前回は、『ヨハネの黙示録』の第一章~第三章、アジア州にある七つの教会の天使に宛てた手紙を見てきましたので、今回は第四章からとなります。
■ イエスが担った役目
黙示録の第四章~第五章にかけては、言わば本題に先駆けた前置きの部分です。
その中で、特に言及しておきたい部分は、以下の点です。
第五章第一節~第四節では、神様が右手に持っている巻物には七つの封印があるのですが、封印を解いて巻物を開ける者がいないとヨハネは嘆いていました。
しかし第五節~第七節にかけて、ユダ族からでた獅子、ダビデのひこばえと呼ばれる小羊が勝利を得たので、小羊は神の手から巻物を受け取ります。
この小羊、屠られたような小羊とは、十字架に掛けられて処刑されてしまったイエスを指します。
ここで強調しておきたいのは、イエスは人間として地上での行いの結果、勝利を得たので、七つの封印を解いて巻物を見ることが出来る様になったという点です。
これは第三章のラオディキアにある教会の天使への手紙にもありましたが、私たちも今後の行い次第で勝利を得ることは十分に可能ですし、勝利を得てイエスのようになり得るのです。
しかし現代のキリスト教会では、その様に受け取られていない印象があります。
聖書を教典とする宗教の徒でありながら、その教典の記述とは食い違った解釈を行う者が聖職者を名乗るのは、余り感心できる姿勢ではありません。
ともあれ、神から託された巻物の封印を解き、巻物を開く役割がイエスに委ねられました。
■ 巻物の第一の封印
イエスが巻物の第一の封印を開きます。
第六章第二節には、白い馬が現れて、それに乗っている者が弓を持っていたとあります。
彼は冠を与えられていたので、既に勝利を得ている者です。
それが更に勝利を得ようと出ていきました。
これは一体どういう事でしょうか。
そこで思い出して頂きたいのは、記事【ヨハネの黙示録に託されたメッセージ(その1)】掲載の項目『神の目的及び霊界と地上界を繋ぐ拠点について』です。
世界の六カ所に『霊界と地上界を繋ぐ拠点』があり、その拠点を通じて神様が霊的エネルギーを送る作業によって、人間に対して働きかけていると説明しました。
最初は日本の拠点のみが開かれており、2011年になって二番目となるバチカンの拠点が開かれたと述べております。
ですから、第一の封印とは日本の拠点を指します。
しかし、日本の拠点は『ヨハネの黙示録』が書かれる以前から開かれておりましたし、歴代の天皇が日本の拠点の覡を務めて参りました。
ところが、明治天皇より後の歴代天皇は、それ以前の天皇と比べると、覡として分担する役割の幅が拡大しました。
その様な仕組みの変更は、先に霊界側から環境整備の為の働きかけがあり、それを受けて地上界側で新たな仕組みを成りたたせる為の環境が整えられます。
新たな仕組みが整った後は、霊的エネルギーを放出する霊界側と、そのエネルギーを受け取る地上界側の関係者の連携作業として、定常的な働きかけが行われます。
ですから、白い馬に乗っているのは、日本の拠点を通じて霊的エネルギーを送り出している霊界の住人を指します。
もう一つの解釈として、白い馬に乗っている者は勝利の上に更に勝利を得ようと出ていったのですから、例えれば、イエスが聖書を通じて語った言葉の通りに実践して見せるような働きかけとなるでしょう。
その様な観点から見た時に、国内に向けては道徳教育の一環として『教育勅語』が発布されたり、海外に向けては第一次世界大戦後のパリ講和会議において、日本が『人種的差別撤廃提案』を行ったり、その後には欧米列強の支配する植民地を開放するきっかけとなる行動に出ております。
更に、人権意識や人道主義が社会的影響力を強めるのは、第二次世界大戦後ではないでしょうか。
その働きかけが実を結んだかどうかは別にしても、霊界の住人が意図して働きかけていた方向に日本が導かれ、その波紋が一定の時間を置いて世界中に波及しているように感じるのは、きっと私だけではないでしょう。
■ 巻物の第二の封印
イエスが第二の封印を開きます。
第六章第四節には、火のように赤い別の馬が現れたとあります。
その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられます。
そしてその者には大きな剣が与えられます。
さて、第一の封印の項でも述べましたが、第二の封印とはバチカンの拠点であり、そして火のように赤い馬に乗っているのは、バチカンの拠点を通じて働きかける霊界の住人を指します。
