2016年9月30日金曜日

[黙示録再解読]:小羊が神の巻物の封印を開く

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■ 小羊が巻物の第一の封印を開く

このテーマについては、以前の黙示録解読の際に一通り解説していますので、基本的には人間視点から見た以前の解読と、神の視点から見た今回の内容を比較して、適宜補足を加える方向で進めます。

黙示録の第六章第一節~二節で、小羊が神の巻物の第一の封印を開きます。
すると白い馬が現れて、それに乗っている者が弓を持っていました。
彼は既に勝利を得ており、冠を与えられているので、イエスと同じ立場で、地上の諸国民を神の玉座の御許へ導く為に、神と人々の間に立って人々を束ねていた者だと言うことが分かります。
既に黙示録解読関連の記事で度々述べているように、巻物の第一の封印とは、「霊界と地上界を繋ぐ日本の拠点」を指すと解釈しています。
霊界の住人の情報として、霊界と地上界を繋ぐ拠点は世界に六カ所あり、それぞれが黙示録にある神の巻物の第一~第六の封印に当て嵌まると推定していますが、第一の封印である日本の拠点は、人類が地上に誕生する際に六カ所の拠点が作られた後、現在までずっと開いたままの状態にある唯一の拠点です。
しかし、第一の封印が開いた時期と推定される明治維新の頃までは、日本の拠点は開いていても能力が抑制された状態に置かれていました。
その、日本の拠点の能力を発揮できるようにしたのが、巻物の第一の封印を解いて開いた時期であり、既に開いていた拠点の能力を拡充したので、勝利の上に勝利を重ねようとしたと言うのが、第一の解釈となります。
第二の解釈として、かつてイエスが神の言葉を証ししたことによって勝利を得たように、既に拠点を開いていた日本が新たに神の言葉を証しする為の機会としたとして、国内向けには『教育勅語』が、海外向けにはパリ講和会議における日本の『人種差別撤廃提案』が根拠として挙げられるというのが、第二の解釈となります。

以上の、人間視点から見た巻物の第一の封印を開いた件について、霊界の住人はどの様に見ているでしょうか。

曰く、悪魔の傲りが人間を増長させたことにより、返って巻物の封印が開かれて神の言葉が成就するという、皮肉な結果を招きます。
第一の封印が開く時に、人間に第一の試練が訪れます。
第一の封印を開くと、最初に四つの生き物の一つが、雷のような声で「出てこい」と言いますが、雷のような声とは、第一の封印がある日本を世界の表舞台へ引きずり出して、争いに巻き込むことを意味します。
雷は弾薬が発する爆音を表します。
また、この時から『神の裁き』が繰り返されることになるので、人類が滅亡する時期の『最後の審判』に向けた一連の裁きが始まる合図であり、雷という表現によって人間がこれから経験することになる様々な試練を表しています。
今までの日本は、神の手によって用意された揺りかごの中で生きる時を過ごしてきましたが、この時点から日本は、神とともに暮らし、身近に神と接する中から教わり育んできた知恵を、他国との関わり合いの中で実践し、その有効性を証明する役割を担っていました。
この時の日本は、周囲に味方が居らず、悪魔に籠絡された勢力に取り囲まれるという、とても困難な状態に置かれます。

曰く、「勝利の上に勝利を重ねる」とは、神が守り育ててきた価値観を宿す日本が、悪魔の価値観が蔓延る国々に囲まれながらも我を見失わずに、神から伝えられた知恵を絶やすことなく子々孫々に至るまで守り伝えて、繁栄し続けられることを証明してみせるところにあります。
神との間に築かれた強固な絆は、幾度もの苦難に見舞われようと失われることなく、次世代へ受け継がれることを体現してみせる国が日本です。
その役割を象徴する存在が天皇です。
日本を今のままに守りたければ、日本は何があっても天皇を守り、神と人との絆が断たれることを阻止しなくてはなりません。
周辺国の価値観に惑わされることなく、日本にとって一番大切なものを守り抜く覚悟が必要となります。
この重要性が周辺国に理解されることはまずないでしょう。
それは日本においてのみ実現されていることだからであり、過去から現在に至るまでその状況は何一つ変わっていません。
それを理解できない相手から無理に理解を得ようと思ってはいけません。
周辺国には無い価値観に理解を求めるのは酷な話なのですから、自分たちの価値観が世界の中で独特であることを自覚し、その中で自分たちの身を守り抜く覚悟を決めた方が良いでしょう。
日本は「神との繋がり」という意味において、他国とは異なる環境に置かれてきたのですから、周辺国に理解されないのは当たり前だと改めて認識し、理解されないことを前提にして国を守らなくてはなりません。
今は、理解できるだけの経験を積んでいない相手に理解を求め続けて、他国に対する価値観の押しつけになってはいけません。
個人的に日本に愛着を持ち、日本の伝統文化に慣れ親しんでそれを守りたいと願う外国人は存在しますが、外国人全体から見れば極僅かです。
また、日本の伝統文化に親しむ外国人でも、天皇を一国の王という位置づけでしか捉えておらず、神と人の間を繋ぐ接点としての役割と存在の重要性は到底理解できないでしょう。
殆どの外国人は他国に興味が無く、自分の生活を支えることに手一杯です。
当の日本人にしても、天皇の役割の重要性を理解している人の割合は少ないのですが、細かい理屈は分からなくとも、多くの者が天皇という存在を大切に思っています。
日本の独特な価値観や天皇について理解ある外国人を増やす努力は、長期的に見れば有意義なことではありますが、今それ程悠長に構えていては、事が成就する前に日本が消滅してしまう可能性も考えながら、その時に合わせて適切な方法を採らなくてはなりません。
今の日本国民に求められるのは、日本の独特な価値観や天皇の重要性などについて、周辺国に暮らす人々が理解できるようになる時まで、日本という国を守って存続させることなのです。
名前だけ「日本国」が生きながらえても、中身が従来の日本とは別物に変化しては存在意義を失いますので、そこの判断を誤らないように気をつけなくてはなりません。
神々と人々の絆を固く結び、神と人が身近にある日常生活を守り存続させることが重要です。
もしも神と人の絆が絶えてしまったら、その時点で日本の存在する価値が失われて、国も失われて存在そのものが忘れ去られて、神と人との絆を結ぶことに意義を見いだせなくなって、どうでもいい無価値な存在に成り下がるでしょう。
日本を守り抜くには、まず日本国民が日本という国を良く理解し、日本が存続することの重要性をしっかり認識するところから始めなくてはなりません。
日本国民は、何故日本には天皇がいるのか、天皇がどの様な役割を担っているのかを知り、天皇に対する理解を深めなくてはなりません。
現状では天皇に対する認識が曖昧であり、天皇の重要性を実態よりも軽く捉える傾向にあります。
天皇はただの象徴では無く、日本を日本たらしめる中心となる存在です。
そこを理解した上で、周辺国にどの様に対処する必要があるのかを考えるので無ければ、現在の様に混迷した時期が続くことになるでしょう。
周辺国に付け入られたり侮られないように、賢く立ち回る必要はありますが、和を乱す行為への恐れから神経質になりすぎて黙ったり遠慮していては、日本を守り抜くことはできません。
周辺国の甘言に惑わされず、神と人との絆が結ばれた日常を守り抜くことにより、「勝利の上に勝利を重ねる」結果に繋がるでしょう。
(第二の封印を開いた)現時点では、まだ決着がついていません。





