今回のお話を伺ったのは、『銀の紐』に初登場となる日本の神様で、霊媒Mは女神様だと述べております。
その神様がどの様な立場の方なのか、詳しくは聞けませんでしたが、今年の日本についての話をしたいとの申し出がありましたので、早速伺うこととしました。
■ 『日本の神様』との対話
管理人:
今、『明治天皇と名乗る霊』より、昨年一年間の振り返ったお話を伺っていたのですが、その話を踏まえて、今年の展望についての話を聞かせて頂けると伺いました。
そこで、話の始めに、今回話を聞かせて頂ける方はどの様な方なのかを教えて頂けますか。
今、霊媒Mと共同作業を行っている霊界の住人の方がいるのですが、その方から見てどの様な関係の方なのでしょうか。
日本の神様:
その者の上司に当たる神の同僚と思ってもらえれば良い。
その様な立場にある者です。
詳しくは言えません。
管理人:
では、去年の話を踏まえて、今年の日本についての話を聞かせて頂けるとのことですが。
日本の神様:
今年の日本の選択――国としての選択が、日本の今後百年に影響を与えることになる。
その様な出来事が起きます。
ただ、そこで「どの様な選択をしたら、どの様な影響が出るのか」というのは、冷静な状況判断が出来る人間には分かるとは思うが、分析できる能力を持つ者以外にはよく分からないかも知れない。
管理人:
その出来事は、内政・外交のうち、どちらの出来事でしょうか。
日本の神様:
外交と考えた方が良いでしょう。
管理人:
きっかけは国内でしょうか、それとも海外でしょうか。
日本の神様:
国内とみた方が良いでしょう。
管理人:
それは、今年になってから新たに生じる問題でしょうか。
それとも、過去に起こった問題がずっと燻っていて、それに今年何らかの決着を付けるという類のものでしょうか。
日本の神様:
過去から続いているものですね。
過去から続いているものに対して、はっきり決着を付けられなければ、はっきりした態度をとれなければ、今後百年の間、これまでの苦しみを長引かせることになるかも知れません。
管理人:
ずばり、それは在日朝鮮人(特別永住者)問題でしょうか。
日本の神様:
在日朝鮮人問題に限らずです。
管理人:
では、移民問題でしょうか。
日本の神様:
日本人の持つ気質によって引き起こされている問題ですので、在日朝鮮人に限らず、どこの国の人間に対してでも起こりえます。
そしてそれは、国内に置いてだけではなく、外交交渉を行う場においても影響が出ますので、そろそろ、曖昧であると言うことは何の解決にもならないことを理解した方が良いでしょう。
その場の衝突は避けられるかも知れませんが、何の問題も解決しません。
管理人:
何となく分かってきました。
今までの日本政府の、何事も曖昧にしてきたままの姿勢ではマズいと言うお話しでしょうか。
日本の神様:
マズいと言うよりも……。
自分達の意思をはっきり示せないということは、自分達の望みを叶えることも出来ない。
一体何を望んでそれを行うのか、その部分がはっきりしていないから、確かに、外の人間から見れば「強く出れば聞いてくれる」「付き合いやすい」と思われるかも知れませんが、当の日本の人達は我慢をしていたり、何か被害に遭うことも起きてしまいますので、何の為に政治を行っているのかを、もっとはっきり認識して活動された方が……。
何が主体なのでしょうか。
国民の生活の安定が主体にあって、その上で何が必要なのか……。
管理人:
国民の生活の安定は結構なことなのですが、その「国民の生活の安定」の中身が、人によって立場によって全く異なっている様に見えるんですね。
政府は「これが国民の生活を安定させる」と信じる政策を推進するのですが、実はある職業の人に取っては生活の安定を脅かす政策になっている場合がありうると思うのですね。
そこの摺り合わせがちゃんと出来ていないから、的外れな政策を押しつけて失敗する場合もあると思うのですが。
日本の神様:
意志疎通がうまく出来ていない、国民と政府の間で。
そして、なぜか、国民の代表であるはずの国会議員と国民の認識もかけ離れてしまっている。
本来ならば、国会議員が議会の場で議論しなければならないことが、きちんと行われていない。
その為に、国民と政府の間を取り持つ存在がいない状態にあるのが、現状であると思います。
管理人:
ここまでのお話しは、国民が判断を誤ると、今後百年の間影響する言うことですが、仮に今後百年の間悪影響を受けたとしても、最終的に行き着く目的地は同じなのでしょうか。
日本の神様:
同じですね。
ただ、(目的地に辿り着くまでの間の)国民の苦労が多くなる。
そうは言いましても、(現在の)成長なりの選択が為されて行くので、どの様な選択が為されたとしても、その経験を通じて学ぶ必要があるものであると言うことには違いないのですが、事前にこうしてお知らせしておくことで、何かそれを活かせることがあればと思って、お話しさせて頂いております。
管理人:
それは、結局その事態になってから、どの様な選択をするのかは人間の手に委ねられると思うので、それに対して今から何かコメントを求める意味もないと思うのですが……。
今後の長期的な行方を左右する決断を迫られると言うことですね。
日本の神様:
そうですね。
それで、今までと同じ様な事をしてしまうと、大変な苦労をしてしまうことになるでしょう。
管理人:
それは、誰かが意図的に、ある特定の方向へ、人々の判断を向かわせようと画策しているようなものなのでしょうか。
それとも、特定の意図が働いているわけではないけれども、日常的なあらゆる出来事に対する様々な判断の積み重ねの結果、その様な状況に追いこまれてしまったのでしょうか。
