その際に、霊界の住人の方より「このイメージと『ヨハネの黙示録』を併せて読むと、より深く内容を理解できる」とのアドバイスがありましたので、今回から何回かに渡って『ヨハネの黙示録』の内容を読み解いてゆきたいと思います。
■ ヨハネの黙示録を読み込む為の準備
作業を始める前に、幾つか確認しておきたいことがあります。
ご覧の皆様もご存じのことと思いますが、『ヨハネの黙示録』は新約聖書に収められており、また新約聖書はキリスト教会の教典として扱われて来ました。
その為に、いわゆるキリスト教的価値観の大きな影響を受けた文章となっております。
しかし、これから解説するヨハネの黙示録の文面にも記されているように、キリスト教的価値観の影響により、ヨハネの黙示録に込められた本来の意味合いが歪められた状態のまま、今日まで伝わって来ました。
そこで、キリスト教的価値観によって装飾された記述を解釈し直すことによって、ヨハネの黙示録に込められたメッセージの核心に迫りたいと思います。
なお、これからご紹介する『ヨハネの黙示録』についての解説は、あくまで現時点における霊界の住人の方のアドバイスを参考に、管理人が文章に纏めて再構成したものです。
作業に当たっては、霊界の住人の方の助言と確認のもとに進めておりますが、霊界通信の特性により、「現時点で有効と思われる解釈である」と強調しておきます。
後ほどご説明致しますが、『ヨハネの黙示録』の構成が複雑であり、また『ヨハネの黙示録』は遙か過去の時代に書かれた文章でありながら、遙か後の世に伝え読まれることを想定した表現を用いております。
ですから、時代が移り変わって世の中の価値観が変わっても、ある程度意味合いが通じるように書かれているのですが、反面表現の曖昧さが誤った解釈に繋がってしまう可能性を秘めております。
そこで、実際に『ヨハネの黙示録』の解読に入る前に、最低限必要と思われる予備知識の確認をしておきましょう。
とはいえ、以前より『銀の紐』をご覧の皆様には既にご存じのことと思いますが、この度初めてご覧になる方に向けて、改めて簡単に説明致しますので、既にご存じの方は復習を兼ねて少々お付き合い下さい。
■ 『神の目的』及び『霊界と地上界を繋ぐ拠点』について
神様が人間に対して働きかけるのは、人間の霊的成長を促し、この宇宙に存在する全ての霊を神の境涯へ導く為です。
そして、神様が地球上に存在する全ての生命――特に自ら知的創造活動を行う人類に対して働きかける手段の一つとして、地球上の六カ所に『霊界と地上界を繋ぐ拠点』が作られました。
神様はこの拠点を通じて、管理人が「創造性と思考力を活性化させるエネルギー」と呼ぶ霊的エネルギーを霊界から地上界へ向けて流すことにより、人間の霊的成長を促す働きかけを行って参りました。
さて、地球上の六カ所にある『霊界と地上界を繋ぐ拠点』とは、以下の場所にあります。
東京、バチカン、米国もしくはカナダ(五大湖周辺)、チベット、エルサレム、スーダンの六カ所です。
そのうち、東京の拠点は人類が誕生する際に、六カ所の拠点の最後に開かれて以来、現在までずっと開かれたまま機能しております。
その他の五カ所の拠点は、人類が誕生する際には開かれていたものの、その後順次閉じられ、次に必要とされる時が来るまで閉じられたままとなっておりました。
そして去る2011年の12月に、二番目となるバチカンの拠点が開かれました。
それまでは東京の拠点一カ所から全世界へ向けて送られていた霊的エネルギーは、現在では東京とバチカンの二カ所の拠点から、全世界へ向けて送られております。
ここまで『霊界と地上界を繋ぐ拠点』について、簡単に説明してきましたが、それぞれの拠点には霊界から送られた霊的エネルギーを一旦受け取って、人間に馴染むように性質を変換して送り出す役割――霊媒Mや管理人が『覡(かんなぎ)』と呼ぶ役割の方がおります。
東京の拠点の覡は歴代の天皇が務め、バチカンの拠点の覡は歴代のローマ教皇が務めます――とはいえ、バチカンの拠点は開いたばかりですので、実際に覡を務めているのは先代の教皇からです。
現在は閉じている四カ所の拠点には、今のところ覡を務めている方はおりません。
