■ 匿名様の質問
何かに向かって成長するために行動して、間違って、間違いに気づいて、見直して、行動してをずっと繰り返してるものだと思います。
この対象を現世のみで見ると正直者が馬鹿を見るだけで一生を終えてしまうこともあり、それなら欲望のまま生きたほうが得だと考える者もいます。
でも永遠に学び続けるの魂の一過程として人間としての生活を経験してるのだと考えると現世だけの価値観で欲望に走ると死後必ず後悔すると思うのです。
このように視点によって価値観が180度変わることを学ぶ事も学びの一つなのでしょうか。
前提が正しければ現世においても魂の視点で日常を過ごすことの方が正しい事だと思いますが、それは時として人間の慣習と相反する行動を伴う場合があり時として生命の危険に及ぶこともありそうなのですが(ナザレのイエスのように)そのあたりの解釈をどのようにすればいいのか、何か日常にヒントを得ることが出来るのでしょうか。
■ 『バチカンの拠点開放に携わる霊団』の回答
先ず押さえておきたい事は、善であれ悪であれ、ご本人の欲望が具現化したものであるということです。
人それぞれに、関心の赴く先にある事柄に応じた事を実践しているだけなのです。
一般的に善行といわれる事を実践していたとしても、それも一つの欲望の形です。
世の中を観察する視野が広いために、自分の行動の結果が与える周囲への影響を予測できるだけの経験と知識を兼ね備えているだけに他なりません。
一方、悪行といわれる事を実践してしまっている人は、世の中を観察するための視野が狭く、自分自身の行動の結果が与える周囲への影響を予測できるだけの経験も知識も足りていないだけなのです。
例え同じものを観察したとしても、人それぞれに理解できる範囲には違いがあります。
より広い視野を持ちたければ、日常生活の中での経験を通して地道に知識を蓄積する他には方法がありません。
霊界でも地上界でも基礎となる法則は同じです。
私どもも経験から得た知識に基づいた視野で地上界を観察しているので、皆様と違う視点からも観察できるという事は、それだけ多くの経験を積んで知識を蓄えてきたという事になります。
正直者が馬鹿を見ると仰いますが、その正直者自身は本当に馬鹿を見ていると感じているのでしょうか?
イエスに関しては聖書を読んでいれば分かる事であると思うのですが、死後に復活した姿を人間に示す事もなすべき作業の一つであったので、そのことに関して馬鹿を見たとはお考えになってはおられません。
ご自身の成すべき事を全うされ、立派にお役目を果たしたのですから、馬鹿を見たと評するような要素は何も無いのです。
正直ものは馬鹿を見るというのは、あくまでも周囲の人間が自分自身の考えに基づいてその様に評しているだけであるのです。
本人が感じていることと、周囲の人間が感じている事が必ず一致しているというわけでは無いのです。
正直者は馬鹿を見ると考えるという事は、その人自身の経験が乏しく知識も浅いため、その行動の先にある事柄を予測してみることができないだけの話です。
その様に考える人は、例え死後に霊界へ来たとしても、急に視野が開ける事はありません。
何しろ、それだけの経験も知識もまだ無いのですから、180度価値観が変わってしまうなどということはありえません。
環境が変わることは確かに学びに影響を与えますが、その環境から学び取るのか否かはご本人の考え次第なのです。
どんなに環境が整っていて周囲に促されたとしても、関心のない事柄に関しては心を閉ざしてしまいますので、そこから学び取る事は至難の業なのです。
人がそれぞれに持つ価値観は、あくまでもご本人の経験に基づいた知識を基準にしておりますから、霊になれば価値観が変わると考えるのは間違いです。
地上界にいる間は確かに制約が多く、霊にとっては必ずしも居心地の良い場所ではありませんが、いくら制約が多くても霊として持つ知識を全く認識できないわけではありません。
元々持っている知識であれば、例え肉体に宿る過程で忘れてしまったとしても、経験を通じですぐに思い出すことができます。
学ぶ速度が早い人は、元々知識として持っていたものを改めて再確認しているだけなので理解が早いのです。
一方、一から学んでいる人は同じ事でも学ぶ速度が遅くなります。
一度経験しただけでは理解できない事の方が多いからです。
自分を省みず周囲も顧みない人生を送る人は、それだけ経験が乏しく知識が浅いということなので、痛い目を見て後悔してみるまでは学ぶことができません。
