2014年4月10日木曜日

人によって『三途の川』を渡るイメージは異なるらしい[小ネタ]

先日、霊媒Mと雑談をした時に、「人間が『三途の川』を渡る時に、どの様なイメージとして認識されるのか」という話を聞きました。
『三途の川』というと、以前投稿した記事【「三途の川を渡る」ということ】にて、恐山にある三途の川の状況についてご紹介しましたが、今回はふとしたきっかけから、人によって三途の川が異なったイメージとして認識されるという話になりました。





■ 日本古来の『三途の川』を渡るイメージ

人が死ぬと三途の川を渡ると言いますが、より正確に表現すると、三途の川の向こう岸が死後の世界で、渡し船に乗れる通行手形を持っている者だけが、三途の川を渡ることが出来ます。
三途の川の向こう岸には関所があるのですが、関所を通る通行手形を持っていない人は、その脇にある閻魔様の間に送られて、その後の身の振り方を決めるのだそうです。
大抵の人は、閻魔様の部下の方と相談した後、自ら選択して次の行き先に向かうのですが、一部の我が侭な人は直接閻魔様に説得されて、次の行き先に向かうのだそうです。

日本古来の『三途の川』を渡るイメージは、大まかに述べてこの様なものなのだそうですが、人の生前の生活環境や文化的な背景の影響によって、三途の川を渡るイメージは随分異なって感じられるようです。
では、いわゆる現代の日本人が三途の川を渡る場合は、日本古来のイメージと比べて、何がどの様に異なって感じられるのでしょうか。





■ 現代的な『三途の川』を渡るイメージ

現代的な三途の川には橋が架かっていて、橋の真ん中に自動改札があります。
自動改札を通るためには(Suica的な)通行パスが必要なのですが、パスにチャージされているポイントの量が足りていないと、自動改札が閉じてしまいます。
自動改札を通って三途の川の向こう岸へ渡ると、またしても自動改札があって、通行パスにチャージされているポイントの量が足りていないと、自動改札を通ることは出来ません。
三途の川の向こう岸にある自動改札を通れない人は、その脇にある裁判所的な建物に入ります。
まずは地方裁判所的な場所で、その後の行き先を相談して決めるのですが、そこで納得できない人が最高裁判所的な場所に訴えます。
最高裁判所的な場所で、如何にも裁判長チックな出で立ちの閻魔様が、その人のその後の成長に最も有意義だと考える行き先へ向かうように説得します。

ところで、三途の川を渡る人が持っている(Suica的な)通行パスには、一体どんなポイントがチャージされているのでしょうか。
三途の川の真ん中にある自動改札では、人間が産まれてくる前に予め設定されている寿命と現在の年齢、それから産まれてくる前に予め設定した人生の目的と進捗状況を読み取ります。
年齢が産まれる前に設定した寿命に達した場合、もしくは、人間として産まれてきた目的の達成が不可能になった場合、もしくは既に達成してしまった場合は、三途の川の真ん中の自動改札を通り抜けることが出来ます。
そして、三途の川の向こう側の自動改札を通り抜けるためには、言わば人間としての人生経験値を一定以上にしなくてはなりません。
人生経験値と言っても基準は一つではなく、幾つもの判定基準をすべてクリアした状態になって、初めて自動改札を通り抜ける資格が得られるようです。
例えると、RPGでプレイヤーキャラクターを育成する際に、攻撃力や防御力、体力や精神力など、幾つもの要素をバランスよく成長させる事によって、歩兵クラスから騎士クラスにクラスチェンジ出来る様になります。

そして、三途の川の向こう側の自動改札を通り抜けた人は、人間として生活する経験を通じて成長する過程を終了して、更なる成長を目指して新たな境涯に身を置くことになるようです。





■ キリスト教的価値観から見た『三途の川』を渡るイメージ

さて、ここまでは、時代の変化によって、三途の川を渡るイメージがどの様に異なって感じられるのかを比べてきましたが、キリスト教徒の人が三途の川を渡る場合は、果たしてどの様に認識されるのでしょうか。

