【黙示録関連記事一覧】
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■ 四人の天使ともう一人の天使
このテーマについては、以前の黙示録解読の際に一通り解説していますので、基本的には人間視点から見た以前の解読と、神の視点から見た今回の内容を比較して、適宜補足を加える方向で進めます。
黙示録第七章第一節~二節には、ヨハネが、大地の四隅に天使が立っているのを見たとあります。
この天使たちは、大地の四隅から吹く風を抑えて、、大地や海や木に吹き付けないようにしていたそうです。
更にもう一人の天使が、生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上がってきます。
ここは天使たちの働きかけについて述べている部分ですので、以前の黙示録解読の際には簡単に読み飛ばしてしまいましたが、この部分について、霊界の住人はこの様に述べています。
曰く、ここで場面が霊界の様子に切り替わっています。
神の言葉を実践する者たちが、悪魔の価値観に酔い痴れる者たちに紛れてしまうことの無いように、四人の天使たちが神の裁きの影響を押さえ込んでいます。
「もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上がってくるのを見た。」の意味を考える時に、巻物の第一の封印を開いた時に、白い馬に乗っている者が現れて、勝利の上に勝利を重ねるために出て行った場面を思い出してください。
第一の封印に当て嵌まる日本の拠点は、バチカンの拠点が管轄する地域(=欧州)の者たちから見て東に位置しております。
そして日本は、現在においても神々と人々の絆を固く結び、守り続けている唯一の地域です。
正に「生ける神の刻印を持った天使」に相応しいでしょう。
これは、第一の封印を開いて神の裁きの時期を越えてから、第二の神の裁きが始まるまでの様子をコンパクトにまとめた表現です。
■ 神の僕に刻印を押して回る天使
黙示録第七章第三節~九節では、大地の四隅にいる天使たちに、太陽の出る方から上がってきた天使が言いました。
「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」
ヨハネがその数を聞くと、イスラエルの子らの全部族の中から十四万四千人に刻印が押されていたそうです。
ところが、ヨハネがそのまま見ていると、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった大群衆が、白い衣をまとい、ナツメヤシの枝を手に持って、主と小羊の前に現れます。
ここで「生ける神の刻印」を押されるのは、イスラエルの子らと呼ばれるアブラハムの子孫の中からだけでは無く、世界中の各地から選別されています。
その中には、聖書に記された神の言葉を知らない、「言葉の違う民」すらも含まれています。
それは、神の刻印を押される条件が「神の言葉に沿って日々を過ごしているか否か」であって、アブラハムの子孫であっても、聖書の神を信仰する人々であっても、神の言葉に沿って過ごしていなければ「神の僕とは見なされない」からです。
逆に、生まれてから一度も聖書に触れたことは無く、キリスト教とも一切関わりが無く、ましてやアブラハムの子孫で無くとも、日々を神の言葉に沿って過ごしている人は神の僕なのです。
そして、小羊が巻物の七つの封印を開くたびに、天使が神の刻印を押して回るのだそうです。
以上の、人間視点から見た神の刻印を押して回る天使の件について、霊界の住人はどの様に見ているのでしょうか。
曰く、ここでわかることは、日本が大切に守り抜いてきた「神々から伝えられた価値観」を理解し、共有できるように成長した人間の数です。
「イスラエルの子らの全部族の中から」と書いてあるように、ここでは聖書を教典とする地域の人々に限定して、詳しく書いています。
これが生ける神の刻印を押された全ての者ではないところに注目しましょう。
あくまでも聖書を教典とする人々の中から、神の価値観を理解して実践するところに到達した人々の数です。
そして、イスラエルの部族の他にも、同じ立場の人々が大勢いて、それぞれの地域において神に学び、神の言葉に沿って実践する人々が現れています。
それこそ、イスラエルの部族の中から刻印を押された十四万四千人どころでは無い、数え切れないほどの人数と多種多様な地域に暮らしている人々です。
