【黙示録関連記事一覧】
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【[黙示録再解読]関連記事一覧】
■ 『ヨハネの黙示録』を再解読するに当たって
以前行った『ヨハネの黙示録』を解読する記事では、黙示録の第一章について殆ど取り上げませんでした。
当時、黙示録の解読に協力して頂いた霊界の住人から、第一章についての言及はありませんでしたし、管理人も「ヨハネの元に黙示録がもたらされた背景の説明」と理解していましたので、他の重要な部分の説明を優先した方が良いと判断しました。
しかし今回の再解読に当たって、黙示録の第一章について、霊界の住人から詳細な説明がありました。
そこで、黙示録再解読の始めに、以前読み飛ばしてしまった黙示録の第一章を詳しく読み込んでいきたいと思います。
二章以降については、前回の解読でもある程度説明していますので、人間の視点と霊の視点を比べた場合の解釈の違いについて指摘する流れになると予想しています。
前回同様に、今回の再解読でも聖書の記述と照らし合わせる作業は必須になると思いますし、以前の解読記事と見比べる作業も必要になってきます。
基本的には、前回の黙示録解読記事を熟読されているという前提で進めますので、疑問点についてはその都度該当する記事のコメント欄にお寄せ下さい。
前置きはこの程度として、そろそろ黙示録の再解読に取りかかりましょう。
■ 『ヨハネの黙示録』がヨハネの元にもたらされた意味
黙示録の第一章の冒頭に、この文章が「イエス・キリストの黙示」として、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためにキリストに与え、そのキリストが天使を僕ヨハネの元に送って伝えたものだと述べています。
すぐに起こるはずのこととは、「イエス・キリストの黙示」が僕ヨハネに伝えられた時点では未来の出来事であり、僕ヨハネを通じて他の僕たちへ伝えられることを意図しています。
ご覧の皆様は、黙示録の冒頭にさりげなく「すぐにも起こるはずのこと」と添えられているのは何故だと思いますか。
黙示録の内容を理解していない人は、その一言に余り深い意味を感じないかもしれませんが、以前管理人と共に黙示録を一通り解読してきた皆様でしたら、その一言に込められた意味合いに気がついているでしょう。
以前の黙示録関連記事で、『ヨハネの黙示録』とは、神による人類育成計画の大まかな計画書であり、人類が滅亡するまでの概要を示した上で、大淫婦である大バビロンに対して下される神の裁きに焦点を当てて、そこで神の裁きが何故下されるか、どの様に下されるか、神の裁きとは何なのか――などについて解説しましたが、これらの黙示録の全体像を理解していると、「すぐにも起こるはずのこと」も自ずと明らかになります。
記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ補足4】にある黙示録に記された物語の大まかな流れを見ると、その物語の最後にある「聖なる都エルサレムで神と僕の共同統治が行われる」のが、黙示録によって神が示した最終目的なのですが、その最終目的に至る途上にある「小羊イエスが第二の封印を開く」時点が、黙示録にある大淫婦に対する神の裁きの時期であり、それが現在進行中の出来事となります。
黙示録では、イエスが勝利を得て神の御許に引き上げられたことによって、神の右手にある書物にかけられた七つの封印を開く役割を委ねられました。
その七つの封印のうちの二つ目の封印が開かれたばかりです。
黙示録によると、今後小羊イエスは七つの封印を開いて、イエスと聖なる者たちによる千年の統治を経て、サタンが復活した後に最後の審判を経て、ようやく黙示録に記された最終目的に達します。
その長い道程のうち、第二の封印を開いた時に行われる「大淫婦に対する神の裁き」について、黙示録では詳しく説明していますので、実際に「大淫婦に対する神の裁き」が行われている様子を、現代を人として生きる神の僕たちが確認できれば、僕ヨハネの元にイエスの黙示がもたらされた目的の半分は達せられたことになります。
黙示録の冒頭にあるように、「すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためにキリストに与え、そのキリストが天使を僕ヨハネの元に送って伝えた」結果、黙示録の全体像から見れば「すぐにでも起こる」と言って差し支えない時期に、その時代を生きる神の僕たちが、自分の目で「かつてイエスが僕ヨハネに伝えた神の言葉が、今目の前で現実となった」ことを確認する機会となります。