日本の神様:
誘導されてしまった部分もありますけれども、日々の積み重ねの影響の方が大きいでしょう。
管理人:
誘導しようと意図したのは、誰でしょうか。
日本の神様:
特定のどこかの勢力と言うことではなくて、それぞれの国の様々な思惑によって働きかけが行われているので、そこに対してどの様に対応してきたのか、その積み重ねの部分の影響が大きい。
どの様に働きかけられたかと言うよりも、どの様に対応してきたのかという部分の影響の方が大きい。
その積み重ね。
管理人:
そうすると、働きかけという意味では、特定の立場の人達の影響が、特別に強く及んでいるということではなくて、日本の対応を見た複数の相手に「日本に対してはこの様に動いた方が、自分達にとって都合良くなる」と思わせてしまった。
なので、その様に動かれていると言うことでしょうか。
日本の神様:
むしろ、そちらの方が問題になっていると思いますよ。
(2015年1月8日)
今回の日本の神様のお話をまとめると、「日本は今年、今後百年に影響する選択を迫られる」と言うことでした。
そして日本が選択を迫られるのは、「国内・海外を問わず、外国人との関わりの中で、明確な意思表示が出来るのか否か」という事になりそうです。
この所、「日本(人)は外国(人)に対して、もっとはっきりと意思表示をした方が良い」という意見を持つ方が増えている様に思いますが、それでも日本国民のなかで占める割合は多くないでしょう。
元々は、政府が主導して対外的な姿勢を曖昧にしてきましたし、日和見な方、無関心な方、意思表示の重要性を認識しながら及び腰の方など、考え方や立場の違いによって認識のズレがあって、その辺りの認識の摺り合わせが出来ていません。
しかし今年、いつまでも外国(人)に対する姿勢を曖昧のままに済ませてよいのか、決断を迫られる出来事が起こると、日本の神様は述べております。
実際に、今年中にその様な出来事が起こるのかどうか、今の管理人には知る由もありませんが、いずれにせよ、この記事をきっかけにして「日本(人)が外国(人)に対して、明確な意思表示をする必要性」を考えて見てはいかがでしょうか。
Silvercord管理人
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31 件のコメント:
いつも拝見させて頂いておりますが、初めて書き込みさせていただきます。
日本人の気質の問題という内容を拝見し、以前体験したことを思い出しましたので書き込みをいたしました。
親の影響か、引っ込み思案で子供の頃から相手が自分をどう思うかということばかりを考え、察する訓練をするような滅私奉公のような毎日を過ごしておりました。
その頃の私ならば、竹島のような小さい島、隣の国がそんなに欲しいのならあげてしまえば?きっと国を挙げて感謝してくれるし、日本にも良いことをしてくれるはずと考えていたでしょう。
そしてそうしない日本をいまいましく感じていたでしょう。
親のマインドコントロールから逃れて数年後、広い世界が知りたいと一人でいろいろな国に行きました。
レバノンの南やイラク戦争時のヨルダンの東地域などの少々危険な地域にも行きました。
(実際はその地域はそれほど危険ではありませんでしたが、出会う人には注意が必要と思いました)
現在ISISがいるラッカはアサド湖に浮かぶ世界遺産のお城があり、チグリス・ユーフラテス流域の豊かで風光明媚で安全な場所でしたので今は悲しく思います。
旅ではさまざまな国で人とのやりとりを経験し、「察して」とか、「思いやる」という言葉は自分に良い事は全く無いということをしりました。
察しても思いは帰ってこない、思いやったら酷い目にあう。
そのような経験を何度も繰り返し、ようやっと自分のしたいこと、気持ち、買いたいもの、欲しいものを相手の立場を考えないで言えるようになりました。
そうじゃないと自分の思うような旅をつづけられなかったからでした。
相手の事を思ってるんだと、優しい振りしながら「私のやりたいことを察してよ」という傲慢な考えがあったんだなと気がつきました。
普通の方から見ればなんだこんなこと、と思うかもしれませんし、日本政府はそんなに程度は低くないと思いますが、相手の事を思いやるという美徳は(簡単に察することが出来ることなら通じる国もあるでしょうけど)日本の中だけで通用することなんだろうなと。
これはカルチャーショックそのものでした。
これに気がついてから旅はとても楽しいものになりました。
市場のどこにも値段が出ていない国なら物を一つ買うにも闘いのようなもので、
一つのものを買うのも数日かけることもあり、交渉中に周りに人垣が出来ていて値段が決まれば見物人から拍手が起こることもありました。
実家で旅の報告をすると、まだマインドコントロールされている弟に「何がそんなに楽しいのか。そんな面倒な旅のどこが面白いのか。」と言われました。
竹島の事を聞いたらやはり、「そんな小さい島くらいあげたら。」というので、「竹島をあげたら、ほらやっぱり日本が悪かったんじゃないかと言われて、謝罪と賠償までさせられ、次は対馬だ九州だって言ってるからそれもよこせ。日本が悪者なんだからと言われるぞ」と言ったら、「そっか…」と言ったきり、黙って考え込んでいました。
日本人の人を信じることや相手の気持ちを察することは良いことだと思うのですが、そのような事をしたところでわからない国、人々のほうが実は多いことをふつうに日本で暮らしている日本人の多くは知らないのでは思います。
