2014年10月31日金曜日

『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その9)

この記事は、以前投稿した下記記事の続編となりますので、未読の方はこちらの記事より順番にご覧下さい。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】
『ヨハネの黙示録』第一章~第三章、アジア州にある七つの教会の天使に宛てた手紙について。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その2)】
『ヨハネの黙示録』第四章~第七章、イエスが神から託された巻物の七つの封印のうち、第一~第六の封印を開いてゆく。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その3)】
『ヨハネの黙示録』第八章~第十一章、イエスが巻物の第七の封印を開き、神からラッパを与えられた七人の天使のうち、第七の天使がラッパを吹くまで。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その4)】
『ヨハネの黙示録』第十二章~第十三章、悪魔サタンが天から堕とされた経緯と、地上でキリスト教会に侵蝕してゆく過程について。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その5)】
『ヨハネの黙示録』第十四章~第十五章、地上が悪魔サタンの支配下に置かれた頃、天で進行していた『神の裁き』の時に向けての準備の様子。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その6)】
『ヨハネの黙示録』第十六章、『神の裁き』として、七人の天使が地上にもたらす災いの様子と、『神の裁き』の目的について。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その7)】
『ヨハネの黙示録』第十七章~第十八章、多くの水の上に座っている大淫婦に対する『神の裁き』の様子。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その8)】
『ヨハネの黙示録』第十八章、大淫婦に対する『神の裁き』に伴うキリスト教会の再生と、獣達の辿る顛末について。





■ 悪魔サタンの処遇

前回までの記事では、小羊イエスが巻物の第二の封印を開いた時に起こる『神の裁き』について、幾つかの視点から見た経緯を追いかけてきましたが、ここで再び内容が変わります。
記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その3)】では、小羊イエスが巻物の第七の封印を開いて、七人の天使が順番にラッパを吹いた所まで解説しましたが、今回はその続きとなります。
黙示録の第二十章第一節~第三節では、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖を手にして、天から降って来ます。
この天使は、悪魔サタンである、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえて、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵を掛け、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさない様にします。
そのあとで、竜はしばらくの間、開放されるはずです。
さて、一人の天使が、底なしの淵の鍵と鎖を手にして、天から降りてくるのですが、黙示録の第九章で、第五の天使がラッパを吹いた時に、天から地上に落ちて来た星には、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられていました。
この天から落ちてきた星とは悪魔サタンであり、父なる神から底なしの淵の鍵を開ける許可を得たのだ言う点については、既に解説しました。
底なしの淵とは、悪霊に満ちている場所である事も解説しました。
悪魔サタンは、底なしの淵の中に満ちていた悪霊達を使役して、諸国の民を惑わせている様子も述べられていましたが、今度は、悪魔サタン自身を鎖で拘束して、底なしの淵の中に封印してしまいます。
今までは悪魔サタンの唆しに惑わされていた諸国の民も、これでようやく邪魔者の余計な干渉を受けることなく、落ち着いて神の言葉に向き直ることが出来る様になるのでしょう。
ここで思い出して頂きたいのですが、神様から人間に対する働きかけの一つとして、『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を通じて、霊界から『人間の創造性と思考力を活性化させるエネルギー』と呼ぶ霊的エネルギーが送られていると述べました。
そして、今は人間が直接その霊的エネルギーを受け取れるわけではないので、霊的エネルギーを仲介する役割を務める覡役の者がおり、また『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を特別の場所として維持する為の存在として、拠点の守人がいます。
しかし、第七の天使がラッパを吹くと、今度は霊的エネルギーを『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を経由するのではなく、霊界から直接人間に送られる様に、霊的エネルギーを供給する仕組みが変わって行きます。
そうなると、霊界と直接繋がれた人間は、神様や霊界の住人と霊界通信が行える様になりますので、現在は『銀の紐』の霊媒Mなどの限られた人にのみ行使できる能力が、霊界と繋がれた人間であれば誰でも当たり前に行使できる状態に変わって行きます。
誰もが、霊界の住人と直接意志疎通が出来る様になるのですから、悪魔サタンの唆しが通用しなくなるのです。
とはいえ、第七の天使がラッパを吹いた途端に、誰もが急に霊界と直接繋がれるのではなくて、長い時間をかけて少しずつ、霊界と直接繋がれる人間の数が増えて行きます。
その間にも、既に開かれている六つの『霊界と地上界を繋ぐ拠点』は、しばらくの間ずっと開かれたままの状態が続きますので、第七の天使がラッパを吹いた段階では霊界と直接繋がれていない人に対しても、各地の拠点を通じて必要な霊的エネルギーが送られる仕組みは維持されます。
ですから、第七の天使がラッパを吹いても慌てることなく、各々の成長速度に合わせて、じっくりと霊界と直接繋げる試みに取り組んで行けば良いのです。
そういえば、黙示録の第六章で、小羊イエスが巻物の第五の封印を開いた時に、祭壇の下に集っていた魂の集団は、主に対して、「神の教えに沿っていた私たちを殺した者を裁いて、早く復讐をして下さい」と急かすように訴えるのですが、主は逆に、「あなたたちと同じように、神の教えに沿っていた為に殺されてしまう人の数が満ちるまで、しばらく待つように」と諭していました。
それは何故かというと、たった一つの『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を維持するだけでも、多くの霊による連携作業が必要になるのですが、いずれは霊界と人間が直接結ばれるのでしたら、人間の数だけ『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を作ることになりますから、その作業に必要となる霊界の住人の数は莫大である事が想像できます。
ですから、第七の天使がラッパを吹いてしまう前に、霊界と人間を直接結びつける役割を担う成熟した霊を、大量に育成しておかなくてはならないのです。
と言うことで、様々な困難に見舞われたけれども、何とかハッピーエンドを迎えそうだと思った方は、もう少しお待ち下さい。
何故なら、悪魔サタンは、その後にしばらくの間開放されることになっているそうですから。





■ 第一の復活

黙示録の第二十章第四節~第六節では、多くの座があります。
その上には座っている者達がいて、彼らには裁くことが許されていました。
また、イエスの証しと神の言葉の為に、首を刎ねられた者達の魂がいました。
この者達は、あの獣も拝まずに、獣の像も拝まずに、額や手に獣の刻印を受けませんでした。
彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治しました。
その他の死者は、千年経つまで生き返りませんでした。
これが第一の復活です。
第一の復活に預かる者は、幸いな者、聖なる者です。
この者達に対して、第二の死は何の力もありません。
彼らはキリストの祭司になって、千年の間キリストと共に統治します。
さて、前の項目では、第七の天使がラッパを吹いた後の、地上の様子について解説しましたが、こちらは天の様子が述べられています。
多くの座に座っている者には、裁くことが許されていたとありますが、裁くこととは『神の裁き』を指しますので、ここまでの間に『ヨハネの黙示録』を通じて述べてきた霊的成長の段階を経ることによって、『神の裁き』を行使できる者の座が沢山作られることになります。
一般的に、キリスト教会では「神とは父なる神のみであり、また父なる神と子であるイエスと聖霊は、三つの姿を見せていても実は一体の存在である」とする『三位一体』の教義を持っておりますが、では、裁くことを許されている者達が座っている座が沢山あるとする記述との間に、どの様な整合性が取れるのでしょうか。
また、イエスの証しと神の言葉の為に、首を刎ねられた者達の魂がいました。
彼らは、獣や獣の像を拝まずに、額や手に獣の刻印を受けなかったとありますが、生前の彼らは獣に与する者達の行いを咎めたので、「異端者」扱いを受けて処刑されたのです。
地上で人として生きた時には、キリスト教会の聖職者によって「異端者」の烙印を押されて処刑された者こそが、実は聖なる者であって、キリストと共に千年の間統治する立場に立てたのです。
聖なる者とは勝利を得る者ですから、彼らは天の父なる神の元で、イエスが取りまとめとなって行っている作業に、共に携わることになります。
そして、イエスが携わっている作業とは、神から渡された巻物の七つの封印を開くことであり、封印を開く作業とは、世界に六カ所ある『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を開くこと、そして霊界と個々の人間が直接繋がれる様に育成することを指すと、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その2)】や、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その3)】などを通じて解説しました。
ですから、キリストと共に千年の間統治するというのは、人間が霊界と直接繋がれることにより、世界に六カ所ある『霊界と地上界を繋ぐ拠点』から霊的エネルギーの供給を受ける必要がなくなる様に、霊的な働きかけを通して人間を成長させる作業に携わるという事を指します。
悪魔サタンの影響を排除した状態で、イエスや聖なる者達が働きかけるのですから、イエス達の思惑通りに人間の成長も上手く捗ると言う意味で、「統治する」と一言で表しているのでしょう。
そして、聖なる者を除いたその他の死者は、千年経つまで生き返らなかったとありますが、その他の死者とは、獣や獣の像を拝んだり、額や手に獣の刻印を受けていた者を指します。
しかし、この時点で既に悪魔サタンは底なしの淵に封印されており、イエスや聖なる者達の霊的な働きかけが、全ての人間に遍く作用しているのですから、当然ながらその間は、悪魔サタンの価値観に惑わされた人間は地上に一人もいないことになります。
これを第一の復活というのだそうですが、では、その他の死者達は、生き返らなかった千年の間はどうしているのでしょうか。
これは管理人の想像の域を出ないのですが、サタンが自由に活動していた時期は、悪魔サタンの価値観に惑わされて、悪魔や獣達に与する人間に宿る霊であっても、イエスや聖なる者達が「統治する」時代に再び人間として産まれれば、イエスや聖なる者達の働きかけを素直に受けて、イエス達の思惑通りに成長して行くのではないでしょうか。
彼らはかつて、悪魔の価値観に与する者としての生涯を送った経験を踏まえて、更にイエス達の働きかけを受けた生涯を送るのですから、きっと「なぜ悪魔の価値観ではダメで、神の言葉に沿うことが正しいのか」を、より深く理解できる様になるのではないかと思います。
ここで、聖なる者達に対して、第二の死は何の力もないとありますが、第二の死については後の項目で取り上げておりますので、そちらで解説します。
とにかく、イエス達の「統治」は千年と言われる長期間に渡りました。





