2016年8月26日金曜日

[黙示録再解読]:アジア州にある七つの教会の天使に宛てた手紙

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■ アジア州にある七つの教会に宛てた手紙

このテーマについては、以前の黙示録解読で一通り説明していますので、基本的には人間視点から見た以前の解読と今回の内容を比較して、適宜補足を加える方向で進めます。
本題に入る前に、このテーマにおける注目点について、霊界の住人の見方を伺っています。

曰く、ここで注目しておきたいのは、それぞれの教会が示している地域毎に、発展した文化や民族・生活習慣などの違いがあっても、皆が同じゴールを目指していて、最終的には同じ価値観に辿り着きます。
現時点でそれぞれの地域が持っている異なる特質は、ゴールへ至るまでの過程の違いに過ぎなくて、例え今はどの集団に属していても、最終的には必ず同じ結論に達します。
だからこそ、ここでは七つの金の燭台の間を歩く方として、イエスが象徴的に描かれています。
前回の記事で述べたように、イエス自身が全ての地域を司っているわけではありませんが、イエスと同様の役割を担う者が各地に向けて働きかけています。
黙示録は聖書に束ねられており、聖書はイエスが司る地域に暮らす人々に向けて残された文書であるため、同様の役割を持つ者たちを代表してイエスの活動として描いています。
今回の『神の裁き』で特に注意深く観察しておきたいのは、欧州・米国・日本の動向で、これらの地域の選択が世界に大きな影響を及ぼすことになります。
甘言に惑わされることなく、世界のありのままの姿を見極めたいものです。
神は信じる対象ではなく、理解する対象です。
神の言葉は霊的真理を表しているため、盲目的に信じても成長できません。
神を理解するには、世界を具に観察して世の理を理解するのが最も近道となります。

この中で「霊的真理」という言葉について補足すると、神の言葉とは私たちが存在する世界を成り立たせる仕組み、私たちの目の前で展開するあらゆる物事を、その様な状態や結果へ導く法則性を表している…とでも言えば良いでしょうか。
その膨大かつ微細な仕組みの数々について表現するには、限られた紙面に綴った文章だけではとても足りませんので、あくまでも聖書に記された神の言葉は理解のきっかけとして利用する為の物です。
その霊的真理を更に深く追求するには、世界のあらゆる出来事を具に観察する中から、自分自身の経験を積み、洞察力を養ってゆかなくてはなりません。





■ エフェソにある教会の天使に宛てた手紙

以前の黙示録解読では、エフェソにある教会とは『霊界と地上界を繋ぐバチカンの拠点』だと述べました。
そしてエフェソにある教会の天使とは、バチカンを中心としたカトリック教会において神の僕としての役目を担う者であり、ローマ教皇が代表的な存在としてあげられます。
カトリック教会の存在を通じて、神の言葉を記録した聖書を後の世へ伝え、また神が地上の諸国民に働きかける拠点の一つであるバチカンの地を、カトリック教会にとって聖なる土地として守り続けてきました。
神の僕である「霊界と地上界を繋ぐ拠点の覡」としてのローマ教皇を、カトリックにとって権威ある存在とし続けてきたことも、カトリック教会の功績として数えられるでしょう。
一方、エフェソにある教会であるバチカンのカトリック教会から失われてしまったものもあります。
それは「始めの頃の愛がなくなってしまった」=イエスの教えが形骸化して変質してしまったので、悔い改めて始めの頃の行いに戻るように求めています。
ここで悔い改めなければ、あなたの燭台を取りのけてしまうと述べていますが、一度黙示録の内容を通して読み込まれた皆様でしたら、この意味は容易に理解できるでしょう。
黙示録の第十七章で「多くの水の上に座っている大淫婦」に対する『神の裁き』について述べていますが、そこで一時的にエフェソの教会という燭台が取りのけられかねない危機に見舞われる可能性に言及しています。
一方、ニコライ派の行いを憎んでいることを取り柄としていますが、ニコライ派とはプロテスタントなどカトリック以外の諸教派を指しています。
イエスも憎んでいるというニコライ派の行いとは、エフェソの教会であるバチカンの拠点から距離を置き、教会の天使である覡役のローマ教皇を差し置いて、独自に宗教的権威を立てたこと、そして記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ補足1】で述べたように、第二の獣の手管により諸国の民の右手か額に獣の刻印を押させる役割を担ったことです。
勝利を得る者には神の楽園の命の木の実を食べさせるとあるのは、黙示録の第二十一章~で第二の死――火と硫黄の池に投げ込まれるのではなく、新しい天と地に暮らすことを許されて、聖なる都エルサレムで神と僕の共同統治を行う一員となれることを指しています。

