が捕らえられて、「硫黄の燃えている池」に投げ込まれてしまいます。
そうして欧州が第一の獣の干渉から解放されることによって、ようやく日本と欧州に暮らす人々の価値観が共有化される下地が整って行くでしょう。
ですから、今回の『神の裁き』を通じて、日本はようやく価値観を共有できる仲間を得ることになるという意味で、大きな影響を受けることになります。





■ バチカンの拠点とスーダンの拠点

「スーダンの拠点」はアフリカ大陸を管轄するのですが、ヨハネが手紙を書いたアジア州にある教会のうち、サルディスにある教会が「スーダンの拠点」に該当します。
そこで、ヨハネがサルディスにある教会の天使に宛てた手紙を読み返すと、「生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」と述べております。
アフリカ大陸と言えば、古くは全ての人類の祖と目される人がアフリカに誕生していた可能性が研究されていますが、時は流れて欧州が大航海時代に入ると、欧州諸国は交易目的でアフリカに進出します。
その後すぐに欧州は奴隷貿易に着手し、アフリカから多くの人が労働力目的の奴隷として米国大陸に送られる様になりました。
奴隷貿易によって人口が減少したアフリカの諸都市の勢力が衰えたので、当初は対等な交易であった筈なのですが、徐々にアフリカ市場が欧州諸国に席巻されてゆき、遂にはアフリカ大陸全土が欧州諸国の植民地として支配されて行きます。
その様な歴史的経緯を辿って行くと、アフリカを死んでいる様な状態に陥れたのは、サタンの名代である第一の獣が率いる欧州諸国です。
それが、今回の『神の裁き』に伴って事情が変わります。
欧州におけるサタンの代理人であった第一の獣が「白い馬に乗った方」等の活躍で駆逐され、欧州にイエスと清らかな花嫁が率いる教会が再建されると、欧州諸国からアフリカに対する干渉はなくなってゆくでしょう。
「日本の拠点」の項目で述べた様に、欧州に住む人々の価値観が日本人に近づいて行くので、私利私欲を満たす為に強制力で他国を従わせようとは考えなくなって行くからです。
尤も、アフリカの現状を見ますと、欧州ばかりでなく、米国や中国も何かと関わっているようですし、特にアフリカ北部にはムスリムが多数居りますので、中東からの影響も大きなものがあるでしょう。
ですから、今回の『神の裁き』の進行に伴うアフリカ諸国への影響は、どちらかというと相対的には限られたものとなるのではないでしょうか。





■ バチカンの拠点とチベットの拠点

「チベットの拠点」は概ねアジア全域を管轄しますが、ヨハネが手紙を書いたアジア州にある教会のうち、フィラデルフィアにある教会が「チベットの拠点」に該当します。
尤も、チベットは現在中華人民共和国の侵略を受け、武力を持って強制的に併合された状態にありますので、「バチカンの拠点」が管轄する欧州からの影響は、他の拠点と比べると相対的に限られてしまいます。
既に「フィラデルフィアにある教会の天使に宛てた手紙」を解読した際にも述べております様に、目の前でチベットを蹂躙し続ける中共の帰趨に左右される部分が大きくなりますので、こればかりは致し方がありません。
その中でも間接的な影響という意味では、今や経済的な側面に置いて欧州と中共の関わりにはそれなりに大きなものがありますから、これから徐々に進行する『神の裁き』を通じて、欧州に暮らす人々の価値観が変わって行けば、欧州と中共との関わり方も変わって行くでしょう。
しかしそれ以前に、中共の体制維持が困難になりつつある事が、最近の経済的な行き詰まりを示す報道や、香港における反政府デモなどの様子を通じて伝わってきますので、チベットにとっては欧州よりもむしろ、瓦解する中共の行方が今後に大きな影響を及ぼす要素となります。