■ 小羊が巻物の第二の封印を開く

黙示録の第六章第三節~四節で、小羊が巻物の第二の封印を開くと、火のように赤い別の馬が現れました。
その馬に乗っている者は、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられます。
そしてその者には大きな剣が与えられます。
既に以前の黙示録解読関連の記事で述べているように、神の巻物の第二の封印とは『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点』であり、『銀の紐』掲載記事【『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点』が完全開放されました】にて、第二の封印であるバチカンの拠点が開いたことをお知らせしました。
赤い馬に乗っている者が、地上から平和を奪い取る力を与えられるとあるように、巻物の第一の封印を開いて、白い馬に乗っている者が勝利の上に勝利を重ねるために出て行った事により、一度目の神の裁きを終えてから二度目の神の裁きが始まるまでの期間は、それ以前と比べてより多くの人が平和と繁栄を謳歌した時期と言えるでしょう。
しかし、その繁栄の果実を味わったのは一部の地域に住む人々に過ぎず、平和と繁栄の時代にあっても紛争や貧困と隣り合わせで、常に身の危険を感じながら過ごしてきた人もいました。
白い馬に乗っている者の働きかけが思う様に運んでいないので、全ての人々が分け合えるほどの繁栄の果実が適切に分配されずに、一部の人々によって独占されているので、場所によって平和と繁栄の不均衡が生じてしまいました。
また、元々は白い馬に乗っている者が人間に働きかけた結果であり、平和と繁栄の果実を生み出す元となった価値観である、人権意識や人道主義といった価値観も、繁栄の果実を独占する者が本来の意味合いを歪めて、自らの不正行為を隠蔽して公正を装う隠れ蓑に変えてしまいました。
第一の封印を開いたことにより、せっかく参考となる理想像が示されたのですが、その意味を歪めて悪用する人が多くを占めるので、今度は悪用する人々が飾る小綺麗な仮面を剥ぎ取って、その裏に隠された醜い本質を直視する中から、反面教師としての学びを得るための働きかけとなります。
ですから、第二の封印を開くことにより、見た目を綺麗に装うために吐いて来た嘘を暴いて、その奥に隠していた本性を互いに誹謗して争うことになるでしょう。
既にその兆候は現れていますが、現代を生きる私たちに求められるのは、そんな不安定な状態を招いたのは自身の不徳の致すところであると直視した上で、目の前にある問題を解決するために全力を尽くすことです。

以上の、人間視点から見た巻物の第二の封印を開いた件について、霊界の住人はどの様に見ているでしょうか。

曰く、第二の封印を開く時に、バチカンの拠点が開きます。
これは今実際に起きていることです。
バチカンの拠点が管轄する地域(=欧州)の人々が、悪魔の価値観に酔い痴れて行ってきた非道の数々が争いを招いて、自分の身を滅ぼすことになるでしょう。
自分たちのこれまでの行いがどれほど身勝手なものだったのか、その身に降りかかる災いを通じて自覚しなくてはなりません。
どれ程多くの命を虫けら同様に扱って、踏みにじってきたのかを自分の身をもって体験するのです。
彼らには何処にも逃げ場はありません。
逃れることは許されません。
それは自分たちが今まで他の者に与え続けてきたものに他なりません。
そのことを自覚して態度を改めなさい。
今までの行いを全て精算し尽くすまで、終わりの無い苦痛が続くでしょう。





■ 小羊が巻物の第三の封印を開く

黙示録第六章第五節~六節で、小羊が巻物の第三の封印を開くと、黒い馬が現れました。
その馬に乗っている者は、手に秤を持っています。
そして小麦や大麦の価値を定め、オリーブ油とぶどう酒が無くならないように注意を呼びかけています。
既に黙示録解読関連の記事で度々述べているように、巻物の第三の封印とは、「霊界と地上界を繋ぐ米国の拠点」を指すと解釈しています。
黒い馬に乗っている者が、手に秤を持っているのは何故でしょうか。
第二の封印が開いたことにより、表面を綺麗に飾っていた者の醜い本性が露呈し、お互いに相手の嘘を咎めて争うため、国家間や国内での対立が激しくなり、国際紛争や内戦が各地で勃発します。
行き過ぎたグローバリズムの揺り戻しとして、価値観が異なる者同士の対立と紛争が始まり、新たな境界線を引き直した上でお互いに一定の距離を置くことにより、一応の収束を迎えることになるでしょう。
紛争の結果多くの血が流れ、国土が荒廃して食料生産が滞り、各地で食糧不足となるでしょう。
ですから、黒い馬に乗った者が手に秤を持ち、食料の重さを厳密に量っているのです。
ここで人間は、かつては豊富に収穫されていたのに、生活に必要な分量の食糧をより多くの人々に対して適切に分配できなかった経験を踏まえて、食糧生産が減少する時代をどの様に生き抜くかが問われてきます。
しかも、限られた食糧を分け合う相手が、かつて互いに血を流して争った者同士です。
その結果として一応和解すると予想しますが、その様な相手と、只でさえ貴重な食糧を分け合わなくては、お互いの命を長らえることが適いません。
もし限りある食糧を分け合えなければ、今日を生きるために更に多くの血が流れ、更に多くの土地が荒廃することになり、元々限りある食糧が更に目減りする結果となるでしょう。