そして政府がしていることの意味が解らない人も多いのではと。
これまでの政府は自分の国にとってどうかより、まず相手国の立場を考え、それから日本がその対応をした場合に日本国内でどう対応したらよいという流れになっていないか。
日本国民が我慢することが多いのではと思います。
それについて納得できる説明もあまり無い。
まず国益に沿った長いスパンでの戦略を考え、こうしたらどうなるという考察をしないとならないと思いますが、個人の思惑が入りすぎるのか上手く行っていないのではと思います。
お読みいただきありがとうございました。
長々と自分語りし、お目汚し申し訳ございませんでした。
上記匿名様
はじめまして。baseheatです。
察する、思いやるという行動は、これからの人間にとっては大切なことだと思います。ただ、相手があってのことですので、相手がどういう方かをきちんと把握したうえで、察したり、思いやったりした結果を表明していくことが、「阿吽」が通じない方々に対しての配慮だと思います。そうでないと、察する、思いやること自体が、相手にとっても、ひいては自分にとっても、身勝手な行動になるんだなと、最近通説に感じています。
匿名様
自分も若かりし頃欧州の方に数カ月語学留学した経験があり、匿名様が言わんとすることはものすごくよくわかります。自分の意見をしっかりと言わない人間はむこうでは非常にバカにされます、というよりお前はばかかというようなあからさまな言動をとられます。日本人の美徳がむこうでは無能扱いということに非常な衝撃を受けたことを匿名様の文を読んで思い出しました。それでも、ときどき心が通じ合える外国人に出会う事があって救われたような気分がしました。
今こういう時代になってきて、日本人の美徳というものも少しは世界に通用するのかなという感じがしますが、まだまだ一般的ではないのでしょうね。やはり自分の意見をというか考えをしっかりと持つことが大切な世の中になってきてるのだと思います。日本人はムー大陸の波動が強いそうなのでどうしても言葉に表さずとも察してくれよとなるのでしょうね?
宇宙人の波動に一番近いと言われる日本人
貴重な体験をされた匿名様のお話ありがとうございます。きっとそれが宝物になると思います。大切にされてください。
この記事は1月8日に書かれているので今だとどうしてもISISの事なのだろうと思ってしまいますが、このたびの事件での日本人の一般論は「自己責任」でしたね。おもに左翼の方々が法外なお金を払ってでも人質を取り戻せというような論調で、なんか時代遅れというかーーー国益を考えてないと言うかーーーお金を払えばさらにこれまでのように日本人が人質にされる可能性が高くなってしまうと言うことに考えが及ばないという、はっきり言ってしまえば左翼はおバカが多いのかという事が焙りだされてきたような気がします。マスコミのおバカな煽りに騙されずに冷静な判断の人が増えた様な感じがしたのは自分だけでしょうか?
匿名様
貴重な経験談を拝見致しました。
管理人の海外経験は短期間の観光旅行程度で、旅行先の国の人となりを実感できる程の体験はなかったのですが、それでも日本とは異なる様々な物事を興味深く見聞した記憶が思い起こされます。
さて、今回の記事で取り上げられているテーマは、以前より『銀の紐』でも度々取り上げられており、管理人が意識して来たテーマでもあります。
匿名様が仰る様に、日本では美徳とされたり当たり前と思われる慣習も、外国人には理解されなかったり、日本人の想像を超える反応を返される場合もあるでしょう。
特に、「相手の気持ちを察する」ことに価値があると考えるのが日本人だけである場合、外国人との関係が永遠にすれ違い続けて、日本人が一方的に神経をすり減らしてストレスを溜め続けることになります。
これが「お互い様」という意識を共有できる間柄であれば、お互いの人間関係を心地よくスムーズに結ぶ為の知恵なのですが、相手との価値観が異なっていると、「相手の気持ちを察する」側が一方的に譲り続けることになってしまいます。
これを「相手の気持ちを察する」という価値を理解できない人から見ると、自分が相手に対価を要求したわけではないのに、勝手に相手が過剰なサービスを提供している様に見えます。
そして、その人の価値観で説明できる様な理由を勝手に見つけて、「相手の気持ちを察する」側から見ると予想外の思い込みをしてしまいます。
例えば、「自分の方が相手より立場が上だから優遇されているのだ」とか、「あいつは悪いことをしたから贖罪の意味だろう」などなど…。
その辺りの行き違いが、日本人にとっては我慢の限界に近づいていると言うことなのでしょうか。
ただ、ここで強調しておきたいのは、「相手の気持ちを察する」のは日本人が自主的に行っているだけで、誰か他に責任を追及する様な物事ではないと言うことです。
「相手の気持ちを察する」という価値を理解できない人と接するのでしたら、一方的に自分の身を削って相手に貢ぐ結果になる可能性を考慮して、それなりの対応を考える必要があると言うことでしょうか。
――ここまで書いてきて、「相手の気持ちを察する」と言うのは、実はとんでも無い悪弊の様な気がしてきたのですが、本当のところはどうなのでしょうね。
相手の気持ちを察する「思いやり」が、
「遠慮」「気兼ね」「卑屈」から来ているなら悪癖かもしれませんが、
愛情から来ているのなら、それは素晴らしい事だと思いますし、
私も大切な事だと思います。(動物でもやります。)
それが出来る事を誇りに思って良いのではないでしょうか・・・?