「私の神こそが唯一の神である!」として、他の神々の存在を否定し侵す態度こそ、悪魔の価値観に染められている証拠と言えるのです。
「この後、私が見ていると、」という言葉から、イスラエルの部族が神の刻印を押された後に続いて、他の地域の人々の中から神の刻印を押された人々が出現していることがわかります。
ここから、イスラエルの部族の中でも、バチカンの拠点が管轄する地域(=欧州)で神の言葉を実践する人々が、十四万四千人であることがわかります。
ここで言う「イスラエルの部族」とは、純粋に血筋のことを指しているのではなく、それらの部族の人々が神々との絆を大切に守り続けて、神の言葉を実践してきた人々を指しています。
ここでは聖書を教典として、神の言葉を実践している人々という意味になります。
「どの地域に対応した神の庇護下にあるのか」という色分けのための記号のようなもので、その血筋であれば無条件に神との絆が守られるわけではありません。
ですから、日本においても、外国出身の人であっても日本の神に受け入れられて、その庇護下で暮らし、日本の神の言葉を実践する人は、日本の枠組みに組み入れられます。
逆に、日本人であっても日本の神に逆らい、秩序を破壊する存在であれば、日本の神の庇護に与ることは出来ません。
これは、他の地域の神々についても同じです。
その地域に生まれたと言うだけでは、その地域の神々の庇護に与ることは出来ません。
神の言葉を理解するように努め、実践する者でなくては、神の庇護に与ることもままならないのです。
決まり事を守れない者は、時が満ちれば容赦なくその土地から追い出されるでしょう。
ここで追記として、「イスラエルの子らの中から刻印を押された十四万四千人」について、霊界の住人による補足説明があります。
曰く、この十四万四千人について補足しておくと、第二の封印であるバチカンの拠点が管轄する地域(=欧州)において裁きの時が訪れた際に、既に神の境涯に達しており、神と共にバチカンの拠点が管轄する地域の人間達に働きかけを行っている者のうち、イスラエル十二部族出身の者が十四万四千人いる事を指しています。
この十四万四千人は人間として暮らした最後の生涯をイスラエル十二部族の民として過ごした者たちであり、勝利を得た後にバチカンの拠点が管轄する地域への働きかけを希望し、現在活動している者の数です。
では、なぜ彼らが生前過ごしたエルサレムの拠点が管轄する地域(=中東)で活動せずに、バチカンが管轄する地域で活動する事を希望したのでしょうか。
彼らは一つの民族、一つの宗教に固執するのではなく、別の地域で育まれることになる新たな可能性と喜びを、そこに暮らす人間と共に味わい、感じ取りたいと考えました。
ここで勘違いしないで頂きたいのですが、かつてイスラエル十二部族の民として過ごした者のうち、この十四万四千人のみが勝利を得た者というわけではありません。
その他にも、彼らが生前過ごしたエルサレムの拠点が管轄する地域に向けて活動を行っている者が大勢います。
ただ、この黙示録は新約聖書に束ねられた文書であり、新約聖書はバチカンの拠点が管轄する地域に暮らす人々へ向けた文書ですので、特にバチカンを中心とした地域に焦点を当てて、詳しく説明されているのです。
勝利を得た者として神の御許に辿り着いた後に、必ずしもかつて自分が人として過ごした地域で活動する事を希望するわけではありません。
彼らが最も重視しているのは、一人でも多くの人間が十分な経験を積んで神の知恵への理解を深められるように、より学びやすい環境を提供するために尽くすところにあります。
そうして神の知恵を深く理解する者が増えるにつれて、ゆくゆくは共に協力して安全で安定した社会を築いてゆけますし、それらの経験はより多くの人が勝利を得て、神の御許へ辿り着く力となるでしょう。
最早勝利を得た者にとって、かつて人間であった当時に敵であったか味方であったかという点は些細な拘りであって、それを気にしているうちは神の境涯には辿り着けません。
また、神の知恵に照らして「これが正しい」と判断する事柄であっても、十分に理解を深めることなしに、中途半端な知識を基にして、地上界において無理に再現しようと考えてはいけません。
しかし「それが正しいのだから」と無理を押し通すと周囲に強いることになり、それは傍から見れば独りよがりの我が侭であり、それが「善かれと思って」の行動であっても、周囲の者にとっては傍迷惑となってしまいます。