しかし、遙かな昔に閉じられた拠点の守人を委ねられ、いずれ必要とされる時期に拠点の覡を産み出す苗床となる種族が各拠点ごとに居り、各々の拠点が開かれるまで雌伏の時を過ごしております。
関係する参考資料としては、以下をご覧下さい。
『銀の紐を越えて』掲載記事【『霊界と地上界を繋ぐ拠点』と日本の役割について(メッセージ107)】
『銀の紐を越えてα』掲載記事【宇宙の構造と神々や人間が目指すもの[メッセージ修正版01]】
『銀の紐を越えてα』掲載記事【霊界と地上界を繋ぐ拠点と霊的エネルギーの役割[メッセージ修正版02]】
■ ヨハネがアジア州にある七つの教会に向けて書いた手紙
これから、実際に『ヨハネの黙示録』の文面を追いながら、その言葉に秘められた意味合いを繙いてゆきます。
諸般の事情により、聖書に記されている文章を、記事の中で直接引用は致しません。
その代わりとして、実際に『ヨハネの黙示録』を読みながら、「概ね~の様に述べている」というように、文章の概要を紹介しながら解説を進めてゆきますので、記事に目を通すだけでも内容をご理解頂けるのではないかと思います。
しかし、実際に『ヨハネの黙示録』を読み込んでゆくと、細かな表現にも特定の意味合いを込めている様に感じますので、もし可能な環境でしたら聖書を手元に置いて頂いて、この解説と聖書の文面を照らし合わせてゆくと、一層理解が深まるのではないでしょうか。
さて、『ヨハネの黙示録』の冒頭には、神様から知らされた将来に起こる出来事の幻を、イエスが天使を通じてヨハネに見せたと、この文章が書かれた目的が示されております。
そして、アジア州にある七つの教会に手紙を送るように指示されておりますが、ここで示されている七つの教会とは、上の予備知識で説明した『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を指すのだと、霊界の住人は述べております。
しかし、先程『霊界と地上界を繋ぐ拠点』は世界中に六カ所あると述べましたので、アジア州にある七つの教会には一カ所足りません。
そこで改めて霊界の住人に伺った所、『霊界と地上界を繋ぐ拠点』六カ所+αの、計七者に対するメッセージなのだそうです。
この+αの正体については、記事を読み進めるうちに明らかになってゆきます。
また、七つの教会に向けて書かれた手紙は、いずれも教会の天使宛となっております。
天使とは神の使いであり、神と直接の繋がりを持って神の御用を補助する者ですから、主に『霊界と地上界を繋ぐ拠点』の覡と守人に向けたメッセージと受け取れば良いでしょうか。
では、アジア州にある七つの教会に向けて書かれた手紙の内容を、順番に見てゆきましょう。
■ エフェソにある教会の天使への手紙
第二章の最初に、エフェソにある教会の天使に向けた手紙が示されております。
第二節では使徒と偽る者を見抜いたと記され、第三節ではイエスの名の為に我慢をしたと記されております。
さて、「イエスの名の為に」とは、どういう事なのでしょうか。
これは、イエスの名によって代表される宗教と言うことで、キリスト教とその拠点であるバチカンを指しているのでしょう。
つまり、キリスト教を維持する事によって、神の言葉を記した聖書を後の世に伝え、また神が地上界に直接働きかける為の拠点であるバチカンを守り抜いたと言う意味ではないでしょうか。
しかし、第三節では初めの頃の愛がなくなってしまった=キリスト教が形骸化して、神の言葉を見失ってしまったと指摘し、第四節では悔い改めて初めの頃の行いに立ち戻るよう、諭しております。
更に、悔い改めなければ、あなたの燭台を取りのけてしまうと述べております。
第一章第十九節には、七つの燭台は七つの教会であるとあり、前の項で述べたように教会とは『霊界と地上界を繋ぐ拠点』を指しますので、悔い改めなければバチカンの拠点を取りのけてしまうと言う意味でしょうか。
『霊界と地上界を繋ぐ拠点』としての機能の核心は覡にありますから、本来の神の言葉を見失ってしまったキリスト教の聖職者達に囲まれた、ローマ教皇の不安定な立場を暗示しているような表現です。
続く第六節では、ニコライ派の者達の行いを憎んでいるのが取り柄だと述べております。