以上の、人間視点から見たエフェソにある教会の天使に宛てた手紙について、霊界の住人はどの様に見ているのでしょうか。

曰く、今回の『神の裁き』によって価値観の変化が最も大きく現れるのがこの地域です。
『神の裁き』を通じて、この地域に暮らす人々の価値観に変化が生じることによって、はじめて霊界と物質界を繋ぐ拠点が正しく機能する準備が整います。
今はまだ物質界の影響が強く、霊界の影響が弱い状態にあるので、両者が互いに作用し合って安定した状態を保てるようになる必要があります。
その為にも、この地域では数々の試練を乗り越えることによって、既存の価値観には欠点があって、変える必要があることに気づかなくてはなりません。
その試練は過去の選択の結果として表れているので、過去の選択の結果を全て刈り取るまで苦難が続きます。
この地域に暮らす人々は、それらの苦難から何を学び取り、どの様な国作りを行うのかが問われています。





■ スミルナにある教会の天使に宛てた手紙

以前の黙示録解読では、スミルナにある教会とは『霊界と地上界を繋ぐエルサレムの拠点』だと述べました。
そしてスミルナにある教会の天使とは、聖書の創世記に登場するアブラハムの子孫であり、今のところその代表者が誰であるかはよく分かりません。
何故かというと、アブラハムをルーツとする「アブラハムの宗教」にユダヤ教、キリスト教、イスラム教があり、そのうちのキリスト教はエフェソにある教会に関係があるので除外すると、ユダヤ教とイスラム教の中にアブラハムの子孫が混在していると考えられるからです。
旧約聖書やクルアーンの中に、その辺りの事情についての記述が含まれている可能性はありますが、黙示録からその辺りの事情を読み取ることは出来ません。
さて、スミルナにある教会の天使は苦難と貧しさの中に置かれ、また自らをユダヤ人と名乗る者によって非難されているようです。
ユダヤ人と名乗っていても、実はサタンに与する偽者であり、スミルナの教会の天使を虐げています。
天使の生活環境は厳しくても、神との繋がりにおいては豊かなのですが、これからも悪魔の試みによって様々な苦難を乗り越えなくてはなりません。
イエスはスミルナの教会の天使に対して、死に至るまで(神との契約に対して)忠実であれば、命の冠を授けると述べています。
そして勝利を得る者は第二の死を免れて、黙示録の最後にあるように、新しい天と地で聖なる都エルサレムに集うことが出来るのです。

以上の、人間視点から見たスミルナにある教会の天使に宛てた手紙について、霊界の住人はどの様に見ているのでしょうか。

曰く、この地域に暮らす人たちは、今回の神の裁きの時点では、自分自身の行いよりも周囲の環境による影響が大きく現れてしまいます。
周囲の環境に翻弄されながらも、どれだけ霊的真理を学び取れるかが大きな鍵となります。
誘惑に負けず、神の言葉の実践者として苦難を乗り越えることが出来れば、イエスのように神の御許に引き上げられるでしょう。