キリスト教には『三途の川』という概念がありません。
ですから、当然ながら三途の川はありませんが、その代わりに見上げるほどの高さの巨大な壁が行く手を塞いでおり、その真ん中に大きな門があります。
その門の入口には天使が控えており、門の前に立つ人について、門を通る資格があるかどうかを選別しております。
この第一の門は、三途の川の渡し船であり、三途の川に架かる橋の自動改札です。
そして、渡し船の通行手形や、自動改札の通行パスに当たるのが、門番の天使による選別となります。
第一の門をくぐり抜けると、すぐにもう一つの巨大な壁が聳えており、その真ん中に第二の門があります。
第二の門の入口にも門番の天使がいて、門を通り抜ける資格のある人を選別しております。
第二の門を通る資格のない人は、門の脇にある大天使の間に導かれて、大天使や天使と相談の上、その後の行き先を自ら決めて赴きます。
ちなみに、閻魔様に当たるのが大天使だそうです。

そして、無事に第二の門を通り抜けた人は、その先に待っているイエスと待望の面会を果たすのだそうです。





■ 人間としての経験値が足りなくて、閻魔様のお世話になった場合

閻魔様(キリスト教的価値観では大天使)のお世話になってしまった人は、その後地獄に送られて必要な経験を積まなくてはなりません。
といっても、地獄という境涯があるのではなく、現在私たちが暮らしている人間の世界を『地獄』と比喩的に表現しているようです。
そして、閻魔様やその部下に相談することによって、自分自身の経験不足の点を補って、最も効率よく成長するにはどの様な環境で過ごしたら良いのかを判断して、再び人間としての人生を送るようです。
この転生のサイクルは、人間としての経験値が一定以上になるまで繰り返されます。

場合によっては、閻魔様に相談してから転生した後になって、「こんな筈じゃなかったのに」と文句を言い立てる人もいるようです。
しかし閻魔様は、その人がこれまでに経験したすべての経緯と、その人に足りない経験値を熟知した上で、最も効率的な行き先のアドバイスをしているそうです。
しかも、最終的には自分自身で決断するように導いているそうですので、文句を言い立てられた場合でも、その人が決断した場面をその場で(VTR風に)再現した上で、「あなたが自ら判断したことでしょう」と説得するそうです。
最初は勢い込んで文句を言い立てていた人も、実際に証拠となる場面をみせられて、言い逃れできない状況に持ち込まれるようです。

この様にして、人間としての経験を必要とする霊が存在する限り、時代や文化の影響で感じられるイメージが変わっても、三途の川的なものは人間の生死を分ける存在として機能し、閻魔様は人間経験値の向上に手を貸して下さっているようです。





上記の例は、あくまでも『三途の川』を渡る時に受けるイメージの一部であり、文化的・宗教的な価値観の違いによって、他にも様々なイメージとして感じられるのだろうと考えております。
ですが、それらはあくまでも表面的な印象の相違に過ぎず、本質的な役割や目的については相互に共通性を持っているようです。

Silvercord管理人 





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14 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

三途の川に自動改札だなんて、味気なさ過ぎてがっかりです。
あの世にまで民営化と人件費削減の波が押し寄せているかのようです。
おまけに裁判官のような閻魔様だなんて、スーツ姿に眼鏡をかけ七三分けの髪型のいかにもエリート然とした姿で判決文を読み上げていることを想像してしまい、それで地獄に落とされるのも釈然としない感じです。
せめて都庁展望室のような見晴らしが良い施設が併設されていることを望むばかりです。
この原因は、バチカンの拠点開放に伴う人手不足があるのでしょうか?

Silvercord管理人 さんのコメント...

匿名様

上記記事で注目して頂きたいのは、同じ『三途の川』を渡る際にも、人によって様々に異なったイメージとして感じられると言う点です。
ですから、記事で取り上げた幾つかの事例に対して、匿名様が違和感を抱かれたのでしたら、きっと匿名様が実際に『三途の川』を渡る際には、もっと別のイメージとして感じられる事になるのではないでしょうか。

たらこ さんのコメント...

再びブログが更新されていてとても嬉しいです!
また色々学ばせていただきたいと思っています。
よく臨死体験などで、お花畑で川があって…というお話は聞きますが、まさかその先に自動改札があるとは(笑
霊感のある知人によると、最近の神様(か眷属なのかは忘れましたが)は、
現代人のイメージを受け取って、スーツ姿で手にPCを持って…というかなり現代ぽい格好をしている場合もあると聞いたことがあったので(本当かなと疑っていましたが)三途の川もその人の持つイメージにより、色々な形があるのかもしれませんね。
自分はまだまだ自動改札を通ることは難しそうです^^;;

Silvercord管理人 さんのコメント...