イエスも憎んでいるというニコライ派の行いとは何でしょうか。
ここまで読み進めてきた皆様でしたら、何となく想像できるのではないかと思いますが、言わばキリスト教とは、バチカンの拠点が開かれる時まで、神の言葉を記した聖書とバチカンの拠点を維持し、それら全てを後の世に伝えてゆく為の箱船であり、またバチカンの拠点が開かれた後は、神様が人間の成長を促す為の働きかけを行う為の重要拠点として機能します。
そのバチカンの拠点を放棄し、神様の意向を無視して勝手に『神の使徒』と称して人心を惑わす、プロテスタント、東方教会などの諸教派こそが、イエスも憎んでいるというニコライ派の正体です。
そしてエフェソにある教会への手紙の最後には、勝利を得る者には神の楽園の命の木の実を食べさせると述べて終わるのですが、これはどういう事でしょうか。
神の楽園と言えば、旧約聖書の創世記に記されたエデンの園を思い浮かべます。
そこで創世記を見ると、第三章二十二節には、命の木の実を食べると永遠に生きるものになるとあります。
勝利――つまり悪魔サタンに勝利すると、神の楽園に迎えられて永遠に生きるものになると、バチカンの拠点の覡や守人達に述べているのです。
そこで、神の楽園や永遠の命についても気になる所ですが、その説明は後ほど行うとして、次の手紙を見てゆきましょう。
■ スミルナにある教会の天使への手紙
二通目は、スミルナにある教会の天使に宛てた手紙です。
第二章第九節~第十節にかけて、スミルナにある教会の天使が置かれている状況が述べられております。
苦難と貧しさの下に置かれ、また自らをユダヤ人と名乗る者によって非難されているようです。
それは一体誰なのかと、霊界の住人の方に伺ってみると、アブラハムの子孫を指すのだそうです。
旧約聖書の創世記にも記されているように、神様との間に永遠の契約を結んだ、あのアブラハムの子孫達です。
そして、自らをユダヤ人と名乗っているが、実はユダヤ人を騙ってサタンに与する者に虐げられているようです。
と言うことで、スミルナにある教会とは、今は閉じているエルサレムの拠点を指します。
そして恐らく、今のエルサレムを統治するイスラエル国の内情を調べてみると、アブラハムの子孫とは誰なのか、そしてユダヤ人を騙る悪魔サタンの仲間は誰なのかが想定できそうな気はしますが、ここではご覧の皆様の想像にお任せして、先へ進みます。
さて、イエスはスミルナにある教会の天使に対して、苦難や貧しさの中に置かれていても、本当は豊かなのだと述べております。
貧しくても豊かとはどういう事でしょうか。
アブラハムの子孫達は、かつて神との間に結んだ契約に基づいて、『霊界と地上界を繋ぐ拠点』のうち、エルサレムの拠点の守人としての務めを全うして来ました。
ですから、物質的・経済的には貧しい環境に置かれていても、かつて契約を交わした神様との繋がりにおいては豊かであると言うことです。
そしてアブラハムの子孫達は、悪魔の試みによって、これからも様々な苦難を乗り越えなくてはなりません。
彼らのうちの一部は牢に放り込まれ、十日の間苦しめられるだろうと告げられております。
更にイエスは、アブラハムの子孫に対して、それでも死に至るまで(神との契約に対して)忠実であるように求めております。
そうすれば命の冠が与えられるそうなのですが、それは人間として死後に果たされると思われます。
ですから、第十一節で述べているように、勝利を得る者は第二の死から害を受けることはないのでしょう。
そこで第二の死とは何を指すのか、気になる所ではありますが、この点については後ほど説明することとして、次の手紙を見て参りましょう。
■ ペルガモンにある教会の天使への手紙
三通目は、ペルガモンにある教会の天使に宛てた手紙です。
第十三節にて、冒頭イエスは、そこにサタンの王座があると述べております。
また、私の忠実な証人としてアンティパスの名が上げられておりますが、wikipediaによりますと、この人物ヘロデ・アンティパスは、ユダヤがローマ帝国の保護国であった時期からユダヤ属州となった時期に、属州から免れたユダヤの分割領土を治めた領主だそうです。
つまり、ペルガモンにある教会とは、かつてどこかの国の保護国か植民地であり、後にその土地の領主が殺されて、サタンが王国を築いた場所です。