と、ちょっと私は思いました。
管理人さんは、どうして「相手の気持ちを察する」と言うのがとんでも無い悪弊(悪癖?)の様な気がしてきたのでしょうか。
ひまわり様
「相手の気持ちを察する」ことが愛情から来る場合は、確かにあります。
例えば、きちんと意思表示が出来ない子供や赤ちゃんに対して、親や周りの人達が「相手の気持ちを察し」ないと、生命に関わる危険な状態のまま見過ごされてしまいかねません。
同じ事は、病気や怪我などで、自分の意思表示がきちんと出来ない人の世話をする際にも言えます。
所が、子供がやがて成長して、自分できちんと意思表示できる様になった時に、「相手の気持ちを察する」ことが当たり前の環境が、人によっては弊害となる時もあります。
実のところ、「相手の気持ちを察する」のはある種の先天的能力ではないかと感じていて、日本人の中にも「察しのいい人」と「察しの良くない人」がいます。
そして、生まれつき「察しのよくない人」が、何らかの訓練を重ねて「察しの良さ」を身につけると言う話も、少なくとも管理人は知りません。
そこで、もともと「察しのいい人」と「察しのよくない人」がいるのに、「相手の気持ちを察する」ことを前提とした社会が築かれてしまうと、その社会を心地よいと感じる人もいれば、居心地が悪いと思う人も出てくるでしょう。
更に、「相手の気持ちを察する」際には、気持ちを察する本人の主観的な思い込みの入り込む余地が大きくなりますので、「相手の気持ちを察した」つもりなのに、実は相手にとっての迷惑行為となってしまう場合もあります。
ですから、「相手の気持ちを察する」前に、まず相手の意見を聞き、そして自分の意思表示をして、食い違いがあったら対話を通じて相互理解を深める方が、「相手の気持ちを察した」筈なのに、双方の食い違いが修復できなくなるまでエスカレートする事態は避けられるのではないかと思います。
「相手の気持ちを察する」のも使いどころをわきまえないと、却って逆効果になりかねませんし、その為に日本は随分と余計な負担を背負い込んでいるのではないでしょうか。
「相手の気持ちを察する」を完璧にこなせたなら、そもそも齟齬は起きえないと思います。なぜなら自分がこのような行いをすれば相手は増長し、これでは相手の今後の為にならないというところまでおもんばかる事が出来て初めて「相手の気持ちを察する」事になるからです。日本人同士だとそのあたりの解釈まで共有できているからいわゆる大人の対話というのが成立するのでしょう。
一番わかりやすい「相手の気持ちを察する」とは「親目線」だと思います。次の子供の一手を先読みした上で必要な施しを行う。この先読みが出来なければただの甘やかしや虐待になってしまいます。これを「上から目線」といっていいでしょう。
ご先祖様の培ってくれた国體により日本人は親目線という力を持てています。でも親の心子知らずというのが世の常で、しんどい事もあります。しんどいけど相手が成長した時の嬉しさは一入です。本当の親子関係でもないのだから、しんどい事を拒否して親目線を放棄する自由もあるはずなのにそうしたくないからこうやって議論するわけですが、こうなると解決策は自分自身を変えるしかなく、自分は親目線という大きな力を行使できるのだという責任をもって、愛情を注げる相手を見つけるしかないと思います。
baseheat様
概ねひまわり様宛のコメントの通りなのですが、「相手の気持ちを察する」ことに価値を見出しているのが、現状では日本だけで、外国には通用しないというだけでなく、日本が余計な負担を背負う原因になっていると思います。
ですから、今後も外国との付き合いを続けてゆくのでしたら、この点を修正しないと自滅の引き金となります。
また、以前どこかの記事で、日本は「良かれと思って」朝鮮王朝を併合し、身銭を切って近代化の為に尽くしたのに、今では恨まれ、妬まれ、貶められる対象となっている点について、幾ら相手に「良かれと思って」の行為でも、それは独りよがりの勝手な思い込みに過ぎなかった――そんな話をした記憶があります。
実は「相手の気持ちを察する」のも、予め相手の意思を確認した上で行っているわけではないので、独りよがりの身勝手な自己満足となっているのではないか……そんな疑問が首をもたげるのです。
匿名様
「親目線」は結構なのですが、話の発端である上記記事で述べているのは、日本と外国の関係、日本人と外国人の付き合い方についてです。
その「親目線」が、親と子の間で作用している分には、それ程大きな問題にはならないのかも知れません。
しかし、その「親目線」を、日本人と外国人の関係に持ち込んでしまうのは誤りなのではないか、それは日本に取っても外国にとっても良くない結果をもたらしているのではないか、と言う疑問を感じるのです。
こちらのコメントでは、「親目線」を持っているのは日本人で、外国人はその「親目線」に見守られる立場になると思いますが、当の外国人に言わせれば「勝手なことを言うな」「余計なお世話」といった所でしょう。
当たり前ですよね。