■ ペルガモンにある教会の天使に宛てた手紙

以前の黙示録解読では、ペルガモンにある教会とは『霊界と地上界を繋ぐ米国の拠点』だと述べましたが、詳しくは五大湖のほとりのどこかにあるようです。
そしてペルガモンにある教会の天使とは、米大陸の先住民族であるインディアン部族の中にいると思われます。
まず、ここにはサタンの王座があります。
その様な土地にあってもイエスの名を守って、イエスに対する信仰を捨てなかったとありますので、ペルガモンの教会の天使はサタンの唆しに惑わされない、イエスの教えに対する強い確信があることが分かります。
しかし、一部にバラムの教えを奉ずる者がいて、かつて聖書(民数記第二十二章~第二十五章、第三十一章)でバラムがイスラエルの子らを躓かせる方法をモアブ人の王バラクに教えたように、彼らに偶像に捧げた肉を食べさせ、淫らなことをさせようとしています。
「偶像に捧げた肉を食べさせる」とは、悪魔を信奉して恩恵に与ることで、本来なら受け取れる立場にないものを強引に奪い取ったり、正当な手順を踏まずに身勝手な解釈を押しつけたり、不正な手段で富を独占する行為や考えを指します。
また、ここにもニコライ派の教えを奉ずる者がいます。
そこでイエスは悔い改めるように呼びかけて、悔い改めない者に対しては自分の口の剣で戦おうと述べています。
口の剣で戦うとは、言葉で説得するという意味ですが、イエス自身の口の剣で戦うのですから、かつてイエスがヨハネに伝えた黙示録の記述通りの出来事が後に実現することによって、その様を目の当たりにしたバラムの信者もニコライ派も、イエスの言葉を否定できなくなると言うことでしょうか。
そして勝利を得る者には隠されていたマンナと白い小石を与えるとあり、マンナは主がイスラエルの民の為に天から降らせたパンであり、白い小石とは裁判で無罪の判断を示すものです。
ここに至ってペルガモンの教会の天使は、バラムの信者やニコライ派による不遇な扱いを返上し、教会の天使としての活力がますます活発になるのではないでしょうか。

以上の、人間視点から見たペルガモンにある教会の天使に宛てた手紙について、霊界の住人はどの様に見ているのでしょうか。

曰く、今回の神の裁きで、最も大きな影響を与えることになるであろう地域がここになります。
サタンの王座があると記しているように、神の計画に則って物事が進むのを嫌う傾向にあります。
この地域はサタンが己の優位性を知らしめるために、特に大きな影響力を行使する場所になります。
あらゆる手段を行使して、神の計画を阻止する為に働くことになります。
しかし、それすらも神の計画に含まれており、全ては想定内の出来事です。
この様な状況下にあっても、神の言葉を実践し続けることが出来る者は幸いでしょう。





■ ティアティラにある教会の天使に宛てた手紙

以前の黙示録解読では、ティアティラにある教会とは『霊界と地上界を繋ぐ日本の拠点』だと述べましたが、霊媒Mによると、東京にある皇居を中心として、関東平野を覆い尽くすほど大きな光の柱が、天に向かって伸びているイメージとして感じられるのだそうです。
そしてティアティラにある教会の天使とは日本の歴代天皇であり、天皇陛下が宮中祭祀を執り行われることにより、日本に取って特別に権威ある存在であることを裏付けています。
まず、イエスはティアティラの教会の天使の行い、愛、信仰、奉仕、忍耐の様子をよく心得ており、特に天使の近頃の行いが、最初の頃より勝っていることもよく見て、褒めています。
これは天皇陛下が日本の拠点の覡役としての役割を全うしていることですが、特に「天使の近頃の行い」とは明治以降に日本の拠点の活動が活発化し、覡が担う役割の幅が広がったことを指しています。
しかし、ティアティラの教会の天使が、イゼベルという女のすることを大目に見ていることだけは問題視しています。
イエスは悔い改める機会を与えましたが、イゼベルは淫らな行いを止めようとしません。
イゼベルは聖書の『列王記上』第十六章~第二十一章にかけて登場しますが、ここではイゼベルとは朝鮮を指すのだそうです。
イゼベルは「私には神の言葉が分かる」と称して、神の僕たちに嘘偽りを教えたり、惑わせて淫らなことをさせ、偶像に捧げた肉を食べさせようとしています。
サタンが王座を構えるペルガモンの教会でも「偶像に捧げた肉を食べさせ」ていますので、イゼベルはサタンの眷属として活動していることが分かります。
そこでイエスはイゼベルを床に伏せさせ、またイゼベルと共に淫らなことをする者たちにも、その行いを悔い改めないなら、酷い苦しみに遭わせて、イゼベルの子供たちを打ち殺します。
そうすることによって全教会(=アジア州にある七つの教会)は、イエスが人の思いや判断を見通す者だと悟るようになります。
イエスは、全ての人々の行いについて、各自の行いに相応しい報いを与えるからです。
イゼベルは床に伏せさせられるのですが、聖書で「床」とは「寝床」の表現として使われていますので、起き上がれないほどの重篤な病に冒されるのでしょうか。
そしてイゼベルの子供たちは打ち殺されるのですから、韓国と北朝鮮は無くなってしまう――恐らく『神の裁き』の過程で合併して一つの国家になるのでしょうが、南北統一後の朝鮮半島の国家は活力を大幅に失って、もはや対外的な影響力を及ぼせないほど衰退すると読めるのですが…。
ティアティラの人たちの中にいて、イゼベルの教えを受け入れずに、サタンの奥深い秘密を知らない者には、別の重荷は背負わせないので、ただイエスが訪れるまで、今持っているものを固く守るように申しつけています。
ここではティアティラの人たち=日本にいる人たちに向けて、今持っているものを固く守るようにアドバイスしています。
「今持っているもの」とは、日本の国土、天皇を中心とした国家の枠組み、古から伝わる伝統と文化等々で、日本の側から相手に侵攻するのではなく、相手を自国に踏み込ませず、仕組みや慣習の変更を強いる企みをはね除けるなど、自国の防衛によって凌いで欲しいと言うことでしょうか。
そして勝利を得る者、またイエスの業を終わりまで守り続ける者には、イエスより諸国の民の上に立つ権威を授けられます。
イエスがかつて父である神からその権威を捧げられたように、ここで勝利を得る者に受け継がれることが示されています。