しかしそれでは、バチカンの拠点を通じて働きかける霊界の住人は、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせるように働きかけると読めます。
これは一体どういう事でしょうか。
大辞林によると、平和とは以下のような意味を指します。
①戦争もなく世の中が穏やかである・こと(さま)。
②争いや心配事もなく穏やかである・こと(さま)。
つまり、外国との紛争がなく、国内も治安が安定している状態を指すのですが、そもそも地上は常に平和とは程遠い状態に置かれていました。
巻物の第一の封印を開いた後、確かに一部の地域では目立った国際紛争もなく、国内の治安も概ね安定しておりました。
例えば日本は、戦後復興の時期を通じて徐々に治安の安定化と経済成長を促進させ、以後数十年に渡って平和と繁栄を謳歌した国の一つと言えるでしょう。
しかし、その平和と繁栄が世界中に広まった訳ではなく、常に戦火や流血と隣り合わせになった場所もあれば、旱魃や食糧不足による生命の危機に晒されている場所もあります。
巻物の第一の封印を開いた時に、白い馬に乗った者が勝利の上に勝利を重ねようと出ていったものの、その働きかけは思ったように運びませんでした。
平和と繁栄の果実を謳歌している人々が一部に限定されており、またその原動力となった価値観――人権意識や人道主義と言った価値観も、霊界の住人による働きかけを歪んだ形で人間が受け止めてしまいました。
その為に新たな弊害が現れております。
それは、人権意識や人道主義への理解を深めて実践するのではなく、私利私欲を貪る本質を偽る為の体面・体裁として、人権意識や人道主義などのキーワードが乱用され、それらの言葉が示す本質と実態が大きくかけ離れてしまいました。
そこで第二の封印を開き、人権意識や人道主義という仮面の裏に隠れた本質を表に引きずり出して、その様に体裁を取り繕えなくするというのが、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられるという事の意味でしょう。
第一の封印を開いた時に、せっかく参考となる理想像が示されたのに、その意味を歪めて悪用する人々が多くを占めるので、今度は悪用する人々の仮面を剥ぎ取って、お互いに醜い本質を直視する中から、反面教師としての学びを得て欲しいという観点からの働きかけです。
ですから、第二の封印が開いた時――バチカンの拠点が開かれた時期から、徐々に国内も、海外も治安が悪化してゆくことになるでしょう。
既にその兆候は現れておりますが、現代を生きる私たちに求められるのは、そんな不安定な状況を導いたのは私たちの不徳の致す所であることを直視し、その上で現状の問題を解決する為にどうするのかを考えて、実行することです。
■ 巻物の第三の封印
イエスが第三の封印を開きます。
第六章第七節には、黒い馬が現れたとあります。
その馬に乗っている者は、手に秤を持っているのだそうです。
更に第八節では、小麦や大麦、オリーブ油とぶどう酒について言及されております。
さて、第三の封印とは米国の拠点であり、黒い馬に乗っている者は米国の拠点を通じて働きかける霊界の住人です。
そして黒い馬に乗っている、米国の拠点から働きかける霊界の住人が、手に秤を持って食糧の重さを量っているようです。
これは一体どういう事でしょうか。
既に前の項で説明しましたが、第一の封印を開いたのは過去の出来事であり、第二の封印を開いたのは数年前であり、現在進行中の出来事です。
それに対して、第三の封印以降を開くのはこれから未来の出来事となりますので、現時点では不確定の要素が増してゆきますが、出来る限り想像力を逞しくして読み解いてみましょう。
まず、第二の封印を開いてから、徐々に国家間の対立や国内での対立が激しくなり、国際紛争や内戦が各地で勃発します。
行き過ぎたグローバリズムの揺り戻しとは、価値観の異なる者同士の対立と紛争から始まり、そして新たな境界線を引き直した上でお互いに一定の距離を置くことによって、一応の収束を迎えることとなるでしょう。
しかし、事態はそれだけでは片付きません。
紛争の結果として多くの血が流れ、また国土が荒れて食糧生産が滞る為、各地で食糧不足となるでしょう。
ですから、黒い馬に乗った者が手に秤を持ち、食糧の重さを厳密に量っているのです。
ここで人間は、かつては豊富に収穫されていながらも、必要な分量の食糧をより多くの人々に対して適切に分配できなかった経験を踏まえて、食糧生産が減少する時代をどの様に生き抜くかが問われて来ます。
