2011年2月18日金曜日

自分自身に向き合う覚悟が出来るのか?

今回は、記事【悪意は撒き散らした本人に還る】のコメント欄にお寄せ頂いたbaseheat様の質問について、『日本の神様』の回答が届いておりますので、ご紹介したいと思います。





■ baseheat様の質問

日本の神様へ
いつも、いろいろとありがとうございます。
今回の投稿を読んで、「人々の自然な心の繋がりが場を生み、そこが磁場となって神々の力が降りやすくなる」という日頃より思っていたイメージが、案外といい線いってるのかな~と思いました。
昔、円居ということを人は大切にしていました。1人1人の資質や自覚も大切ですが、そういう人々が集い、心の交流がある場には、自然とより多くの豊かさがもたらされてきたように思います。人に課された使命があるとすれば、本能的なことと、無から何かを生み出す智慧を駆使して、地球をすべての命の為の楽園にすることだろうという気もします。
たしか日本の神様は、この世そのものが楽園とするにふさわしいと考えて国造りを始めたのではないですか?

すみません、追記です。
人間生きていれば、恐れ、怯え、妬み、怒り、不安、不満は何かしら経験します。それで悪態をついたり、その対象となるものに悪意を持ったとしても、何事にも真正面から向き合う覚悟を持てれば、そこから改善できるという風にも考えられますか?





■ 『日本の神様』の回答

そうですね、あなたのお考えは的を射ていると思います。
この世界は皆様の心掛け一つで秩序が保たれた安定した社会へと変化を遂げます。
皆様が自らの力で安定した世界を創造出来るように導くのが私たちの最終目的です。
自守、自律を基本とし、その先に周囲との交流があるのが理想です。
己を成り立たせる事のみを考え周囲を巻き込むのは依存であり、それは安定を欠く行為です。
互いに協調する行為は依存とはならず、更なる安定に役立つものです。
それらの違いをきちんと理解しておく必要があります。

結論から申しますと、自覚して真正面から問題と向き合う覚悟さえ決まってしまえば、何時でも誰にでも改善出来る余地があります。
感情はとても大切なものですし、必要であるからこそ存在しています。
私たちは感情を抑制しなさいと言っているわけでは無く、制御出来るようになりましょうと言っています。
私たちにも感情はありますが、決して感情に振り回される事はありません。
制御する術を知っているからです。
ですが、人間であれば誰でも、瞬間的に感情が溢れて制御出来ないというような経験がある事でしょう。
皆様は今まさに感情の制御方法を学んでいる最中なのですから、それも仕方のないことです。
大事なのは、その後の考え方です。
そのまま感情に飲み込まれ、対象となるものへの憎悪を増し続け、その感情に囚われ自分を見失うようでは困ってしまいます。
それらの感情から抜け出すには、自分で自覚するより他に手立てがありません。
周囲がいくら促したところで、自覚が無ければ邪魔な周囲を排除しようとするだけです。
一番問題なのは、果たして「自分自身に向き合う覚悟が出来るのか?」というところなのです。
逃避意識が強い方ほど臆病な性質を持っており、臆病な分長い年月に渡って問題を先送りするケースが多く、時間が経過している分だけ抱えている問題も複雑化してしまいます。
そのために、解決までには多大な時間と労力、強い精神力と忍耐力が必要になります。
放置すればする程、誤魔化せば誤魔化すほど事態はどんどん悪化し、自分の力だけではどうしようもなくなってしまうものです。
自分自身を見つめなおすという事は未熟な自分を認めるということですから、変にプライドが高い方ほど認めるのは難しいと思います。
場合によっては、今まで築き上げてきたものを手放す覚悟が必要になるかもしれません。
長い年月をかけて周囲を巻き込み、大々的に行ってきたものであればなおのことでしょう。
個人的な些細な事柄であれば、ほんの少しの努力で改善が可能です。
ですから、問題が複雑化してしまう前に、ほんの少しの努力で改善出来るうちに、常に己を省み、周囲を顧みる作業は必要不可欠なのです。