■ バチカンの拠点とラオディキアにある教会

記事の冒頭で、ラオディキアにある教会とは地上全体を指すと述べました。
ここで改めて、黙示録のラオディキアにある教会の天使に宛てた手紙の解読を振り返ると、ラオディキアにある教会とは、先にあげた六カ所の拠点を除く全ての場所を指し、ラオディキアの教会の天使とは、他の六カ所の教会の天使を除く全ての人間が当て嵌まると推定しております。
また、ラオディキアにある教会とは、小羊が神に渡された巻物の第七の封印です。
黙示録では、第七の封印を開いた後に、サタンが底なしの淵に閉じ込められて封印されますが、それと入れ替わりに、イエスと聖なる者達が千年の間統治します。
元々、地上にある六カ所の拠点は、地球を管轄する神々が、『創造性と思考力に働きかける霊的エネルギー』を人間に供給する為の中継点として作られました。
しかし、イエスと聖なる者達の統治を通じて、直接霊界との繋がりが取れて、間に『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を挟まなくても、直接神々から霊的エネルギーの供給を受けられる人が増加します。
言わば、拠点の仲介を頼まなくとも、直接神々と霊的エネルギーの供給路を繋ぐのが、私たち人間にとって当面の目標です。
私たち人間が、その目標に近づいて行く上で、今回の『神の裁き』がどの程度の影響を及ぼすかというと、なかなか一足飛びには目標に近づけません。
目標に辿り着くには、今回を含めてあと六回の『神の裁き』を乗り越えなくてはならないのですから。
ということで、今回の『神の裁き』がラオディキアにある教会の天使に及ぼす影響は、相対的に極めて限られた程度に留まるのではないでしょうか。





■ 教会の順番は変動する

以上、アジア州にある七つの教会の天使に宛てた手紙の順番とは、各々の教会に該当する拠点が、今回の『神の裁き』によって大きな影響を受ける順番を表していると解説しました。
霊界の住人の方の話によると、この順番は今回の『神の裁き』に限定した影響度の順番であって、次の『神の裁き』の際には、各々の拠点に対する影響度の大きさが変わってゆくのだそうです。
それでは、例えば次の『米国の拠点』が開く時には、もしくはその次は……と、気になる方もいらっしゃると思いますが、次の拠点が開く時期は今から約三百年後で、ご覧の皆様が寿命を全うされた後のこととなりますので、まずは上記記事の様な影響度が本当に現れるのかどうかを確認する方が良いでしょう。
それでしたら、ご覧の皆様が寿命を全うされるまでの間でも、ある程度はご自身で確認できるでしょうから。

この度は、既に投稿済の黙示録解読記事について、説明不足な点があることに気づくきっかけを下さったソラゴト様に感謝申し上げます。
また、その他にも説明不足や、説明が分かり難いなどのご指摘がありましたら、当該記事のコメント欄よりお問い合わせ下さい。

Silvercord管理人 





上記記事の内容についてのご意見・ご感想・ご質問はコメント欄よりお寄せ下さい。
また、コメントを投稿される際は、記事【改めて、ご覧の皆様へのお願いと連絡事項】をご覧下さい。

2014年11月15日土曜日

掲示板を開設しました

先日投稿した記事【連絡事項とお詫び】にあります様に、去る11月8日~9日にかけて、ブログサービス[Blogger]にアクセス障害が発生しました。
トラブルの影響で閲覧が出来なかった皆様には、改めてお詫び申し上げます。

そこで、今後同様のトラブルが発生する事態を想定しまして、霊媒と管理人で対応策を協議した結果、[Blogger]以外の場所に『銀の紐』の避難所的な場所を設けることと致しました。

teacup.レンタル掲示板にて
【『銀の紐』『銀の紐を越えて/α』の連絡&雑談掲示板】を開設しました。

URLはこちらです。
http://9322.teacup.com/shelter1114/bbs

こちらはブログ『銀の紐』、『銀の紐を越えて』、『銀の紐を越えてα』共用の緊急時連絡用掲示板として活用したいと考えております。

また、『銀の紐』掲載記事に関係する話題を対象とした雑談スレッドを暫定的に用意しましたので、ご利用下さい。

Silvercord管理人 





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また、コメントを投稿される際は、記事【改めて、ご覧の皆様へのお願いと連絡事項】をご覧下さい。

2014年11月14日金曜日

『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その10)

この記事は、以前投稿した下記記事の続編となりますので、未読の方はこちらの記事より順番にご覧下さい。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】
『ヨハネの黙示録』第一章~第三章、アジア州にある七つの教会の天使に宛てた手紙について。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その2)】
『ヨハネの黙示録』第四章~第七章、イエスが神から託された巻物の七つの封印のうち、第一~第六の封印を開いてゆく。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その3)】
『ヨハネの黙示録』第八章~第十一章、イエスが巻物の第七の封印を開き、神からラッパを与えられた七人の天使のうち、第七の天使がラッパを吹くまで。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その4)】
『ヨハネの黙示録』第十二章~第十三章、悪魔サタンが天から堕とされた経緯と、地上でキリスト教会に侵蝕してゆく過程について。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その5)】
『ヨハネの黙示録』第十四章~第十五章、地上が悪魔サタンの支配下に置かれた頃、天で進行していた『神の裁き』の時に向けての準備の様子。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その6)】
『ヨハネの黙示録』第十六章、『神の裁き』として、七人の天使が地上にもたらす災いの様子と、『神の裁き』の目的について。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その7)】
『ヨハネの黙示録』第十七章~第十八章、多くの水の上に座っている大淫婦に対する『神の裁き』の様子。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その8)】
『ヨハネの黙示録』第十九章、大淫婦に対する『神の裁き』に伴うキリスト教会の再生と、獣達の辿る顛末について。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その9)】
『ヨハネの黙示録』第二十章、悪魔サタンの封印と、イエスと聖なる者による千年の統治、サタンの復活と最後の審判について。
(補足)【『ヨハネの黙示録』を構成する三段階】