以上の、人間視点から見たティアティラにある教会の天使に宛てた手紙について、霊界の住人はどの様に見ているのでしょうか。

曰く、今回の『神の裁き』を通じて大きな転換期となる地域です。
ここで重要なことは、何故苦難に遭うことになったのか、今までの己の行いを顧みることです。
無知であったために誤った認識に基づいて成り立っていた『常識』を振りかざしていた、という事実に気づきましょう。
一見すると誠実で素晴らしく見える考えや行いでも、更に詳しく見ると、実はとても不誠実な考えや行いであったかもしれません。
イゼベルの行いを観察する中から何を学び取れるかがとても重要です。
相手の非を追及するのはとても簡単なことですが、それではいつまでも苦難から抜け出せません。
己の行いが不適切であったことを認めて、改める姿勢が大切です。
あらゆる物事の結果は、各々の選択に則っているので、思う様に結果が現れないならば、どこかで選択を誤っていたのです。
選択を誤ったのは自分自身であることを自覚しましょう。
イゼベルが床に伏せられ、イゼベルの子供たちが打ち殺されるのと、この地域の人々が己の行いを顧みて、これまでの経験から学べるかはまた別の話となります。
この経験から霊的真理を学び取ることが出来れば、勝利を得る者となるでしょう。





■ サルディスにある教会の天使に宛てた手紙

以前の黙示録解読では、サルディスにある教会とは『霊界と地上界を繋ぐスーダンの拠点』だと述べました。
そしてサルディスにある教会の天使とは、恐らくスーダン土着の宗教で権威ある者を指すのだと思いますが、スーダン国内の事情がよく分かりませんので、サルディスの教会の天使について、『銀の紐』としては今のところ特定できない状態です。
また2011年に南スーダン共和国が分離独立し、日本からも自衛隊をPKOとして派遣していますが、治安が不安定な状態が続いています。
まず、イエスはサルディスの教会の天使について、あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいると述べており、目を覚まして、死にかけている残りの者たちを強めるよう求めています。
これではイエスの目から見ても、十分に教会の天使としての務めを果たしているとは言えません。
そこでどの様に(教会の天使の務めを)受け、(その役目の意義を)聞いたかを思い起こして(サルディスの教会を)守り抜くように、悔い改めよとイエスに諭されています。
恐らく古の時代に土着の宗教において権威ある者が、スーダンにある宗教上の聖地とされる場所を、必要とされる時が来るまで世代を越えて守り続ける役割を引き受けたはずなのですが、その聖地(『スーダンの拠点』)が蹂躙され、今や「そこが宗教上の聖地である」という記憶さえ失われようとしているのです。
そして目を覚まさない者に対して、イエスは盗人のように行くと述べています。
ただ誰にも気づかれないように、抜き足差し足でこっそり現れるだけでなく、盗人が盗み取るように、本人の知らないうちに教会の天使としての(拠点を聖地として守り続ける)役目を剥奪します。
しかし、少数ながら衣を汚さなかった者がいて、この者たちは汚れていない白い衣を着てイエスと共に歩みます。
勝利を得る者とは白い衣を着せられており、命の書から名前を消されることもないので、最後の審判を経て、天と地を新しくした後の「聖なる都エルサレム」に集うことが出来るのです。