又聞きしただけの単なる知識を、実践を通じて確信へと昇華させる作業を経なければ、確かに学んだとはいえないのです。
学べなければ以前と同じ選択を繰り返してしまいますから、学べるまで何度でも同じ経験をする事になるでしょう。
霊的な視点から観察したとしても、前提の正しい事柄が地上界の慣習と相反するという事はありません。
それは、人間の思い込みに他なりません。
上手な利用法を知らないために相反していると感じ取れるだけです。
全く無意味な必要の無い概念を維持し続けるほど、私どもは暇ではありません。
それらの慣習もすべて学びの要素として必要であればこそ、その状況が維持されているのです。
やっとひらがなを覚えた人に漢字で書かれた文章が理解できないのと同じ様に、何事も学ぶためには段階が必要なのです。
一つひとつ課題をクリアしていく過程でいかに学び取るのかが重要なのであり、一足飛びに何でも事が成せるわけではありません。
どのような物事でも、地道に実績を上げる努力が重要なのです。
一見相反すると思われるものが、実は学びのために大変重要な役目を果たしているものなのです。
相反すると思われるという事はそれだけ経験が乏しいということであり、相反しているわけでは無い事を学び取るために、皆様は今まさに経験を通して学んでいるのです。
どんなに前提が正しくても理解が足りないために方法が間違っているという場合は間々ありますので、それらの事柄が上手く運ばなくてもそれは何も不思議なことではありません。
どのような物事でもバランスを保つ事は大変重要であり、偏りは破壊の原因となります。
例え善といわれる事でも同じです。
薬は皆様の病を癒すことが出来ますが、過ぎれば毒にもなり命にかかわります。
善行でも過ぎれば堕落と破壊の原因となり、その行為は悪行と何ら変わりありません。
周囲への影響をよく考えずに思い込みで実践すると、例え善いと思える事柄でも誤った方向へと進んでしまいますので、ご自分の行動を省み、周囲への影響を確認する時間を設けるのはとても重要な事なのです。
イエスは特殊な使命を持って地上界に生まれてきましたので、一般的な学びを得るために生まれてきた皆様と同じ規準で比べる事は出来ません。
地上界に生まれた時点で積み重ねてきた経験も持ち合わせている知識も、イエスと皆様は比べられるものではありません。
ご自身の行動の先にある死を知りながらもイエスが成すべき事を実践し続けたのは、ご自身の行動が周囲へ与える様々な影響をきちんと理解しておられたからです。
当然、命とはどのようなものであるのかも充分に理解しておられましたから、徒に命を懸けたわけではありません。
これは皆様の学びの経験とは異なる目的のために実践されたものなので、イエスの事例を基準に考えてはなりません。
イエスの姿はあくまでも皆様が将来的に行きつく姿であり、今すぐに実践できるものではありません。
無理に背伸びをする必要はないのですから、今はご自身の日常生活を大切にして、その経験からより多くの学びを得られるように努力しましょう。
(2011年6月22日)
『ナザレのイエス』については、記事【ナザレのイエスとキリスト教会】や、『銀の紐を越えて』掲載の記事【複数の霊能力を発揮する霊能者は現代には存在しない(メッセージ85)】でも取り上げておりますので、合わせてご覧下さい。
【Silvercord】管理人
6月22日現在回答待ちの質問
記事【ご覧の皆様からお寄せ頂いた質問について】の理由により、下記のご質問につきましては、しばらくの間回答を延期させて頂いております。
- 記事【狡さと賢さは別物】のコメント欄からお寄せ頂いたはつゆき様の質問「欧州と中国で、行動の中心にある概念が異なる理由」について
- 記事【日本は法治国家である】のコメント欄からお寄せ頂いたたらこ様の質問「三島由紀夫氏が死後霊界でどの様に過ごしたのか」について
- 記事【ご覧の皆様からお寄せ頂いた質問について】のコメント欄からお寄せ頂いたあやめ様の質問「霊的な視点から見た『東北地方太平洋沖地震』発生の理由」について
- 記事【パニックによる人災を防ごう】のコメント欄からお寄せ頂いた匿名様の質問「『東北地方太平洋沖地震』による、記事【『国境を管理する霊団』からの警告】への影響」について
- 記事【日本は米国の属国か?】のコメント欄からお寄せ頂いたあやめ様の質問「『関帝廟』に祀られている『關聖帝君』は日中関係をどう見るか」について