たらこ様

自動改札などのイメージは一例に過ぎませんので、それを関所と表現しようと、自動改札と表現しようと、巨大な壁の真ん中にある門と表現しようと、皆同じ対象を異なったイメージで表現しているという事です。
記事の中で示した例以外にも、人によって様々に異なったイメージとして受け取っているのだろうと想像します。

匿名 さんのコメント...

「要望」
記事の内容とは関係ない質問ですが、今政府が検討している毎年20万人の移民受け入れについて、できれば霊界からのご意見、もしくは管理人様のご意見をお伺いしたいです。以前、こちらの記事で、「日本で、外国人の数が増えればエネルギーのバランスが崩れる」という内容を読んだ事があり(確か、それが阪神淡路大震災にも関連していると記憶しております)今後政府が移民を受け入れた場合、移民(主に中国人だと思われますが)が国内で爆発的に増え、日本のエネルギーバランスも崩れた場合、大震災など何らかのひずみが起こるのでしょうか?またそうなると日本の国柄もじょじょに失われ「日本」という国家が失われた結果、「日本の拠点」としての役割も果たすことができなくなると思われますが、それについて霊界、もしくは管理人様はどうお思いでしょうか?個人的に、移民受け入れには反対の立場なので、政府に反対意見を送ったり、反対の署名、自分のブログに記事として書いたり、意見を聞いてくれそうな友人に伝えたりと出来る範囲で行動はしておりますが、増税の時のように、結局は国民の意見は取り入れてもらえないのではないかという不安も半分あります。

Silvercord管理人 さんのコメント...

匿名様

「日本で、外国人の数が増えればエネルギーのバランスが崩れる」というのは、記事【『将門の首塚』の役割(その2)】及び【『将門の首塚』の役割(その3)】でしょうか。
当時は民主党政権が成立してから間もない時期でしたので、沖縄に移民を入れようとする『沖縄ビジョン』という構想について、その様な事をすると沖縄の楔が壊れて、天変地異のきっかけになってしまうと警告をしておりました。
上記記事によると、短期滞在の旅行者については影響しないようですので、複数年単位の長期在留外国人や永住外国人が急激に増加すると、場合によっては巨大地震などの天変地異に見舞われる可能性が考えられます。

現在、政府は内閣府の経済財政諮問会議で【「選択する未来」委員会】という専門調査会を立ち上げ、そこで人口減少とそれに付随して発生する諸問題の長期的対策を検討しているようです。
こちらでは、各会議で示された資料と議事要旨が公開されておりますので、実際にご覧になった方が、どの様な議題について話し合われているのかが分かりやすいと思います。
まず、政府では何が話し合われていて、どの様な理由から移民の受け入れが議論されているのか、対案はあるのか、リスクは検討されているのか、など、議論の妥当性を検証しながら、移民受け入れへの反論と対案を組み立てて行くと、説得力のある移民受け入れ反対意見を示す事が出来るのではないでしょうか。

管理人の意見としては、『銀の紐』で述べている霊的な側面から見た事情についてはともかくとしても、「労働力としての移民の受け入れ」には反対です。
既に欧州諸国では、移民政策の失敗による民族間の対立や、極右政党の台頭などが報じられておりますし、日本国内にも特別永住者の在日朝鮮人問題などがあります様に、適切な同化政策を伴わない移民の受け入れは、徒に文化摩擦と対立を際立たせるだけで、その為に生じる社会的コストに見合う効果は見込めないと考えております。
しかし、既に「人口が減少する社会」に突入しております。
政府で話し合われているように「何らかの手段を用いて人口の減少を食い止めるのか?」、それとも「人口の減少に最適化する為に社会構造を変えるのか?」という点は、人それぞれの国家観によっても様々な意見があると思いますので、その様な観点からの国民的議論と意見集約が先なのだろうと思います。

現時点での管理人の意見は以上ですが、この問題については、上記「選択する未来」委員会の議事要旨に目を通した後、霊界の住人の皆様の意見を伺った上で記事にまとめようと考えております。
少々お時間を頂きますが、しばらくお待ち下さい。

匿名 さんのコメント...