以上の、人間視点から見た巻物の第三の封印を開いた件について、霊界の住人はどの様に見ているでしょうか。

曰く、黒い馬に乗った者が持つ秤は公正の証となります。
世界にあるものは、行いに応じて公正に分配されなくてはなりません。
これまで不当に多くを独占してきた者は、その非道な振る舞いのために厳正な処遇を受けることになります。
これは霊界と繋がる北米にある拠点が管轄する地域(=北米・南米・豪州)での出来事となります。
これまで我が世の春を謳歌してきた拝金主義者の末路です。
食糧が乏しくなり、金が幾らあっても買えないようになって行きます。
金は万能ではありません。
金は適切に使用すると本来の価値を発揮しますが、不適切な用い方をすると、自分に牙を剥く厄介な存在であることを思い知るでしょう。
金そのものに意志はありませんが、金を用いる人間の意志でどのようにでも変化します。
金に溺れ、金に支配された者の末路です。
全てを支配したつもりでも、実は支配されていたことを思い知ることになるでしょう。
自分たちが神では無いという現実を目の当たりにします。
自分の愚かさを潔く認めなさい。
これが本格化するのはもう少し未来の話ですが、その兆候は現在においても見られるようになるでしょう。





■ 小羊が巻物の第四の封印を開く

黙示録の第六章第七節~八節で、小羊は巻物の第四の封印を開きます。
すると青い馬が現れました。
その馬に乗っている者は「死」といって、この者には陰府(=地獄)が従っていました。
彼らは地上の四分の一を支配し、剣と飢饉と死によって、それから地上の野獣によって人を滅ぼす権威が与えられました。
既に黙示録解読関連の記事で度々述べているように、巻物の第四の封印とは、「霊界と地上界を繋ぐチベットの拠点」を指すと解釈しています。
青い馬に乗っている者は「死」といって、この者に陰府が従っているのですから、この者はチベットを中心とした地上の四分の一の地域で、剣がもたらす戦争や飢饉による死をもたらし、また地上の野獣を使役して人を滅ぼす権威を持っています。
地上の野獣とは、欧州にあって赤い竜を模した第一の獣や、米大陸にあって小羊を模した第二の獣と同じように、地上で悪魔の代理人として活動する獣が新たに登場するのでしょう。
小羊が巻物の第三の封印を開いた時に、人々は荒廃した大地で食糧生産が減少する中、如何にして限りある食糧を適切に分け合うかが問われましたが、少なくともチベットを中心とする地域では食糧を上手に分配できなかったようです。
だからこそ僅かな食糧の独占を目論む者たちが剣を手に紛争を繰り返し、紛争の連鎖が更に土壌の荒廃を加速して食糧生産を滞らせて、飢饉の発生を促進します。
人々がそのような愚かな行動を選択するように、悪魔の代理人である野獣が民意を誘導する役割を果たすので、人々は後戻りのできない泥沼の深みへ足を取られて沈んでゆくのです。
こうして人々がお互いを潰しあって自滅への道を歩むことにより、多くの人が死と陰府に絡め取られてしまいます。
その中でも、自らの愚かさを直視して行いを改める僅かな者のみが、この厳しい時代を乗り越えるチャンスを手にするのではないでしょうか。

以上の、人間視点から見た巻物の第四の封印を開いた件について、霊界の住人はどの様に見ているでしょうか。

曰く、巻物の第四の封印が開くときに、チベットの拠点が開きます。
これはチベットの拠点が管轄する地域(日本を除くアジア全域)で起こる出来事です。
ここにいる生物たちは、自らの生存をかけて争い、奪い合います。
物質界の本質が剥き出しになって、人間を襲うでしょう。
この地域に暮らす人に必要な学びは、物質界の本質を肌で感じ取り、見極めることです。
人間の行動次第で、多くの恩恵や安心を得ることも可能ですが、誤った判断に基づいて怠惰な生活を送り続けると、世界そのものが人間に対して牙を剥くことになります。
常に思慮深く、賢くあるように努めなくてはなりません。
それが出来なければ、人々の住む土地は枯れて全てを失うことになるでしょう。
チベットの拠点が開くまでにはまだ多くの時間がかかりますが、それまでの間に学べることが沢山あります。
その時が訪れるまでの長い間に、一体人間たちがどの様な学びを得られるのか、神様は具に観察しているのです。
その時までに必要な学びを得られなかった者には容赦なく死が訪れて、申し開きをする機会も許されないでしょう。





■ 小羊が巻物の第五の封印を開く

黙示録の第六章第九節~十一節で、小羊は第五の封印を開きます。
すると、神の言葉と自分たちが立てた証しの為に殺された人々の魂を、ヨハネが玉座の前にある祭壇の下で見ます。
彼らは主に対して「いつまで地上に住む者への裁きを行わないで、私たちの血を流した復讐をしないのですか」と訴えます。
そこで彼らに白い衣が与えられて、かつて彼らが殺されたのと同じように、今地上で殺されようとしている仲間の僕達の数が満ちるまで、しばらく待つように告げられます。
ここで地上の様子は語られていませんが、巻物の第四の封印を開いた時には地域を限定して起こった混乱が、さらに地域を拡大して継続しているようです。
既に黙示録解読関連の記事で度々述べているように、巻物の第五の封印とは、「霊界と地上界を繋ぐエルサレムの拠点」を指すと解釈していますので、少なくともエルサレムを中心とした一帯が、極めて深刻な状態に置かれているのでしょう。
その厳しい環境下で、かつてのイエスに見習って、神の言葉と自分たちが立てた証しの為に「異端の者」として殺された者が、数多く存在しました。
しかし、地上で「異端の者」として処刑された者たちは、神の御許に引き上げられて白い衣を与えられました。
彼らは主に対して「神の僕としての務めに殉じた私たちを殺めた者たちへ、いつになったら神の裁きを下すのですか」と急かしますが、主は逆に「あなたたちと同じように、神の僕としての務めを果たした為に殺されてしまう人の数が満ちるまで、しばらく待つように」と諭します。
地上では「神の僕としての務めを果たす」という世迷言を言いふらす厄介者を粛清したつもりですが、実はそうして粛清された者が死後に白い衣を与えられたのです。
そうして白い衣を得られる者がまだ地上に残っているので、主は白い衣を与えられた者が一定の数に達するまで待つように促しました。
いましばらくの間、地上の混乱は止まるところを知りません。