しかも、限られた食糧を分け合う相手が、かつて互いに血を流して争った者同士です。
その結果として一応の手打ちは、恐らくすることになると予測しますが、その様な相手と、ただでさえ貴重な食糧を分け合わなくては、お互いの命を長らえることが適いません。
もし、限りある食糧を分け合えなければ、更に多くの血が流れ、更に多くの土地が荒廃した結果、ただでさえ限りある食糧が、更に目減りする結果を避けられないでしょう。
霊媒の話によると、米国の拠点が開かれるのは、今からおよそ三百年くらい後のこととなる(今後の展開次第では前後する)そうです。
■ 巻物の第四の封印
イエスが第四の封印を開きます。
第六章第八節には、青い馬が現れたとあります。
その馬に乗っている者の名前は「死」といって、この者には陰府=地獄が従っていたとあります。
更に、彼らには地上の四分の一を支配すること、そして剣と飢饉と死によって、それから地上の野獣によって人を滅ぼす権威が与えられたとあります。
さて、第四の封印とはチベットの拠点であり、青い馬に乗っている者は、チベットの拠点を通じて働きかける霊界の住人を指します。
しかしそれでは、チベットの拠点を通じて働きかける霊界の住人とは死神であり、地上の四分の一に及ぶ地域において、紛争と飢饉による死をもたらし、また地上の野獣を使役して人を滅ぼすと読めます。
陰府・地獄を従えているので、死神は地獄に堕とす為に人の首を刈るのです。
これは一体どういう事でしょうか。
まず、第四の封印を開いた影響がおもに及ぶのは、青い馬に乗っている者が支配する、地上の四分の一の地域に限定されます。
当然ながらその周囲にも影響は及びますし、地上全体が何らかの影響を受ける可能性は否めませんが、最も深刻な影響が及ぶのは、黙示録に指定されている範囲でしょう。
そして、青い馬に乗っている者が支配するのは、拠点のあるチベットを中心とした地域になるでしょう。
ですから、現在は人口大国である中華人民共和国やインド共和国などは、特に大きな影響を受けるであろうと想定されますし、その近隣諸国も少なからぬ影響を免れないでしょう。
彼らは食糧供給が滞る事態になっても、自らの私利私欲の為に限りある食糧を独占し、奪い合って争うことを止めなかったので、その結果として自らがお互いにつぶし合って自滅するのです。
この地域には特に多くの人々が暮らしている為、つぶし合いによって自滅する人は膨大な数に上るでしょう。
その中でも、自らの愚かさを直視して行いを改める僅かな者のみが、この厳しい時代を乗り越えるチャンスを手にするのではないでしょうか。
霊媒の話によると、チベットの拠点が開かれるのは、今からおよそ三千年くらい後のこととなる(今後の展開次第では前後する)でしょう。
■ 巻物の第五の封印
イエスが第五の封印を開きます。
第六章第九節には、神の言葉と自分たちが立てた証しの為に殺された人々の魂を、祭壇の下に見たとあります。
第十節で彼らは、主に対して「いつまで地に住む者への裁きを行わないで、私たちの血を流した復讐をしないのですか」と訴えかけます。
続く第十一節では、彼らに白い衣が与えられると共に、かつて自分たちが殺されたのと同じように、今地上で殺されようとしている仲間の僕達の数が満ちるまで、しばらく待つように告げられます。
地上の様子が語られておりませんので、推測に頼るしかないのですが、巻物の第四の封印が開かれた時には地域を限定して起こった混乱が、更に地域を拡大して継続しているように伺えます。
第五の封印とはエルサレムの拠点を指しますので、少なくともエルサレムを中心とした一帯が、極めて深刻な状態に置かれているだろう事は想像できるのではないでしょうか。
その環境下で、神の言葉と自分たちが立てた証し=神の教えに沿っていたが故に、「異端の者」として殺されてしまった人々が、数多く存在したのでしょう。
しかし、彼らはただ殺されてしまったのではなく、白い衣を与えられて神の御許に控えることを許されました。
第九節で述べている祭壇とは、第八章第三節にあるように、玉座の前にある金の祭壇を指すと思われます。
もちろん、玉座とは主である父なる神の玉座です。
祭壇の下に集っていた魂の集団は、主に対して、「神の教えに沿っていた私たちを殺した者を裁いて、早く復讐をして下さい」と急かすように訴えるのですが、主は逆に、あなたたちと同じように、神の教えに沿っていた為に殺されてしまう人の数が満ちるまで、しばらく待つようにと諭します。