■ サタンの復活と最期

黙示録の第二十章第七節~第十節では、この千年が終わると、悪魔サタンが底なしの淵の牢から解放されます。
地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出ていって、彼らを戦わせようとします。
その数は海の砂の様に多いです。
彼らは地上の広い場所に攻め上っていって、聖なる者達の陣営と、愛された都とを囲みます。
すると、天から日が下って来て、彼らを焼き尽くしました。
そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれました。
そこにはあの獣と偽預言者がいます。
そして、この者達は昼も夜も世々限りなく責め苛まれます。
さて、イエスと聖なる者達による千年の統治が終わると、再び悪魔サタンは解放されて、底なしの淵の牢獄から地上に這い出てきます。
一応念のために断っておきますが、かつて悪魔に底なしの淵の穴を開く鍵が与えられた様に、今回も底なしの淵から悪魔を解放したのは神の意思です。
ここまで管理人と共に、しっかりと『ヨハネの黙示録』を読み込んで来た皆様でしたら、恐らく悪魔を解放した神の意図が想像できるのではないかと思いますが、まずは黙示録の物語を追いかけていきましょう。
悪魔は、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出ていって、彼らを戦わせようとします。
ここで述べているゴグとマゴグとは、『エゼキエル書』の第三十八章に出てくる「マゴグの地のゴグ、メシェクとトバルの総首長ゴグ」のことで、彼は北の国々を束ねて、安らかに過ごしているイスラエルの民を襲いに来ると預言されております。
ですから、かつて預言者エゼキエルがマゴグの地のゴグに預言した様に、悪魔は世界中を駆け巡って、自分の為に動く兵隊を整えて行きます。
既にイエスと聖なる者の統治が千年続いた後だというのに、「その数は海の砂の様に多い」と例えられる人々が、呆気なく悪魔の唆しに屈してしまいます。
彼らは地上の広い場所に攻め上っていって、聖なる者達の陣営と、愛された都とを囲むのですから、恐らく各地の『霊界と地上界を繋ぐ拠点』に向かって、彼らは攻め上って行くのではないでしょうか。
すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くしますが、聖なる者達の陣営と、愛された都の運命がどうなってしまったのか、黙示録には記述がありません。
また、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くしたと言う描写も、そのまま素直に受け取って良いものか、疑問が残ります。
とにかく、聖なる者達の陣営に襲いかかろうとした悪魔の陣営は、文字通り潰滅してしまいます。
そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれました。
その池には、かつて小羊イエスが巻物の第二の封印を開いた時に、『神の裁き』の結果として、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた、あの獣と偽預言者がいます。
遙かな昔に、天で神や天使達と対立して地上に逃げ出してから、自分の勝手な都合で人間を唆して弄んできた悪魔サタンが、ここでようやく自分の行いの果実を刈り取ることになります。
その末路は、火と硫黄の池に投げ込まれて、先に投げ込まれていた獣や偽預言者と共に、昼も夜も世々限りなく責め苛まれることになります。
そういえば、悪魔サタンの正体は、かつて神の座に上がることを強く求めた天使であり、かつては自分より未熟であった霊が、人間に宿る経験を通じて自分より先に神の座へ引き上げられた様子を見て、見当違いの嫉妬心を抱いてしまったのだと解説しましたが、獣や偽預言者についても、ここで改めて解説しておきましょう。
記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その7)】でも述べましたが、獣とはローマ帝国とその後継国家を通じて、地上世界を悪魔サタンの支配下に置く為に働いたサタンの眷属であり、過去に七つの霊が八人の人間として地上に産まれたと、黙示録の記述から読み取れます。
七つの霊が人間として地上で過ごした経験を踏まえて、その中の一つの霊が満を持して再び人間として地上に産まれて、悪魔サタンの価値観を地上に遍く流布する仕上げの作業に取りかかります。
そして、獣の中の一人である第八の者が、思惑通りの結果が現れてきたと錯覚した頃に、獣達にとっては想定外の『神の裁き』が始まります。
それが今です。
ですから、或いは、獣の一員である第八の者は、今現在この地上に生きている可能性があります。
それが何者かを特定するには、『ヨハネの黙示録』の記述だけでは曖昧すぎますし、元より『ヨハネの黙示録』はその様な目的で書かれた文書ではありません。
しかし、私たちは黙示録に記された『神の裁き』の時代を生きているんだ――そう意識するだけで、日々の暮らしに対する心構えが変わってくるのではないでしょうか。
少々脇道に逸れましたので、話を先に進めましょう。
以上の様に、ここで火と硫黄の池に投げ込まれているのは、獣と表現している七つの霊です。
そして、獣と共に火の池に投げ込まれた偽預言者とは、「私は神の言葉を伝える者である」と自称するペテン師を指します。
一言でペテン師と言っても、偽預言者は概ね二種類のタイプに分類できると考えています。
一つ目のタイプは、通信霊媒の能力を持つ者が、底なしの淵から出て来たイナゴの唆しを、神の言葉と勘違いして、碌に検証もしないまま周囲に吹聴して回るケースです。
こちらは霊能者やチャネラーなどを名乗って、神様のお告げなどと偽りのメッセージを発している人々が当て嵌まります。
小は個人的な活動から、大はある程度の人数の支持者を得た新興宗教の教祖まで、規模は違えど行為の意味合いは同じです。
当Blogの霊媒Mと管理人も、霊界の住人からのメッセージとして情報発信をしていますので、常に偽預言者の過ちを犯さない様に気をつけています。
そして二つ目のタイプは、聖書などの聖典に綴られた神の言葉を誤読し、或いは歪曲・偏向することにより、神の言葉の意味を歪めて人々に伝えてしまった者達です。
今やキリスト教が世界で最も多くの信徒を抱えているという実態を見るにつけ、キリスト教会の聖職者達が犯した罪は非常に大きいと言えるでしょう。
尤も、神の言葉の通りに自ら実践し、教えを請う信徒達にも神の言葉の通りに教え諭しているのでしたら、それは聖なる者の行いと言えるでしょう。
しかし現実には、黙示録の解読の過程で述べてきた様に、キリスト教会は悪魔サタンの干渉を継続的に受けていて、神の言葉とは食い違った教義を掲げる様になってしまいました。
悪魔の価値観に歪められた教義を、神の言葉として吹聴しているのですから、キリスト教会の聖職者達も偽預言者に当て嵌まるのです。
黙示録には、悪魔と獣と偽預言者が、火と硫黄の池の中で、昼も夜も世々限りなく責め苛まれるとあるのですが、これもキリスト教的価値観が色濃く出た表現であると思います。
実態は、この様なおどろおどろしいものではないと思いますが、火と硫黄の池の解読は後でまとめて行うこととして、先にこちらを確認しておきましょう。





■ 全ての死者達への裁き

黙示録の第二十章第十一節では、大きな白い玉座と、そこに座っている方の御前から、天も地も逃げていって、行方が分からなくなりました。
これは、天の様相も地の有様も、今までとはすっかり変わってしまう、全地球規模の天変地異が起こることを示しております。
この時に地上で暮らしていた者は、残らずこの天変地異に飲み込まれて滅びてしまうでしょう。
その災害の規模の大きさを証明する様に、黙示録の記述は以下の様に続きます。

黙示録の第二十章第十二節~第十五節では、大きな者や小さな者など、様々な死者が玉座の前に立っていました。
幾つかの書物が開かれて、更に命の書も開かれました。
死者達は、これらの書物に書かれていることに基づいて、彼らの行いに応じて裁かれました。
海は、その中にいた死者を外に出しました。
死と陰府も、その中にいた死者を出して、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれました。
死も陰府も火の池に投げ込まれました。
この火の池が第二の死です。
その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれました。
先程、地球規模の天変地異に襲われて、その時に地上で暮らしていたすべての者が犠牲になると述べましたが、そうして犠牲になった全ての者は、神の玉座の前で裁きを受けます。
死者達が裁かれる際に開いた書物とは、彼らが最も未熟な霊として誕生して以来の、その霊が経験した全ての出来事が記録してある記録庫のことであり、その情報を見ることによって、いわゆる霊の経験値が明らかになります。
さて、命の書とは、黙示録の第三章第五節にも出て来ました。
「勝利を得る者は、白い衣を着せられて、イエスは彼の名を決して命の書から消すことはない」と述べていましたので、命の書を見ることによって、勝利を得る者であるのかどうかを確認したのでしょう。
そして、命の書に名前のない者は、全て火の池に投げ込まれてしまいます。
火の池に投げ込まれると言うことは、悪魔や獣、偽預言者達と同様に扱われると言うことです。
この火の池が第二の死だと言うことなので、最終的に勝利を得られない者は、全員が第二の死と言われる状態に置かれることになります。
この「第二の死」については、黙示録のもう少し後の章にも言及がありますので、そちらでまとめて解説したいと思います。
また、火の池に投げ込まれるのは、勝利を得ることが出来ない人間と、悪魔や獣、偽預言者達だけではなくて、「死」と「陰府」も投げ込まれるそうです。
そこで改めて『ヨハネの黙示録』を読み返してみると、第六章第八節に「死」と「陰府」が登場しておりました。
記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その2)】も合わせて参照して頂きたいのですが、小羊イエスが巻物の第四の封印を開いた時に、青白い馬が現れて、乗っている者の名を「死」と言い、これに「陰府」が従っていました。
その時には、「第四の封印とはチベットの拠点であり、青い馬に乗っている者は、チベットの拠点を通じて働きかける霊界の住人を指します。」と解説しましたが、それでは、チベットの拠点を通じて働きかける霊界の住人が火の池に投げ込まれることになりますので、この解釈は妥当ではありません。
「死」と「陰府」は火の池に投げ込まれるのですから、恐らくサタンや獣・偽預言者らに劣らない行為を行ったのではないかと想像できますが、それ以上の詳しい事情は『ヨハネの黙示録』からは読み取れません。
ここまで解説してきた様に、『ヨハネの黙示録』とは、神様による人類育成計画の概要を述べた上で、特にキリスト教会と関わりの深い『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点』が開いてから、『神の裁き』が行われる経緯に焦点を当てております。
ですから、バチカン以外の『霊界と地上界を繋ぐ拠点』が開く際の詳しい事情については、『ヨハネの黙示録』と同様の意図で神から降ろされた他の文書を調べなくてはならないでしょう。
その文書がどこにあるのか、今のところは管理人にも見当はつきませんが、少なくとも第四の封印については、『チベットの拠点』に縁のある仏教の経典の中に、目的の文書が人知れず埋もれているのかも知れません。