以上の、人間視点から見た巻物の第五の封印を開いた件について、霊界の住人はどの様に見ているでしょうか。

曰く、巻物の第五の封印が開く時に、エルサレムの拠点が開きます。
ここには既に、イエスと同じように自分の身をもって証しとなり、神の言葉を成就するために努めた者が大勢います。
ここに辿り着くまでにそれだけ多くの時間が必要とされて、その間に多くの者が神の御許に辿り着いたことの証です。
神の知恵を地上から完全に拭い去ることは出来ません。
どんな迫害を受けても、知る者達を知らない者達が欺くことは出来ないのです。
既に神の言葉の証を終えた者達にとっては、物質界において十分に神の言葉が証しされたと考えたようです。
そこで神に対して「地に住む者に私たちの血の復讐はなさらないのですか」と問いかけています。
彼らから見ると、それだけ多くの時間が費やされてきました。
ちなみに「血の復讐」という表現は適切ではありません。
悪魔に与する者達に復讐するのが目的ではなくて、神の知恵が正しく機能し、それを犯すことは誰にもできないことを証明するのが目的なのです。
この時点ではまだ証しを立てる者が残されているので、天にいる証しを終えた者達の願いは聞き届けられません。
まだ十分に時が満ちておらず、悪魔が言い逃れできる猶予を与えてしまうことになるので、完全に外堀を固めてからすべてに決着がつけられることを示しています。
なお、この拠点に対応した詳しい状況説明は、旧約聖書を参照した方がよいでしょう。





■ 小羊が巻物の第六の封印を開く

黙示録の第六章第十二節~十七節で、小羊が巻物の第六の封印を開きます。
すると大地震が起きて、太陽が“毛の荒い布地のように”暗くなって、月は血の色に染まります。
次に「イチジクの青い実が、大風に揺さぶられて振り落とされる」様に、天の星が地に落ちてきます。
天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も元の場所から移ってしまう程の天変地異が襲いかかります。
そんな天変地異を目の前にして、地上の王から奴隷までのあらゆる立場の人々が、洞穴や山の岩間に隠れます。
彼らは山と岩に向かって、「主と小羊の怒りから私たちを守ってくれ」と乞い願いますが、主と小羊の怒りの大いなる日が来たのですから、誰がそれに耐えられるのでしょうか。
既に黙示録解読関連の記事で度々述べているように、巻物の第六の封印とは、「霊界と地上界を繋ぐスーダンの拠点」を指すと解釈していますので、これらの天変地異はスーダンを中心としたアフリカ大陸を襲うことになるのでしょう。
しかし、その影響がどの程度の広範囲に及ぶのか、もしくは地球全土を覆ってしまうのかは、現時点では読み解けません。
太陽と月の描写について、これが大規模な大気汚染を指しているのでしたら、全地球的な何らかの影響は避けられないでしょう。
それは天の星が落ちる描写についても、山や島の位置すら変わってしまう地殻変動についても同じことが言えます。
そんな大規模自然災害に直面して、人は王も奴隷も無力な存在にすぎず、自らの誤った行いを悔い改めるのではなくて、洞窟や山の岩間に隠れて、目の前の天変地異をやり過ごすくらいしか思いつきませんでした。

以上の、人間視点から見た巻物の第六の封印を開いた件について、霊界の住人はどの様に見ているでしょうか。

曰く、巻物の第六の封印を開く時に、アフリカにある拠点が開きます。
すると大地が大きく揺さぶられて、太陽の光が届かない程に大気が異物に厚く覆われて、月が血に見えるほど赤い光が反射しています。
そして隕石の落下に伴う災害に遭います。
「山も島も、皆その場所から移された」とあるように、隕石の落下地点を中心とした広範囲で大地が消失してしまいます。
太陽の光も届かぬほどの影響があることを考えれば、当然地上から空は見えなくなり、天が消え去ったように見えるでしょう。
被害に遭った土地に暮らす者は、どの様な立場にある者も皆、災害から逃れるために安全な場所を求めて避難しますが、いざという時の備えを怠っていたために逃げ場がありません。
たとえ準備を整えていたとしても、人間の知恵が通用しないほどの惨状を目の当たりにして、恐れおののくことになります。
この土地に暮らす者が学ばなければならないのは、誰でも当たり前のように受けてきた自然からの恩恵は、予め神が用意していたことをしっかり認識しなくてはなりません。
それは誰か特定の者の為ではなく、全ての者の為に存在していたことを理解しなくてはなりません。
その事を自覚するための災害といえるでしょう。
つまり、今までは特定の者のみが神の恵みを独占して、徒に浪費を繰り返してきたことになります。
その為に、それ以外の者達が神の恩恵に与ることが難しい社会を、人間が自ら作り上げてしまいました。
神の価値観を大切に守って暮らしていれば、必ず必要な物は揃うようになっているのですが、悪魔の価値観に染められた者にはそのことが理解できません。
だからこそあらゆる物を独占して、手元にある物を手放したがらないのです。
神は独占している者達の手から全てを奪い取り、本来ある姿へと戻すために行動することになります。
この地において、悪魔の価値観に染まった人間が身勝手に振る舞える時間が終わり、神と小羊による統治へ向けた働きかけが始まったのです。





■ 小羊が巻物の第一~第六の封印を開くまでのまとめ

今回の記事はご覧のように、小羊が巻物の第一~第六の封印を開いてゆく所を見てきましたが、以前の黙示録解読の際にもある程度の説明を尽くしていましたので、神の視点からみた追記の説明の中には、以前の解読の内容と重なる部分も見られました。
その中でも特に強調しておきたいのは、日本の拠点について述べた第一の封印の項で、日本が抱える問題と解決に向けたヒント、そのような状態に至った背景など、『銀の紐』掲載中の関連記事よりも更に踏み込んだ内容に言及しています。
毎年年初の展望記事や、『神の一手』関連記事から『収穫の時が来た』へ至る直近の国内情勢の変化を、黙示録ではどの辺の内容と関わりがあるかを推測しながら追いかけてゆくと、人間の視点から見た日々の出来事と、神の視点から見た黙示録の関連性が見えてきます。
その様にして、少しでも黙示録に示された神の言葉の意味合いを読み取ることによって、日常生活の中で神の知恵を生かし、神の計画をうまく活用できるように振る舞うことも可能となるでしょう。