外国人は日本人の子供ではありませんし、日本人は外国人の親ではないのですから。
察する能力は、観察や過去のデータの蓄積から生まれる物でもありまして、単に先天的な能力というものではありません。配慮というのも察する能力の一端です。思いやるという行動については、親から教わったりするようなことでもあります。生まれつきではなくて学習訓練でもある程度は身に付くものだと私は経験的に思っています。
上記のことは管理人さんが危惧することを否定するものではありません。現在問題となっている、お人よしな日本の在り方についていえば、日本が世間知らずであったため、もしくは周囲から良く思われよう、規範となるような行動をしようという意識が強いせいか、相手の習慣、常識までは考慮せずに、察したことについて自分たちの思い入れや慣習の行動のみに終始した結果だと思います。
より深い行動観察や意見交換などもして、相手のことを真に理解し、そのうえで察したこと、思いやったことをどう行動に移すのかを決めていたら、大分違っていたでしょうし、現在求められていることというのは、そういうことだと思います。
子供は近視眼的にしか物事を見る事が出来ませんが、親は更に大きな視野で子供を見守る事が出来ます。視野が広ければ先読みができる。子供たちの選ぶ道に余りにも危険な未来が予見できれば引き止めるでしょうし、より良い未来を選択するよう誘導することも出来ます。神様方が我々より広い視野をもって我々にアドバイスをしてくれるのと似た感じだと思います。それを親心と言って差し支えは無いと思います。
最初の匿名さんの書き込みの意図を汲んでもう少し本質的な部分へ掘り下げると、利他的に生きる者が利己的に生きる者によって翻弄されるのって不公平じゃないの?それなら利己的に生きた方がいいんじゃね?って事だと思います。利他的に接してるのだからあなたも利他的になってよっていう利己心ですね。
人間である以上利己的部分を完全に排除できないのだから、不完全な人間同士頑張ろう、できるだけ許し合おうとしか言いようがない。
親子関係てのは利他的精神を育む事が正当なものであることを学ぶための最小単位だと考えたので親目線の話をさせてもらいました。あとはその尺度をどこまで拡げる事が出来るかという器の問題だと思います。
baseheat様
結びの部分は仰る通りで、やはり直接意見交換をしないと、相手の考えを確認できませんよね。
「相手の気持ちを察した」時点では、自分自身の想像の域に過ぎなくて、その想像の正否を確認していないのですから、時と場合によっては、一方的な思い込みの無理強いにならないとも限りません。
一連のコメントをご覧の方の中には、「何故管理人は「相手の気持ちを察する」ことにしつこく拘るのか?」と疑問に思う方もいらっしゃるかも知れませんが、現在の日本が外国との間で抱えている様々なトラブルの原因の一つがここにあって、改善の余地があるのではないかという問題提起とご理解頂ければと思います。
匿名様
利己と利他については、以前投稿した記事【危機感を煽られた国民が、再度選択を誤る】のコメント欄にて、管理人が意見を述べております。
簡単にまとめると、利己は自分優先、利他は自分と相手の関係性重視で、更に利己と利他を包含する俯瞰視点重視とも言えるものがあると考えています。
上であげた問題についても、俯瞰視点についての理解を深めるの中に、何らかの解決策が隠されていると思うのですが、今は残念ながら模索している途中です。
「相手の気持ちを察する」ことについて、2015年1月25日 14:20:00 JSTに投稿された匿名様の「親目線」と言う考えから、今まで疑問に思ってきたことが何となく納得できました。
私はどちらかと言うと相手の気持ちを察しない方で、第三者から時々親目線というか、余計なお節介を焼かれてうんざりすることが多かった口です。
「親目線」を発動する人は、自分が広い視野を持っていると勘違いしており、多段階のステップを処理する過程を意識して行動するという考えが足りない場合が多いと思うのです。
自分にとっては多段階のステップの途中のステップの1つを処理しているだけであり、当該ステップを処理しただけでは行動が完結しないけれど、それは次のステップに繋げることを前提としていることが分かっているのに対し、善意の第三者は、当該ステップだけで完結するものと勝手に察して着地点に至らない場所で完結する提案をしてくる、時には押し付けてくると言う場合があるように思うのです。
若いころは、そのような提案をしてくる善意の第三者の存在は、自分に対し敵意を持っているか意地悪をしているのではないかと疑い、険悪な関係になることもありました。
現在ではなんとなく、そのような提案をしてくる善意の第三者とは、単に多段階の手順を踏むことを理解できないかわいそうな存在ではないかと思うように至ったのですが、なぜそのような狭い視野で余計なお節介を焼くのか意味が分かりませんでした。
そのようなお節介を焼きたいと考える動機は「親目線」であり、それを受け入れない人に憤慨する心理が「親の心子知らず」という考えなのかと思います。