■ 悪魔サタンの封印から全ての死者への裁きのまとめ

小羊イエスが巻物の第七の封印を開いた後、イエスと聖なる者達によって千年の間統治されることになりますが、その間悪魔サタンは底なしの淵に封印されてしまいます。
霊界の住人によると、イエスと聖なる者による統治の期間は、第一の封印から第七の封印が開かれるまでにかかるよりも長期間に及ぶのだそうです。
また、第七の封印を開く以前は、神様の働きかけと悪魔サタンの働きかけが混在しているので、人間には神の働きかけを見極める洞察力が問われていたのですが、第七の封印を開いた後は、神の働きかけのみを受ける状態に変わって行きます。
最初は困難な環境の元でスパルタ教育を受けていたのが、その後に整った環境で至れり尽くせりの温室育ちの時代が訪れると例えられるでしょうか。
この様に表現すると、イエスと聖なる者による統治の時代とは、必ずしも良いことばかりとは言えないのかもしれません。
案の定、一定の期間が終わると、サタンが再び解き放たれます。
しかし、この時地上に暮らしているのは、イエスと聖なる者による統治の間に、神の働きかけのみを受けてきた者達ですから、今更サタンに唆されるはずはないと思いがちですが、決してその様なことはありません。
神の働きかけのみを受けてきた者の中には、実は神の教えについての理解が中途半端で、周囲の者の行動を見よう見まねで従っているだけの場合もあります。
それでも、イエスと聖なる者が統治していた間は、周囲の人々の真似をしていれば、何となくその場をやり過ごせたのかも知れません。
ところが、再び解き放たれたサタンの干渉を受けると、神の教えを理解していない者は容易にサタンの唆しに乗せられてしまうのです。
そうして地上の四方から集められた諸国の民は、海の砂の様に多いのだそうです。
『ヨハネの黙示録』では、解放された悪魔サタンの活動を簡単に述べておりますが、霊界の住人の話によると、概ね七つの封印を開いてゆくまでと同等の時間をかけて、今度は地上に六つある『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を順番に閉じて行くのだそうです。
そして最後の拠点が閉じられた後、地球は大変動期を迎えて、人類は滅亡します。
そうして神様から許されていたサタンの活動期間は終わりを迎えて、火の池に投げ込まれます。
また、この最後の大変動に巻き込まれて死んでしまった者たちのうち、命の書に名前のなかった者も、火の池に投げ込まれます。
そうして地球上で人間が覇を競っていた時代は終わりを告げます。

ここで「結局人類は滅亡してしまうのか…」と落胆してしまった方はいるでしょうか。
『ヨハネの黙示録』には、更に続きがあります。
残りはあと少しですから、黙示録の最期を見届けてから、落胆するのかどうかを決めても遅くはないでしょう。

Silvercord管理人 





なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご覧下さい。

閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/


上記記事の内容についてのご意見・ご感想・ご質問はコメント欄よりお寄せ下さい。
また、コメントを投稿される際は、記事【改めて、ご覧の皆様へのお願いと連絡事項】をご覧下さい。

2014年10月26日日曜日

霊媒候補の条件[小ネタ]

先日、とある霊界の住人の方と雑談をする機会がありました。
その方は、霊媒Mの背後霊団とは別の霊団の方なのですが、以前より何回か会話の機会を持っていました。
その方は、これから新たな霊媒を育成して、現在霊媒Mと管理人が行っている様な、霊界の住人の声を人間に伝える新たなルートを作る為に活動しております。
今はまだ、育成する霊媒の候補者を探している所なのだそうです。
ちょうど良い機会だと思いましたので、霊界の住人から見た「霊媒として育成する候補者の条件」について、話を伺いました。

※ この記事は[小ネタ]枠となりますので、霊界の住人との雑談の様子を、管理人の記憶に基づいて再構成しました。





■ とある霊界の住人の話

今回話を伺った霊界の住人の方によると、
霊媒として育成する候補になるのは、大抵が霊的な対象に対する関心が薄いというか、むしろ意図的に避けている位の人が多い
のだそうです。
それはどういう事なのかと管理人が聞くと、霊界の住人は、
霊媒の候補になるのは、霊感が強い人なのだけど、そういう人は大抵霊的な怖い体験をしている。
例えば、事故で亡くなったり、恨み言を抱えて亡くなった霊が、霊感の強い人の近くにいると、そういった霊のネガティブな感情に同調しやすくなる。
それは、霊感の強い人に取っては「不快な経験」として記憶される。
そこで、霊的な存在に対する警戒感が強くなり、霊的な対象を避けようという意識が働く場合が多い。
と言うことだそうです。
一方、霊的な存在に関心を持っている人は、
霊感が殆どない人が大半で、霊的な恐怖体験がないからこそ、霊的な存在に対する警戒感がない。
のだそうです。
そこで管理人が、「霊媒の候補になり得る人が霊的な存在を避けているなら、どうやって候補者に働きかけるんですか?」と聞くと、霊界の住人は、
『(候補者が)眠っていて、霊体が肉体から抜けている時に、候補者の霊体に対して話をする。
と言うことでした。
更に付け加えて、
霊媒の候補者は、大まかに分けて三つのタイプに分かれる。
一つ目が、霊的な事柄よりも、むしろ科学的であったり、論理的な事柄に関心をもっている。
二つ目は、霊的な事柄は存在しないものとして、無視しようとする。
三つ目は、精神的な病を患っていると思い込んで、通院している。
と言うことでした。

さて、管理人が「霊媒を探しているのは、日本国内でしょうか、それとも、特に地域は拘っていないのでしょうか」と聞いた所、霊界の住人は、
日本ではない――日本では既に他の方が色々な働きかけをしているので、まだ霊媒を育成する働きかけが進んでいない地域で取り組みたい。
とのことでした。
更に続けて、
(候補者が)今どこにいるのかはともかくとしても、最終的には中国で霊媒として活動する様にしたい。
とのことでした。
霊媒の育成と言っても、何回もの生まれ変わりを通じて育成するとのことなので、ここで霊媒候補者に選ばれた方が、実際に霊媒として活躍することになるのは、現代より遙か後の世になるそうです。





とある霊界の住人の方のお話しはここまでなのですが、別件で、現在欧州地域で霊媒候補者を探している霊が、霊媒Mの元を訪ねたこともあった様です。
そちらの霊の話によると、霊媒の候補として目星をつけていた十人の人間のうち、既に八人のアプローチに失敗したのだそうです。
その原因を聞いてみると、(聖書の『ヨハネの黙示録』に記されている、底なしの淵から現れたイナゴの様な)悪質な霊に邪魔をされて、皆悪質な霊に惑わされた為に、霊媒として育成する道を絶たれたのだとか。
ということで、悪魔に与する質の悪い霊達は、実際に今も私たち人間の成長を妨害しているようです。
妨害される、一方の当事者の人間には、殆ど自覚症状がないのですが……。

Silvercord管理人 





上記記事の内容についてのご意見・ご感想・ご質問はコメント欄よりお寄せ下さい。
また、コメントを投稿される際は、記事【改めて、ご覧の皆様へのお願いと連絡事項】をご覧下さい。

2014年10月17日金曜日

『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その8)

この記事は、以前投稿した下記記事の続編となりますので、未読の方はこちらの記事より順番にご覧下さい。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】
『ヨハネの黙示録』第一章~第三章、アジア州にある七つの教会の天使に宛てた手紙について。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その2)】
『ヨハネの黙示録』第四章~第七章、イエスが神から託された巻物の七つの封印のうち、第一~第六の封印を開いてゆく。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その3)】
『ヨハネの黙示録』第八章~第十一章、イエスが巻物の第七の封印を開き、神からラッパを与えられた七人の天使のうち、第七の天使がラッパを吹くまで。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その4)】
『ヨハネの黙示録』第十二章~第十三章、悪魔サタンが天から堕とされた経緯と、地上でキリスト教会に侵蝕してゆく過程について。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その5)】
『ヨハネの黙示録』第十四章~第十五章、地上が悪魔サタンの支配下に置かれた頃、天で進行していた『神の裁き』の時に向けての準備の様子。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その6)】
『ヨハネの黙示録』第十六章、『神の裁き』として、七人の天使が地上にもたらす災いの様子と、『神の裁き』の目的について。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その7)】
『ヨハネの黙示録』第十七章~第十八章、多くの水の上に座っている大淫婦に対する『神の裁き』の様子。





■ 大淫婦に対する裁きの伝達

前回の記事では、多くの水の上に座っている大淫婦が『神の裁き』を受ける理由を、力のある天使が述べた所で終わりました。
今回はその続きで、黙示録の第十九章の第一節~第三節にて、大群衆の大声のようなものが、天でこの様に言いました。
「救いと栄光と力とは、私たちの神のもの。
その裁きは真実で正しいからである。
淫らな行いで地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、ご自分の僕達の流した血の復讐を、彼女になさったからである」
「大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」
まず、天で聞こえた大群衆の声とは、黙示録の第十四章の冒頭で、小羊と共にシオンの山に立っていた十四万四千の者達の声でしょう。
記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その5)】で解説しておりますが、十四万四千人の者達とは、かつて人間として地上で過ごした時に、神の言葉のままにあろうと努めたので、天使によって額に神の刻印を押された者達です。
そして、淫らな行いで地上を堕落させた大淫婦に対する裁きについては、既に解説しましたが、神の僕達が流した血の復讐を彼女にしたという部分についても、意味合いとしては同様です。
悪魔に汚されて淫らの限りを尽くすという種を蒔いた大淫婦は、ペテン師の獣や王達に焼かれて崩壊するという必然的な結果を刈り取ったと言うことです。
更に声は、「大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る」と言いましたが、これは今までに大淫婦が犯した所業の全てが明らかにされ、その所業によって必然的に裁かれたという事実が、世界中に遍く伝達されるのでしょう。
それによって、大淫婦を通じて世界中に悪魔の価値観を振りまこうとした悪魔サタンの作戦は失敗に終わり、「俺は地上の神になる!」という悪魔の目論見は、大幅な計画の変更を強いられることになります。