■ 新しい天と新しい地

黙示録の第二十一章第一節~第八節では、新しい天と新しい地が現れます。
最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなってしまいます。
更に、聖なる都、新しいエルサレムが、夫の為に着飾った花嫁の様に用意を整えて、神の元を離れて、天から下ってきます。
その時、玉座から大きな声が語りかけます。
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。
神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙を悉く拭い取って下さる。
もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。
最初のものは過ぎ去ったからである。」
すると、玉座に座って居られる方が、「見よ、私は万物を新しくする。」と言います。
また、「書き記せ、これらの言葉は信頼でき、又真実である」と言います。
そして、更に言いました。
「事は成就した。
私はアルファであり、オメガである。
初めであり、終わりである。
渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。
勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。
私のその者の神になり、その者は私の子となる。
しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、全て嘘を言う者、この様な者達に対する報いは、火と硫黄の燃える池である。
それが、第二の死である。」
さて、少々長くなりましたが、前回の記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その9)】の最後で、人類は全て死に絶えて滅亡してしまうと述べました。
しかし、それは新しい天と地が現れる為に必要な段階であった様です。
最初の天と地は去って行き、もはや海もなくなってしまうとありますが、実際に海がなくなってしまうのかどうかはともかく、私たち人類がよく知る地球環境は劇的に変貌してしまうと言えそうです。
最近の科学研究によって、全球凍結と言われる状態が過去に何度か訪れていて、その度に地球上の生命の大半が滅亡していた可能性が指摘されておりますが、人類の滅亡も地球環境の変化に適応できなくなった結果起こるのだと考えています。
尤も、悪魔サタンに唆されて、聖なる者達の陣営と愛する都を取り囲んだ者達は、天から下って来た火に焼かれているので、全球凍結とは別の環境変化によるのかも知れません。
いずれにせよ、新しい天と地は、人類の生存には適さない環境に変わっているでしょう。
しかし神は「事は成就した」と言いました。
ここまでの経緯は全て、神が予め定めた通りに進められて、神が求めた通りの結果に結びついたのです。
私はアルファであり、オメガである(初めであり、終わりである)とは、神が「光あれ」というと光があったのと同じで、原因を作ったのも結果を導いたのも神であり、原因と結果の関係性は神の御力によって定められていると言うことです。
そして、勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐとあり、私はその者の神となり、その者は私の子となるとありますので、かつて小羊イエスが父なる神の子であった様に、勝利を得る者も父なる神の子となるようです。
また、イエスが聖なる者達と共に千年の間統治したように、勝利を得る者は万物を新しくされた世界の統治を任されることになります。
同時に、火と硫黄の燃える池に投げ込まれる者の条件を列挙しておりますが、これが最後の審判の際に、命の書を始めとした書物を参考にした結果、勝利を得る者ではないとみなされる基準となります。
臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、全て嘘を言う者、この様な者達は皆、イエスと聖なる者による千年の統治を経た後にもなお、復活した悪魔サタンの唆しに酔い痴れて、六六六の獣の数字の境涯から抜け出すことが出来なかったからです。
彼らは、神によって万物を新しくされた世界には暮らしていけない者達なので、獣の数字を刻まれた者に相応しい、火と硫黄の池に投げ込まれるという、第二の死を受ける事になります。
何故なら、新しい世界は、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に暮らして、人は神の民になるからです。
新しい世界とは、神に祝福された第七の日の境涯に辿り着いた者達が暮らす世界なのです。