もしかしたら違うのかもしれませんが、私に中ではなんとなく納得がいきました。
100%純粋の親目線を実行できているのは大霊(世界の設計者)だけだと思うのです。私たち人間はもちろん、こちらで色々アドバイスを下さる神様方であってもきっと試行錯誤の修業中なのですよ。
人間として転生し修業する資格があるのにどうしてそれくらい分からないんだという不満もあるでしょうが、それを許す事またその意義を含めて学ぶ事が人間の境涯だと思います。
万人に対しこれを許す器量、諭す力を手にすることが出来ればきっとこの地上界から解脱し神様と呼ばれる地位を手にする事ができますよ。
匿名様
管理人も、匿名様のご意見は概ね正解なのだろうと思います。
その様な行き違いが日本と外国の間にも生じていて、その為に日本が余計な負担を背負う原因になっているのではないでしょうか。
衣食足りて礼節を知るという言葉や貧ずれば鈍ずるという言葉があります。今日明日を生きる事に不安があるようでは国家百年の計といった大局的な目標など考える余裕も持てないという現実問題があります。かと言ってその一方、公務員のように免職されない限りは天寿により死ぬまで死ぬことを免れる保証を受けた人、資本家といったお金持ちたちが真面目に国家百年の計を案じてるのかと言えばそのようにも見えません。
でも本当に良い国家を築くには、明日生きられないほど貧しく者こそ国家の将来を案ずる(同じ苦しみを持つ同胞がこれ以上増えない様になど)高貴な志が必要であり、理不尽な死を免れた人達こそ、死を恐れる人達を救ってやる慈しみの心が必要だと思います。
これらの精神こそが内政や外交の諸政策というテクニックを議論するテーブルの土台でなければ、結論はトンチンカンな方向へ向かう事になるのだと思います。
またこれらの精神を他人に強制する事も出来ないし、強制する類のものではないので結局はそれぞれが気付くまで見守るしかないのですよね。ただし真理から遠ざかれば遠ざかるほど痛いしっぺ返しがやってきて、いつかは嫌でも気付かされ、自ずと正しい方向に向かわされるという巧妙な仕組みはとても良くできてるなと思います。
生まれ持ったもの含め全ての自業自得を覚悟すれば自分の煩悩や周囲の欲望に翻弄されながらも割と幸せに生きていけるものなんだなと実感しています。
匿名様
本当に良い国家を築くには、全ての国民が目的意識を共有できること、そして目的を達成する為に役割を分担して、目的の達成に必要な施策を着実に実行してゆくことが重要だと思います。
ところが、国民の中に「明日生きられない程貧しい人」がいると、そもそも目的意識の共有が図れません。
「明日生きられない程貧しい」のですから、ましてや自分に関わりのない出来事や、遙かな未来の国家の行く末など、気にかける心の余裕はありません。
その様な人々には、今日明日の不安を払拭する支援を施して、一息ついて将来について考える心の余裕を取り戻してもらった上で、良い国家を築いてゆく価値と可能性などに目を向けてもらわなくてはなりません。
今も一応その様な支援の仕組みはありますが、運用が適切でない為に、支援を必要としている人の元に行き届かなかったり、逆に制度を悪用する人々への対策が不充分で、きちんと機能しておりません。
本当に良い国家とは、全ての国民が日々充実した生活を送り、その中から満足感を得られる社会を築いた国家であると思いますので、「明日生きられない程貧しい人々」が見捨てられるのでしたら、その国の国民には本当に良い国家を築く気がないと言うことなのでしょう。
お礼が遅くなりました。ご高察ありがとうございます。
我が国の国会運営を見て思うのは泥仕合です。政府対与野党の協議を見て思うのがプロレス的ショービジネスです。
普通こんないい加減なやり取りでは国家として早晩破綻してしまいそうなものですが、それなりの形を保ち続けそれなりの繁栄をしているのはなぜか。
それは良くも悪くも官僚依存型政治だからだと思います。頭の良い彼らは物事を論理的に捉える事ができます。どうすればどうなるかという予見能力は我々凡人を遥かにしのぐ力を持っていると思います。そんな彼らに依存するからこそ自民党に限らず社会党や民主党が政権を取ってもそれなりの体を保ち続ける事が出来るのだと思います。
しかし彼らも人間ですのでエリート意識や己の欲を制御したり、また優秀であるが故に寄らば大樹の陰といった集団心理を克服する事や組織の自浄は困難なのでしょう。官僚の中にも例えば中野剛志さんのように己の能力を自己保身の為でなく我々国民の為に注いでくれようとする立派な方もいらっしゃいます。しかし彼は完全に閑職に追いやられています。その姿を見る同僚たちもきっと己の良心と日々の糧という保身の間で葛藤している事でしょう。
技術的、論理的な事を考えさせれば東大首席で固められたような官僚組織に勝てる訳ありません。その能力はむしろ世界に誇れるものだと思います。あとはその道具を使う事を委ねられた政府や国民に選ばれた国会議員は私心を滅し良心に従って立派な能力を発揮しようとする官僚をちゃんと守ってやることがこの国をよくする一番楽な方法ではないかなと考えます。