私の名をしっかり守って、私に対する信仰を捨てなかったとのことですので、その様な状態にあっても『霊界と地上界を繋ぐ拠点』の守人としての務めを果たし続けているのでしょう。
さて、霊界の住人によると、そこは米国なのだそうです。
そこで改めて調べてみると、米国には『イロコイ連邦』という、オンタリオ湖南岸からカナダに跨がって保留地を領有する、六つのインディアン部族による部族国家集団があるのだそうです。
現時点では、米国の拠点は五大湖周辺にあるだろうという程度の確認しか取れておりませんが、この『イロコイ連邦』を構成する部族が米国の拠点の守人である可能性はありそうです。
しかし第十四節で、イエスはあなたに対して言うべき事があると述べております。
ここでバラムとバラクという人物が出て来ますので、簡単に説明しておきましょう。
旧約聖書の民数記第二十二章~第二十五章にて一連の事件が語られ、民数記第三十一章では事件の真相が述べられております。
占い師バラムが、イスラエルの民を主に背かせる為に女たちを唆したと言うエピソードが、ここでイエスの警告する意図を理解する助けとなります。
黙示録に戻って、第十四節を読み進めてゆくと、彼らに「偶像に捧げた肉を食べさせる」とあります。
これは霊界の住人によると、悪魔を信奉し、その恩恵に預かることを指すのだそうです。
本来なら受け取れる立場にないものを、当然の権利とうそぶいて強引に奪い取ったり、正当な手順を踏まずに、身勝手な解釈で物事を推し進める行為、不正な手段によって富を独占するといった行為や、物の考え方を表しているそうです。
それらの、生命力を衰えさせる行為は、偶像に捧げた肉を食べる行為に等しく、迫害や価値観の押しつけなどは邪悪な行為とされます。
逆に、神の教えに沿った行為とは、生命力を豊かに強くするものなのだそうです。
ですから、米国の拠点の守人達の中には、神の教えに背かせようとするバラムの唆しに乗せられている者がいるということなのでしょう。
また民数記で、占い師バラムに頼んでイスラエルの民に呪いを掛けようとしたモアブ人のバラク王と、アメリカ合衆国大統領バラク・オバマ氏の名前と立場が一致するのは、単なる偶然の為せる業なのでしょうか。
更に第十五節へ読み進むと、エフェソにある教会への手紙と同様に、ここにもニコライ派が出て来ます。
米国の宗教事情を調べてみれば、さもありなんという所でしょうか。
その様な状態ですので、第十六節でイエスは悔い改めよと呼びかけ、改めない者に対しては私の口の剣で戦おうと述べております。
口の剣とは、口から発するもので、悔い改めない者の言い分を「間違っている」と証明することによって断ち切るものであり、それはイエスの口から発するものでなくてはなりません。
その様に考えてゆくと、恐らく「聖書に記されたイエスの言葉が、後に実現することによって、物事の真偽が明らかにされる」という意味でありましょうか。
続く第十七節には、勝利を得る者には隠されていたマンナを与えるとあり、また白い小石を与えるとあります。
その白い小石には、受け取る者の他には誰にも分からない新しい名が記されているとありますが、マンナ、そして新しい名が記されている白い石とは何でしょうか。
マンナとは、旧約聖書の出エジプト記第十六章に出てくる、主がイスラエルの民のために天から降らせたパンを指すようです。
それは砂漠で飢えていた民の命を長らえる生命力を象徴します。
そして白い小石とは、古代ローマでは裁判の判決に白い小石と黒い小石を用いて投票することにより、被疑者の無罪・有罪の判断をしていたそうです。
また、その白い小石には、これを受ける者の他には誰も分からない、新しい名前が記されているとあります。
第十三節にも、あなたは私の名前をしっかり守ってきたとありますが、勝利を得る者に与えられる白い石には、別の新しい名前が記されているそうです。
それはつまり、米国の拠点はキリスト教とは異なる者によって開かれるけれども、その新しく開かれた拠点の覡はイエスと繋がっていると言うことなのではないでしょうか。
■ ティラティアにある教会の天使への手紙