所で、過去の記事にも火の池に投げ込まれる記述が度々ありましたが、ここで第二の死について解説しましょう。
まず、何故「火と硫黄の燃える池」なのかというと、黙示録の第十五章第二節に「火が混じったガラスの海のようなもの」についての言及があります。
記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その5)】では、宇宙空間から地球の大洋辺りを見下ろした光景を連想させると述べましたが、正に天の住人が地上を見下ろすと、「硫黄=火薬の火が絶えない紛争の坩堝の池」に見えるのでしょう。
そして本題に入って、霊界の住人の話によると、同じ火の池に投げ込まれると言っても、悪魔サタンや獣・偽預言者が投げ込まれるのと、それ以外の勝利を得られない者が投げ込まれるのとでは、少々意味合いが異なるようです。
まず、獣と偽預言者は、諸国の民を惑わせて悪魔サタンの協力者に引き入れたので、他の者を悪魔の道に引き入れたという重い罪を負ったことになります。
彼らは信念を持って事に及んだ確信犯なのですが、彼ら自身の知識や理解の仕方に極端な偏りがあって、その偏った思い込みに固執する余り、その後に幾ら経験を積み重ねても、偏りの修復は不可能と見なされました。
更に、彼らの偏った思い込みが、他の者の成長を滞らせ、或いは自分の偏った思い込みを他の者に植え付けようとすると、神が設けた『霊が人間などに宿る経験を経て成長するシステム』に支障が出るので、そういった一線を越えた段階で、「霊として処刑する」処置が執られるのだそうです。
悪魔の場合は、神から活動する猶予期間が与えられていた事情もありますし、また獣や偽預言者よりは狡猾に立ち回るので、唆す相手をその気にさせる甘言を弄しても、最終的な判断は相手にさせるように仕向けるのです。
そうすることにより、直接の責任は唆された本人が負うことになります。
但し、悪魔もこれ以上の成長が見込めないのは、獣や偽預言者と同じですので、天と地が新しくなる前の最後の審判の時に、「霊として処刑する」処置が執られます。
一方、最後の審判の際に、勝利を得られない者と見なされて、火の池に投げ込まれる者は、彼ら自身は未熟である為に、悪魔の唆しに酔い痴れてしまったけれども、今後の経験次第では成長が見込める者達です。
しかし、新しくなった世界は、彼らの成長レベルに見合った経験を積める環境ではないので、地球以外で彼らの成長レベルに見合った星に舞台を移して、地球では充分に習熟できなかった経験を積み重ねることになります。
ちなみに、「霊として処刑する」とはどういう事なのかを、この場で詳しく解説すると本題から外れますので、詳しくは改めて『銀の紐を越えてα』の方で解説の場を設けたいと思います。
尤も、『銀の紐を越えてα』でも、今は『霊界からのメッセージ修正版』を順次投稿していますので、そちらを終えた後の投稿になると思いますが、詳細な解説はしばらくお待ち下さい。
簡単に述べると、「霊として処刑する」とは、その霊が誕生してから経験した全ての記憶を消去して、誕生したばかりと同じ状態から再スタートする事を指すのだそうです。
ですから、「霊として処刑」された後の(元)悪魔の霊は、火の池に投げ込まれた他の霊と共に、別の星に成長の場を移されて、最も未熟な状態からのスタートを切ることになります。





■ 聖なる都エルサレム

黙示録の第二十章第九節~第二十七節では、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使の中の一人が言いました。
「小羊の妻である花嫁を見せて上げよう」
この天使により、高い山に連れて行かれると、聖なる都エルサレムが神の元を離れて、天から下って来ました。
都は神の栄光に輝いていました。
その輝きは最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようでした。
都には高い大きな城壁と十二の門があって、それらの門には十二の天使がいて、イスラエルの子らの十二部族の名が刻みつけてありました。
東西南北に各三つの門がありました。
都の城壁には十二の土台があって、各々に小羊の十二使徒の名が刻みつけてありました。
この天使は、都と門と城壁を測る為に、金の物差しを持っていました。
都は四角い形で、長さと幅が同じでした。
天使が物差しで都を測ると、一万二千スタディオンあって、長さも幅も高さも同じでした。
城壁を測ると百四十四ペキスでした。
これは人間の物差しで測ったもので、天使が用いた物差しもこれです。
都の城壁は碧玉で築かれ、都は透き通ったガラスのような純金でした。
都の城壁の土台石は、あらゆる宝石で飾られていました。
第一の土台石から碧玉、サファイア、瑪瑙、エメラルド、赤縞瑪瑙、赤瑪瑙、かんらん石、緑柱石、黄玉、翡翠、青玉、紫水晶でした。
十二の門は十二の真珠であって、どの門も一個の真珠で出来ていました。
都の大通りは、透き通ったガラスのような純金でした。
都の中に神殿はありません。
全能者である神、主と小羊が都の神殿だからです。
この都には、明かりを照らす太陽も月も、必要ではありません。
神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからです。
諸国の民は、都の光の中を歩いて、地上の王達は、自分の達の栄光を携えて都に来ます。
都には夜がないので、一日中門は決して閉ざされません。
人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来ます。
しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者は誰一人、決して都に入れません。
小羊の命の書に名前のある者だけが入れます。
さて、聖なる都エルサレムの様子について、長々と説明していますが、簡単にまとめると、天から新しい世界に下って来た聖なる都エルサレムとは、神と人が共に暮らす都だということです。
記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その7)】では、悪魔サタンに与する者達に侵蝕されたキリスト教会を「大淫婦」と表現しておりましたが、むしろキリスト教的価値観を共有する社会そのものを表していたと言えるでしょう。
同様に、聖なる都エルサレムとは、最後の審判を乗り越えた「勝利を得る者」や「聖なる者」などが、神や小羊と直接意志疎通をしながら共に暮らす社会を指すのでしょう。
ですから、最後の審判で第二の死と裁かれてしまった、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者などは、当然ながら小羊の命の書に名前がないので、新しい世界にいるはずがないのです。
ここで着目しておきたいのは、天使と人間が同じ物差しを使っているので、天使と人間の価値観が一致しているのでしょう。
また、エルサレムの都が様々な宝石や純金で装飾されていたり、明かりを照らす太陽や月が必要でないのは、もはや新しい世界の人間に取っての光とは、神の栄光や小羊の明かりとして表現される、莫大な量の霊的エネルギーそのものだからなのでしょう。
霊的エネルギーを明確に知覚できる能力を持っているのですから、新しい世界の人間は、私たち人類とは異なる種類の存在です。