今回の記事では、第六の封印を開くところについては冒頭部分の解説に留めましたので、続きは次回への持ち越しとなります。

Silvercord管理人 





なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご覧下さい。

閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/


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2016年9月9日金曜日

[黙示録再解読]:ヨハネが垣間見た神の玉座

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■ ヨハネが天の開かれた門を通る

以前の黙示録解読の際には、四章と五章については殆ど言及しておりませんでしたが、この度は霊界の住人に詳しく解説して頂きましたので、黙示録の文面に沿って細かく見ていきましょう。

黙示録の第四章第一節に、その後(アジア州にある七つの教会の天使に宛てて手紙を出すよう、ヨハネがイエスの指示を受けた後)、ヨハネが見ていると、開かれた門が天にありました。
そこに、ラッパが響くような声があって、ヨハネに語りかけます。
「ここへ上ってこい。この後必ず起こることをあなたに示そう。」、とあります。

これはいわゆる幽体離脱と呼ばれる状態を表現していて、肉体から離れたヨハネの霊体が霊界を訪ねる様子を示しているそうです。
『銀の紐』でも度々『霊界と地上界を繋ぐ拠点』という用語を使用していますが、ここでヨハネは、霊界が地上の真上に広がっていて、霊界と地上界は明確な境界線で区切られていると理解したのでしょう。(※注)
ここで「開かれた門が天にある」のは、霊界と地上界を隔てる境界の門であり、肉体から離脱したヨハネはイエス・キリストの黙示を人々に伝える役目を帯びていたので、その目的の一環として霊界を訪ねる許可を得ました。
そこで霊界と地上界を隔てる境界の門はヨハネの前で開いたのですが、誰もがいつでもこの門を通れるわけではありません。
ヨハネも霊界で目的を遂げたら再び地上に戻って、自分がそこで見聞きした出来事を逐一記録に残さなくてはなりませんので、その目的を果たすまでヨハネは地上に留まることになります。

※注:
霊界の住人の補足によると、霊の世界と物質の世界は重なり合っているけれども、存在する次元が異なるという表現をしています。
霊の世界は上位次元で、物質の世界は下位次元であり、上位次元から下位次元に対しての干渉は可能ですが、下位次元から上位次元への干渉は出来ないので、物質である人間の肉体では霊を見たり触れあうことが出来ません。
但し、人間は霊と物質が結合した存在ですので、人間のままでも霊本来の能力を活性化できれば、ヨハネのように幽体離脱で霊界を訪ねたり、人間のままで様々な霊の存在を認識することも可能となります。
そして、イエスが派遣した天使を認識できるヨハネは霊能力者であり、ヨハネのように霊本来の能力が活性化した人間は、「神の働きかけは天から地上に向けて行われる」と認識していることになります。





■ 天の玉座の様子

黙示録の第四章第二節~三節には、ヨハネが天の門を抜けると、たちまち“霊”に満たされました。
天には玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方が居られました。
その方は碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いています、とあります。

天の門を抜けた先は霊界であるだけに、ヨハネは「たちまち霊に満たされ」ました。
天の霊界で一際目についたのが天の玉座でしたので、ヨハネは一番最初に注目しています。
玉座に座っている方はイエスにとっての主であり、ヨハネにとっての主である神です。
ヨハネはその方を「碧玉や赤めのうのようだ」と述べていますが、碧玉とは微細な石英の結晶が集まって出来た鉱物であり、石英に混ざり込んだ不純物の種類によって色合いや模様が変わります。
めのうも材質は似通っていますが、複数の色が層状に重なっています。
赤めのうですので、ヨハネが見た神は「赤みを帯びた層状の濃淡で覆われており、物体のように向こう側が透けていない状態」ということでしょうか。
玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていたので、緑系の濃淡を帯びた光を発していたと思われます。

黙示録の第四章第四節には、玉座の周りには二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていました、とあります。

次にヨハネが注目したのは、玉座の周りにある二十四の座でした。
二十四人の長老は、勝利を得た者が着る白い衣を着ていますので、彼らは人間としての経験を積んだことがあり、そこで勝利を得て神の御許へ引き上げられたのでしょう。
長老なのですから、イエスが人間として神の言葉を証しする以前に勝利を得て、イエスよりも遥かに昔から神の御許で活動していたようです。
金の冠とは、人々を神の御許に導く為に人々を束ねる者の印であり、黙示録の場合で言うと「神の言葉をイエス・キリストの名によってヨハネに伝えた」ので、長老達はイエスと同じ立場で諸国の人々と関わっていたことになります。

黙示録の第四章第五節には、玉座から稲妻や様々な音、そして雷が起こりました。
また、玉座の前に七つのともし火が燃えていたのですが、これが神の七つの霊です、とあります。

ここで発せられた様々な音とは、黙示録に綴られている物語の中で人間が経験する物事と密接な関わりがあって、それは必ず成就されるのですが、ヨハネは一足先にそれを知ったことになります。
もちろん、ここで成就される物事は七つの霊を通じて行われることであり、七つの霊とはイエスが神から受け取った巻物にある七つの封印を管理する霊なのですから、封印を開くことと関係があるのでしょう。

黙示録の第四章第六節~八節には、玉座の前が水晶に似たガラスの海のようになっていました。
その玉座の中央と周りに四つの生き物がいて、前と後ろの一面に目がありました。
第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようでした。
この四つの生き物には、それぞれに六つの翼があって、その周りにも内側にも一面に目がついていました、とあります。