前回投稿した記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】でも言及しておりますが、白い衣を与えられるのは勝利を得た者です。
ですから、祭壇に集う魂達は、たとえ「異端の者」の汚名を着せられて殺されようとも、死してなお聖書に記された神の言葉のままに貫いたので、人間としての死後に勝利を得た者と認められました。
そして神は、勝利を得た者の数がまだ足りないので、一定の人数に達するまで待つように促すのです。
今しばらくの間は、地上の混乱は止まる所を知りません。
霊媒の話によると、イスラエルの拠点が開かれるのは、今からおよそ八千年後のこととなる(今後の展開次第では前後する)でしょう。
■ 巻物の第六の封印
イエスが第六の封印を開きます。
第六章第十二節には、大地震が起き、太陽が“毛の粗い布地のように”暗くなって、月は全体が血のようになるとあります。
続く第十三節には、天の星が地に落ちた様子を、「イチジクの青い実が、大風に揺さぶられて振り落とされる」ようだと表現しております。
第十四節では、天は巻物が巻き取られる様に消え去り、山も島も元の場所から移ってしまう程の天変地異が襲った様です。
第十五節では、その様な天変地異を受けて、地上の王から奴隷から、あらゆる立場の人々が洞穴や山の岩間に隠れます。
そして第十六節で、山と岩に向かって、主とイエスの怒りから私たちを守ってくれと、乞い願うのです。
続く第十七節には、神とイエスの怒りの大いなる日が来たとあり、誰がそれに耐えられるだろうかと問いかけております。
さて、ここまでで黙示録の第七章が終わるのですが、巻物の第六の封印を開いた時の記述は第八章へと続きます。
そこでここまでの内容を前半として簡単にまとめておくと、第六の封印とはスーダンの拠点を指しますので、恐らく天変地異に襲われる舞台の中心は、スーダンの拠点があるアフリカ大陸となるでしょう。
しかし、その影響がどの程度の範囲に及ぶのか、もしくは地球全土を覆ってしまうのかは、現時点では読み解けません。
但し、第十二節に太陽と月についての言及がありますので、これが大気汚染の描写であったとすると、全地球的な何らかの影響は避けられないでしょう。
それは第十三節にある、天の星が落ちる描写についても言えますし、第十四節にある、山や島の位置すら変わってしまうという、地殻変動を暗示する描写についても同様に言えます。
その頃に地上で暮らしている人々の大半は、自らの誤った行いを悔い改めるのではなく、洞穴や山の岩間に隠れて、目の前の天変地異をやり過ごすことくらいしか思いつきませんでした。
さて、第七章に入って第一節~第三節には、大地の四隅に天使が立っているのを見たとあります。
この天使達は、大地の四隅から吹く風を抑えて、大地や海や木に吹き付けないようにしていたそうです。
更にもう一人の天使が、生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上がってきます。
この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使、つまり第一節で大地の四隅に立っていると説明された天使に向かって、こう言ったとあります。
我々が、神の僕達の額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならないと。
そして第四節~第八節に掛けては、イスラエルの子らの全部族の中から十四万四千人が刻印を押されていたとあります。
ところが第九節では、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった大群衆が、白い衣をまとい、ナツメヤシの枝を手に持って、主とイエスの前に現れます。
ここで述べるイスラエルの子らという表現は、単純に「かつて神と契約を結んだアブラハムの子孫」という意味ではなく、どの様な苦境に遭っても神の言葉に沿ってきた者という意味でしょう。
たとえアブラハムの子孫であっても、神の言葉に沿っていない者は天使の刻印を受けられず、逆にアブラハムの子孫でなくても、神の言葉に沿っている者は天使の刻印を受けられます。
ちなみに『ヨハネの黙示録』では、巻物の第七の封印を開くと共に、裁きの時が訪れる構成になっているのですが、霊媒の話によると、第一~第六の封印を開いた時にも、毎回裁きの時は訪れているそうです。
そして裁きの時に先だって、天使が神の言葉に沿っている者に刻印を押して回るそうです。