■ 神と僕の共同統治

黙示録の第二十二章第一節~第七節では、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川があります。
川は、都の大通りの中央を流れて、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実を実らせます。
その木の葉は諸国の民の病を治します。
もはや、呪われるものは何一つありません。
神と小羊の玉座が都にあって、神の僕達は神を礼拝して、御顔を仰ぎ見ます。
彼らの額には、神の名が記されています。
もはや夜はなく、灯火の光も太陽の光も要りません。
神である主が僕達を照らして、彼らは世々限りなく統治するからです。
そして天使がこの様に言います。
「これらのことは信頼でき、又真実である。
預言者達の霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにでも起こるはずのことを、ご自分の僕達に示されたのである。
見よ、私はすぐに来る。
この書物の預言の言葉を守る者は幸いである。」
さて、神と小羊の玉座から流れ出る命の水の川とは、新しい世界に暮らす全ての者にとって活力の源となる霊的エネルギーを指すのでしょう。
そして、命の水の川の両岸にある命の木とは、『創世記』第二章で、エデンの園の中央に、善悪の知識の木と共に生えていた命の木と同じものです。
そして『創世記』第三章にもある様に、命の木の実を食べると永遠に生きる者となります。
それは神と小羊の玉座から流れ出た命の水の川の水を吸って育ったからで、同じく命の木の葉は諸国の民の病を治します。
『創世記』では、アダムとエバは「エデンの園の中央に生えている木、善悪の知識の木と命の木の実は、取って食べてはいけない」と、神に命じられており、その言いつけに背いたアダムとエバは、エデンの園から追放されてしまいました。
ところが、新しい世界の聖なる都エルサレムでは、諸国の民や王達が自由に出入り出来ますし、その気になれば、命の木の実を取って食べることも可能な状態にある様です。
しかし、聖なる都に生えている木の実を勝手に取って食べる不心得者は、一人もいません。
新しい世界に暮らすのは、『創世記』の頃の経験に乏しい人間ではなく、神が定めた『人類育成プログラム』を乗り越えた、経験豊富な人々ばかりです。
また、前の項目でも述べたように、もはや夜がなく、灯火の光も太陽の光も要らないのは、神の霊的エネルギーが全てを明るく照らし出している様子を、すべての人が知覚する能力を持っているからです。
そして僕を照らす神と、神に照らされた僕が共同で聖なる都を統治します。
ちなみに、諸国の民や王達は、神と僕達によって統治される側となります。
彼らは「勝利を得る者」と認められたけれども、神の僕として共に聖なる都を統治するには経験が足りません。
あくまでも「勝利を得る者」であって、このまま経験を積んで行けば、いずれ神と共に統治することが可能な者達です。