以前の黙示録解読でも言及しましたが、玉座の前に広がっている「水晶に似たガラスの海」とは、神の玉座がある天の一角から見下ろした地球の姿を表しています。
玉座の辺りから見ると、視界のかなり広範囲に地上が広がっている表現(ガラスの海)ですので、現代ならISSから地上を見下ろした光景に近いのではないでしょうか。
また、四つの生き物とは、特定の目的を持つ四つの集団を象徴的に表していて、四つの生き物の特徴についてよく考えると、それぞれの集団が担っている役割が分かるようです。
四つの生き物に沢山の目がついているのは、その生き物で表される集団を構成する者たちの目であり、例えると、四つのテレビカメラで撮影した映像を、テレビ中継を通して多くの人が同時に見ている様子に近いようです。
四つの生き物の役割は異なるのですが、生き物たちは共通の目的を持っていて、集団毎に役割分担をしているようです。
四つの生き物についている六つの翼は、イエスが神から受け取った巻物の第一~第六の封印と対応していて、それぞれの封印が開く時に、予め生き物たちに与えられた役割を担うことになります。





■ 四つの生き物の感謝と二十四人の長老の礼拝


黙示録の第四章第八節~九節には、その生き物たちは、昼も夜も絶え間なく言い続けました。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」
玉座に座っておられて、代々限りなく生きて居られる方に、四つの生き物が栄光と誉れをたたえて感謝を捧げました、とあります。

四つの生き物に例えられる集団は皆、神の言葉が成就される様子を観察し、自らの経験に基づいて霊的真理の妙に感嘆し感心しており、なおかつ未知の領域が残されている深遠さをも自覚しているので、自然と神の栄光と誉れをたたえずにはいられないのでしょう。

黙示録の第四章第十節~十一節には、四つの生き物に続いて、二十四人の長老が玉座について居られる方の前にひれ伏して、代々限りなく生きて居られる方に礼拝して、自分たちの冠を玉座の前に投げ出して言いました。
「主よ、私たちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。
あなたは万物を作られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。」、とあります。

ここで二十四人の長老が、玉座についておられる方=神にひれ伏し、冠を王座の前に投げ出したのには理由があります。
一つ目は、その冠は長老の目の前にいる神から与えられたものであり、人間が勝利を得る者となるために霊界から人間を導き束ねる役目を担っている証しとしての冠なので、神の前で冠は特定の役目を担っている者という以外に何の意味もないからです。
二つ目は、ここで長老達は冠を必要とする役目を終えることになったので、神に与えられた冠を返却することとなりました。
では、何故長老達が冠を返却することになったかというと、イエスが長老達の役目を引き継ぐことになったからなのですが、その辺りの経緯は黙示録の第十二章で断片的に言及しています。
赤い竜であるサタンが天から地上へ堕とされて、サタンが人間に対して干渉し始めたことによって、長老達から人間に対する働きかけが上手く機能しなくなってしまったため、長老達からイエスに役割のバトンタッチを行いました。
その辺りの事情は記事【『ヨハネの黙示録』では語られなかったこと】で取り上げています。
長老達が神の前で礼拝するのも、神の御許で神の言葉の成就に関わりながら観察し、神の御業と霊的真理の深遠さ、膨大さに感嘆し日々学びながら過ごしているので、自然と神を讃えずにはいられなくなってしまうのです。
日本人であれば、自然災害の被災地を慰問された天皇陛下にお言葉をかけられた被災者の心情に例えると、特にその様な機会に立ち会われた方は想像しやすいのではないでしょうか。





■ 神の巻物と七つの封印

黙示録の第五章第一節~第四節には、玉座に座って居られる方の右手に巻物がありました。
巻物の表にも裏に文字が書いてあり、七つの封印で封じられていました。
そこで一人の力強い天使が大声で告げました。
「封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしい者はだれか」
しかし天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて見ることの出来る者は誰もいませんでした。
この巻物を開いて見るのにふさわしい者が誰も見当たらなかったので、ヨハネは激しく泣いていました、とあります。

玉座について居られる方=神が右手に巻物を持っていましたが、この巻物に書かれている内容が黙示録の原典であり、神が物質界に働きかける際の細かい計画が記されているのでしょう。
巻物の表裏に文字が書いてあるので、表に出す計画(黙示録を通じて人間に明かす部分)と裏の計画(人間には明かされずに神と他の霊達のみでこっそり進める部分)に分けているようです。
更に巻物を七つの封印で封じてあるので、特定の条件を満たして封印を解かないと、この計画は実行されません。
そこで力強い天使は、神の巻物の封印を解いて開く適任者を探して呼びかけますが、その時はどこにも適任者がいません。
今まで、神の言葉を成就するために人間を導き束ねてきた長老達が、神に与えられた冠を外すことによってその役割を返上したため、神の巻物の計画に沿って人間に働きかける者がいなくなってしまったからです。
力強い天使も力尽くで巻物の封印を解いて開けないのですから、他に巻物の封印を解く条件があるのです。
そこでヨハネは泣いてしまうのですが、神の巻物の封印を解く者がいないことの意味を知っていたからでしょう。
いつ何処でそれを知ったかというと、ヨハネが人間として生まれる前に、神の巻物に何が書かれているかを予め知っていて、その巻物の封印を開くために特定の役割を担って生まれたのではないでしょうか。
イエスは神の言葉を証しする為に人間として生まれましたが、役割は違えどヨハネにも神の言葉を成就させる為に欠かせない役割がありました。
だからこそ、現代を生きる私たちは黙示録を目にすることが出来るのですから。
そんなヨハネの役割も、巻物の封印を開く者がいなくては無意味になってしまいます。





■ 長老達の後を継ぐ者

黙示録の第五章第五節~七節には、長老の一人がヨハネに言いました。
「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」
そしてヨハネは、玉座と四つの生き物の間、長老達の間に、屠られたような小羊が立っているのを見ました。
小羊には七つの角と七つの目がありました。
この七つの目は、全地に使わされている神の七つの霊です。
小羊は進み出て、玉座に座って居られる方の右手から、巻物を受け取りました、とあります。