以上の、人間視点から見たサルディスにある教会の天使に宛てた手紙について、霊界の住人はどの様に見ているのでしょうか。

曰く、今回の『神の裁き』の影響をある程度受けるものの、霊的には不活発な状態にあります。
自ら求め、行動することを学ぶ必要があります。
他人はその者の都合で動くことを知る必要があります。
霊的には、最も厳しい環境に置かれていると言って良いでしょう。
その様な厳しい環境下にあって、神の言葉を実践できる者は強靱な精神の持ち主だと言えるでしょう。
この地域が霊的に活発になる時期はまだ先のこととなります。





■ フィラデルフィアにある教会の天使に宛てた手紙

以前の黙示録解読では、フィラデルフィアにある教会とは『霊界と地上界を繋ぐチベットの拠点』だと述べました。
そしてフィラデルフィアにある教会の天使とはダライ・ラマ法王です。
ダライ・ラマ十四世法王は、チベットの拠点の覡として覚醒しているわけではありませんが、ダライ・ラマをチベット仏教における権威ある存在として後の世に伝える役目を担っています。
イエスはまず、フィラデルフィアの教会の天使に向かって「あなたの前に門を開いておいた。誰もこれを閉めることは出来ない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないといわなかった。」と述べています。
これはフィラデルフィアの教会が長らく天然の要害に守られて来たものの、遂にそこへ至る門が開かれた時、フィラデルフィアの教会は力の弱さを思い知ることになります。
中共に国土を蹂躙され、多くのチベット人が虐殺・弾圧されている実態に符合します。
しかしチベットはそのまま中共に屈するのではなく、ダライ・ラマ十四世によりインドにチベット亡命政府が成立するなど、チベット人は劣勢ながらも民族と文化と宗教の伝統を守るため、中共に対する抵抗を続けています。
ここに「サタンの集いに属していて、自分はユダヤ人であるという者たち」が登場します。
彼らはスミルナにある教会で「自分はユダヤ人である」といった者共の同類で、フィラデルフィアの教会を蹂躙したのは彼らの仕業なのですが、ここでイエスは彼らを、フィラデルフィアの教会の天使の足元でひれ伏すようにすると述べています。
神の裁きの時にあたり、諸国の民はこれまでの各々の行いに応じて裁かれるのですが、ここまで試練の時を過ごしてきたフィラデルフィアの教会は、今までの忍耐を認められて、裁きの混乱から守られるのです。
そこであなたの栄冠を固く守るようにと言うのは、ダライ・ラマの世界的な宗教指導者としての立場と行動、隣国に亡命しながらもチベットの旗を掲げ続けた矜持を保つことでしょうか。
勝利を得る者には「神の神殿の柱」として、神の御許に引き上げられることになります。
そして神の僕の証しである神の名が記され、神の都の住人の証しである神の都の名が記されます。

以上の、人間視点から見たフィラデルフィアにある教会の天使に宛てた手紙について、霊界の住人はどの様に見ているのでしょうか。

曰く、この地域を蹂躙している者たちは、今回の『神の裁き』を通じて大きく影響力を削がれるでしょう。
本来受けるべきではないものを貪り続けた結果、肥大化しすぎて維持が出来なくなるのです。
本来この地域を統治するためにいる人々は、その時が来るまで苦難に耐え、神の言葉の通りに実践し続けることが出来れば、必ず勝利を得る者となります。
その勝利は誰の目にも明らかなものとなるでしょう。
チャンスが訪れた時に適切に行動できるか否かが問われてきます。