黙示録の第一章第二節には、ヨハネが神の言葉とイエス・キリストの証しとして、自分の目で見た全ての出来事を証ししたとあります。
ここでヨハネは、「神の言葉とイエス・キリストの証し」としているように、神とイエスを別々の存在として認識しています。
従来のキリスト教では、三位一体が中心的な教えの一つとされているようですが、ここで示されているヨハネの認識からも、神とイエスは別の存在であり、三位一体論とは食い違いが見られます。
最初に神が言葉を発し、イエスが神の言葉に基づいて行動してみせることによって、神の言葉の正しさを証明します。
「神の言葉の証し」としての生涯を全うしたイエスは、死後神の御許に引き上げられますが、今後は「神の言葉を証しすることによって、イエスは神の御許に引き上げられた」ことを、イエス・キリストの黙示を伝えられたヨハネの経験を示すことによって証しするという形を取っています。
この黙示録は、「かつて神の言葉を成就したイエスが神の御許に引き上げられ、そのイエスが神の言葉をヨハネに伝えた」預言なので、かつてイエスが神の言葉を成就させたように、黙示録に綴られた神の言葉も成就される、となります。
だからこそ、続く第一章第三節にあるように、この預言の言葉を朗読したり、聞いたり、ここに記されてたことを守る人は幸いなのです。
この黙示録を通じて、これから起こる出来事とそれが起こる理由、その事態に対処する術を予め知って、その時に備えることが出来るのですから。
■ ヨハネからアジア州にある七つの教会へ
黙示録の第一章第四節~第六節には、ヨハネから、アジア州にある七つの教会へのメッセージとして、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」から、また「玉座の前におられる七つの霊」から、更に「証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者」であるイエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように、と述べています。
続けて、「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」に、「わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方」に、栄光と力が代々限りなくありますように、とあります。
ここでヨハネは、神と七つの霊とイエスについて述べています。
「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」とは、今ヨハネに神の言葉を伝える役目をイエスに託した神であり、かつてイエスが人間として神の言葉を成就するように導いた神であり、その黙示録の最後で天と地を新しくした『聖なる都エルサレム』を、神の僕と共同統治することになる神です。
また「玉座の前におられる七つの霊」とは、屠られたような小羊が勝利を得た時に、神から渡された巻物に七つの封印があるのですが、その封印を施した者と言えるかもしれません。人間が地上に誕生する際に六カ所の『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を築いたのですが、その拠点を築くために尽力したのが「七つの霊」とのことです。
六カ所の拠点は人間が誕生する際に設置され、その後日本の拠点を除いて一旦は閉じられましたが、去る2011年末にバチカンの拠点が開きました。
ここからはイエスについて述べていて、「証人」とは神の言葉を証しした者であり、「誠実な方」とは神の言葉の前に誠実であった者です。
そして「死者の中から最初に復活した方」とは、黙示録の第五章に記されているように、神の言葉を証しすることによって生涯を全うしたイエスが、死後に勝利を得て神の御許に引き上げられたことを指します。
「地上の王たちの支配者」とは、その先に「わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える司祭としてくださった方」とあるように、ヨハネを始めとして地上で活動する神の僕たち、神の言葉がやがて成就することを人々に説いて回る者たちは、神の御許へ導く為に人々を束ねる者という意味の王であり、同時に彼らはイエスの証しを通じて、神に仕える祭司となるきっかけを掴みました。