■ イエスの忠告

黙示録の第二十二章第八節~第十六節では、これらのことを見聞きしたヨハネは、このことを示してくれた天使の足下にひれ伏して、拝もうとしました。
すると天使が言いました。
「止めよ。
私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者達や、この書物の言葉を守っている人達と共に、仕える者である。
神を礼拝せよ。」
またこの様に言いました。
「この書物の預言の言葉を、秘密にして置いてはいけない。
時が迫っているからである。
不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れたままにしておけ。
正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。
見よ、私はすぐに来る。
私は報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。
私はアルファであり、オメガである。
最初の者にして、最後の者。
初めであり、終わりである。
命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。
犬のような者、魔術を使う者、淫らなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、全て偽りを好み、又行う者は都の外にいる。
私、イエスは使いを遣わし、諸教会の為に以上のことをあなた方に証しした。
私は、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」
さて、ヨハネが、これから起きる一連の出来事を示してくれた天使にひれ伏して拝もうとすると、天使は「私はあなたたちと共に仕える者だから、神を礼拝せよ」と述べています。
ヨハネは天使を拝もうとしたのですが、天使はイエスの名代としてヨハネの元に現れたのであり、イエスの言葉を伝えているのですから、「わたしは仕える者である」というのはイエスが自分自身を指した言葉です。
キリスト教会は、神とイエスと聖霊の『三位一体』を掲げておりますが、キリスト教の聖典である『ヨハネの黙示録』にある、『三位一体』論とは食い違う記述に対して、どの様に見ているのでしょうか。
天使の言葉は更に続きます。
この書物の預言の言葉が成就する時が迫っているので、秘密にして置いてはいけないこと。
また、獣の刻印を押されて「勝利を得られない者」も、天使の刻印を押されて「勝利を得る者」も、各々の思いのままにさせておくように述べています。
イエスがそれぞれの行いに応じて報いる為にやってくるからです。
そして、命の木に対する権利を与えられて、新しい世界の聖なる都の門を通って中に入る為には、自分の意思で自分の衣を洗い清めて、白い衣をまとえるように努めることが求められます。
獣の刻印を押された「勝利を得られない者」は、火と硫黄の燃えている池に投げ込まれるので、聖なる都の中に入ることが出来ないからです。





■ 『ヨハネの黙示録』の扱いについて

黙示録の第二十二章第十七節~第二十一節では、霊と花嫁が言います。
「来て下さい。」
これを聞く者も言うといい、「来て下さい」と。
渇いている者は来ると良い。
命の水が欲しい者は、価なしに飲むと良い。
この書物の預言の言葉を聞く全ての者に、私は証しします。
これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。
また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受け取る分を取り除かれます。
以上、全てを証しする方が、言われます。
「然り、私はすぐに来る。」
アーメン、主イエスよ、来て下さい。
主イエスの恵みが、全ての者と共にあるように。
さて、以上で『ヨハネの黙示録』の全てを読み終えたことになりますが、この最後の部分で強調しておきたいのは、わざわざ「この預言の書に何かを加えたり、また何かを取り去ってはならない」と、神の名を上げて厳しく申し述べています。
既に『ヨハネの黙示録』を解読するシリーズとして、最後までご覧になった皆様にはお分かりのことと思いますが、『ヨハネの黙示録』とは、非常によく考えられた暗号文として構成されています。
特定の予備知識がなくては、作り手の意図に沿った正確な解読が出来ませんし、文書の一部を操作しただけでも、見当違いな誤読を招いてしまいかねません。
それでは作り手の思惑通りに、キリスト教会と関わりの深い『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点』の開放と共に始まる『神の裁き』の時代を生きる人々に向けて、神の『人類育成計画』の目的と『神の裁き』の時代を生きる知恵を伝える事が適わなくなります。
神やイエスは、一人でも多くの人に「勝利を得る者」となってもらいたい、そして最後の審判を終えた後には、新しい世界の聖なる都エルサレムを、共に統治できるようになってもらいたいとの意向があるからこそ、この様な文書を地上にもたらしたのだと思います。
この記事をご覧の皆様、そして全てのキリスト教徒の皆様は、この様な神とイエスからの時空を越えた働きかけに対して、どの様な答えを返しますか。





■ 『ヨハネの黙示録』の解読作業を振り返って

以上で『ヨハネの黙示録』の解読作業を(一応)終わりますが、一連の解読記事の中には、手直しが必要な箇所も見受けられますので、折を見て随時修正作業を行おうと考えています。
とはいえ、解読記事の文章はかなりの分量になりますので、管理人だけでは確認しきれない部分も出てくるでしょう。
そこで、ご覧の皆様の中で、誤字・脱字などに気付かれましたら、該当する記事のコメント欄よりご指摘下さいます様、ご協力をお願い致します。
また、黙示録の解釈についての意見や反論などにつきましても、該当する記事のコメント欄よりお寄せ下さい。