■ ラオディキアにある教会の天使に宛てた手紙

以前の黙示録解読では、ラオディキアにある教会とは上記の『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を除いた全ての場所だと述べました。
そしてラオディキアにある教会の天使とは、上記各教会の天使を除いた全ての人を指します。
ですから、今この記事をご覧の皆様の大半の方に向けて送られた手紙と言うことになります。
そこでイエスは冒頭「あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであって欲しい。」と述べて、明確な信念もなく、日和見でどっち付かずな姿勢を咎めています。
更に「熱くも冷たくもなく、生ぬるいので、わたしはあなたを吐き出そうとしている。」と述べて、このままではイエスも匙を投げて見捨ててしまいたいほどの惨状であることを示唆しています。
そんなあなたは「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要なものはない」と言っていても、イエスから見ると「惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者」であり、その哀れな姿を自覚すらしていないところがまた哀れなのです。
しかしイエスはそこであなたを見捨てることはなく、三つのアドバイスを与えて悔い改めを促します。
「裕福になるように、火で製錬された金をイエスから買うように」
「裸の恥をさらさないように、身につける白い衣を買うように」
「見えるようになるために、目に塗る薬を買うように」
この三つのアドバイスについては、記事【『ヨハネの黙示録』に託されたメッセージ補足3】で詳しく述べています。
イエスは愛する者を叱ったり、鍛えたりするので、今までの行いを悔い改めて、熱心に取り組むように促しています。
イエスはあなたの家の戸口に立って、扉を叩いているので、イエスの声を聞いて扉を開けさえすれば、イエスはあなたと食事を共にすると述べています。
その様にして勝利を得た者は、かつてイエスが神の御許に引き上げられたように、今度はイエスがあなたを神の御許に引き上げてくれます。

以上の、人間視点から見たラオディキアにある教会の天使に宛てた手紙について、霊界の住人はどの様に見ているのでしょうか。

曰く、これは、世界に存在する特定の地域に限定されない人々を表していて、彼らは霊的なことについての関心がなく、物質的なことのみが関心の対象となっています。
自分の五感で感じ取れるもの以外は信じないので、ある意味正直者ではあっても、一方で目先の物事しか考えられず、周囲への影響を自分の都合だけで推し量ってしまいます。
興味の対象が物質的な物事なので、物質的な側面を追求したがります。
この世の全てが物質で成り立つという思考の持ち主なので、神の御許に引き上げられることには興味を持ちません。
この世の栄耀栄華を極め、世界の支配者になりたがるのがこのタイプです。
彼らが霊的真理に関心を持つようになるためには、まだ多くの経験が必要になります。





■ アジア州にある七つの教会の天使に宛てた手紙のまとめ

このテーマについては、以前の黙示録解読の内容を人間視点として復習しながら、霊界の住人の視点から見たコメントを付け加えて比較する形式を取りました。
まず冒頭で総論として、七つの教会は地域・文化・慣習の違いから表面的には別物に見えても、その根本にある価値観は共通していて、最終的には皆同じ価値観に辿り着くと述べています。
更に、今回の神の裁きでは欧州・米国・日本の動向が世界に大きな影響を及ぼすとしていますので、欧州にあるバチカンの拠点=エフェソの教会と、米国の拠点=ペルガモンの教会と、日本の拠点=ティアティラの教会の動向を特に注視しながら、黙示録の記述が現代に証しされる様子を確認することになります。

さて、前回の記事【[黙示録再解読]:ヨハネに黙示録を伝えた意味】にて、神と七つの霊とイエスについて述べている箇所があります。
そこでは「玉座の前におられる七つの霊」について、屠られたような小羊であるイエスが勝利を得た時に、神から渡された巻物にある七つの封印があって、その封印を施したのが七つの霊だと述べ、七つの霊が世界に六カ所ある『霊界と地上界を繋ぐ拠点』拠点を築くために尽力したと述べました。
七つの霊と六カ所の拠点では数が合いませんが、その点について前回の記事では言及しませんでした。
以前の黙示録解読ではこの点を六カ所の拠点+αとしましたが、ここで改めて整理しておきましょう。
以前の黙示録解読や前回の再解読記事でも述べているように、『ヨハネの黙示録』とは、天と地を新しくした後に、聖なる都エルサレムを神と僕による共同統治をすることになっていて、出来るだけ多くの者をそこへ導く為に『人間(に宿る霊の)育成計画』として記されました。
しかし、天と地を新しくした後の地球上は、勝利を得た者でなくては存在することが出来ません。
そこで、より多くの者が勝利を得るための働きかけとして七つの段階を設定し、特定の条件を満たす毎に次の段階へとステップアップする仕組みを設けました。
それが今回の記事である「アジア州にある七つの教会」であり、即ち小羊イエスが神から渡された巻物にある七つの封印です。
七つの封印のうちの六つは、特定の『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を開くことですが、これらは皆七つ目の封印であるラオディキアの教会を機能させる為の下準備であり、七つ目の封印を開いてラオディキアにある教会の天使をきちんと教会の天使として機能させることによって、他の六つの封印(六カ所の『霊界と地上界を繋ぐ拠点』)を開いた目的がようやく報われることになります。
そして七つ目の封印を開くこととは、ラオディキアにある教会の天使である、ご覧の皆様を含めた全ての人間を、肉体に宿った状態でのままで、神と直接霊的エネルギーのやりとりが出来る程度に霊媒能力を覚醒させることです。
対象となるのが全ての人間ですので、七つ目の封印に該当する特定の拠点は存在せず、敢えて言えば地上全体が七カ所目の『霊界と地上界を繋ぐ拠点』となります。
また、七つの霊とイエスの関係を述べると、七つの霊が七つの封印の開閉を管理する扉であり、イエスが扉の錠を開くための鍵となります。