「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」とは、イエスの人間としての生涯を通じて、自らの血を流しながらも、神の僕としてのあり方や、人間が勝利を得るための道標を示したことを指します。
黙示録を解読する前でしたら、単純にこれらは皆福音書に示されているイエスの事績を並べていると思うかもしれませんが、既に管理人と共に黙示録を解読された皆様でしたら、これらはイエスについて述べているのと同時に、イエスと同様の役割を担う別の者についての言及が含まれている気がつかれると思います。
黙示録の第六章にある、小羊が神から渡された巻物の七つの封印を開いてゆく件がそれで、黙示録では小羊=イエスとして、小羊が七つの封印を順番に開く流れとなっていますが、その中で実際にイエスが関わるのは第二の封印である『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点』であり、他の封印についてはイエスと同等の役割を担う別の者が関わる旨、以前の黙示録解読記事で言及しました。
『ヨハネの黙示録』とは、キリスト教の聖典である聖書に収められているからこそ、七つの封印を開く役割をイエスに代表させましたし、バチカンの拠点が管轄する地域の人々が、他の地域の事情について知る必要はありません。
しかしヨハネは、黙示録においてイエスの名で表される者がイエスその人だけではないことを理解していました。
巻物の封印は七つあるのですから、イエスと同様の役目を担う者がイエス自身を含めて七名いるのです。
黙示録の第一章第七節では、その方が雲に乗って来られる様子を、全ての人の目が、そして特に彼を突き刺した者どもは、その様子を仰ぎ見ることになります。
そして地上の諸民族は、彼のために嘆き悲しみます。
その方とは、神の言葉を証しすることによって処刑されたイエスであり、そのイエスが雲に乗ってくるのですから、勝利を得た者として神の御許に引き上げられた後に、神の名代として諸国の民の前に現れました。
その様子を全ての者が仰ぎ見て、とりわけ直接イエスの息の根を止めた者たちは、自分の手で殺めたはずのイエスが目の前に現れた様子に恐れおののいたことでしょう。
地上の諸民族はその時に初めて、自分たちがその手にかけて亡き者とし、あるいは直接手を下した者の行いを支持し、あるいは黙認し、もしくは無関心を決め込んだ当の相手が、今や天に引き上げられて神の御許で裁きを下す者となったと感じ取ったのですから。
但し、上で「イエスと同様の役目を担う者がイエス自身を含めて七名いる」と述べたように、イエス以外の六名についても、何らかの形で神の言葉を証しすることによって処刑され、勝利を得た者として神の御許に引き上げられた後に、再び神の御用で地上の諸民族の前に姿を現すことがあり得るのでしょう。
そこで「その方」として、イエス以外にも同様の役割を担う者がいて、イエスのように処刑された後、再び地上の諸民族の前に現れる者がいることを示唆しています。
黙示録の第一章第八節では、「神である主」、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」、「全能者」がこの様に言われました。
「私はアルファであり、オメガである。」、とあります。
ここで「神である主」が、「私はアルファであり、オメガである」と述べています。
この文言は、後に黙示録の第二十二章第十三節でも繰り返されており、その意味は「最初の者にして最後の者」、そして「始めと終わり」です。
始めと終わりとは原因と結果の関係を司る因果律であり、「神の言葉とイエス・キリストの証し」も神が因果律を管理する証拠の一つと言えるでしょう。
ということは、かつて人であったイエスが勝利を得て神の御許に引き上げられた様に、現在人間である霊媒や管理人、そしてご覧の皆様がイエスを手本に神の境涯への至るには、因果律について理解を深めることが非常に重要になると思いますが、いかがでしょうか。
黙示録の第一章第九節では、わたしはあなた方の兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。
わたしは神の言葉とイエスの証しの故に、パトモスと呼ばれる島にいた、とあります。
ここでヨハネが、共にイエスと結ばれている兄弟と述べているのは、アジア州にある七つの教会に集う者たちです。
ヨハネが神を主とし、イエスを主とする神の僕であるように、アジア州にある七つの教会に集う者たちも神の僕であり、志を同じくする兄弟です。
そしてイエスと結ばれているからこそ、かつてイエスが神の言葉を証しする為に苦難と忍耐を重ねたように、ヨハネもその兄弟たちも、神の僕としての役目を果たすには苦難と忍耐を強いられることを理解していました。