何事においても言えるのですが、新たに発見された一つの真理が人々の心に浸透し、当たり前のものと認識されるまでにはそれ相応の時間がかかるということを、よく肝に銘じておきましょう。
人間として過ごしている間でも、勝利を得た者たちと同様の考え方をする人は少数ながら存在しますが、彼らは淡々と自分の目的を達成するために活動する事はあっても、強引に人を従わせようとは考えません。
社会の混乱を防ぐための決まり事を住民に守らせることと、自分勝手な思い込みを実現しようと周囲に強いることは全く意味が異なります。
無理を押して周囲に強いる状態を続けていると、必ず反発が起きて争いとなります。
今地上界で起きている争いを観察した時に思うのは、己を省みるのではなく、互いに己の領分を超えて周囲に干渉しすぎることが問題の原因となっているので、それをよく肝に銘じておく必要があります。
己が動くのではなしに、人を動かそうとしても、思いのままに動かせるわけではありません。
これは皆様の経験を振り返ったり、身の回りの出来事を観察していれば当たり前と理解できる筈なのですが、どうやらそのことを理解できない人間が大勢いるようです。
だからこそ、人に求めては「思い通りにならない」と不満を漏らし、挙げ句に「裏切られた!」と騒いで見当違いの敵意を抱き、見境なく攻撃するのでしょう。
その様な不毛な状態に陥らないように思慮深くありたいものです。
とはいえ、何事も一人で行えというわけではありません。
必要に応じて周囲に協力を求めることにより、困難な状態の変化に繋がりますし、その行動を通じて人々の絆を深めて行けますので、適切な手順を踏めば良い結果に繋がるでしょう。
(2016年11月18日追記)
■ 天使たちの礼拝
黙示録の第七章第十節~十二節では、白い衣をまとった大群衆が大声で叫びました。
「救いは、玉座に座っておられる私たちの神と小羊とのものである。」
そして、玉座と長老達と四つの生き物を囲んで立っていた天使たちが、神を礼拝して言いました。
「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、代々限りなく私たちの神にありますように、アーメン。」
以前の黙示録解読の際には、この辺りは簡単に読み飛ばしてしまいましたが、霊界の住人はどの様に見ているのでしょうか。
曰く、白い衣をまとった大群衆は、小羊の導きにより神の御許に辿り着くまでの経験を持って、神の言葉の実践者と言えます。
そして神を礼拝する天使たちは、神の使いとしての活動に携わっているのですから、当然ながら神の言葉の実践者と言えます。
ここでは白い衣を守った群衆と天使たちを区別していますが、神の言葉の実践者は皆天使という扱いとなります。
この天使たちが語る言葉は、神の価値観を理解し、その言葉を実践する者だからこそ自然に発せられた賛美の言葉です。
この言葉が発せられている時点で、自分たちが過去に受けた苦難の意味を理解して神に感謝しており(※注)、恨み言を述べる者は一人もいません。
※注:
過去に受けた苦難の経験が、神の言葉の意味をより深く理解する要素となっており、その苦難の経験を乗り越えたからこそ、この様に神の御許に集う機会を得たことを良く理解しているからこそ、「あの時、私を厳しく、そして粘り強く鍛えて下さってありがとうございます。」という想いを抱くのでしょう。
■ 長老の問いかけ
黙示録の第七章第十三節~十七節では、長老がヨハネに問いかけました。
「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」
ヨハネは「わたしの主よ、それはあなた方がご存じです」と答えます。
そこで長老はヨハネに言いました。
「彼らは大きな苦難を通ってきた者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。
それ故、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。
玉座に座って居られる方が、この者達の上に幕屋を張る。
彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。
玉座の中央に居られる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」
以前の黙示録解読の際には、この辺りは簡単に読み飛ばしてしまいましたが、霊界の住人はどの様に見ているのでしょうか。