四通目は、ティラティアにある教会の天使に宛てた手紙です。
第十九節には、イエスの行いや愛、信仰、奉仕、忍耐を知っているとあり、更に、近頃の行いが最初の頃の行いに優っていると、ここまでの三通と比べると絶賛と言っていい褒め具合です。
しかし、イゼベルという女のすることを大目に見ているのは問題であると指摘しております。
霊界の住人によると、ティラティアにある教会とは日本の拠点であり、またイゼベルという女は朝鮮を指すのだそうです。
ここまでの三通は、いずれもキリスト教と歴史的な関わりのある土地の拠点について取り上げられてきましたが、キリスト教的価値観から見ると、何故黙示録の中に日本と朝鮮が現れるのか、少々不可解な気がします。
しかし、ティラティアにある教会を日本と仮定して第十九節を読み返すと、近頃のあなたの行いが最初の頃より優っているとありますが、これは明治天皇以降の歴代天皇は、拠点の覡としての役割分担が増している点と符合すると考えると、何だかしっくり当て嵌まるような気がしませんか。
この様に、一通りヨハネの黙示録の解説をご覧になることによってご理解頂けると期待して、話を先へ進めましょう。
そして、改めてティラティアにある教会への手紙を眺めると、イエスが諫めているのはイゼベルの行いと、イゼベルに惑わされている人々であって、ティラティアにある教会の天使に対しては、イエスがそこへ行く時まで今持っているものを固く守るように述べております。
つまり、ティラティアにある教会の天使については、イゼベルの扱い以外は全て正しいので、その状態を維持するようにと言っているのです。
それに加えて、イゼベルという女に関連して、以下のように述べております。
イゼベルは自分が預言者=神の言葉を聞けるのだと偽って、イエスの教えを信仰する者を騙し、惑わせて、『偶像に捧げた肉を食べさせている』とあります。
ここで、ペルガモンにある教会への手紙にあった『偶像に捧げた肉を食べさせている』という表現が、再び出て来ました。
つまり、イゼベルという女は預言者と偽っているものの、実は悪魔を信奉し、その恩恵に預かっている者だと言うことです。
第二十一節には、イエスがイゼベルに悔い改める為の機会を与えたとありますが、この機会とは日本が朝鮮を併合した時代に当たるそうです。
しかし、それでもイゼベルは悔い改めません=日本統治時代の経験に何も学べなかったのでした。
イエスはこの様に続けます。
イゼベルを床に伏せさせ、またイゼベルと共に淫らな行いをする者達も、“その行いを悔い改めないなら”酷い苦しみに遭わせようと述べております。
イゼベルが床に伏せさせられるのは、既に確定しております。
しかし、イゼベルと共に淫らな行いをする者=日本国民でありながら朝鮮に与している者には、その行いを悔い改める為の猶予が、まだ残されております。
その機会を有効に活かして悔い改めるのか、あるいは悔い改めず苦しみに遭わされるのかは、本人の判断に委ねられております。
続く第二十三節には、イゼベルの子供達を打ち殺そうとあります。
今後どの様な経緯を辿るのかは分かりませんが、自らサタンの行いに明け暮れ、悔い改める機会を活かせなかったイゼベルは、やがて何らかの形で子孫を無き者とされることになるのでしょう。
そして、全教会=世界中の人々――は、イエスが人の思いや判断を見通す者だと言うことを悟るようになると述べ、あなた方が行ったことについて一人一人に報いよう=全ての因果が誰の目にも分かりやすく巡ると述べております。
第二十四節には、ティラティアの人達=日本国民の中で、イゼベルの教え=悪魔を信仰し、その恩恵に預かることを受け入れず、サタンの奥深い秘密=サタンの本性や性質を知らない人々には、別の重荷を負わせない=イゼベルによる迷惑行為以外の負担は負わせない――とあります。
ティラティアにある教会の天使は、今持っているものを頑なに守っていれば、イエスがイゼベルの行いに見合った結末に導いてくれるそうです。
そして第二十六節~第二十八節にかけて、イエスは勝利を得る者に、諸国の民の上に立つ権威を授けると述べております。
それはかつて父なる神がイエスに授けた権威であり、それがここで勝利を得る者に受け継がれることを示しております。