人の価値観と神の価値観に間には大きな隔たりがあり、神の価値観に沿うためには人の価値観――人間社会の常識や習慣、物事の価値判断から大きく逸脱することを余儀なくされ、また神の価値観は人の理解力を越えた判断を必要とするために、それを理解できる人は神の僕の役を担う者などの少数に限られます。
人の理解を超えた判断に基づいて行動する神の僕は、他の諸国民からは得体の知れない変わり者と見なされがちで、なかなか人々の理解を得られにくいので、人でありながら神の僕として生きるには苦難と忍耐を伴います。
例えて言うと、嘘で人を騙すことが当たり前の社会に、嘘で人を騙す行為が愚かであることを理解したある人が、誠実な姿勢で周囲の人々に接していた場合、嘘が当たり前である周囲の人は「嘘をついて誤魔化した方が得だし、バレたら逃げればいいのに、あいつはバカな奴だ」と思うかもしれません。
しかしその人は、嘘を吐かない誠実さが信頼を醸成し、信頼できる相手とは協力関係が築けることを知っています。
より多くの人と信頼の環で結ばれた協力関係が築ければ、たった一人の嘘吐きでは到底為し得ない大事業をも為し得るでしょう。
嘘吐きが蔓延っている社会と、信頼できる人々が協力して築き上げた社会を比べると、信頼できる社会の方がその社会の誰にとっても暮らしやすいのですが、嘘吐きの社会でその様な理解を浸透させるには長い時間がかかりますし、特に先駆者ほど周囲の理解が得られずに不当な扱いを受けやすいのです。
因みにパトモス島とはエーゲ海に浮かぶギリシャの小島で、ヨハネが啓示を受けたとされる洞窟はユネスコの世界遺産に登録されているのだそうです。
【参照:Wikipedia】
■ イエスからヨハネへの指示
黙示録の第一章第十節~第十九節では、ある主の日に、ヨハネは“霊”に満たされていた時に、後ろの方でラッパのように響く大声を聞きました。
その声はこう言いました。
「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会へ送れ」
そこでヨハネが、語りかける声の主を見ようとして振り向くと、七つの金の燭台が見え、燭台の中央に人の子のような方がいて、足まで届くような衣を着て、胸には金の帯を締めていました。
その頭髪は白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃えさかる炎のようであり、足は炉で洗練された真鍮のように輝いていて、声は大水のとどろきのようでした。
右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ていて、顔は強く照り輝く太陽のようでした。
ヨハネがその方を見ると、その足もとに倒れて死んだようになりました。
するとその方は右手をヨハネの上に置いて言いました。
「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、まだ生きている者である。
一度は死んだが、見よ、代々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。
さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしてることを書き留めよ。
ここではまず、「ヨハネは“霊”に満たされていた」ので、ヨハネが霊の存在を感じ取れる霊媒であり、恐らくはしばしば霊に満たされる時間を持っていたであろうことが伺えます。
そこに大声が聞こえて、アジア州にある七つの教会に手紙を送るよう求めるのですが、ヨハネが霊に満たされている最中なのですから、この声の主も霊的な存在です。
その声の主は人の子のような方で、頭髪が白い羊毛のようなのですから、黙示録の第五章で神から巻物を受け取った小羊、勝利を得た屠られたような小羊に相応しい様子です。
足は炉で洗練された真鍮のようなのですが、真鍮とは黄銅のことであり、銅Cuと亜鉛Znの合金とのことです。
日本でも12世紀には真鍮が大量に使われていた例があるようですが、亜鉛が低温で蒸発するために精錬が難しいと考えられて来たようです。
その精錬が難しい真鍮に例えられるのですから、この方の苦難と忍耐に満ちたここまでの足取りが伺えます。
また、以前の黙示録解読の時に述べましたが、口から出ている鋭い両刃の剣とは「弁が立つ」ことを指しています。
そこでヨハネがその方を見ると、足もとに倒れて死んだようになるのですが、その方が死んだはずのイエスだと悟ったのでしょう。