■ キリスト教会の再生

黙示録の第十九章第四節~第八節では、天の神の玉座の周りに座を構える二十四人の長老達や、神の玉座の周りにいる四つの生き物が、神に拝礼します。
そして玉座からも、「神を讃えよ」との声があります。
更に大群衆のような声が、次のように言いました。
「全能者であり、私たちの神である主が王となられた。
私たち大いに喜び、神の栄光を讃えよう。
小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。
花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。
この麻の衣とは、聖なる者達の正しい行いである。」
さて、「神である主が王となられた」とは、大淫婦に対する『神の裁き』を行って、悪魔サタンの作戦が失敗に終わり、地上の人々が神の名のもとに一つに束ねられたと言う意味合いでしょうか。
「また、小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた」とあるのは、本来であれば小羊の花嫁になるべき者が、悪魔の価値観に酔い痴れて淫らな行為に耽る大淫婦となってしまったので、『神の裁き』によって大淫婦が焼かれた後に、ようやく小羊は婚礼の日を迎えることが出来るのでしょう。
花嫁には、輝く清い麻の衣が着せられていて、麻の衣とは聖なる者の正しい行いを指すのですから、この花嫁は悪魔の価値観に汚されて酔い痴れることもなく、淫らな行為に惹かれることもないでしょう。
麻の衣を着た花嫁とは、恐らく「神の言葉とイエスの教えに立ち返ったキリスト教会」を表しております。
それが現在のキリスト教会をルーツとして、「花嫁派」と「大淫婦派」に分裂して行くのか、もしくは現在のキリスト教会は「大淫婦の象徴」として衰退した後に、別の者が旧キリスト教徒の受け皿としての新たな組織を立ち上げて行くのか、その辺りの経緯についてはよく分かりません。
『ヨハネの黙示録』の文面からは、一旦キリスト教会が衰退・消滅する様に受け取れるのですが、現時点で既に『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点』が開いていて、ローマ教皇が覡役として機能し始めているのですから、「花嫁派」と「大淫婦派」に分裂した後、ローマ教皇率いる「花嫁派」のみが命脈を保って、キリスト教会再興の礎となる可能性も捨てきれません。

続けて、黙示録の第十九章第九節~第十節では、天使が「小羊の婚宴に招かれている者達は幸いだ」と言います。
更に「これは、神の真実の言葉である」とも言います。
そこでヨハネが天使を拝もうとして足下にひれ伏すと、天使はこの様に言います。
「止めよ。
私は、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟達と共に、仕える者である。
神を礼拝せよ。
イエスの証しは預言の霊なのだ。」
ここで天使が「小羊の婚宴に招かれている者達は幸いだ」と言っていますが、小羊の婚宴に招かれると言うことは、大淫婦に惑わされて淫らな行いの杯に酔い痴れるのではなく、小羊の正当な花嫁である再生したキリスト教会に集う機会を得たことになります。
また天使は、自らをヨハネなどのイエスの使徒達と同様に神に仕える者だと述べております。
ここで思い出して頂きたいのは、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】の、アジア州にある七つの教会の天使に宛てた手紙についてです。
それらの手紙は全て『天使』に宛てているのに、何故特定の人間に宛てた手紙と解釈するのかが不可解――その様に感じた方が居られるかも知れません。
ですが、この天使の言葉により、天使でも人間でも、神に仕える者としての立場は同じと捉えることが出来ます。
ましてや、ここまで解読してきたように、『ヨハネの黙示録』には、悪魔サタンの計略とその顛末までが記されていますので、時が満ちるまでは容易に本来の意図を悪魔の手の者に悟られないように、複雑な文書構成と、曖昧であると同時に象徴的なキーワードを随所に散りばめ、更に解読のヒントもさり気なく盛り込んでいます。
この事例では、一見すると「天使への手紙」と装いつつ、別の箇所で「天使も人間も神に仕えるのは同じ」と記すことによって、天使への手紙を人間への手紙と読み替えることが可能と伝えております。
『ヨハネの黙示録』は、特に暗号書的な側面が強調されていますが、聖書全体として同様の読み方が出来ます。
素直に読んでも意味の分からない表現があったら、この様な暗号解読手法によって、書き手が込めた本来の意図を読み解く助けとなるでしょう。





■ 白い馬に乗っている方の戦い

黙示録の第十九章第十一節にて、ヨハネは天が開かれているのを見たとあります。
これは、前の項目で小羊と花嫁の婚礼が行われたので、ようやく『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点』が本格的に機能し始めたことを表します。
既に述べている様に、『バチカンの拠点』自体は2011年の年末に開かれましたが、それは霊界と覡役のローマ教皇との間に、『創造性と思考力に働きかける霊的エネルギー』を供給する為の通路が整ったことを意味します。
しかし、覡より先の、個々の人間に向けて霊的エネルギーを供給するルートは、『バチカンの拠点』を通じた霊的エネルギー供給に対応出来ていません。
今のキリスト教会は、悪魔サタンの価値観に酔い痴れた大淫婦であり、霊的エネルギー供給の中継点となる各地の教会が、悪魔の手の者による干渉を受けているからです。
ですから、『バチカンの拠点』が正常に機能する為には、大淫婦に対する『神の裁き』と、小羊と清い花嫁との婚礼が不可欠なのです。

続けて、黙示録の第十九章第十一節~第十六節には、白い馬が現れます。
白い馬に乗っている方は、「誠実」及び「真実」と呼ばれて、正義を持って裁き、又戦います。
その目は燃え盛る炎の様で、頭には多くの王冠があります。
この方には、自分の他は誰も知らない名が記されていました。
また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は「神の言葉」と呼ばれました。
そして、天の軍勢が白い馬に乗っていて、白く清い麻の衣をまとってこの方に従っていました。
この方の口からは、鋭い剣が出ています。
諸国の民をこれで打ち倒すのです。
また、自ら鉄の杖で彼らを治めます。
この方はぶどう酒の搾り桶を踏みますが、これには全能者である神の激しい怒りが込められています。
この方の衣と腿の辺りには、「王の王、主の主」という名が記されていました。
さて、ご覧の皆様は、『ヨハネの黙示録』の別の所にも白い馬が登場していたことを、覚えているでしょうか。
黙示録の第六章第二節で、小羊が巻物の七つの封印の一つ目を開いた後に、白い馬が現れ、馬に乗っている者は弓を持っていました。
記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その2)】でも解説していますが、一つ目の封印とは『日本の拠点』を指します。
ですから、白い馬に乗っている方とは、『日本の拠点』を通じて地上に働きかける、霊界の住人です。
その方が、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義を持って裁き、又戦うのですから、既に正常に機能している『日本の拠点』を通じた働きかけの影響を強く受け続けている日本国民には、「誠実」を持って人と接し、「真実」を追求することに拘り、正義を持って裁き、又正義の為に戦う資質が、潜在的に具わっているはずです。
また、白い馬に乗っている方の目は、燃え盛る炎の様なのですが、黙示録の第一章第十四節には、ヨハネに語りかけるイエスの姿を見た時に、目はまるで燃え盛る炎の様だと例えております。
そして、頭に多くの王冠があるのですが、一つ目の封印を開いた時には、一つの冠を与えられていました。
「冠」とは、勝利を得た者に与えられるのですが、「王冠」は人間の王達が被る物として区別されているようです。
例えば、黙示録の第十三章第一節の、悪魔サタンに権威を与えられた獣に生えている十本の角には、それぞれに王冠がありましたが、十本の角とは獣に与する十人の王達と解読しました。
同様に、多くの王冠とは人間の王を表しているのですから、最初はたった一人で飛び出していった、白い馬に乗っている方は、ここで多くの人間の王達の賛同と支援を得ることに成功したのでしょうか。
あるいは、第一の封印を開いた時に出て来た「白い馬に乗っている方」と、ここで白い馬に乗っている方とは、本質的には同じであっても、人間の目から見ると別の存在として認識されるのかも知れません。
例えば、既に勝利を得ている霊界の住人でも、人間社会に何らかの影響を及ぼす為に、使命を受けて人間として産まれる場合があります。
その様な存在の代表例がイエスなのですが、ここで描かれている「白い馬に乗っている方」も、イエス自身を表す描写が多用されています。
燃え盛る様な目をしていたり、口から鋭い剣が出ていたり、自ら鉄の杖を振るったりします。
それで諸国の民を治めるのです。
また、この方の衣と腿の辺りには「王の王、主の主」という名が記されているのですが、黙示録の第十七章で小羊イエスが獣や王達と戦った時にも、「小羊は王の王、主の主なので、彼らに打ち勝つ」と描写されています。
以上の点をまとめると、ここで現れた「白い馬に乗っている方」とは、『霊界と地上界を繋ぐ日本の拠点』を通じて働きかけていた霊界の住人であり、第二の封印を開くと共に始まった『神の裁き』を経てキリスト教会が正常化した後に、獣や王達を倒す為に先頭に立って戦う者としての役割を果たす為に、人間として産まれるのではないでしょうか。
その方が人間として地上に現れるのは、今より百年程度後の時代になると思いますが、或いはイエスの再臨に例えられることになるのかも知れません。
また、彼は血に染まった衣を身にまとっていますが、衣についた血とは、神によって創造された地上や海の生物を、人間の行いによって無駄に流した血を表します。
そして、血に染まった衣の名が「神の言葉」と呼ばれたのですが、この「神の言葉」とは、『創世記』の最初に、神が「光あれ」と言われたので、光があったと記されている様に、『物事が起こる原因』と言う意味なのでしょう。
「種を蒔いた結果を刈り取る」の種に当たります。
ですから、「白い馬に乗っている方」は、獣や王達が、神の創造した生物の血を無駄に流した結果を、彼ら自身に刈り取らせる為に現れたのです。
天の軍勢が白い馬に乗って「白い馬に乗っている方」に従っているので、父なる神の全面的な支援のもとに、数多くの天使達が軍勢に加わっているのが分かります。
そして、天の軍勢がまとっている、白く清い麻の衣とは、前の項目で小羊と婚礼を上げた花嫁の衣装と似通っています。
「白い馬に乗っている方」の口からは、鋭い剣が出ていて、諸国の民をこれで打ち倒すのですが、口から出ている鋭い剣とは「弁舌が立つ」ことを示しているので、言葉、言論によって人々を説得するのでしょう。
また、彼は自ら鉄の杖で、諸国の人々を治めるのですが、『ヨハネの黙示録』には、他にも鉄の杖が出てくる箇所があります。
一つ目が第二章第二十七節で、ティアティラにある教会の天使に宛てた手紙の中で、勝利を得る者についての話の中で、「彼は鉄の杖をもって彼らを治める、土の器を打ち砕く様に」と述べております。
『土の器を打ち砕く』とは、『創世記』第二章でも、「土の塵で人を形作る」とある様に、土の器である人間の肉体に対する執着を打ち砕く、つまり霊こそが本質で、肉体は一時的な乗り物に過ぎないという認識を、人々に広く理解してもらうことを指します。
二つ目は第十二章第五節で、女が産みの苦しみの果てに産んだ子であり、悪魔である赤い竜が、産まれたら食べてしまおうと付け狙っていた子供が産まれると、天の神の玉座に引き上げられます。
彼は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていたからです。
これらをまとめると、ティアティラにある教会の天使とは、これから百年程度後の日本に誕生する、かつてのイエスに比肩する精神的指導者を指しており、彼を筆頭とした一団が獣や地上の王達と戦う為に立ち上がることになると読めそうです。
「白い馬に乗っている方」は、神の激しい怒りが込められたぶどう酒の搾り桶を踏むのですから、これは予め定められた不可避の事態であり、最早獣やそれに与する王達には逃れる術がないのでしょう。