屠られた様な小羊とは、イエスが神の言葉を証しした為に処刑された事績を指しますが、「ユダ族から出た獅子」と「ダビデのひこばえ」とはどういうことでしょうか。
マタイによる福音書の冒頭に、イエスがアブラハムの子孫であり、イスラエル王国を統治したダビデ王の末裔であるとして、系図を記しています。
かつてダビデ王が統治した国は失われ、イスラエルの民による国家は大木を切り倒すように途絶えてしまって、辛うじて往年のダビデ王の事績が歴史という切り株の形で残るのみとなりました。
しかし後にダビデ王の末裔であるイエスが、「ユダヤ人の王」を名乗って宣教活動を行いますので、ダビデの切株に芽吹いたひこばえなのです。
実際に聖書の中には、イエスがダビデの家系から現れた救い主であることを示す記述があちこちに確認できます。
例えばエレミヤ書の第二十三章第五節~六節には、ダビデの為に新しい若枝を起こすとあり、その者は「主は我らの救い」と呼ばれるとあります。
そしてマタイによる福音書第二章第五節~六節にあるように、救い主がベツレヘムで誕生することが、ミカ書第五章で告げられていました。
ルカによる福音書第二章には、皇帝から住民登録をせよと勅令が出たとして、ヨセフがダビデの家系に属しているので、許嫁のマリアを伴って、住まいのあるガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムへ向かった時に、マリアがイエスを出産したことが記されています。
とはいえ、イエスが古の預言者によって示された救い主ではないと見なしている人もいて、ユダヤ教徒は預言者が示した救い主は今だに現れていないという立場です。
イエスが「ユダ族から出た獅子」であるのは、ダビデ王の後に分裂したイスラエルの二王国のうち、民族の一体性を維持して聖書を次代に伝えたのはユダ王国の末裔だったので、度々律法について言及しているイエスはユダヤ教徒=ユダ族の末裔であり、「ユダ族から出た」者といえます。
聖書で獅子という言葉は、強い者や獰猛な者、人間に危害を加える者に対する表現として用いられていますので、「ユダ族から出た獅子」とは、聖書の神を信仰するユダヤ教徒でありながら、当時のユダヤ教の権威に挑戦する危険な存在として台頭した、正にユダ族にとっての獅子に相応しい存在だからでしょう。
イエスがユダ族に取って獅子なのは、ユダ族の信仰が聖書に記される神の言葉から遠く離れていたので、イエスは「原典である神の言葉に戻れ」と訴えただけなのですが、当時のファリサイ人や律法学者にとっては、自分たちの存在を危ぶませる脅威と映ったのです。
更にもうひとつ付け加えておきたいのは、サムエル記上第十六章第十三節で、サムエルによってダビデに油が注がれた日から、主の霊がダビデに降るようになったように、マタイによる福音書第三章第十六節で、イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けると、天がイエスに向かって開き、神の霊がイエスの元に下ってきました。
ダビデが主の霊と共にあったように、イエスは神の霊と共にあったので、神様と特別な繋がり(神様にとって特別な役割)を持つ人間という意味で、イエスはダビデの後継者に当たると言えるのです。
因みに、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時に、天がイエスに向かって開きますが、これは記事の冒頭で僕ヨハネが通った天の門を指しています。

ちょっと長くなりましたが、引き続き小羊についての記述を見ていきましょう。
小羊には七つの角と七つの目がありますが、これは黙示録第十二章に登場する赤い竜である悪魔と対比した表現となっています。
七つの目は全地に遣わされている神の七つの霊とあり、これは神の玉座の前に燃えている七つの灯火を指します。
神の七つの霊は、神の右手にある巻物にある七つの封印の錠であり、『地上と霊界を繋ぐ拠点』を管理するものであることは既に述べましたので、その七つの霊が担う役割を屠られたような小羊の働きとして描いています。
小羊は勝利を得たことにより、神の玉座の前に進み出ることを許されました。
今までの黙示録関連記事でも繰り返し述べてきたように、勝利を得る者は皆神の御許に引き上げられることになりますので、その意味では小羊だけが特別な存在ではないと言うことを改めて強調しておきましょう。
そして神の御許にある巻物を受け取ったのですが、ここで小羊は巻物の封印を開いて、巻物に記された神の言葉を成就させる大任を委ねられたことになります。





■ 四つの生き物と長老達と天使たちの礼拝

黙示録の第五章第八節~十節には、小羊が神の右手から巻物を受け取った時、四つの生き物と二十四人の長老は、竪琴と香のいっぱい入った金の鉢を各々手に持って、小羊の前にひれ伏しました。
香とは聖なる者たちの祈りです。
そして彼らは新しい歌を歌いました。
「あなたは巻物を受け取り、その封印を開くのに相応しい方です。
あなたは屠られて、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から、御自分の血で、神のために人々を贖われ、彼らを私たちの神に仕える王、また司祭となさったからです。
彼らは地上を統治します。」、とあります。

四つの生き物と長老が小羊にひれ伏した時、手に持っていた竪琴と金の鉢とは何でしょうか。
黙示録で竪琴について述べているのはこちらです。
第五章第八節、第十四章第二節、第十五章第二節、第十八章第二十二節の四カ所となります。
そのうちの第十四章と第十五章については、以前の黙示録解読で解説しました。
竪琴とは神の竪琴であり、竪琴の音を鳴らすようにして大水や雷などの自然現象をコントロールするのです。
また、黙示録で金の鉢について述べているのはこちらです。
第五章第八節、第十五章第七節、第十六章第一節~四節、八節、十節、十二節、十七節、第十七章第一節、第二十一章第九節の十二カ所となります。
そのうちの第十五章第七節では、四つの生き物の一つが「神の怒り」が盛られた七つの金の鉢を、七人の天使に渡します。
そして第十六章、第十七章で七人の天使は『神の裁き』として、次々と鉢の中身を地上に注ぎます。
この様に、金の鉢は四つの生き物と長老が地上に働きかける道具であり、七人の天使は四つの生き物の名代として、地上に『神の裁き』を下します。
しかし第五章第八節では金の鉢に香が一杯入っており、香とは聖なる者たちの祈りなので、『神の裁き』の時期を除くと、四つの生き物や長老は地上に向けて祈りの働きかけを行っていることになります。
ところで、彼らが歌う新しい歌は何を歌っているのでしょうか。
「小羊であるイエスは神の巻物を受け取って、七つの封印を開くのに相応しい方です。
何故相応しいかというと、あなたは神の言葉を証しした為に屠られて、死後に神の御許に引き上げられたことにより、人が神の御許へ至る筋道を示しました。
また、人でありながら神の御許へ引き上げられたことにより、イエスは地上の様々な種族・言葉の違う民・あらゆる民族と国民にとって特別な役割を担う資格を得ました。
(今までは長老や四つの生き物が分担して担っていた)神と諸国の民の間を仲立ちする役割を、小羊であるイエスが一手に引き受けることになったのです。
(それ故に長老と四つの獣は小羊の前にひれ伏して、今後は小羊の指示を受けて活動することになったので、)小羊であるイエスは、地上の人々が神の御許に引き上げられる道を辿れるように導き束ねる者となりました。」
因みに、「彼らを私たちの神に仕える王、また司祭となさったからです」の彼らとは、『アジア州にある七つの教会の天使』であり、『霊界と地上界を繋ぐ拠点』の覡役の者であり、小羊は霊界から、七つの教会の天使は地上から、神と諸国の人々の間を仲立ちする者となります。
それが地上を統治することの意味です。