この点については、ヨハネの黙示録の解説を全て終えてからの方が、すんなりとご理解頂けると思いますので、説明を保留にして次の手紙を見ていきましょう。
■ サルディスにある教会の天使への手紙
五通目は、サルディスにある教会の天使に宛てた手紙です。
第三章第一節で、早くもあなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいると述べております。
続く第二節で目覚めを促されているので、文字通り死んでいるのではなくて、『霊界と地上界を繋ぐ拠点』の守人として、全く機能していないと言うことなのでしょう。
死にかけている残りの者達を強めよとありますので、拠点の守人としての役割に支障が出る程深刻な影響が現れている様子が伺えます。
そこで第三節では、どの様に(拠点の守人の役目を)受け、(その役目の意義を)聞いたかを思い起こして、(拠点を)守り抜くように、悔い改めよとイエスに諭されております。
そして、目を覚まさないものに対して、イエスは盗人のように行くと述べております。
別に、誰にも気づかれないように、抜き足差し足でこっそり現れると言うだけでなく、盗人が盗み取るようにして、本人の知らないうちに拠点の守人としての役目を剥奪するという意味です。
さて、この様にして、イエスから見ると目も当てられないような酷い有様の守人達のいる、サルディスにある教会とは、一体どこでしょうか。
霊界の住人によると、サルディスにある教会とは、アフリカのスーダンにある拠点を指すのだそうです。
こちらの拠点は、世界に六カ所ある拠点の中で一番最初に開いた拠点であり、人類が誕生した後に一番早く閉じた拠点です。
そして、これから時間の経過と共に順次開いてゆく拠点のうち、一番最後に開く拠点となります。
さて、スーダンの現状をご覧になれば、イエスにこの様な評価をされてしまうのは、致し方ないのではないでしょうか。
しかし第四節では、少数ながら衣を汚さなかった者=拠点の守人としての務めを果たしている者がおり、白い衣を着てイエスと共に歩くと述べております。
そして第五節では、勝利を得る者は白い衣を着せられること、そして命の書から名前を消されることはなく、神や天使の前で公表すると述べております。
命の書とは、ヨハネの黙示録第二十章第十二節~第十五節に、命の書に名前のないものは火の池に投げ込まれたとあり、この火の池が第二の死とありますので、ここで勝利を得る者は第二の死を免れることになります。
第二の死については、スミルナにある教会への手紙にも言及がありますので、まとめて後ほど解説したいと思います。
■ フィラデルフィアにある教会の天使への手紙
六通目は、フィラデルフィアにある教会の天使に宛てた手紙です。
第三章第八節では、イエスがフィラデルフィアにある教会の天使の前に門を開け、その門は誰も閉めることが出来ないと述べております。
そしてあなたは力が弱いけれども、イエスの言葉を守り、イエスを知らないとは言わなかったとあります。
霊界の住人によると、フィラデルフィアとはチベットを指すのだそうです。
そこで改めて第八節をチベットの歴史と照らし合わせてゆくと、興味深い事実が明らかになってゆきます。
七世紀頃の吐蕃王朝成立を持って、実質的なチベット国の建国と見なされているようですが、以後、モンゴルや明との関わりは冊封と朝貢により、また内政は不安定な時期が続くようです。
その後、十七世紀になってダライラマ政権が確立すると、内政は安定化していきますが、明に変わって台頭する清に征服されてしまいます。
清朝の滅亡後、チベットは独立を宣言してダライラマ政権を樹立しましたが、後に中華人民共和国によるチベット侵攻により征服されて、現在に至ります。
ここで強調しておきたいのは、清によるチベット支配は、チベット仏教とダライラマに対する一定の配慮を示しておりましたが、中華人民共和国は今もなおチベット仏教とダライラマを徹底的に弾圧しております。
そして現在、ダライラマ法王はインドに亡命政権を樹立するとともに、世界的に著名な仏教指導者の一人として活動しております。
そんなダライラマ法王の活動の一かけらを、当Blogでも記事【ダライラマ法王を拝見して】にて紹介しました。