今はちょうど第二の封印を開いたばかりで、裁きの時と言われる時代が始まったばかりですので、ひょっとすると、今この記事をご覧のあなたの所にも、天使が刻印を押しに訪れているのかも知れませんね。
尤も、仮に天使が皆様の元を訪れていたとしても、霊的能力を使える方でないと確認できないかも知れませんが。
いずれにせよ、イエスが巻物の七つの封印を開く度に、続けて裁きの時代を潜り抜ける仕組みになっている様です。
前回投稿した記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その1)】でも簡単に述べましたが、霊媒の話によると、5月に観測された『環水平アーク』現象は、第二の封印を開いた時に起こる『神の裁き』の始まりを告げる天の印なのだそうです。
また、裁きの時には一体何が起きるのか、それから神の裁きの意味についても、今後投稿予定の記事で説明致しますので、それまで少々お待ち下さい。
続く第十節~第十二節にかけて、神とイエスを称える言葉が述べられます。
そして第十三節~第十七節では、長老の一人がこの様に述べます。
第九節で述べた、白い衣をまとう大群衆は、大きな苦難を通ってきた者で、その衣を小羊(=イエス)の血で洗って白くしたのだと。
それ故に彼らは神の神殿で仕えることになり、飢え乾き、暑さ寒さに襲われる心配もなくなります。
ここで注意したいのですが、これはイエスの死を持って贖罪されるという意味ではありません。
イエスの人生、そしてイエスの死の意味を正しく理解し、迫害に遭うことも厭わずにその行いを見習い、その行いの意味や価値を確信が持てるまでに昇華した状態を述べております。
「何をしても懺悔をすれば許される」とするのは悪魔の教えです。
また、白い衣をまとった大群衆が、神の神殿で仕えることになる云々の部分は、彼らはもはや人間として積まなくてはならない経験を一通り積み終えたので、これからは霊界の住人の一員として、神が人間に対して働きかける作業の一部を分担して担うことを示しております。
それに伴い、彼らが何故これまで人間としての苦難に塗れた経験を積み重ねてきたか、そして神は何を目指していて、その中で彼らはどの様な役目を求められているのかを知ることになります。
霊媒の話によると、スーダンの拠点が開かれるのは、今からおよそ一万二千年くらい後のこととなる(今後の展開次第では前後する)でしょう。
■ 第一~第六の封印までのまとめ
今回は第一~第六の封印が開かれるまでの流れを追いながら、六つの封印とは、『銀の紐』などで以前から述べてきた『霊界と地上界を繋ぐ拠点』であるという点について解説してきました。
この度、じっくりと『ヨハネの黙示録』を拝見してみて、特に第一~第四の封印を開いた時についての記述は非常に簡単でしたので、ちょっと呆気ないと思われる方がいらっしゃるかも知れません。
この文章を書いたヨハネと名乗る方は(イエスが見せた幻を記録したと述べておりますが)、第七の封印を開いた時に重点を置いているようですので、相対的に他の部分は簡単な説明に留めているようです。
やはり『最後の審判』の時だからなのでしょうか。
ともあれ、いよいよ次回は第七の封印を開く時について取り上げます。
Silvercord管理人
なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご覧下さい。
閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/
上記記事の内容についてのご意見・ご感想・ご質問はコメント欄よりお寄せ下さい。
また、コメントを投稿される際は、記事【改めて、ご覧の皆様へのお願いと連絡事項】をご覧下さい。
9 件のコメント:
エネルギーのいる書き込み、ありがとうございます。
ひさしぶりに黙示録を読み直しました。 今回の解釈というのは、今、この地に居る私たちだからこそわかる・・・というか、わかるように話ていただいているということで、これが2010年あたりではきっとなんのこっちゃ?と思う確率の方が高いんだろうな・・・と思いながら読んでいました。こうして解釈をすることの弊害?は、このことはあと何千年先で、これはあと何万年先で・・・とわかってしまったところで、そんなのだと今の自分たちにはどうすることもできない先のことで、関係ないじゃないか・・・と思いがちになることです。本当は、ここでも何度も言われていることですが、だからこそ、今、自分がどう生きるかに集中して一所懸命に、楽しみつつ、できれば幸せと思える生き方をしていくとか、そういうことがより良い可能性を見出すために大切なんだろーな、と思ったりします。