曰く、ここでヨハネが、長老を「わたしの主よ」と呼んでいることに注目して下さい。
ヨハネから見ると、神やイエスと同様に長老も「主」であり、大切な存在なのです。
「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」とヨハネが答えていますが、イエスが人間として勝利を得るために働きかけたのが長老の一人であり、イエスが人として神の言葉を証ししたことにより、その後に多くの「神の言葉の実践者」が続くことを意図していたことまで含めて、初めからヨハネは認識していることが分かります。
そして長老の言葉から分かるように、再び人として暮らす必要のない大勢の天使は、もはや物質界特有の苦難を経験することはありません。(※注)
※注:
飢えること、渇くこと、太陽による暑さなどは、人間の肉体が受ける苦難であって、肉体に宿って経験を積む段階を卒業した天使たちは、もはや肉体に宿る事による様々な苦痛とは無縁であることを示しています。
■ 天使たちが神を礼拝するまでのまとめ
今回取り上げた黙示録の第七章について、管理人は当初「第六章と第七章は繋がっていて、第七章の内容は第六の封印を開く時の出来事を記している」と認識していました。
ところが、第七章の冒頭部分が、最初の神の裁きを終えてから第二の封印を開くまでの時期(第二次世界大戦後~バチカンの拠点を開く2011年まで)との指摘がありましたので、改めて確認を取りました。
黙示録の第六章は、小羊が神の巻物の第一~第六の封印を開いてゆく様子を記していますが、第六章が地上に起きる変化について記しているとすると、第七章は、巻物の第一~第六の封印を開いてゆく間の、天使たちの働きかけや天の神の御許の様子を記していると理解した方が良いようです。
また、以前の黙示録解読の際に述べたように、神の刻印を押す天使は、神の巻物の封印を開く度に現れては、神の僕に刻印を押して回るそうですから、第七章にある一連の出来事が封印を開く度に行われるのでしょう。
そうすると、白い衣をまとう大群衆は、封印を開く度に起きる神の裁きにおいて、新たに勝利を得ることになった者たちなのでしょうか。
そして神の御許に集うことを許された彼らは、その後活動拠点を天の神の御許に移して、天使の一員として活動することになります。
そして次の封印を開く時には、その時の神の裁きにおいて新たに勝利を得る者が大群衆となって現れるのですから、両者とも天使であると言いながら、天使たちと白い衣をまとう大群衆を区別している理由はこの辺にありそうです。
Silvercord管理人
なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご覧下さい。
閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/
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7 件のコメント:
我々が向かうべき神の境涯。神に近づく方法とは。良心に従い、向上心を持ち続ける事だと思います。良心に従うとは己が得た知識や力を誰にも嘘をつかずに全力を奮って行動すること。そうすると自ずと己の力の限界を知ることになり、次に足りない部分を埋めようと未知の世界への好奇心がくすぐられ、向上心の高揚へと繋がる。しかしこの世での実践となると正に言うは易し行うは難しです。だから神様は何度でも何度でも転生するチャンスを用意し、神に仕える天使たちは私を亀の歩みなれど惜しみない手助けをしてくれているのだと思います。
黙示録にある六度にも及ぶ神の裁きという星一つを巻き込んだ大掛かりな計画も元を辿れば私が良心に従って行動出来ていないが故に発動するのだと考えれば他の魂には申し訳なく、また有難く思います。逆に考えれば私が悪魔でないのなら最後の裁きの日までには光だけを見つめ続ける事の出来る真っ当な魂になれるという事。試行錯誤を楽しみ続けられる存在であれたらと思います。
匿名様
黙示録によると、小羊が神の巻物の七つの封印を解いて開く度に「神の裁き」があります。
特に七番目の神の裁きは、七人の天使がラッパを吹く度に七つの現象が地上に現れる様子が描かれています。
そしてサタンが底なしの淵に千年の間縛られた後に、キリストと聖なる者たちが諸国の民を統治します。