イエスの姿を目の当たりにしたヨハネは、恐怖と言うよりは畏怖の念を抱いたのでしょうか。
その方はヨハネに「わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である」と述べます。
これは先ほど神である主が「私はアルファであり、オメガである」と述べたことと同じで、イエスも神である主に並び立つ存在となった意思表示です。
イエスは人間としては死にましたが、勝利を得て神の御許に引き上げられ、永遠に生きる者となったので、「一度は死んだが、代々限りなく生き」る者となりました。
更に「死と陰府の鍵を持っている。」のですから、物質界を管理する者として、生物の生死を司る役割を担ったことになります。
ヨハネが「その方」と述べているのは、イエスと同じ役割を担う者が他にもいることを暗に示しています。
黙示録の第一章第二十節では、ヨハネはイエスの右手にある七つの星と、七つの金の燭台を見ましたが、それらに秘められた意味をイエスがヨハネに説明します。
「七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である」と。
ここでイエスの右手にある七つの星として表される天使たちは、イエスの手の内にあります。
天使とは天の使いであり、その形態は一様ではありませんが、この場合は神により与えられた役割に基づいて、人として活動する者を指しています。
『銀の紐』流に表現すると「霊界と地上界を繋ぐ拠点の覡役」であり、日本の拠点では天皇陛下になりますが、その様に特殊な役割を担う者に宿る霊は、人間としての経験から学びを得る段階を卒業しており、それ以外に特定の役割を担う目的で人間としての生涯を送ります。
人間が神の御許へ引き上げられるように製錬する作業を支援するために、神と人間の仲立ちをする接点としての役割を担っています。
■ ヨハネがイエスから指示を受けるまでのまとめ
以前の黙示録解読では第二章の解読から始めたために、今回取り上げた第一章については殆ど言及していませんでした。
第一章はヨハネの元に黙示録がもたらされた経緯の説明となっており、また黙示録をもたらしたのがイエスだという確認のためにスペースを割いていましたので、黙示録の大雑把な流れを知る上では、敢えて省略しても差し支えないという判断でもあり、またある程度黙示録の内容を理解していないとわかりにくい部分でもありました。
今回の再解読に当たって、改めて黙示録の第一章を読み返すと、かつては読み取れなかった部分についての理解が進みました。
かつてイエスは、神の言葉を証しする者としての役割を全うし、それ故に磔刑に処されましたが、死後に勝利を得て神の御許に引き上げられました。
その時点で神の言葉が後に形となったことは確認できましたが、そこでイエスが本当に神の御許に引き上げられたのか、諸国の民が確認できたのかというと、少々怪しいものがあります。
そこで今度は、イエスが神の御許へ引き上げられた後の出来事について、神の言葉をイエスが取り次ぎ、当時地上で神の僕としての役目を担っていたヨハネの元に、新たな神の言葉が伝えられました。
このヨハネの黙示録、イエス・キリストの黙示とは、イエスの事績に重ねて神の言葉を証しする試みであり、同時にかつて人であった者が確かに神の御許に引き上げられたことを証しする試みでした。
だからこそ、冒頭でこの黙示をもたらした者がイエスであることを確認するために多くのスペースを割いています。
それと共に、以前の黙示録解読の際に述べたように、人間(に宿る霊)育成計画としての黙示録を示し、その中でもイエスの名によって束ねられる地域・欧州諸国にとって大きな成長の契機となる激変期(大淫婦に対する神の裁きの時期)の様子を詳細に描くことによって、それが神の言葉の証しとなることを示そうとしました。
同時に、黙示録の中で人間育成計画の行き着く先を示すことによって、諸国の民がイエスの生涯を見習って、勝利を得て神の御許へ引き上げられる道を示そうとしました。
そしてヨハネが証しした黙示録の結果を確認するのは、大淫婦に対する神の裁きの時代に生きる私たちが担う役目となります。
Silvercord管理人
なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご覧下さい。
閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/
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5 件のコメント:
