■ 匿名様の質問
右手か額に押される獣の印の話で、「右手か額」が何を意味するのか新たな黙示録の解読で解説をお願いできますでしょうか。
今回のお話の中では、額に押される獣の印と神の印の関係や違いなどが最も気にかかっています。
■ 獣の刻印が示すもの
獣の刻印を右手か額に押される話は、黙示録第十三章の「第二の獣」についての部分で取り上げています。
『銀の紐』にて公開中の記事では、その点は大雑把な言及に留めておりますので、改めて黙示録の該当箇所から引用しましょう。
黙示録第十三章第十五節~第十八節
- 第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。
- また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。
- そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。
- ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。
匿名様の質問について、この部分から分かるのは以下の点です。
- 獣の刻印を押させたのは、第二の獣である。
- 獣の刻印を押されたのは、大小や貧富の差にかかわらず、また自由な者や奴隷など、あらゆる人である。
- 獣の刻印は右手か額に押させた。
- 獣の刻印がないと、物の売り買いが出来ない。
- 獣の刻印とは、獣の名であり、獣の名の数字である。
- 獣の名の数字とは、人間を示していて、六六六である。
ここで分かったことのうち、『銀の紐』で公開中の記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ(その4)】では、大雑把にグローバリズムについての言及と述べていますが、もっと丁寧に確認してみましょう。
1.まず、第二の獣とはプロテスタンティズムであり、獣の刻印とは利潤追求を至上の価値と見なす価値観であり、かつ利潤追求を最適化する社会制度を指します。
その点については、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーが記した【wikipedia:プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神】が参考になります。
2.獣の刻印が利潤追求の最適化を目的としているため、居住地や身分、立場を問わず、あらゆる者を対象とすることによって、それらの者からすべての利潤を吸収しうる枠組みを嵌めることになります。
4.すべての者を利潤追求の枠組みに嵌めることによって、その枠組みを通さなくては生活必需品を入手できなくなるので、獣の刻印がなくては生活が成り立ちません。
5.6.獣の名と獣の名の数字が示す意味は同じであり、獣の数字は人間を指しているので、『創世記』の天地創造の七日間のうち、人間や獣が誕生した六日目を指します。
また、獣の数字の六六六という表現によって六日目の境涯を何度も繰り返すことを表し、輪廻の存在を肯定しています。
また、いつまでも人間や獣の境涯である六日目を繰り返すだけで、神の境涯である七日目への成長を目指そうとしないないからこそ、獣の名の数字とは悪魔の価値観の体現と言えるでしょう。
ここで3.の確認を飛ばしましたが、獣の刻印が右手と額に押される場合の違いについては、黙示録の記述だけではよく分かりません。
そこで、『出エジプト記』の第十三章を見ます。
モーセ率いるイスラエルの民が、エジプトから約束の地へ向かう際に、主から掟を告げられるのですが、その中で以下のよう述べています。
出エジプト記第十三章第十六節
- あなたはこの言葉を腕に付けてしるしとし、額に付けて覚えとしなさい。主が力強い御手をもって、我々をエジプトから導き出されたからである。
この言葉とは、主がモーセに告げた掟の言葉ですが、それを腕につけて「しるし」とし、額につけて「覚え」とします。
つまり、額につけることによって記憶――頭の中に入れておくことを指すのでしょう。
それと同時に、腕につけてしるしとしていますが、これは掟を守らなくてはならない人を見分けるためのしるしとして機能します。
この章の中で第十六節は、将来子供に説明を求められた場合の対応としていますので、世代が変わって掟の意味が分からなくなっても、その様にすることで掟を受け継いで行くための工夫でしょうか。
同様の描写は、『申命記』第六章でも確認できます。
申命記第六章第六節~第九節
- 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、
- 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。