■ 天使たちと天と地と地の下と海にいるあらゆる者たちの声

黙示録の第五章第十一節~十四節には、ヨハネが玉座と生き物と長老たちの周りに、多くの天使の声を聞きました。
天使たちの数は数万の数万倍、千の数千倍でした。
天使たちは大声でこの様に言いました。
「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるに相応しい方です。」
またヨハネは、天と地と地の下と海にいる全ての被造物と、そこにいるあらゆる者がこういうのを聞きました。
「玉座に座って居られる方と小羊に、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、代々限りなくありますように。」
四つの生き物は「アーメン。」と言い、長老達はひれ伏して礼拝しました、とあります。

今まで四つの生き物や長老達がとりまとめていた、人間に対する働きかけ(その象徴として冠をかぶっていた)は、多くの天使たちの協力によって成り立っていました。
そして四つの生き物と長老達が取りまとめの座を小羊に譲り、自らひれ伏して小羊の指揮下で活動する意志を示した様子を見て、天使たちもそれに賛同し、自分たちの活動を取りまとめる新たなリーダーの登場を歓迎しました。
天使たちは、今までの自分たちのリーダーにさえ為し得なかった、神の巻物の封印を開く資格を得た者の登場に喜び、勇み、神の言葉を成就させる新たな段階に入ったことを確認して、心がけを新たにしました。
ここで玉座の周りにいる天使たちばかりでなく、天と地と地の下と海にいる全ての被造物と、そこにいるあらゆる者が神と小羊を賞賛します。
被造物とは物質であり、天の被造物とは天上(目安として地球の重力圏内)に浮遊している物質、地の被造物とは地上にある生物・非生物を含む全ての物質、地の下にある被造物とは地下にある生物・非生物を含む全ての物質、海にいる被造物とは海上と海中にある生物・非生物を含む全ての物質を指します。
そこにいるあらゆる者とは、地球自体の環境や物理法則などを成り立たせるために、地上や地下や海で活動している霊的な存在や、人間以外の様々な生物の活動や成長に働きかける霊的な存在などを指します。
地球は人間にとってのみの学び舎ではなく、人間を含むあらゆる生物に宿る霊にとっての学び舎であり、また地球自体もその内に霊を宿す存在であり、成長に伴って地上の環境が変化を余儀なくされるようですので、そういったあらゆる活動に携わる霊的な存在も、小羊が神の巻物を受け取ったことにより、神の言葉を成就させる活動が新たな段階に入ったことを賞賛し、神と小羊を讃えました。
黙示録は主に人間に対する神の働きかけの計画書ですが、人間が地上から地下に、海に、天にと活動範囲を広げることにより、それらの各地で活動するあらゆる者たちにも様々な影響が及びますので、人間と無関係とは言えないのです。
ここで改めて四つの生き物が「アーメン(そのとおり!)。」と言い、長老達がひれ伏して礼拝することによって、天では神と小羊を中心として、あらゆる事柄を推し進めてゆく方針を確認しました。





■ 小羊が神の巻物を受け取るまでのまとめ

今回取り上げた黙示録の第四章~五章の内容は、以前の黙示録解読では殆ど取り上げていませんので、少々長くなりましたが霊界の住人のコメントを参考に解説しました。
この中で重要なのは「小羊が神の巻物の封印を開く資格を得たので、これからは神の言葉を成就させる活動を小羊が取りまとめてゆく」と言うことです。
実は、この辺りの一連の内容と、小羊であるイエスが取りまとめる『バチカンの拠点』が管轄する欧州地域の歴史に符合する部分があるのですが、ご覧の皆様は気がつきましたでしょうか。
以前、黙示録解読の関連として投稿した記事【『ヨハネの黙示録』では語られなかったこと】では、ギリシャ神話の神々を二十四人の長老として描いている可能性に言及しましたが、今回改めて黙示録を読み進めてゆくと、ギリシャ神話の神々に限らず、北欧神話やケルト神話など、古の神話に記されている神々についても同じことが言えるようです。
民族毎に異なる神への信仰があったのですが、それらの神々が黙示録では長老として描かれています。
かつてはそれでも機能していたのですが、赤い竜が反乱を起こした為に天から追放されて地上に逃げてくると、今後は赤い竜自身を人間にとっての神と位置づけて、全ての人間が赤い竜を唯一の神として崇め奉るように干渉します。
その過程で、黙示録の長老達と地上の各民族との関係が分断されて、もはや長老達では神の御許に引き上げる為に人々を束ねることができなくなってしまいました。
このままでは、神の言葉を成就させる活動が滞ってしまいます。
そこで長老の一人が一計を案じて、長老達の代わりに人間と神の間を取り持って、人々を神の御許に引き上げる為に束ねる者を新しく立てます。
それが小羊であるイエスで、イエスが人として神の言葉を証しする活動をした結果、神の御許に引き上げられました。
赤い竜によって一旦は分断されかかった神と人との繋がりを、イエスが間を取り持つことによって繋ぎ直したのです。
現在はキリスト教会が継続的に赤い竜の干渉を受け続けていて、残念ながら聖書に記された神の言葉やイエスの教えから離れてしまった側面もあります。
それでもキリスト教会はイエスにとって重要な存在である事に変わりありませんので、この度の『神の裁き』を通じて、今まで教会に蔓延ってきた穢れを一掃して、神の言葉を成就させる為にキリスト教会が担う役割を果たせる様に環境を整えるのだと考えております。

Silvercord管理人 





なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご覧下さい。

閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/


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また、コメントを投稿される際は、記事【改めて、ご覧の皆様へのお願いと連絡事項】をご覧下さい。