■ 獣や王達の顛末

黙示録の第十九章第十七節~第十八節では、太陽の中に一人の天使が立っていました。
天使は大声で、空高く飛んでいる全ての鳥に向かって叫びます。
「さあ、神の大宴会に集まれ。
王の肉、千人隊長の肉、権力者の肉を食べよ。
また、馬とそれに乗る者の肉、あらゆる自由な身分の者、奴隷、小さい者や大きな者の肉を食べよ。」
一方、あの獣と、地上の王達とその軍勢とが、「馬に乗っている方」とその軍勢対して戦う為に、集まっていました。
しかし、獣は捕らえられ、獣の前でしるしを行った偽預言者も、一緒に捕らえられてしまいました。
このしるしによって、獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者どもは、惑わされていたからです。
獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれました。
残りの者達は、馬に乗っている方の口から出ている剣で殺されて、全ての鳥は、彼らの肉を飽きる程食べました。
さて、太陽の中に立っている天使が、鳥たちに向かって呼びかけるのですが、様々な立場の人の肉を食べる様に言っています。
何故かというと、「白い馬に乗っている方」が天の軍勢を率いて戦いに出たからであり、獣と地上の王達も、彼らに対抗して戦う為に軍勢を集めていたからです。
しかし、恐らくは双方の大戦が始まる前に、獣は捕らえられてしまいました。
獣と共に、獣の前でしるしを行った偽預言者も、一緒に捕らえられてしまいます。
この偽預言者とは、黙示録の第十六章第十三節~第十四節に出て来ます。
記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その6)】によると、第六の天使が鉢の中身をユーフラテス川に注ぐと、獣と彼らに与する者達が、調子に乗って悪魔サタンの価値観を世界中に広めてしまったものの、実は悪魔の価値観で作り上げた社会の仕組みは、人々の生命を脅かす危険なものでした。
しかし、獣たちは自分の行いを反省して改めるのではなく、悪魔の価値観に染まらなかった為に清浄であった土地に立ち入って、生命の維持に欠かせない貴重な水や食物を手に入れようと思い立ちます。
そこで、竜の口と、獣の口と、偽預言者の口から、蛙の様な汚れた三つの霊が出て来て、全世界の王達を唆して回るのです。
偽預言者が「しるしを行った」というのは、悪魔の価値観に染まっていない清浄な土地に向かって、「あそこをみんなで攻撃しよう」と唆して回ったことを指します。
獣と偽預言者は、主体的に諸国の人々を悪魔の価値観で惑わして回っていたので、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれました。
火の池については、今後投稿予定の記事で詳しく解説しますので、しばらくお待ち下さい。
それ以外の人々、獣に与していた王達や、獣と王達の軍勢に加わっていた者達は、「白い馬に乗っている方」の口から出ている剣で殺されてしまったとありますが、前の項目で「口から出ている剣」とは弁舌が立つことを示していると述べました。
ですから、王達とその軍勢の人々は、自分達が獣や偽預言者に惑わされて、悪魔の価値観で造られた社会を広げる為に使役されていたこと、そんな社会は人間に取って有害であることを、「白い馬に乗っている方」から教え諭されて、悔い改める様に促されるのでしょう。
その結果、王達もその軍勢の人々も、「白い馬に乗っている方」の言葉を受け入れて、今までの自分達の行いを悔い改めます。
彼らが悔い改めることによって、ようやく彼らは六六六の獣の数字の束縛から解放されて、天地創造の第七日目である神の祝福の日を目指すことになります。
六六六の獣の数字から解放された者にとっては、最早人間の肉体に拘る意味がなくなりますので、全ての鳥が(人としての生涯を終えた後の)彼らの肉を食らうことによって、彼らは人間が暮らす世界から決別して、かつてイエスが辿った様に、神の座へ引き上げられる為の道を進むのです。





■ キリスト教会の再生から獣達への裁きのまとめ

記事の冒頭でも述べましたが、本来ならこの記事は、前回の記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その7)】からの続きとなりますが、事情により分割しての投稿となりました。
何故かというと、ここで「白い馬に乗っている方」が再び登場しましたので、その辺りの解説にかなりの字数を割くことになると予想したからです。
結果として上記の様に解読したのですが、よりによって、今後日本からイエスに比肩する精神的指導者が現れて、今回の『神の裁き』の決着を付ける為に重要な役割を務めること、しかも、それが『ヨハネの黙示録』に記されているとの指摘なのですから、驚きを持って受け取られた方も少なくないと思います。
実は、今回出てくる「白い馬に乗っている方」が日本に現れるとは、『ヨハネの黙示録』からは断定できません。
但し、小羊が巻物の第一の封印を開いた時に出て来たのですから、この方が『霊界と地上界を繋ぐ日本の拠点』を通じて働きかける霊界の住人である事は推定できます。
ですから、もし今後「白い馬に乗っている方」が人間として現れるのでしたら、他の地域で誕生するよりは、日本に誕生する方が自然だと感じたのが、第一の理由です。
そして第二の理由として、「白い馬に乗っている方」は、「誠実」及び「真実」と呼ばれるのですから、今の世界でそう呼ばれるのに相応しい国、もしくは誠実さや真実が最も貴ばれている国は日本であると思います。
更に第三の理由として、「白い馬に乗っている方」は血に染まった衣をまとっていました。
上の項目では、この「血に染まった衣」について、神によって創造された地上や海の生物を、人間の行いによって無駄に流した血に染まった衣であり、衣につけられた「神の言葉」という名は、『神の裁き』という結果を招いた原因だと述べました。
と言うことは、血に染まった衣とは、獣や王達の悪事の記録であり、血塗られた歴史と言いかえることも出来ます。
そこで思い起こすのは、前回の『神の裁き』と推定される第二次世界大戦の結果として、日本は謂われのない濡れ衣を着せられたまま、現在に至っています。
戦争の時代の出来事でもあり、誰もが脛に持つ傷の一つや二つはあるので、暗黙の了解として不問に付すのなら、それはそれで賢い選択なのかも知れません。
そして恐らく、従来の日本は、過去の濡れ衣が後々まで尾を引くのでなければ、不当な嘘偽りの断罪をも甘受しようと務めてきたのでしょう。
しかし、過去の出来事にいつまでも決着を付けずに、それどころか日本に政治的圧力をかけるプロパガンダの道具として弄ぶ国が現れて、日本の受ける損失が無視できない程に拡大しているので、遅ればせながら日本もようやく反論を開始したのが現在です。
既に歴史学の分野では、過去の日本に対する扱いが不当であったと言う認識が、ある程度広まっているとも聞きますが、そういった一部の専門家を除くと、未だに根拠の薄弱なプロパガンダが事実として罷り通っているようです。
さて、ここに来てようやく日本も反論を始めたのですが、言わば世間の常識として植え付けられてしまったプロパガンダを覆すには、やはり多くの時間と手間がかかるのではないかと思います。
そして、獣や王達の悪事を明らかにすると言うことは、同時に不当な濡れ衣を着せられた日本の冤罪を晴らすという事でもあります。
ですから、「白い馬に乗っている方」の活動の過程で、日本の歴史的な冤罪の解決が避けられないと思われますので、彼は日本から現れるのではないかと推測できるのです。

などと調子に乗って滔々と述べてきたのですが、ここで登場する「白い馬に乗っている方」は、実は人間として産まれるのではなくて、霊界の住人として何らかの役割を果たす可能性も捨てきれません。
この点については、霊界の住人の方も明確な見解を示して頂けなかったので、「一応『ヨハネの黙示録』には、そう書いてあるみたいだけど、実際にはどうなるんだろうね――」と、軽く聞き流しつつ、頭の片隅に留めて置いて頂ければ幸いです。

Silvercord管理人 





なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご覧下さい。

閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/


上記記事の内容についてのご意見・ご感想・ご質問はコメント欄よりお寄せ下さい。
また、コメントを投稿される際は、記事【改めて、ご覧の皆様へのお願いと連絡事項】をご覧下さい。

2014年10月3日金曜日

『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その7)

この記事は、以前投稿した下記記事の続編となりますので、未読の方はこちらの記事より順番にご覧下さい。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】
『ヨハネの黙示録』第一章~第三章、アジア州にある七つの教会の天使に宛てた手紙について。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その2)】
『ヨハネの黙示録』第四章~第七章、イエスが神から託された巻物の七つの封印のうち、第一~第六の封印を開いてゆく。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その3)】
『ヨハネの黙示録』第八章~第十一章、イエスが巻物の第七の封印を開き、神からラッパを与えられた七人の天使のうち、第七の天使がラッパを吹くまで。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その4)】
『ヨハネの黙示録』第十二章~第十三章、悪魔サタンが天から堕とされた経緯と、地上でキリスト教会に侵蝕してゆく過程について。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その5)】
『ヨハネの黙示録』第十四章~第十五章、地上が悪魔サタンの支配下に置かれた頃、天で進行していた『神の裁き』の時に向けての準備の様子。

【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その6)】
『ヨハネの黙示録』第十六章、『神の裁き』として、七人の天使が地上にもたらす災いの様子と、『神の裁き』の目的について。