- 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、
- あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
額の刻印についてはこの説明で納得できそうですが、右手の刻印についてはまだ説明が足りません。
そこで『創世記』の第四十八章を見ます。
ヨセフが二人の息子エフライムとマナセを伴って、父ヤコブ(イスラエル)の元を訪ねた時、ヨセフは父に二人の息子を紹介して、長男のマナセをヤコブの右手の前に、弟のエフライムをヤコブの左手の前に向かわせました。
しかし十四節で、
- イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。
そしてヨセフを祝福するのですが、第十七節~第十九節に掛けて、
- ヨセフは、父が右手をエフライムの頭の上に置いているのを見て、不満に思い、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。
- ヨセフは父に言った。「父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてください。」
- ところが、父はそれを拒んで言った。「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。この子も一つの民となり、大きくなるであろう。しかし、弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる。」
この様なやりとりがあります。
ですから、右手と左手を比べると右手が優位であり、力や繁栄の象徴と言えるのではないでしょうか。
また『詩編』には、神の「右の御手」が、救いの力や支えとなる表現が見られます。
ここまでの内容を踏まえて、先ほど飛ばしてしまった3.を確認しましょう。
3.獣の刻印は右手か額に押させた。
のうち、獣の刻印とは、利潤追求を至上の価値と見なす価値観(1.)であると述べましたが、それを額に刻印しているのですから、その様な価値観を頭の中に入れることになります。
そして右手の刻印は、その価値観に基づいて力を行使し、繁栄を手に入れようとすることであり、周囲から見て獣の刻印が示す価値観の行使者であることのしるしでもあります。
■ 神の刻印が示すもの
神の刻印については、小羊が神から受け取った巻物の封印を開いていく過程で、第六の封印を開いた時に起こる出来事として、黙示録の第七章で述べています。
黙示録第七章第二節~第四節
- わたしはまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、
- こう言った。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」
- わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。
黙示録第七章第九節~第十節
- この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、
- 大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、/小羊とのものである。」
この中で、匿名様の質問について分かることは以下の点です。
- 神の刻印を持った天使は、太陽の出る方角から上ってきた。
- 神の刻印は、神の僕の額に押されるものである。
- 神の刻印を押された人は、イスラエルの子らの全部族のうちの十四万四千人である。
- 神の刻印を押されたイスラエルの子らの十四万四千人は、その後にあらゆる国民、種族、言葉の違う人々の中から集まった大群衆に変わる。
- 大群衆は白い衣をまとい、ナツメヤシの枝を持っている。
- 大群衆は玉座と小羊の前に立っている。
- 神と小羊は、大群衆に救いをもたらした。
2.が神の刻印とは何かを直接述べています。
また、額に押されるものですので、「覚え」として頭に入れておくものなのでしょう。
それは神が人間に対して常に働きかけている様子を感じ取り、その様な働きかけをする目的を理解し、その目的が果たされるように文字通り「神の僕」として尽力することを指しますので、誰が見ても明確に見分けられるような「しるし」はありません。
そして3.4.5.6.7.から言えるのは、神の僕の活動によってあらゆる国民や種族などの中から集まった大群衆が白い衣を纏う(=勝利を得る)のですから、一人でも多くの人が勝利を得るように、神の言葉を説いて様々な人の間を回るのが、神の僕の活動と言うことになります。
■ 神の刻印と獣の刻印についてのまとめ
ここでまとめとして、神の刻印と獣の刻印について改めて一言で述べましょう。
ご覧のように、神の刻印とは神の僕である証(但し、神の言葉を理解している者のみが見分けられる証)と言えるでしょう。