(2011年2月18日)





さて、人間の感情表現に伴う様々な問題に付いては、当Blogでも折にふれて取り上げて参りました。
人生を丸ごと費やしても、そう簡単には解決策を見出しにくい問題であり、だからといって放置していても不愉快な思いが募って行くばかりですので、そうそう目を背けてばかりもいられない、非常に厄介な問題だと思います。
しかし、モノは考えようです。
思い切って発想の転換を図ることによって、感情の変化に振り回される機会も減って行きます。
自分自身の感情の変化には冷静でいられなくても、身の回りにいる方の様子を観察する中から、感情の変化について冷静に考えることは出来ると思います。
また、謎解きやゲーム感覚で、自分の感情の動きを分析してみる――といった試みも興味深いものとなるでしょう。

感情に流されるのは、感情がどの様に働くのか、その仕組みがよく分かっていないからであって、感情の働きを理解することによって、自分によって心地よい状態を維持することも不可能ではないと考えております。

【Silvercord】管理人 





2月18日現在回答待ちの質問

下記のご質問につきましては、回答に時間が掛かっておりますので、しばらくお待ち下さい。

2 件のコメント:

  1. 回答とコメント、ありがとうございます。
    いただいたコメントのタイトル「自分自身と向き合う覚悟はできるのか?」は、まずは自分自身と真摯に対峙することで、他者への理解や協力も真に可能となるということなのだと考えています。一番理解しなければならないのは自分自身であり、他者のことはよくわかるのに自身のことはわからないとよく言われるのも、自身と向き合う準備ができてないから、他者を通して(鏡のように)自己を見ているだけで、その先の他者の理解ということになると、別の問題(自身の理解)を解決しないままでは思うようには進みません。(言い切ってるのは現体験談だからです) Silvercord Managerさんのコメントにある自分の感情の変化には冷静でいられなくても・・・というのは、そういうことでしょう?
    かつて、日本が朝鮮半島に「余計なお世話」をしたのは、他者理解がまだ未熟だったのでしょう。当時、現地に住んでいた人の話を聞くと、当時の日本人の考える水準からすれば、かなり衛生面がひどく、ライフラインも無いような状態だったそうですが、それでも自立して暮らしているという自負がある方が大切だったのでは…とも思います。今日本は(麻生政権の時は如実だった「請われるままに提供はせず」で)協力対象国から聞き取りをし、現地の人々が自分の力でやれることを指導する…という方法が主流になっています。お互いに対等に協力し合える力をつけてもらう、という先の大戦の時にも日本が目指すはずだった本来のことに近づいたのではないかと思います。残念なのは、今の政府はそれを単なる資金や物資の提供、もしくはなんの協力もしないといった信念も・理念もない行動ばかりに変えてしまっているようであることです。それも、自己に向き合うことができない=他者に提供すべき必要なものを理解できないということかと。
    大切に思うものがあるのなら、それを見据えてまず自己を理解し、歩むべき道を自分で歩き続けるように鍛えなくてはいけないと再確認しました。…怨みつらみや憎悪は、あまり引っかかったことがないのですが、自分の道を歩くには…というところが、周囲に引っ張られすぎている気がしています。自分を置いてでも周囲を…というのも、習慣にしてはいけないと考えています。おそらく都合いい人間がいなくなって困る人が出るけれど修正はしたいので、無理のない移行の可能性を探します。

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  2. baseheat様

    自分も他の方も同じ人間なのですから、感情の動きに大差はありません。
    ですから、身の回りの方の感情表現を観察することを通じて、間接的に自分自身の感情表現が周囲からはどの様に見えるのかを推し量ることが出来ます。
    最初は自分自身の観察が難しくとも、他人の観察はそれほど難しくないでしょう。
    自分自身を冷静に見つめることが出来る様になる為の練習として、まず身の回りの方の様子を観察するのです。

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