千年の後にサタンは再び開放されますが、結局一番最後の神の裁きにより、サタンらと共に火と硫黄の燃える池に投げ込まれる人と、天と地を新しくした後に聖なる都エルサレムに入れる人が選別されます。
と言うことで、黙示録からは7+1回の神の裁きがあると読み取れるのですが、霊媒によるとキリストの千年の統治の後、サタンが再び解放されてから7回の神の裁きがあるとのことですので、7+7で計14回となります。
返答ありがとうございます。14回も大きな変化や試練がもたらされるとは凄いですね。受ける裁きを1回でも少なく神の御許に向かえるように頑張ります。そして自分のように悩める他の人を助けられるように成れればと思います。
傲慢な勘違いかもしれませんが、やっと今生において自分より進歩が遅いであろう者に対してなるべく手本になるような生き方を示せるように性根を改める事が出来始めたような気がします。何分、知恵も浅く力も小さな身ですので成せる事も多寡が知れていますがこの方向性だけは間違っていないと信じています。
匿名様
こちらは黙示録の解読記事ですので、「神の裁き」という表現も黙示録に基づいて使用しています。
ところが、この「神の裁き」という表現が曲者で、人間の至らなさに対する懲罰的なニュアンスを帯びていますので、一回でも少ない方がいいと思ってしまうのではないでしょうか。
確かに、悪魔や大淫婦に共感する人たちにとっては、今までの自分たちの生活環境が覆される「神の裁き」を避けられればよいと思うでしょう。
しかし、悪魔に唆された人々によって築き上げた社会が、「神の裁き」のために継続できなくなると、「本当にこのままでよいのか?」と、自分の過去の行いを振り返って、考えを改めるきっかけとすることができます。
そして神の言葉をよく聞き、勝利を得て神の境涯に引き上げられることを目的にする人であれば、「神の裁き」の時代の経験こそ、より早く神の境涯へ近づく経験値を稼ぐために貴重な機会となります。
そして神様は、少しでも多くの霊を神の境涯へ引き上げようとしていますので、悪魔に唆されていた人が改心したり、神の境涯を目指す人が目的を達成しやすくするために用意している「神の裁き」の数を減らすと、その分だけ神の境涯に辿り着ける霊の数も限られてしまうでしょう。
自分は現在、ことによると何十年来、人に致される御縁にありまして、心情としては地獄に近づく人が大体持つだろうことを考えるのですが、それでも次の時には・・・と仮に来世があるならば同じ生まれを希望するのです。この境遇を味わいたいのではなくて、こうした中でも良い思い出はあるもので、今生では十分に生かせなかったそれを次はもっと、その時居た人々にとって良いものにしたい、と。
たぶん、この世に生まれる時点でのお見合いも似たような気分が何割かはあるのではないか。とある復讐劇が「巌窟王」に昇華されたことと同じような体験が、人生を納得するには必要であって、それが一回ならば一回でよし、14回ならば14回でよし、と考えています。
これから、それぞれの国が、選択したことのツケを払うことになりますが(お西なら人間とお金、お米なら幻想、お露なら目には目、大陸では嘘とエゴ、日本は切り捨ててきたものが実は自分の足元だった…という所でしょうか)、そうした中で全体の最善を全体の一部として目指せる気持ちを維持する拠り所は、それぞれが見たプラスの面に対して何をしたいか、という所にあると思うのです。
10月25日 17:34:00の匿名です。それ以前の匿名とは別人ですが、読み込みで新規を表示できなかったらしく、既存のコメント欄にお邪魔する形となりました。失礼しました。
匿名様
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また、婉曲な表現をされている印象がありますので、コメントの意図を誤読しているかもしれません。
さて、国や文化が異なると価値観が異なりますが、価値観が異なると“最善”の判断基準が異なります。
そして、視野が広い人が判断する“最善”を、視野が狭い人は大抵理解できません。
視野が狭い人が判断する“最善”を、視野が広い人は「考えが足りない」と思うのですが、同時に自身の過去の経験から視野が狭い人の思考回路が想像できるので、どの様にして視野の狭い人の「考えの足りなさ」に気づいてもらうかを考えます。
単純に善し悪しやプラスマイナスで切り分けられないところが、面倒で厄介ですね。
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