確かに2011年を皮切りに欧州とその周辺国は変化し始め、その流れは年々加速されているように見えます。いい悪いは別にして政治経済の大きな潮流に民意がダイレクトに乗り始める感じです。その原因は間違いなくインターネットによる情報開示と情報共有と共有知の拡大だと考えます。おそらく神はその演算能力をして人間の技術成長力からネットの普及と智慧の共有はこの時節に爆発的な拡大を起こし、欧州に変化が起きるのは自明であると読み切っていたのかもしれないですね。もし拡大する共有知から霊的成長を主眼とする人類の在り方を模索する事が出来、キリスト教とイスラム教の確執が無くなるようなことになれば欧州や中東のテロや紛争の多くをなくすことができる気がします。でもそれができないからラッパが鳴り続けるのでしょうね。
匿名様
キリスト教については『銀の紐』で度々取り上げてきましたが、キリスト教の聖職者は聖書に綴られた神の言葉を人々に伝えるのではなく、聖書からは読み取れない歪んだ解釈でも組織や聖職者に都合が良ければ神の言葉と偽って吹聴しており、それが黙示録に記されている偽預言者に当たると述べました。
イスラム教についても同様の事情があって、クルアーンの内容を自分に都合良く読み替える宗教指導者達が、イスラム教を歪めて貶める原因となっている可能性があるのではないかと考えています。
(クルアーンとシャリーアを比較した際の妥当性など)
黙示録を解読すると分かるように、聖書自体には確かに神の言葉が綴られていると思われる点はありますし、恐らくクルアーンも同様なのではないかと思いますし、双方の情報源は最終的に同じ所にいきつくのだと考えています。
しかし、預言者ではない聖職者などの人間が聖書やクルアーンをきちんと読み解けず、場合によっては個人的な事情によって解釈を歪めてしまうために、一つの教典から複数の解釈が生じてしまいます。
しかもキリスト教もイスラム教もアブラハムの宗教であり、アブラハムの宗教は一神教で多様性を認めませんので、互いに「俺の崇める教えこそが正しくて、お前のは邪教」と不毛な正当性争いに明け暮れているのです。
(因みにアブラハムの神はイスラエルの民の民族神でしたが、後にバビロン捕囚を経て一神教への変質があった(アブラハムの子孫が悪魔の唆しに酔い痴れた)と見ています)
最近の傾向を見ると、棄教を禁止し厳格な処罰を科すイスラム教よりキリスト教は寛容に見えますが、冒頭に挙げた神の言葉を偽る点は両者とも変わりませんので、この点を改めて神の言葉に立ち返らない限り、いつまでもキリスト教とイスラム教の確執は続くのではないでしょうか。
こんにちは。 書き込みを拝見して思ったのですが、神(もしくは神々)はあらかじめ今後何があるかを見越して黙示を行ったということなので、そこでの各個の役割も、おおよそ決めていたという理解になると思います。ということは、ある時点の渦中にある者は、当事者意識の方が強いので客観的にはなれないかと思いますが、ある程度段階を踏んで訓練できている者には、それぞれの役割と、全体の構成から何をめざし、その為に自分も含め何をするといいのかということが想像しうる。その視点が持てるというのは、神の似姿を持つ人間の資質で、究極的には立場が違っても、お互いに協力し合い、そこへ戻ることが、生まれ来る者すべてのゴールなのではありませんか?
匿名様
概ね仰る通りだと思いますが、黙示録で取り上げているのは「人間に宿って経験を積む段階」を終えるまでですので、そこで勝利を得て人間に宿る段階を卒業しても、その先に別の環境で新たな経験を積むステージが待っています。
そこで更に様々経験を重ねた後に、晴れて神の立場に立ったとしても、そこがゴールではなくて、更に研鑽を重ねる道程が長く続くようです。
黙示録の神を『銀の紐』流に表現すると「地球を管理する神」なのですが、その先に「太陽系を管理する神」がおり、更に「天の川銀河を管理する神」、「天の川銀河を含む超銀河団を管理する神」の様なヒエラルキーが成り立っており、「宇宙全体を管理する神」がそれら全体をとりまとめています。
しかしそこがゴールではなくて、その先にも限りない成長の階梯が続いているようです。
この辺りになると、残念ながらかなり断片的な情報に辛うじて触れられる程度で、それ以上のことは分かりません。
返信ありがとうございました。先日私が書いたゴールというのは、現在地球に人として生まれた者たちのゴールという理解で概ね合っているということですね。
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