同様に、獣の刻印とは、神の言葉を歪めたプロテスタンティズムから派生した、利潤追求を至上の価値とする価値観を指します。
そして獣の刻印を右手に押された者は、「利潤追求を至上の価値」とするために力を行使し、またそれにより繁栄を得る者を指し、それは同時に周囲から「獣の刻印を右手に押された者」を見分ける明確なしるしとなります。
すなわち、利潤追求に最適化した社会で力を行使する側に立つ富裕者こそが、「獣の刻印を右手に押された者」の正体となります。
また獣の刻印を額に押された者は、利潤追求に最適化した社会で力を行使していない(行使できない)者であり、獣の刻印を右手に押された者の力により搾取される側の人々と言うことになります。
搾取される側でありながら、それに疑問を持ったり抗うわけではなく、その状態が正しくて当たり前だと受け入れているので、獣の刻印が象徴する価値観に惑わされて額に刻印された状態にあると言えるのです。
ちなみに、黙示録の後半では、神の裁きに伴ってグローバル経済が崩壊して、世界の自由貿易が大幅に衰退する旨の記述が登場しますが(黙示録第十八章)、獣の刻印を右手に押された者が自らの力の源泉、富の源泉が何処にあるのかを理解しないまま、手の内にある力を調子に乗って暴走させたために、自分の力を自分で削ぎ落とす結果に繋がってしまうのです。
少々長くなってしまいましたが、神の刻印と獣の刻印についての解説は以上となります。
既出の黙示録関連記事では、黙示録の全体像を大雑把に解説した程度ですので、それで分からない部分については更に詳細な説明を行わなくてはなりません。
これから黙示録の再解読を行う予定もありますので、『銀の紐』にて公開中の黙示録関連記事で追加の説明を希望される方は、該当する記事のコメント欄より質問をお寄せ下さい。
Silvercord管理人
なお、上記記事は、以下のサイト掲載の旧約聖書『創世記』『出エジプト記』、新約聖書『ヨハネの黙示録』(いずれも新共同訳)より引用しております。
閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/
上記記事の内容についてのご意見・ご感想・ご問はコメント欄よりお寄せ下さい。
また、コメントを投稿される際は、記事【改めて、ご覧の皆様へのお願いと連絡事項】をご覧下さい。
2 件のコメント:
管理人様
詳細な解説をありがとうございました。特に獣の解説は納得のいくものです。
感情のままに生きる者や考えることをやめた者、本能のままに生きる者など、年齢や身分や貧富を問わず野生動物=獣と変わらない者が目についていました。
新約聖書のガラテヤ人への手紙第5章19節~21節には肉の欲の具体例が書かれています。
新改訳聖書より
5-19:肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5-20:偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉み、憤り、党派心、分裂、分派、
5-21:妬み、酩酊、遊興、そういった類のものです。
以上、現代でも褒める所の無いものばかりです。
地上だけとはいえ世界各地に繁栄し、環境に大きな影響力を持つ人類が肉の欲望に忠実では容易く滅んでしまいますから、信仰の有無に関わらずとも欲に溺れず利己的な考えを捨てるのが自分にも他者にも好都合でしょう。
匿名様
ご理解頂けたようで何よりです。
肉の欲を克服した方が良いのは仰る通りです(理由は引用された21節の続きの部分に書いてありますよね?)が、そもそも人間は肉体という乗り物を霊が操縦している様なものですので、構造上の制約として肉の欲に囚われやすい特徴があります。
逆説的な物言いになってしまうのですが、肉の欲に囚われやすい状態におかれて、肉の欲に溺れてしまう経験を積むことによって、その先に得る物がないことを知ります。
そこに辿り着いてようやく、次の22節にある「御霊の実」にこそ価値があるのではないか、と、気づくきっかけを掴むことが出来ます。
既に『銀の紐』で公開中の黙示録関連記事で説明していますが、悪魔サタンですら人間に宿る霊が成長するための教材となるように、神様が予め仕組んでいるのですから、肉の欲も人間に宿る霊の成長に寄与する教材なのです。
また、利己的な考えは霊の成長と関わりがあって、利己の「己」の範囲を何処まで拡大できるのかが、霊の成熟度を測る一つの目安となります。
ですから、利己的な考えを捨てるのではなくて、「自分のみの利」から「自分たちの利」へ、更に「(自分を含む)みんなの利」へと、利害を共有する仲間の枠を広げてゆくと、次第に誰にとっても好都合な環境へ近づいてゆきます。
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