Silvercord管理人 





なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご覧下さい。

閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/


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また、コメントを投稿される際は、記事【改めて、ご覧の皆様へのお願いと連絡事項】をご覧下さい。

9 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

宗教とは宗=神の教えという意味のはずなのに、現代宗教の多くは宗教ではなくなってますね。拝金主義に陥っている宗教程そのような傾向にあるように思えます。お金(お金に限らずあらゆる道具、物質あるいは物理現象全て)そのものは正しく使えば人の世を豊かにするとても便利な道具なのでそこに裁きが下される事はないはずです。やはり人の心の在り方ひとつなのだと思います。倫理観を積極的に高めようとする意思を育てる為の土壌を作ることが封印を解く具体的な目的なのではと考えます。先日NHKでカントの「永遠平和のために」を解説してくれる番組があり、そこで示された永遠平和成就の手法においても倫理観が重要な要素であるとなっていました。カントは倫理とは具体的に論理的にどういうものなのかも示していましたがそれを理解するにはやはり相応の論理的思考力が必要で、改めて基礎教育や高等教育普及の重要性や緊急性が認識されるべき時代になったのではないかと思います。拠点の解放によって増える霊的エネルギーに見合った智慧(般若)を身につけなければバランスが崩れ身を持ち崩し裁きが下されたような状態になるのではないかと思います。逆に考えればそのような智慧を持つ事が出来れば黙示録にあるような裁きは起きないという事ですね。

Silvercord管理人 さんのコメント...

匿名様

神の教えとは神と向き合うことであり、神の境涯へ引き上げられる方法を模索することなのですが、現代宗教は個人が神と向き合うことよりも、宗教団体という組織を維持・運営することが主目的になって、神の教えからかけ離れてしまうのです。
宗教団体の維持・運営自体は、地上世界や人間社会に対する執着の表れですので。
黙示録にある『神の裁き』では、各々の今までの行いに見合った結果が明らかになりますので、「私は今まで神に裁かれて困る行いをしていない」と断言できる方でしたら、その言葉通りに自信を持って裁きに臨めば良いのです。
個人として、神の裁きを恐れる必要が無い人はいるでしょうが、少なくとも現時点では、神の裁きを通じて過去の過ちを知る人の方が遥かに多いことを、神様も予め見越していたと言えそうです。
(だからこそ、黙示録で神の裁きについて詳しく説明しているのですから)
とはいえ、イエスは三つのアドバイスとして「裕福になるように、火で製錬された金をイエスから買うように」と言っているのですから、今回の神の裁きの時代の経験を「不純物を火で製錬して金にする過程」と覚悟を決めて、ここできちんと金に製錬できるようにしたいですね。

青虎 さんのコメント...

いつも拝読させていただいております。日本と世界が少しずつでも良くなっていければも思っております。日本と土が似ている、海が繋がっているとあうことで、副業ではありますが、このコラムでおっしゃられているイザベルから若干の農産物や魚介類を輸入しております。私のような者にもいずれ神の裁きが下るのでしょうか。

Silvercord管理人 さんのコメント...