匿名様
仰る様に、国会は酷い状態ですよね。
そんな国を支えてきたのが政府の官僚であり、「官僚依存型政治」に善し悪しがあるのもその通りだと思います。
そして、官僚が国政について主導権を握っているのは、国会に提出される法案の多くが閣法だからだと考えています。
閣法とは内閣提出の法律案ですが、その法律案は内閣閣僚が管轄する行政機関の役人が作成します。
行政機関は担当業務ごとに省庁を分けていますが、基本的には特定の業務を担う省庁が、自身の担当業務の範囲内で、現行制度における問題点の修正や、社会の変化に伴って新たに必要となる制度の提案を、法案として国会に提出し、国会審議を経て法律として制定されると、今度は省庁がその法律に則って職務を遂行します。
実務を担う役人は、自身の担当業務について詳しいのですから、その役人が法案を作成する仕組みは妥当である様にも見えますが、実はここに問題があります。
法案を作成する役人は、自身の所属する省庁の立場から見た最適な制度を法案化しますが、特定の省庁にとって最適な制度が、他の省庁にとって弊害となったり、国家全体の運営という視点から見ると、必ずしも最適とはならない場合があります。
国益=省益の関係が成りたつ制度であれば構わないのですが、国益≠省益の指摘を受ける場合もあります。
そこで、複数の省庁に跨がる案件について、今は「次官連絡会議」などを通じて調整を図るなど、省庁間の齟齬を来さないような仕組みは用意されています。
とはいえ、それは省庁間の省益同士の衝突を回避する為の調整とも言えますので、国政全般を俯瞰した時に、その調整が最適であるか否かの検証が不充分なのではないかと感じています。
ある政策を立案する際に、実務を担う省庁が運用しやすい仕組みを設計すると思うのですが、その仕組みが国民に取って使いやすい仕組みであるとは限らないと言うことです。
そして、政府の省庁が立案する政策は、国民生活に大きな影響を及ぼしますので、実務を担う省庁の都合だけで政策を作られても、その政策に縛られる国民に取っては迷惑です。
長くなりましたので、ここで端折りますが、とにかく現行制度は官僚依存を前提としており、そこに問題があるという認識です。
また、官僚はエリートなのかという点についても、特に最近は懐疑的な印象を持っております。
消費税の景気押し下げ効果を甘く見て、案の定消費増税後に政府の想定外の足踏み状態にある景気動向を見ていると、少なくとも橋本政権以降の経済・財務官僚やアドバイザーの学者たちは、テストの成績が良いだけの利口馬鹿なのではないかと疑っています。
京都のぶぶ漬けを思い出しました。
「高い知力」を「正しく使いこなせる」者をエリートと呼ぶなら、官僚の中でも特に大きな権力を持った官僚の多くは最早エリートではないのでしょうね。扱える力が大きくなればなるほど、失敗を恐れたり、他人への施しを出し惜しみするようになってしまうのが人間の性だとは思いますが、法律によって死ぬまで生きられることを保証された者たちが足るを知れないというのも理不尽でもあり可哀想な話でもあります。
匿名様
「ぶぶ漬けのお約束」とは日本人限定のローカルルールなのですが、外国人にも通用すると勝手に思い込んだ為に、相手の外国人がぶぶ漬けを完食するだけでは飽き足らず、更に「おかわりをくれ」とせがまれている様なものでしょうか。
そこで、ローカルルールが通用しない外国人にこちらの意思を伝えるには、「お引き取り下さい」と明言した方が良いというのが、上記記事の趣旨ですね。
初めまして。日本の神様とも関わる話なので
スレッド違いでもあえて書き込ませて頂きますが
アーカイブ記事の2014年8月8日金曜日
『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(3)の
自分自身のコメント記入をご覧下さい。
日本とユダヤ、ギリシャはもちろん
全世界に関わるとても重要で恐ろしい話なので。
匿名様
記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その3)】にコメントしますので、少しお時間を下さい。
初めまして
三年程前から読ませていただいております。
この記事は年はじめから気になっていたのですが、ここ最近の状況を見ると安保法のこと、その延長線上になる憲法改正問題にもつながっているようにも思います。
戦争はもちろん反対ですが、いまの東アジアの状況をふまえ、国を守るための確固たる意思表示のように思います。
AIIBへの不参加とともに日本が今までのような曖昧な態度を取らない方向に進みつつあるのが頼もしくもあり、不安でもありというところでしょうか。
また増殖という言葉が一番しっくりくる西之島。
以前国境を管理する霊団の記事で、太平洋は薄いカーテンのようなものと書かれていましたが、カーテンからいよいよ強固なものへ変わって行くのでしょうか?