「要望」を書きました匿名です。丁寧なご返信ありがとうございました。該当の記事は将門の首の記事です。
管理人様のご意見も興味深く拝見致しました。人口減少の原因は色々あるかと思われますが、長引くデフレによる経済状況の悪化により、結婚や産む子供の数を制限せざるを得ないという側面も大いに関係あるかと思っています。移民受け入れの問題は、経済や文化、安全保障など、国家の根本に関わる事柄に大きく影響するがゆえに、もっと国民的議論がなされなければならないと思います。
霊界の住人の皆様にもご意見を伺えるとの事、感謝致します。お手数をおかけしますが、どうぞ宜しくお願い致します。

mro さんのコメント...

初めまして。いつも興味深く読んでおります。
1つ気になったのが、自動改札機・大きな門、いずれも「1つめを通れなかった人」はどうなるのでしょうか。やっぱり地獄に生まれ変わるのでしょうか。
「1つめを通れなかった人」と「1つめは通れたけど2つめが通れなかった人」との間にどのような違いがあるのか、疑問に思った次第です。

Silvercord管理人 さんのコメント...

mro様

「一つ目(の自動改札あるいは門)を通る」と言う事は、そこで「(人間としての)自分の死を受け入れた」事になりますので、そこまで辿り着けない場合は、「自分の死を受け入れる事が出来ない状態」と言えます。
自分の死に納得できなくても、一応「自分は死んでしまったと自覚している」場合は、三途の川の手前の岸の辺りで立ち往生しているようです。
そして、「自分が死んでしまった事にすら気づいていない」場合は、三途の川にも辿り着けずに、言わば浮遊霊として地上付近を彷徨っているそうです。

お初 さんのコメント...

質問です

どの記事に質問したらよいのか、わからないので、間違っていたらすみません。

私は死ぬのが怖いです。
死後の世界はあるのだろうとは思います。
今の自分になる前に、何度か何かに生まれて死んだことがあるはずですよね。
記憶がないのは仕方ないとしても、なぜ経験があるにもかかわらず、毎度毎度こんなに怖くて、死後の世界も信じきることができないのでしょうか。
人間に生まれたのが初めてだからでしょうか?
同じ地球に、同じ人類として何度か誕生と死を繰り返していたら、多少は死への恐怖や不信が軽減されますか?

また、霊媒さんはその能力のためにすんなり信じることができるのでしょうが、管理人さんはどのようにして目に見えない霊の世界というものを信じるに至ったのですか?

私は一度だけ霊を見たことはあるのですが、自分がいつかそうなるのかと思うと、肉体を失って霊だけになるのかと思うと、どうしても半信半疑になってしまいます。

匿名 さんのコメント...

管理人さんでも霊媒さんでもありませんが・・・。書き込みを読んで興味が湧いたので、聞いてみたくなりました。
お初さんは、どうして死ぬのが怖いのですか。理屈じゃないんだろうけど。死ぬことの何が怖いのでしょうか。

お初 さんのコメント...

息が止まっていくのを想像するだけで動悸がしてしまいます。
肉体的な具体的な恐怖はもちろんあります。

でもそれ以上に、死が無だったらと思うと怖いのです。
もし、すべてが偶然だったらと思うと怖いです。
たまたま宇宙が出来て、たまたま地球が生まれて、そこに生命が生まれて、偶然にも知性を持つ人類が誕生して…
それらが何の意図もなく、本当に偶然で、泡のように誕生して瞬く間もなくぱちんと弾けて無くなるのが人の命なのだとしたらと思うと怖いです。
宇宙が広大すぎて、人はあまりにも頼りない感じが怖いです。
寄る辺ない感じが怖いというか…孤独が怖いのかもしれないですね!
私はキリスト教徒ではありませんが、「神はいない」というのが怖いのかもしれません。
日本の八百万の神様たちとは別に、もっと大きな存在があるのだろうと感じていますが、もしそれらがただの私の夢想にすぎなかったらと思うとぞっとしてしまいます。

見守られていたいということなのかな…
「頑張って生きるから、そこで見守っていて!後で褒めて!」
みたいな感じなのかもしれません。甲斐がないのは悲しいしむなしいです。
結局、まだまだ私は本当に幼いということなのかもしれませんね!
見た目は子持ちのおばさんなんですが…

匿名さんは、怖くはないのですか?
最初から怖くないのですか?それとも、克服されたのでしょうか。
参考までに、教えていただけたら私も嬉しいです。

匿名 さんのコメント...