青虎様

『神の裁き』とは、今までの行いに応じた結果が現れることですので、今生きている全ての人に神の裁きは下ります。
そして神の裁きを受けた結果の現れ方も、各々の今までの行いによって千差万別となりますので、ここで過去の努力が報われる人もいれば、過去の悪事が暴かれて償いを迫られる人もいるでしょう。
しかし、そういった個人的な影響とは別に、日本と朝鮮半島の関係が今までとは変わってゆきますので、朝鮮半島と仕事上の取引をされている青虎様の場合は、神の裁きに伴う日本と朝鮮半島の関係の変化と、今までのご自身の行いの結果と、双方の影響を受けることになるのではないでしょうか。
そして、国同士の関係の変化は、個人の関係が変化するよりも遥かに多くの人に影響を及ぼします。
黙示録によると、イゼベルの子供達が打ち殺され、イゼベル自身は寝床に伏せさせられる結末は避けられないようですので、管理人は日本がイゼベルの行く末に巻き込まれないようにした方が良いと思います。
イゼベルのまとわりつく手を日本が払いのけるために、個々の日本国民として何が出来るか、でしょうか。

青虎 さんのコメント...

ありがとうございました。商売とは別で「神の裁き」はいつ頃の予定でしょうか? もしかしたらもう始まっているのでしょうか?

Silvercord管理人 さんのコメント...

青虎様

『銀の紐』掲載記事【『還水平アーク』現象が示すもの[謎かけ編]】の冒頭で述べている、2014年5月4日に関東から中四国にかけて観測された『還水平アーク』と呼ばれる現象が、日本において今回の『神の裁き』を開始する合図だと認識しています。
ですから、今は既に『神の裁き』の時代に入っています。
そして『神の裁き』の期間に法則性があることを、記事【『ヨハネの黙示録』では語られていないこと】で言及していますので、その法則性に基づいて、概ね今世紀末まで『神の裁き』の期間が続くと見ています。

青虎 さんのコメント...

ありがとうございました。改めて読ませていただきました。奥深さを感じました。

匿名 さんのコメント...

回答ありがとうございます。自分なりに考えるところがありお礼が遅れました。主観なのですが神の裁きと表現される第三者(神)による裁きというのは誰の身にも起きないと考えました。ただ裁きそのものはそれぞれに起きるのですが、裁く主体は神様ではなく自分自身であるというものです。転生前に自分で課題を設け帰幽後に自分で採点するというのが自由意思を重んじる創造主のやり方だろうなと思います。 此度解説して頂いている神の裁きと呼ばれる天変地異のような現象は直接的な罰ではなく、私たちの目標に対する姿勢の甘さ(自己採点の甘さや低すぎる目標設定)に喝を入れる為の檄だと思います。それら檄もまた私たち自身が望んだ負荷(霊的成長の為には手段を選ばない意思)なのだと思います。

Silvercord管理人 さんのコメント...

匿名様

『神の裁き』という言葉は、聖書に束ねられている文書の執筆者である人間による表現であり、キリスト教会の価値観を反映しています。
ですから、神様や霊界の住人に聞けば「実態とは異なる」と答えるかもしれません。
但し、ここでは黙示録の解読として記事を投稿していますので、聖書の表現を用いています。

さて、自分が自分自身を裁くとのお話ですが、それは黙示録にある『神の裁き』の時期に限定しなくとも、人間としての生涯を終えた霊は皆行っています。
それとは別に、人間に宿る霊が未熟であればあるほど、その様な人間達が作り上げた社会は、人間が神の境界へ至る経験を積むには相応しくない構造になってしまいます。
霊が人間に宿って様々な経験を積むのは、それらの霊を神の境涯へ引き上げる為ですので、人間社会の構造が神の境涯から遠ざかるようでは、霊が人間に宿る意味がなくなってしまいます。
とはいえ、人間社会の状態に問題があるからと無闇に『神の裁き』で干渉していては、逆に人間が意気消沈して、人間社会を構築する努力を止めてしまうかもしれません。
そこで、神様が予め一定の基準を設けていて、その基準に達したところで『神の裁き』が発動する様に仕組んでいるのではないでしょうか。
『神の裁き』として自然環境の変化を誘発することにより、人間社会に天変地異という変化が現れると、人間社会の構造がそれまでのままでは維持できなくなります。
そこで自然環境の変化に適応した新たな社会作りに取り組む経験が、人間に宿る霊を神の境涯へ引き上げる糧となるのです。
ですから、匿名様が仰る自分自身の振り返りに重ねて、人の集団である社会のあり方をより洗練させる為のきっかけとして『神の裁き』があり、社会の仕組みが洗練されるほど人類全体として神の境涯へ近づいてゆくのだと思いますが、いかがでしょうか。