以上を考慮して再び第八節に目を向けると、イエスによって開けられた門によって、ダライラマ法王はインドへの逃亡を余儀なくされ、中共の侵略によりチベットの民は塗炭の苦しみを受けております。
それは力が弱いから避けられないのだけれども、私の言葉を守り、私の名を知らないとは言わなかった=チベットはキリスト教を信仰しているわけではないけれども、彼らのチベット仏教の本質はイエスの言葉に通じていて、なおかつ中共の弾圧にも負けずに自らの信仰を守り続けていることを示しております。
そして第九節では、サタンの集いに属していて、自分がユダヤ人だと述べる者が出て来ます。
それはユダヤ人だと偽っているのですが、イエス自身がフィラデルフィアの天使を愛していると話して、足下にひれ伏すようにすると述べております。
そういえば、ユダヤ人を騙ってサタンの集いに属する者は、スミルナにある教会への手紙にも出て来ました。
彼らはアブラハムの子孫を非難しておりますが、いずれチベットの拠点が開かれる頃になると、自らの過ちを自覚してひれ伏すようになるのでしょうか。
次の第十節では、イエスはよく忍耐したとねぎらい、地上に住む人々を試す為に全世界で起ころうとしている試練から守ろうと述べております。
この点については、次の章以降で詳しく説明致しますが、この場では、いわゆるキリスト教的価値観で言う神の審判のことを指しているとだけ、述べておきます。
続く第十一節では、栄冠を誰にも奪われないように、持っているものを固く守るように述べております。
つまり、これまでの行いの中で既に栄冠を得ているので、それをきちんと守るようにと、念を押されているのです。
更に第十二節には、勝利を得る者を神の神殿の柱にすると述べております。
続けて、もう決して外へ出ることはないとありますが、これは二重の意味合いを持たせているのでしょう。
一つ目は、ここで勝利を得る者は、その後人として地上に生まれることはなく、神の神殿の柱=神の目的を神の傍で補佐するようになるという意味でしょう。
そして二つ目は、チベット国が再建されてダライラマ法王が帰還し、その後チベットの拠点が開かれる事になるので、今後のチベット国再建の後は、二度とチベット国が他国の脅威に襲われないという意味でしょう。
だからこそ、イエスの神の名と、イエスの神の新しい都の名そしてイエスの名を書き記すことになるのではないでしょうか。
■ ラオディキアにある教会の天使への手紙
ここまでに六通の手紙を見てきましたが、いずれも『霊界と地上界を繋ぐ拠点』の守人に宛てた手紙であると言うのが、当Blogの見解です。
そして、記事の冒頭で説明しましたように、世界には六カ所の『霊界と地上界を繋ぐ拠点』があります。
しかし、イエスはヨハネに、七通の手紙を送るようにと指示しておりました。
それでは、残る一通の手紙、ラオディキアにある教会の天使とは、一体何を指すのでしょうか。
第三章第十五節~第十六節では、イエスが、あなたは冷たくも熱くもないと述べております。
冷たいか熱いかのどちらかであって欲しいが、生温いので、あなたを口から吐き出そうとしているそうです。
これは一体どういう事でしょうか。
次の第十七節では、私は金持ちで満ちたりていると言っている人に対して、自分が惨めで、哀れで、貧しくて、目が見えなくて、裸であることをわかっていないと指摘しています。
お金や物を集めて満足する、言わば「物質的な充足を重視する価値観」は、イエスから見ると貧しいと言うことです。
記事の冒頭で「神の目的」について簡単に説明しましたが、人間を含む全ての霊的な存在を神の境涯へ導くのが神の目的なのですから、物質に拘っている間はいつまでも神の境涯には近づけません。
と言うことで、ラオディキアにある教会の天使とは、前の六通に当て嵌まらない(私たちやこの記事をご覧の皆様を含めた)全ての方を対象としていると思うのですが、いかがでしょうか。
そう考えると、第十五節~第十六節についても、物事の善し悪しや正邪の違いはともかく、『霊界と地上界を繋ぐ拠点』の守人達や、逆にサタンとそれに集う者達は、何らかの明確な信念や目的意識を持っていますが、それ以外の方は、明確な考えもなく、周りの様子を見て右往左往しているだけだとイエスは見ていることになります。