■ 赤い獣と大淫婦

『ヨハネの黙示録』の第十六章では、『神の裁き』が七つの段階を経て実施されて行く過程について、大まかに説明して参りましたが、第十七章では、「多くの水の上に座っている大淫婦」が、どの様な『神の裁き』を受けるのかが述べられております。

黙示録の第十七章第一節~第五節では、七つの鉢を持つ七人の天使――第十六章で『神の裁き』として、神の怒りが盛られた鉢の中身を注いで、地上に七つの災いをもたらした天使――のうちの一人が、この様に語りかけます。
「多くの水の上に座っている大淫婦に対する裁きを見せよう。
地上の王達は、この女と淫らなことをし、地上に住む人々は、この女の淫らな行いのぶどう酒に酔ってしまった。」
そして天使は、霊に満たされたヨハネを荒れ野に連れて行きます。
そこでヨハネは、赤い獣に跨がっている一人の女を見ました。
女が跨がっている獣には、全身の至る所に神を冒涜する数々の名で覆われていて、七つの頭と十本の角がありました。
一方、獣に跨がっている女は紫と赤の衣を着て、金と宝石と真珠で身を飾っていて、忌まわしいものや、自分の淫らな行いの汚れで満ちた金の杯を手に持っていました。
女の額には、秘められた意味の名が記されていて、「大バビロン、淫らな女たちや、地上の忌まわしい者達の母」という名でした。
と言うことで、地上に災いをもたらした七人の天使の一人が述べている「多くの水の上に座っている大淫婦」とは、「大バビロン、淫らな女たちや、地上の忌まわしいものの母」という名前のものでした。
ここで、『神の裁き』を受けることになった「多くの水の上に座っている大淫婦」とは、『大バビロン』という名を持っていることが明かされました。
『大バビロン』と聞くと、聖書に記されたイスラエル人の受難である『バビロン捕囚』を思い浮かべますが、この大淫婦の正体を解き明かす前に、この女が跨がっている赤い獣について、簡単に述べておきましょう。
この獣には七つの頭と十本の角がありますので、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その4)】で解読したローマ帝国とその後継者達を表します。
現代ならさしずめ、EU構成国がローマ帝国の再興と読み取っても差し支えないでしょう。
しかし、かつての獣とこちらの獣では、異なっている部分もあります。
かつての獣は、色についての言及はありませんでしたが、こちらの獣は赤い色をしております。
赤い色といえば、かつて獣に力と王座と権威を与えた、赤い竜を思い出します。
赤い竜とは、天の争いに敗れて地上に堕とされた悪魔サタンを指します。
ですから、こちらの獣はかつての獣よりも、一層悪魔サタンの姿に近づいたことになります。
また、かつての獣の七つの頭には、神を冒涜する様々な名が記されていましたが、こちらの獣は、全身の至る所が神を冒涜する名で覆われています。
この獣は、時代を経るに連れて、一層悪魔サタンの影響が色濃く表れているようです。
一方の大淫婦は、紫と赤の衣を着ていますので、こちらも赤い竜である悪魔サタンと関わりを持つ者なのでしょう。
金と宝石と真珠で身を飾っているのですが、一体どの様な不正な手段で手に入れたのでしょうか。
そして忌まわしいものや、自分の淫らな行いの汚れで満ちた金の杯を手に持っています。
この「金の杯」とは、『エレミヤ書』第五十一章にも言及があります。
「バビロンは主の手にある金の杯で、これが全世界を酔わせた」のだそうです。
そして大淫婦こと『大バビロン』は、主の手にある金の杯を、忌まわしいものや自分の淫らな行いの汚れで満たして、その淫らな酒を飲んで酔い痴れているのでしょう。
そんな大淫婦、『大バビロン』とは、「淫らな女たちや、地上の忌まわしい者達の母」なのだそうです。
なぜ『大バビロン』が大淫婦と呼ばれるかというと、赤い竜こと悪魔サタンに汚されて、赤い獣と共に淫らな行いの限りを尽くしたからです。
その具体例が第六節で、聖なる者達の血と、イエスの証人達の血に酔い痴れていました。
聖なる者達とは、生前は神の言葉のままに生涯を全うし、死後に勝利を得る者と認められて、白い衣をまとって神の御前に集っている方でしょう。
そしてイエスの証人達とは、イエスの生涯の意味をきちんと理解して、イエスを手本に自らを高めようと努めた方でしょう。
両者とも神とイエスの教えを深く理解していたのですが、だからこそ悪魔サタンは、彼らが自分の偽りの教えの正体を暴露することによって、既に天での居場所を失った自分が、今度は地上でも「人間に取っての神」として振る舞えなくなる事態を恐れて、聖なる者達の血に酔い痴れる様に、大淫婦と獣を唆したのかも知れません。





■ 赤い獣と大淫婦に秘められた意味

ここで前述の「七つの災いを地上にもたらした天使」の一人が、この大淫婦と、女を乗せた獣に秘められた意味を教えてくれるのだそうです。
黙示録の第十七章第八節~第十四節では、以下のように説明されております。
「女を乗せた獣とは、以前はいたが、今はいない。
やがて底なしの淵から上がってくるが、遂には滅びてしまう。
地上に住む者で、天地創造の時から命の書にその名が記されていない者達は、この獣がやがて来るのを見て驚くだろう。
七つの頭とは、この女が座っている七つの丘のことであって、ここに七人の王がいる。
五人は既に倒れたが、一人は今王の位に就いている。
他の一人はまだ現れていないが、この王が現れても、王位に留まるのはごく短い期間である。
以前いて、今はいない獣は第八の者で、またそれは先の七人の中の一人なのだが、やがて滅びる。
そして十本の角とは十人の王である。
彼らはまだ国を治めていないが、一時の間、獣と共に王の権威を受けるだろう。
王達は心を一つにしており、自分たちの力と権威を獣に委ねる。
王達は小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。
小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者達も又、勝利を収める」
以上の様に説明されているのですが、前の項目の内容と併せて、再度赤い獣について検証してみましょう。
まず、既に前の項目で、赤い獣とはかつてのローマ帝国であり、現代で言えばEUが該当すると述べました。
ですから、以前はいたのに、一旦いなくなった後、再び姿を現すという、赤い獣についての表現は、かつてのローマ帝国と現代のEUに当て嵌まります。
その獣は底なしの淵から上がってくるそうですが、この「底なしの淵」とは黙示録の第九章に記されており、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その3)】にて既に解説しました。
小羊イエスが神から委ねられた巻物の第五の封印を開いた時に、底なしの淵から沢山のイナゴが出て来て、額に神の刻印を押されていない者にしばしの間苦痛を与えるとあります。
また、底なしの淵からイナゴを開放したのは悪魔サタンであり、イナゴが与えた苦痛とは悪魔の教え、サタンの価値観で洗脳することだと述べました。
ですから、この赤い獣も、何者かを悪魔の価値観で洗脳する為に、底なしの淵から這い上がってきたのでしょう。
そして、赤い獣の餌食になってしまったのは、かつては乙女であった筈の大淫婦です。
『創世記』の冒頭、神の楽園で、予め禁じられていたにもかかわらず、一匹の蛇に唆されて善悪を知る木の実を口にした上、アダムにも禁じられた行為を薦めてしまった女の姿が重なります。
大淫婦、大バビロンとは何者なのか、その正体も気になりますが、先に赤い獣の検証を進めましょう。
次に、地上に住む者で、天地創造の時から命の書に名前が記されていない者は、この獣がやがて来るのを見て驚くだろうとあります。
命の書とは、黙示録の第三章にある、サルディスにある教会の天使への手紙の中に言及があります。
記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】でも述べておりますが、勝利を得る者は命の書から名前を消されることはないとあり、又第二の死を免れるとあります。
ですから、天地創造の時から命の書に名前を記されていない者とは、勝利を得ていない者なのですから、神がどの様な働きかけをしているとか、獣の正体と目的などは毛頭知る由もないのでしょう。
そして、赤い獣の七つの頭とは、大淫婦が座っている七つの丘のことなのだそうですが、この七つの丘とは、古代ローマの中心地にあった七つの丘を指しているのでしょう。
更に、この七つの丘には七人の王がいるそうです。
霊界の住人の話によると、この七人の王とは悪魔サタンの代理人であり、悪魔から委ねられた使命を帯びて、人間として生まれ出た者なのだそうです。
そして、悪魔の代理人が受けた使命とは、天から地上へ堕とされた悪魔サタンが、人間の神として地上に君臨する為に、悪魔の価値観を地上に遍く浸透させることです。
七人の王のうち、五人は既に倒れていて、一人は今王の位に就いているとありますが、『神の裁き』の始まりの時である現在から見ると、これらは過去の出来事です。
まだ現れていない他の一人が、ごく短い間王位に就いたのも、恐らく過去の出来事でしょう。
そして、以前いて今はいない獣である第八の者とは、現在人間として悪魔の使命を果たす為に活動している最中かも知れません。
何故なら、以前いて今はいない獣とは、ローマ帝国の再興とも言われるEUを指すと既に述べました。
それが同時に第八の者を指すのですから、EUの設立に影響力を及ぼした者の誰かが該当すると考えられます。
また、第八の者は、先の七人の中の一人だとありますので、かつて人間として生まれ、悪魔の代理人としての活動を経験しております。
そういった過去の経験を積み重ねている分だけ、第八の者は、先の七人の王と比べると狡猾で厄介な存在です。
ここでは記事の趣旨から外れますので、第八の者の正体については詮索しません。
しかし、EU設立の経緯を調べて行くと、第八の者の正体が明らかになるかも知れません。
話を先に進めましょう。
次に、赤い獣にある十本の角とは、十人の王であると述べています。
霊界の住人の話によると、十人の王とは悪魔の価値観に酔い痴れた者であり、赤い獣の協力者です。
そして、彼らがまだ国を治めていないというのは過去の話であって、一旦はいなくなった獣が再度現れた現代には、十人の王も獣と共に王の権威を受けていると考えられます。
更に、十人の王が心を一つにしており、自分たちの力と権威を獣に委ねるのですから、欧州の独立国が、主権国家が所有する権限の一部をEUに委譲して、EU構成国となった経緯が当て嵌まります。
ですから、十人の王とは、EU構成国の政府、或いは国家元首が該当するのでしょうか。
ここで、十人の王達は小羊と戦いますが、小羊イエスが武器を手に王達と戦うわけではありません。
十人の王達は、彼らが酔い痴れて信奉している悪魔の価値観を手に、「自分たちの考えの方が正しいのだから、従来の聖書の解釈を改めよ」とキリスト教会に迫ることによって、聖書に記された神の言葉の意味を歪めて、悪魔の価値観をキリスト教会に浸透させようと試みるのです。
これらの行いは、キリスト教が成立した後、かなり初期の段階から継続的に行われていたと、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その4)】で述べましたが、今回は更に悪魔的な価値観の浸透を目論んでいます。
その悪魔の価値観の中には、昨今の同性愛者の地位向上を目指すキャンペーンの一環として、同性愛者に対するキリスト教会の従来の見解を改めようとする働きかけが含まれます。
何故なら、同性愛で子孫を産み育むことは出来ません。
『創世記』では、神が天地創造の第六日目に、地の獣と人を造っていますが、神の姿に似せて、男と女を共に造っております。
それは神の価値観が「人の生命力を豊かに育む」考えに基づいていて、男と女の人が対になってこそ、かつて神が人を造られたように、新たな人を産み出せる仕組みになっています。
更に神は、男と女を祝福して言います。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と。
この様に、聖書の一番最初に記されている、神の価値観の最も基本的な見解を否定するように、キリスト教の修道院ではかねてより同性愛が好まれてきたようにも聞きますが、こういった側面を見ただけでも、いかに悪魔サタンの価値観がキリスト教会に深く侵蝕してるのか、その一端が伺えます。
しかし、小羊イエスは勝利し、また小羊と共にいる者や、召された者、選ばれた者、忠実な者達も勝利するのですから、そういった悪魔的な価値観が否定されて、神の言葉のままに実践しようと考える者達が、キリスト教会の主導権を取り戻すと言うことでしょうか。
ちなみに、小羊と共にいる者とは、黙示録の第十四章で小羊と共にいた十四万四千人の者であり、召された者とは、神の言葉のままに殉じた者、選ばれた者とは『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点』の守人であり、同時に覡であるローマ教皇を指します。
忠実な者達とは、悪魔の価値観が蔓延ったキリスト教会にあっても神の言葉に忠実な者で、現在は必ずしもキリスト教会に属していなくても、考え方と行動が神の言葉に忠実である者でしょう。
彼らのうち、既に亡くなっている者は勝利を得て神の座に引き上げられますし、現在人間として過ごしている者は、死後に神の座に引き上げられるので、勝利を得ることになります。