さて、黙示録の解読記事としては今回で終了しますが、解読記事を書いて行く過程で、黙示録では語られていない補足記事を追加した方が良いのではないかと考えました。
ここまでは、『ヨハネの黙示録』を解読するという観点から記事を投稿して来ましたが、黙示録を解読する際の参考として霊界の住人の方の話を随時伺っていた所、「黙示録の記述と実態は異なる部分がある」との指摘がありましたので、ご覧の皆様にも紹介した方が良いと感じたのです。
そこで次回は、黙示録では語られなかった関連エピソードや、霊界の住人の方が「黙示録の記述はおかしい」と指摘する部分について、黙示録を解読するシリーズの補足記事をお届けしたいと思います。
ちょっとビックリの、キリスト教に隠された秘密の一欠片をお届けできると思いますので、あと少しだけお付き合い下さい。

Silvercord管理人 





なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご覧下さい。

閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/


上記記事の内容についてのご意見・ご感想・ご質問はコメント欄よりお寄せ下さい。
また、コメントを投稿される際は、記事【改めて、ご覧の皆様へのお願いと連絡事項】をご覧下さい。

2014年11月8日土曜日

連絡事項とお詫び

bloggerのトラブルにより、現在blogspot.jpドメインでは閲覧できない状態となっております。
なお、blogspot.comドメインより閲覧されている方につきましても、記事上の一部リンク先におきまして、blogspot.jp表記のURLを指定している場合はリンク先が表示できません。
記事上のリンク先URLは随時修正致しますが、しばらく時間が掛かりますので、修正完了までお待ち下さい。
ご覧の皆様にはご迷惑をおかけしまして、申し訳ございません。


(11月9日9:50追記)

管理人が確認した限りでは、トラブルは解消された模様です。

Silvercord管理人 





上記記事の内容についてのご意見・ご感想・ご質問はコメント欄よりお寄せ下さい。
また、コメントを投稿される際は、記事【改めて、ご覧の皆様へのお願いと連絡事項】をご覧下さい。 

2014年11月4日火曜日

『ヨハネの黙示録』の物語を構成する三段階

前回投稿した記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その9)】のコメント欄にお寄せ頂いた匿名様のコメントにつきまして、こちらの記事では説明不足と思われる点がありました。
つきましては、匿名様のコメントと共に、管理人の補足説明をお届けします。

なお、この記事を投稿した後、新たに説明不足の点が見つかりましたので、以下の様に修正と追記を行いました。
修正に至った経緯はコメント欄にお寄せ頂いた匿名様のコメント(2014年11月7日0時24分)と、それを受けた管理人のコメントをご覧下さい。(11月17日追記)

(修正例) 消去した場所 修正前修正後 追記した場所





■ 匿名様のコメント

管理人様

サタンが封印される時代というのが気になります。

銀の紐サイトの記事で、人が地上に誕生する理由は霊的成長であり、そのためには欲望にまみれた悪行を行い痛い目を見ることも、成長には欠かせない要素であるという意味合いの文章を読んだような記憶があります。

そのためには、社会の雰囲気を殺伐な状態にするサタンのような存在が居た方が、悪行によるカルマを蓄積する速度が速く、それに伴いカルマを解消する速度も速くなり、人が霊的に成長するためにかかる時間が短くなる可能性も考えられます。
しかし、サタンのような存在による影響が無くなる時代には、平穏な社会であるために悪行を働く機会も減少し、それに伴いカルマの蓄積・解消にかかる時間も長くなるような気がします。
サタンが封印される時代は、平穏であるがために霊的成長が停滞する時代と言えるのでしょうか?

それとも、サタンの活動による影響は、戦争などの大規模な争いが専門で、個々人の関係によって生じるトラブルを源泉とするカルマの発生は別であり、平穏な時代でも霊的成長を停滞させることは無いのでしょうか?





■ 管理人の補足説明

コメントをお寄せ下さった記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その9)】では、『ヨハネの黙示録』の解読を目的としている関係上、黙示録の文章に沿った解説を行いましたが、匿名様のご指摘については、説明不足となってしまいました。
そこで、この場をお借りして補足説明を致します。

以前投稿した記事【神々は人間の成長を促す為にこの様な作業をしているらしい[小ネタ]】にて、人間に宿る霊の成長段階によって、概ね三種類に分類できると述べました。
ここでは仮に、「分かっている霊」と、「成長中の霊」、そして「未熟な霊」と表現しておりますが、この例えを利用しましょう。
それに加えて、人間に宿る経験を充分に積んだので、これ以上人間に宿る必要がなくなった霊を、「卒業した霊」として、計四種類に分類します。