つまり、私たちやご覧の皆様のうちの多くの方にとって、この後に述べられている事はとても気になります。
第十八節では、イエスは次のことを勧めております。
一つ目は裕福になるように、火で洗練された金をイエスから買うように。
ここでイエスは、あなたが貧しいのは不純物が混ざった原石だからなので、火で洗練された金のように、あなたを裕福にしようと訴えかけております。
二つ目は裸の恥を晒さないように、身につける白い衣を買うように。
ここで述べている白い衣とは、サルディスの教会への手紙で、勝利を得る者が着る白い衣です。
イエスのアドバイスを活かせば、あなたにも勝利を得る者への道が開けます。
三つ目は見えるようになる為に、目に塗る薬を買うように。
イエスは、物質が見えていても目が見えていないのと同じ――物事の道理が見えるように、目に見える薬を買いなさいと述べています。
この目に塗る薬とは、例えば聖書を指すのだと思いますが、当Blogやご覧の記事が目に塗る薬の処方箋の極一部として皆様に感じて頂ければ、記事を投稿する意義はあったと思います。
ですから、第十九節でイエスは、愛する者を叱ったり、鍛えたりしながら洗練させてゆくので、手紙を送られた皆様に悔い改めて、熱心に努めるように訴えております。
第二十節では、イエスは戸口を叩いて、あなたが気づくのを待っているので、あなたが気づいて扉を開けさえすれば、イエスも共に食事をする、つまり共に歩むと述べております。
第二十一章では、勝利を得る者を、イエス自身の座に共に座らせる――つまり今後はイエスと共に霊界から働きかけるようになると述べております。
それは、かつてのイエス自身も、父なる神の支えによって玉座に着いたので、それと同じ事なのだそうです。
一言でまとめれば、ラオディキアにある教会の天使と表現されている大多数の人々に対して、イエス自身が助力をして導くので、自分自身を鍛えて下さい。
それが成し遂げられた暁には、私イエスの同志として共に活動することになります――その様に訴えかけていることになります。
さて、イエスの訴えかけに対して、ご覧の皆様はどの様に答えられますか。
■ ヨハネの黙示録は、イエスから現代を生きる人々へのメッセージ
ここまでは、ヨハネの黙示録の第一章~第三章にかけての解説をお届けしましたが、ご覧の皆様にとっても気になる疑問があるのではないでしょうか。
その一つは、冒頭のアジア州にある七つの教会の天使に宛てた手紙が、何故現代を生きる私たちへのメッセージなのか、と言う点だと思います。
詳しくは、今後黙示録の流れを追っていく中から徐々に明らかにしてゆきたいと思いますが、この場で簡単に説明すると、ヨハネの黙示録の第五章からの記述は、日本で言う明治時代以降の行く末を大まかに述べております。
そして、ヨハネの黙示録は新約聖書に束ねられておりますので、キリスト教を通じて伝えられる物であり、またバチカンの拠点開放と重要な関わりを持っております。
つまり、2011年にバチカンの拠点が開かれましたので、いよいよ審判の時期が始まります。
そして、記事【『環水平アーク』現象が示すもの[謎掛け編]】【同[謎解き編]】で取り上げた霊界の住人のメッセージは、ヨハネの黙示録の内容とシンクロしており、また5月に見られた環水平アーク現象は、審判の開始を告げる空の印なのだそうです。
次回以降にて、審判の時期がどの様に進んでゆくのか、そして審判の結果どうなってしまうのかなどについて、黙示録の文面を辿りながら徐々に明らかにしてゆきたいと思います。
Silvercord管理人
なお、上記記事は、以下のサイト掲載の新約聖書『ヨハネの黙示録(新共同訳)』を閲覧しながら解読を行いました。
原文の引用という形はとりませんでしたが、解読する原文の場所は可能な限り指定しておりますので、必要な方は記事に指定のある章・節を参照のうえ、ご覧下さい。
閲覧サイト:一般財団法人日本聖書教会
URL:http://www.bible.or.jp/
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