■ 大淫婦の正体

前の項目では、おもに大淫婦が乗っていた赤い獣の正体について解読して行きましたが、ここでいよいよ大淫婦の正体が明かされます。
黙示録の第十七章第十五節~第十八節では、七つの災いを地上にもたらした天使の一人が、この様に言います。
「あの大淫婦が座っている水とは、様々な民族、群衆、国民、言葉の違う民である。
そして十本の角と獣は大淫婦を憎んで、身につけた衣を剥ぎ取って裸にし、その肉を食い、火で焼き尽くすだろう。
神の言葉が成就する時まで、神は彼らの心を動かして御心を行わせ、彼らが心を一つにして、自分たちの支配権を獣に与えるようにさせたからである。
大淫婦とは、地上の王達を支配しているあの大きな都のことである。」
天使は最初に、大淫婦が座っている水とは、様々な民族、群衆、国民、言葉の違う民だと説明していますが、ここで思い出すのは、黙示録の第十五章に「火が混じったガラスのようなもの」についての言及です。
記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その5)】では、「宇宙空間から地球を見下ろしたら、その様な表現が相応しい光景が見えるのではないか」と述べました。
そして、大淫婦の座っている水とは、様々な民族や国民なのですから、宇宙空間から見た地球が一面を海水で覆われてガラスのように見えるのと同じく、大地の一面を覆うような多くの人で満ち溢れている様子が伺えます。
そして十本の角と獣は大淫婦を憎むのですが、それは十本の角である十人の王が小羊と戦った結果、小羊が打ち勝ったからで、言わば逆恨みです。
逆恨みの末、獣と王達は、大淫婦が身につけたものを剥ぎ取って裸にし、その肉を食い、火で焼き尽くすのですが、その大淫婦とは、地上の王達を支配している大きな都なのだそうです。
ですから、大淫婦の身につけていたものを剥ぎ取って裸にするの意味は、大バビロンと呼ばれる都が、身につけている衣を剥ぎ取られるようにして、淫らで汚らわしい行いで人々を惑わしていた本性が、白日の下に晒されることになるでしょう。
しかも、大バビロンの都をその様な状態にしてしまったのは、獣であり十本の角なのですが、大バビロンは獣たちの八つ当たりの為に、肉を食らうようにして都に蓄えた富を奪い取られ、火に焼かれて廃墟と化してしまうのでしょうか。
しかも、ここまでの獣による一連の行為は、神の言葉が成就する時まで、神が獣に支配権を与えた為に、獣の思いのままに振る舞ったのだそうです。
霊界の住人は、大きな都とはキリスト教会を指すのだと述べておりますが、管理人には、現代のキリスト教会の価値観によって作り上げられたキリスト教国家が主導する、国際社会の仕組みそのものを指しているように感じました。
なお、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その4)】では第一の獣として記されていましたが、この度の『神の裁き』の際に改めて第一の獣を詳しく見ると、赤い獣の上に大淫婦が跨がっていたということでしょうか。





■ 大バビロンの都に巣食う者達

黙示録の第十八章に入ると、大きな権威を持っている別の天使が天から降って来たので、地上はその栄光で輝きます。
第二節~第三節では、天使が力強い声で叫びます。
「大バビロンが倒れた。
そしてそこは悪霊共の住み処、あらゆる汚れた霊の巣窟、あらゆる汚れた鳥の巣窟、あらゆる汚れた忌まわしい獣の巣窟となった。
全ての国の民は、怒りを招く彼女の淫らな行いのぶどう酒を飲み、地上の王達は、彼女と淫らなことをし、地上の商人達は、彼女の豪勢な贅沢によって富を築いたからである。」
ここで新たに、大きな権威を持つ天使が天から降りてきました。
地上がその栄光で輝くので、この天使は父なる神の名代であり、これらの事態が全て神の御業によって行われていることを示しております。
ここで、黙示録の第十七章第四節を思い出して頂きたいのですが、
「(大淫婦である大バビロンという名の)女は、紫と赤の衣を着て、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものや、自分の淫らな行いの汚れで満ちた金の杯を手に持っていた。」
とあります。
ですから、全ての国の民は、大淫婦が手に持った金の杯の中身に酔い痴れたことになります。
そして、地上の王達は、金の杯の中身である淫らな行いを、大淫婦と共に行いました。
この“淫らな行い”とは、聖書に綴られた神の言葉を歪曲・偏向して、神の名のもとに悪魔サタンの価値観を流布する一方、神の言葉のままに生涯を貫こうとする聖なる者達を迫害して、地上をサタンの価値観で埋め尽くし、悪魔サタンが地上の人々の神として君臨することです。
また、全ての商人達は、大淫婦が身につけている宝石や財宝を、不正な手段で取引することによって富を築きました。
彼らは皆大淫婦の共犯であり、黙示録の第十七章で、大淫婦は「身につけた物を剥ぎ取って裸に」されたので、彼らの正体が汚れた霊や、汚れた鳥や、あらゆる忌まわしい獣達の集団である事が明らかになりました。





■ 大バビロンの都に対する神の裁き

黙示録の第十八章第四節~第八節では、別の声が天から聞こえてきます。
「私の民よ、彼女から離れ去れ。
その罪に加わったり、その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。
彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神はその不義を覚えて居られるからである。
彼女がした通りに、彼女に仕返しせよ、彼女の仕儀に応じ、倍にして返せ。
彼女が注いだ杯に、その倍も注いでやれ。
彼女がおごり高ぶって、贅沢に暮らしていたのと、同じだけの苦しみと悲しみを、彼女に与えよ。
彼女は心の中でこう言っているからである。
『私は、女王の座に就いており、やもめなどではない。
決して悲しい目に遭いはしない。』
それ故、一日のうちに、様々の災いが、死と悲しみと飢えとが彼女を襲う。
また、彼女は火で焼かれる。
彼女を裁く神は、力ある主だからである。」
天から聞こえてくる声は冒頭、「私の民よ、彼女から離れ去れ」と呼びかけます。
私の民とは、前の項目で大バビロンに巣食っていた者達から迫害されていた、聖書の神の言葉のままに生涯を貫こうとする、聖なる人達のことです。
これから大バビロンの都は、今までの自らの行いに応じて神の裁きを受けるので、大バビロンの淫らな行いに加わったり、裁きによって訪れる災いに巻き込まれないように、注意を促しているのです。
天からの声は、大バビロンの仕儀に応じて、倍にして返せと言っています。
倍にして返すの“倍”の意味は、聖書の中からは読み取れなかったのですが、素直に文章を読めば、倍の規模、或いは、倍の期間と読み取れます。
とはいえ、仕返しの規模が倍と言われても、余りピンと来ませんが、仕返しの期間が倍と言うことでしたら、何となく納得できそうな解釈が可能です。
記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その2)】【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その3)】を思い出して頂きたいのですが、この中で、小羊イエスが神から渡された巻物の七つの封印を開くこととは、以前より『銀の紐』などを通じてお伝えして来た、世界に六カ所ある『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を順番に開いて行くことに加えて、個々の人間が霊界と直接繋がることを指すのだと述べました。
そして、それらの封印を開く時期についても言及したのですが、第一の封印を開いたのが明治維新後間もなくで、第二の封印を開くまでの間が約140~150年、そして第二の封印が開いたのは2011年の年末で、それからおよそ300年後に第三の封印を開く予定になっているそうです。
更に、第一の封印を開いた時には、白馬に乗った者が、勝利の上に勝利を重ねようと出ていきました。
明治維新以降の日本は、白い馬に乗った者に触発されたように国際社会に乗り出すのですが、当時としては合法的な行いをしていたにもかかわらず、無実の罪を着せられたまま、第二の封印を開くまでの間誤解され続けました。
しかし、第二の封印が開く時期になって、ようやく日本の過去の冤罪と、日本に罪を押しつけた者の罪状に、人々の関心が集まりつつあります。
そして、第二の封印を開くと、火のように赤い別の馬が現れます。
その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられたのですから、今後は日本に罪を押しつけたキリスト教勢力に対する批判と反発の声が高まり、主に拠点が開いた欧州が戦火に飲み込まれて行くことが予想されます。
何故なら、拠点が開くには、その土地に暮らす人々のうち、物事の道理を理解し尊重する人々の割合が一定以上に達していることが前提となりますので、拠点が開いた土地の人々は、最早自分達(又はその祖先)が行った不実の行為による罪悪感を許容できずに、自らの罪を認めて償いを行うようになるからです。
その過程で、国家間の対立や国内での紛争が多発する事態が想定されますので、一連の事態が収拾して安定を取り戻すまでには、凡そ300年かかると言う意味ではないかと読み取れます。
また、大淫婦は心の中で「私は女王であって、やもめではない」と言っているのですが、これに関連して、黙示録の第十七章第十四節では、「小羊は王の王」とあり、また前の項で、「大バビロンとはキリスト教会である」と述べました。
本来であれば小羊イエスこそがキリスト教会の王であり、イエスあってのキリスト教会なのですが、むしろキリスト教会の方から神の言葉やイエスの言葉に背を向けて、悪魔サタンの価値観を振りかざし、獣たちや地上の王達と淫らな行いに耽っていました。
ですから、『神の裁き』の時が訪れてから慌てて、幾ら自分が女王と強がってみても、既に身にまとっていた衣を剥ぎ取られて正体を暴かれた後では、本来の主を見失ったやもめの扱いも頷けます。
この様にして、『神の裁き』に伴う災いが大バビロンの都を襲う様子を目の当たりにして、聖なる人々は聖書に綴られた神の言葉が実現したことを知ります。
また聖書に予め記された通りに、地上に対して働きかける神の大きな力を実感するのです。