また、黙示録に記された物語は、大まかに三段階の過程に分割することが出来ます。
一段階目は、小羊イエスが巻物の七つの封印を開くまでです。
二段階目は、サタンが底なしの淵に封印されて、イエスと聖なる者達による千年の統治の間です。
三段階目は、サタンが再び解放されてから、天変地異により人類が滅亡するまでの間です。

以上の前提を元に、黙示録の物語の各段階において、種類の成長段階にある霊に対して、神様がどの様な働きかけを行っているのかを見ていきましょう。

黙示録の物語の一段階目では、主に限られた時間内で「卒業した霊」の数を最大化する為に、「成長中の霊」を「分かっている霊」により多く成長させ、「分かっている霊」を「卒業した霊」に成長させることを重視しております。
ですから、神の働きかけと悪魔の働きかけが混在する状態に置かれて、「成長中の霊」の中でも、比較的成熟度の高い霊が、神の働きかけと悪魔の働きかけの違いを見分けられるようになり、「何故悪魔の働きかけではダメなのか」を理解する為に必要な状態が作り出されております。
もちろん、一段階目でも、「未熟な霊」が「成長中の霊」に進歩する為の働きかけも同時に行われているのですが、「未熟な霊」程悪魔の働きかけに惑わされやすい傾向があります。
「成長中の霊」の中でも、比較的成熟度の低い霊の中には、却って「未熟な霊」の動きに同調しやすい傾向がありますので、全体から見た「未熟な霊」の割合が少なくても、彼らの影響力は侮れないのです。
尤も、悪魔の働きかけとは、人間の欲望を刺激する方向性が主になりますので、「未熟な霊」が自我を強化する初歩の段階では、その様な働きかけも霊の成長に寄与します。

一方、黙示録の二段階目では、一段階目とは逆に、「未熟な霊」が「成長中の霊」に進化する方向性の働きかけが主となります。
一段階目で「分かっている霊」「卒業した霊」の数が大幅に増えたので、イエスと「卒業した霊」達の共同作業によって、ようやく「未熟な霊」の成長を促せる余裕が出て来たと捉えて下さい。
また、二段階目では悪魔が封印されておりますので、「未熟な霊」も悪魔の働きかけに惑わされることなく、神とイエス達の働きかけを素直に受けて「成長中の霊」へと進歩するでしょう。
しかし、「成長中の霊」が「分かっている霊」に進歩するし、「分かっている霊」が晴れて「卒業した霊」となる為には、余り適している環境とは言えません。
神の働きかけと悪魔の働きかけを比べられませんので、どうしても「なぜ悪魔の働きかけではいけないのか」を理解する為に、より多くの時間をかけることになります。
また、上で述べた様に、悪魔は「人間の欲望」を刺激する方向に働きかけますが、仮に悪魔が封印されていても、人間の欲望に正直な人は一定数存在し続けるでしょう。
それは悪魔の働きかけにかかわらず、人間が本来持っている特性なのですが、人間に宿る霊が成長すればする程、適度に自制できる様になります。
これが黙示録の一段階目でしたら、悪魔の働きかけの影響を受けて、自制の必要性を認識する方でも“魔が差して”しまいやすいのですが、二段階目の場合は、悪魔が封印されている分だけ“魔が差す”余地が減少するでしょう。

さて、黙示録の三段階目では、「命の書に名が記されるか否か」が問われてきます。
「命の書に名が記される」とは、簡単に述べると「分かっている霊」「卒業した霊」に成長したかどうかを示しますので、三段階目の最後の時点で「分かっている霊」「卒業した霊」に成れなかった者は、「第二の死」と言われる、火と硫黄の池に投げ込まれてしまいます。
神の働きかけと悪魔の働きかけが混在するという意味で、三段階目は一段階目と似通っていますが、一段階目は「より多くの霊がより早く成長する」のが目的である一方、三段階目は「一定の段階に成長している者とそうでない者を選別する」のが目的となります。





今回は、記事の中で説明が尽くされていない点についてのコメントを頂きまして、ありがとうございました。
匿名様にコメントをお寄せ頂いたことにより、『ヨハネの黙示録』を解読する一連の記事の中で、説明不足の部分を補う機会となりました。
『ヨハネの黙示録』を解読するシリーズの中で、他にもご意見ご感想がございましたら、該当する記事のコメント欄よりお寄せ下さい。

Silvercord管理人 





上記記事の内容についてのご意見・ご感想・ご質問はコメント欄よりお寄せ下さい。
また、コメントを投稿される際は、記事【改めて、ご覧の皆様へのお願いと連絡事項】をご覧下さい。