baseheat様
何千年先、何万年先というのは、私たちが直接確認するわけにも行きませんので、「もしかしたら、遙かな未来に、そんなことが起こるかも知れない」程度に、軽く聞き流して下さって構いませんが、ほんの少しだけでも頭の片隅に留めて置いて頂ければ幸いです。
今回の記事で取り上げた部分は、小羊イエスが神から渡された巻物の封印を開いて行くに連れて、順次事態が進行して行く……という、言わば「神の計画」の全体像の紹介ですので、その全体像を踏まえて、今後徐々に、本題の具体的な内容へと切り込んで行く予定です。
日本の神様がたが仰る霊界と地上界を繋ぐ拠点の類の話を読むと霊界から更に力が注がれ何となく未来に対する明るい兆しや希望をイメージしたものですが、今シリーズの管理人さん解釈のヨハネの黙示録を読むと殆どの人間が裁かれ天国への門を閉ざされるような恐ろしいイメージしか湧きません。この二つの違いはどういうところからくるものなのでしょうか。単なる自分の誤解でしょうか。
以前より『銀の紐』をご覧の皆様に取っては、匿名様のコメントにある様な印象を受けてしまっても致し方ないことと思います。
実は管理人も、『ヨハネの黙示録』の解読作業を始めた当初は、匿名様と同じ様な疑問を感じておりました。
しかし、解読作業を進めるに連れて、聖書とキリスト教会が抱えている問題も見えてきましたし、解読を始めた頃に抱えていた疑問の答えも見えてきました。
現在はまだ解読の最中ですが、きっと最後まで解読を終えた暁には、匿名様の疑問についても真相が明らかになるのではないかと期待しております。
思いの外長丁場になりそうですが、最後までお付き合い下さい。
管理人様
コメント、ありがとうございます。聖書が書かれた頃、書物として完成された時代等の背景もあり、もともと各宗教の預言書や民族の言い伝えなどは、それぞれの人々に合わせて基本的には降ろされていると認識していまして(時代が下ってからのことを発信側は考慮に入れているだろうと思いますが、受け取り書き出す者は人間ですしね)、それぞれの民族や国の役割にしたがって、読み取ることになるようなものなのかなと考えています。 お二人とも大変かと思いますが、先の解読?楽しみにしています。
ありがとうございます。シリーズ完結を心待ちにしています。キリスト教文化圏の方にこそ目を通して欲しいと思いますが実際読んだらどのような反応しますかね。
【質問】霊界における結婚や家族の概念とはどのようなものでしょうか。気になるのは複数回転生を繰り返しその度に結婚や出産を経験する霊も沢山いると思うのですが、転生した時、以前の夫婦関係や親子関係は上書きされて無かった事になるのかというところです。また少し考えを発展させて、例えば500年前にある男女が結婚し仲睦まじい人生を終え帰幽しました。男の方は現在地上に転生し地上で新しい女性と結婚しました。女の方は転生することなく霊界で過ごしています。そして新しい地上生活をこれもまた仲睦まじく終えた男女が帰幽した場合、霊界で重婚や三角関係などでややこしい事にならないのものでしょうか。
匿名様
男女の性別は、人間の肉体的な要素になりますので、霊界の住人に男女の性別はありません。
とはいえ、霊にも個性があって、男性的な霊もいれば、女性的な霊もいます。
そして、霊界事情を人間社会と単純に比較できるわけではないのですが、その辺りの事情を解説するにはコメント欄では手狭ですし、この様なテーマに興味をお持ちの方は匿名様だけではないと思います。
そこで、この際ですので、霊界の住人の方に詳しいお話を伺いたいと思います。
霊媒の都合もありますので、恐らく小ネタ枠の扱いになると思いますが、「霊界の住人から見た、人間の家族や結婚について」の見方や、「生前に夫婦や家族であった霊が、その後霊界ではどの様な関係となるのか」などのお話を伺いたいと考えております。
なお、現在は『ヨハネの黙示録』を解読している最中ですが、黙示録関連記事の間のどこかで記事を投稿することになると思いますので、それまでお待ち下さい。
ありがとうございます。楽しみにしていますがのんびり待っておりますのでご負担にならない様お願いします。
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