■ 神の裁きを受ける者達

黙示録の第十八章第九節~第十節にかけて、大淫婦と淫らなことをして、贅沢に暮らした地上の王達は、大淫婦が焼かれる煙を見て泣き悲しみ、彼女の苦しみを見て恐れ、遠くに立って言います。
「不幸だ、不幸だ、大いなる都、強大な都バビロン、お前は、ひとときの間に裁かれた。」
不正と腐敗に塗れて崩壊する大バビロン=キリスト教会の権威の凋落を目の当たりにして、かつて大バビロンと共に不法と頽廃の限りを尽くした地上の王達は何を思ったのでしょうか。

続く第十一節~第十七節では、地上の商人達が、大淫婦の為に泣き悲しみます。
もはや誰も彼らの商品を買う者はいないからです。
彼らの取り扱う物とは、それこそありとあらゆる物でした。
彼らの望んで止まない果物は、彼らから遠ざかってゆき、華美な物、煌びやかな物は皆、彼らの所から消え失せて、もはや決して見られることはありません。
この様な商品を扱って、大淫婦から富を得ていた商人達は、彼女の苦しみを見て恐れ、遠くに立って泣き悲しんで言います。
「不幸だ、不幸だ、大いなる都、麻の布、また、紫の布や赤い布をまとい、金と宝石と真珠の飾りをつけた都。
あれほどの富が、ひとときの間に、皆荒れ果ててしまうとは。」
さて、地上の王達よりも大淫婦の為に泣き悲しんだのは、地上の商人達でした。
何故なら、彼らが扱う商品を買う者がいなくなってしまったからです。
地上の商人達が扱う物は、それこそ高価な装飾品から食糧、日用品からありとあらゆる物でしたが、何故彼らの商品を買う者がいなくなってしまったのでしょうか。
それは、彼らの取り扱う全ての商品が、悪魔サタンの価値観に基づいて“価値がある”と判断されてきた商品だからです。
例えて言えば、先頃の話ですが、国内の某ハンバーガーショップや、某コンビニエンスストア等で取り扱っていた鶏肉系の加工食品を製造していた中国の工場が、食材を衛生面で杜撰に取り扱ったり、見るからに腐食していると思われる食材を使用していた様子が報道されました。
私達日本人にとっては、食品工場におけるこの様な衛生観念に驚くのですが、その報道を受けた中国では、「本物の肉を使っているならまだマシだ」との声もあったのだそうです。
以前日本でも騒がれた「段ボール肉まん」の例もある様に、中国では本来なら食用ではない素材を使用した加工食品モドキが蔓延っていて、生命に関わる危険な薬物が混入している事例もあるようです。
テーマから外れてしまいますので、ここでは詳しくは触れませんが、上記の様ないわゆる紛い物、贋物が、同様の本物と比べて“割安だから”というだけの理由で、当たり前に市場に流通しているのですから、悪魔サタンの価値観にすっかり毒されていると言ってよいでしょう。
しかし、ここで紹介した事例等を通じて、表面は綺麗に飾っていても、実は無価値で危険な商品に満ちているという実態を深刻に受け止めて、問題視する人の数が増えてゆくと、粗悪な商品は徐々に市場から駆逐されてゆくのではないでしょうか。
その結果、元々は無価値な商品を“価値がある”と偽って販売していた商人達は、生計の糧を失って途方に暮れることになるのです。

そして第十七節~第十八節では、全ての船長、沿岸を航海する全て者、船乗り達、海で働く全て者も、大淫婦が焼かれる煙を見て叫びます。
「これほど大きな都が他にあっただろうか」
彼らは頭に塵を被り、泣き悲しんで更に叫びます。
「不幸だ、不幸だ、大いなる都、海に船を持つ者が皆、この都で、高価な物を取引し、豊かになったのに、ひとときの間に荒れ果ててしまうとは。」
さて、船乗り達の叫びの意味合いは明らかです。
大バビロンの都の崩壊に伴って、グローバリズムが終焉を迎え、世界の自由貿易が大幅に衰退するのです。
この様にして、多くの水の上に座っている大淫婦に対する、『神の裁き』が行われました。





■ 大バビロンの都が神の裁きを受けた理由

黙示録の第十八章第二十一節~第二十四節では、ある力強い天使が現れて、大きい挽き臼のような石を海に投げ込んで言います。
「大いなる都、バビロンは、この様に荒々しく投げ出され、もはや決して見られない。
竪琴を弾く物の奏でる音、歌を歌う者の声、笛を吹く者やラッパを鳴らす者の楽の音は、もはや決してお前のうちには聞かれない。
あらゆる技術を身につけた者達も誰一人、もはやお前のうちには見られない。
挽き臼の音も又、もはや決してお前のうちには聞かれない。
灯火の明かりも、もはや決してお前のうちには輝かない。
花嫁や花婿の声も、もはや決してお前のうちには聞かれない。
何故なら、お前の商人達が地上の権力者となったからであり、また、お前の魔術によって全ての国の民が惑わされ、預言者達と聖なる者達の血、地上で殺された全ての者の血が、この都で流されたからである。」
さて、ここで又新たな天使が出て来て、大きい挽き臼のような石を海に投げ込むそうですが、これは一体どういう意味なのでしょうか。
『ルカによる福音書』の第十七章第一節~第二節では、イエスが弟子達に対してこの様に言います。
「つまずきは避けられない。
だが、それをもたらす者は不幸である。
その様な者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。」
つまり、つまずきは避けられないけれども、他人をつまずかせるのは罪深い行いだと言うことです。
そして、他人をつまずかせた罪深い行為の内訳を具体的に述べると、大バビロンの商人が地上の権力者になったこと、また大バビロンが悪魔サタンの価値観を広めて、全ての国の民を惑わせたこと、更に悪魔の価値観を広める際に障害となる預言者や聖なる者を殺めることによって、全ての国の人々をつまずかせました。
そんな大バビロンの最期は、大きな挽き臼のような石を海に投げ込むようにして、誰にも振り向かれなくなるのが相応しいと言うことでしょうか。





■ 多くの水の上に座る大淫婦に対する裁きのまとめ

前回の記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その6)】では、小羊イエスが神から渡された巻物の第二の封印を開いたことによって始まった、『神の裁き』の全体的な流れについて解説しました。
そして今回は、『神の裁き』の主な対象である「多くの水の上に座っている大淫婦、大バビロンという名の、大きな都」に焦点を当てて、どの様な経緯で『神の裁き』が行われるのか、また『神の裁き』を受ける理由について取り上げました。
今回の解読記事をご覧になると、大バビロンの正体と神に裁かれる理由が、かなり明確に示されていることがお分かりになると思います。
ところで、大バビロンと共に淫らな行為を行っていた獣や王達は、そのまま逃げ仰せてしまったのでしょうか。
実は、獣や王達のその後についてもきちんと『ヨハネの黙示録』に記されているのですが、事情により次回に持ち越します。
ちょっと驚きの結末をご紹介出来ると思いますので、もうしばらくお待ち下さい。
また、黙示録には、大バビロンが「(神の裁きによって)ほんのひとときの間に荒れ果ててしまう」とありましたが、実際には数十年~百年程度の期間をかけて、徐々に事態が進行して行くのではないかと考えております。
前回の記事では、イエスが封印を開く度に『神の裁き』が行われること、また『神の裁き』の流れは基本的に共通していると述べました。
私たち人類は、既に一度『神の裁き』のサイクルを経験しているので、その期間の歴史的な経緯を詳細に検証すると、更に色々と分かることがあるかも知れないとも述べました。
一度目の『神の裁き』のサイクルとは、明治維新の訪れと共に第一の封印を開いてから、大東亜戦争の終戦まで(占領統治の期間を含むかどうかは微妙)の、およそ70~80年程度を推定しております。
ですから、二回目となる今回の『神の裁き』も、恐らく同等程度の時間をかけて事態が進行して行くとの想定です。
そして、ここまで『ヨハネの黙示録』を読み進めて行くと、この文書がキリスト教会を通じて伝えられてきた理由が、今回の『神の裁き』の時代を生きる方に向けて送られたメッセージである事を、すんなりとご理解頂けるのではないかと思います。

Silvercord管理人 





なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご覧下さい。

閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/


上記記事の内容についてのご意見・ご感想・ご質問はコメント欄よりお寄せ下さい。
また、コメントを投稿される際は、記事【改めて、ご覧の皆様へのお願いと連絡事項】をご覧下さい。