東アジア、ロシアを絡んだ日本海側の閉塞感の打破の為に、頻発する地震や島の拡大などで、太平洋側によどみを流す為の準備をしているように思えてなりません。
匿名様
上記記事では、今まで曖昧な意思表示で言葉を濁してきた日本が、諸外国に対してはっきりと意思表示が出来るか否かが問われてくると述べています。
その視点から見ると、衆議院で可決した安保法制には、従来の日本の国防上の不備を修正する意図がありますが、国家と国民の生命と財産の安全を維持し続けるにはほど遠く、一歩前進でも道程はなお遠い状態です。
AIIBについては、「公正に運営すると判断出来ないものには参加しない」との姿勢で一貫していて、中国に公正性の担保を求めていますので、これは「公正性の担保を提供できない中国の問題」という上手い構図を作っているとおもいます。
以前投稿した記事【『国境を管理する霊団』からの警告】にて、日本列島の日本海から東シナ海にかけての海域に霊的な壁が築かれており、太平洋側もカーテンのように薄い膜で覆われていると述べました。
それらが現在どのようになっているかというと、日本海から東シナ海にかけての壁は、当時よりも更に強靱となり、厚みも増しているのだそうです。
そして太平洋側は、カーテン状の膜が開いた状態にあって、いつでも閉じる準備は整えているのだそうです。
日本海側の壁が厚く強靱なのは、日本に危害を加えようとする大陸諸国への備えであると同時に、今後日本と大陸諸国の関係がますます遠ざかってゆくことを意味します。
その壁が以前より更に厚く強靱になっているのですから、霊界側の働きかけとしては、大陸諸国とは疎遠になる方向の活動を強めていることになります。
逆に太平洋側は、安保法制の整備などでアメリカやオーストラリアとの軍事的な結びつきを強めるなど、現時点では日本と連携しようと考える国が多数ありますので、そちら側の間口はむしろ広げていることになります。
仮に、ここで太平洋側に厚い壁を築いてしまうと、日本は大陸からも太平洋からも孤立することになりますが、今の日本は周辺国から孤立しては存続できませんので、太平洋側は文字通り「太平の海」として維持することが、今の日本にとっての生命線となります。
その状態が今後永遠に続くわけではありませんが、少なくとも、上記記事で述べている100年程度は続くとみてよいのではないでしょうか。
管理人様
7月17日に書き込みさせていただいたものです。
返信ありがとうございます。
その後TPP交渉も開始した時よりは少し日本に有利(=平等に近づく)に進んでいるようで、このまま納得のいく形で連携できていければいいと思います。
大陸側、隣国となる中国、韓国、北朝鮮、ロシアと、
どこをみても日本に対し敵対感をもっているところばかりですが、
霊的な壁が、ますます強固に守ってくれる事を期待しています。
環太平洋なつながり強化も期待するところですが、
安保法が戦争の武器商人の餌食にならずに、
国防の為の抑止力としてのみ働いてくれるようになってくれるといいですね。
この記事を再び読んで思ったのですが
今後100年に影響する日本の選択とは
「移民大量受け入れ」ではないかと思いました。
多くの移民が日本に定着し、従来の日本文化や生活の破壊によって
かなりの国内の混乱が予想されます。
なんとか少しでも被害が少なくなるように法整備できればいいのですが
やはり、痛い目に合わないと多くの国民の意識は変わらないのでしょうか。
匿名様
記事に登場する女神様の見解を踏まえると、慰安婦問題や徴用工問題を通じて、韓国が日韓基本条約及び請求権協定を蔑ろにしている現状を受けて、今までは曖昧に言葉を濁してきた日本の対応が問われております。
また、長年多くの日本国民を拉致し続けており、核やミサイル開発などを通じて日本に軍事的な恫喝を繰り返す北朝鮮に対しても、日本はその様な試みを改めさせる取り組みが出来ていません。
これらに関連して、日本国内では、法的には日本国内に在留する条件に満たない多くの在日朝鮮人に特別在留許可を与えていますが、一般の在留外国人よりも優遇するなど、在留外国人の属性によって差別的な扱いが行われています。
また、彼らの出生国である韓国や北朝鮮に対して、日本に在留する条件を満たさない人を引き取らせるための働きかけも行われていません。
それは当事国である韓国や北朝鮮が、当事者の特別在留者を引き取ろうとしないだけでなく、日本国内にもその様な働きかけを妨害する人々がいるからです。
この様に、女神様の言葉にある「外交であり、きっかけは国内であり、過去から続いている問題」に最も当てはまるのが、日本の対韓国、対北朝鮮関係にどの様な決着をつけるかであり、付随する国内問題として特別在留者の在日朝鮮人を減らしていく必要がある(帰国させるか・帰化させるかはともかくとして)というのが、管理人の見立てです。
では、「移民の大量受け入れ」は関係ないのかというと、そちらも大いに関係していて、特別在留者の在日朝鮮人とは、過去の移民政策の失敗の実例と言えますので、手順としてこちらの決着をつける方が先ですし、ここを無視して他の移民を受け入れても失敗が約束されているようなものです。
さて、実際に大量の移民がやってくるのかどうかはともかくとして、事前に想定される問題に対処する仕組みを準備しないまま、移民の受け入れを推進してしまうと、匿名様のコメントにある事態は起こりうると思います。
それに対して政府は、出入国管理部門の拡充を示唆していて、今国会において法整備を進めるようですが、それが事前の準備として適切かどうかは、何とも言えません。
ただ、後の何らかの問題が発生しても、「政府として事前に準備を進めて最善を尽くしたが、想定外の事態が発生した」と、責任回避の言い訳には使えるでしょう。
仮に何らかの問題が発生しても、その後に修復出来ればよいのですが、移民の数が人口の10%以上に膨れあがったり、あちこちに日本語の通じない自治体が乱立してから間違いに気づいても、そこから元の状態を取り戻すには相当の困難を覚悟しなくてはなりませんし、場合によっては血を見る覚悟を固めなくてはなりません。
世の中には、痛い目を見たときにやり直しがきく場合と、やり直しが出来ない場合がありますので、その辺の見極めと覚悟も必要となります。
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