お初さん、こんにちは。質問に答えていただいて、ありがとうこざいます。
子供の頃は闇が恐いとか、死ぬのは今生きているところから離されてしまうとか、痛いんじゃないかとか、苦しいんじゃないかといったところで、怖かったと思います。怪談に出てくる亡者とかのイメージも怖かったし。けれど、生きているのが辛く感じたりする時期があったり、いろいろと生きてきた間で、現世でやらなければならないことがなくなったら、次の世界を見てみたいな~と思うようになりました。あとは、なんとなくなのですが、いろんなことがあっても、この世界の大本となる力と分かたれる事というのは、そうそうないな・・・と感じていて。根拠のない安心感があるのです。それは、朝起きてカーテンを開けた時に見える景色、季節や天気や、その他様々なことから受ける印象なのですが
。たとえば、死が無なのだとしたら、いずれ誰もが無に移行するわけですよね。それで不都合なことがあるわけではないし、それが自然の巡りならば、その中で生きるということは奇跡のような面白さだなと思うのです。日本には神遊びという言葉があり、随神という言葉があります。大いなる宇宙の遊びの中にある無数の命が私達であり、その遊びを共に生きることが許されているというのは、なんだか楽しいなとも思うのです。死というのは生の反対ではなく、命の両面なんだなと感じます。死がなく、どこまでも果てしなく生きなければならない・・・というのは、実はかなり怖いことではないですか。エンドレスに生き続けなければならないって。

Silvercord管理人 さんのコメント...

お初様

霊媒も管理人も普通の人間ですので、死後の世界について確信を持って言えることは一つもありません。
霊媒との意思疎通を図る謎の知的存在(当Blogでは便宜上「霊界の住人」と呼んでいます)が、断片的な情報を伝えてきますので、霊媒が受け取ったそれらの情報をそのまま紹介しています。
霊媒にも管理人にも、今回の人生を送る以前の記憶はありませんし、霊媒が霊界の住人から断片的に受け取る情報以外に、死後の世界の事情を知りうる手段もありません。
とはいえ、分からないからと怖がっていても得るものはありませんので、霊界や死後の世界についてなど、知りうる限りの知識をご覧の皆様と共有することにより、まずは「知らないことによる恐怖を克服しましょう」というのは、『銀の紐』を運営する理由の一つだと考えています。

では、何故霊の存在に確信が持てるのかというと、「生物と非生物の違いを考えた時に、物質以外の霊と呼ばれる存在の関与を想定しないと辻褄が合わない」からです。
人間の死ぬ直前と死んだ直後を比べて、その様に変化する仕組みを物質的な側面から説明できた学者を知りませんし、生きている間は一体性を保っている肉体が、何故死ぬと一体性を失って腐敗・分散するのかなど、人間が物質の集合体との前提では説明できない様々な現象が、霊の存在を仮定することにより説明可能となるからです。
そして、物理現象に法則性のあることが数多の学者によって明らかにされていますし、私たちもそれを自分で確認できます。
星の動きに法則性があるからこそ暦が作られるというのも、「世界の法則性」を身近で確認できる事例の一つです。
そういった身近な出来事をとっても、偶然などは何一つとして存在しないと証明する根拠となります。

管理人が霊の存在に確信を持ったのは、霊媒Mが霊媒能力を覚醒するよりも前のことですが、だからこそ、霊媒Mが霊媒能力を覚醒させる課程に立ち会っても、慎重に「その話に耳を傾けよう」という気になれたのでしょう。
しかも、霊媒Mを通じて語る霊界の住人は、明らかに霊媒Mとは異なる個性を持ち、霊媒Mの知り得ない情報を伝え、時には未来の行く末を断片的に告げますが、とても知的な論理的思考の持ち主です。
その辺りは、実際に霊界の住人と直接会話をしてみなくてはピンとこない部分もあるでしょうが、『銀の紐』の掲載記事をご覧になると、様々な霊界の住人の“人となり”を推測する材料にしていただけると考えています。